五 風殺
撃ち出された風の弾丸。迫る暴風。それは直線上に存在する全てを破砕しながら進む、死風。
ナチは持っている全ての符に「大気」の属性を付加。霊力を放出し、すぐさま属性を具象化させる。具象化された符はナチの手の平から、空を自由に羽ばたく鳥の様に宙へと舞い上がった。
舞い散る符はナチの眼前に盾の様に展開されると、急激に空気を引き寄せていく。それは景色が捻じ曲がるほどの膨大な空気量。それを眼前の符に集めると、ナチは迫る風の弾丸に、同質量の空気の弾丸を撃ち出した。
弾け飛ぶ二つの空気弾は周囲に暴風を撒き散らしながら、霧散する。次々と撃ち出される風の弾丸をナチは難なく撃ち落としていくと、地面に落ちている握り拳程の石を広い上げる。
ナチは風の弾丸を撃ち落としながら、空気で円筒を素早く作り上げると、空気製の円筒に石をセットする。宙を浮く小石。それから円筒内部の空気を真空化し、空気が侵入しない様に空気の膜を纏わせる。さらに空気の層を纏わせた円筒内部の気圧を急速に下げ、空気を完全に除去。
そうして作り上げた真空の円筒をナチはラミルに真っ直ぐに向ける。
「そんな小石で何ができる! 舐めてんじゃねえぞ!」
「なら、止めなよ?」
ナチは霊力を放出し、円筒に纏わせていた空気の膜を一部解除する。ナチ側の膜を解除。その時、ある現象が起きる。本来ならば真空状態が出来上がると、その周りから真空を埋めようと急激に空気が押し寄せてくる。つまり、その真空を埋め尽くそうと風が発生する。
それゆえに、今ナチが生み出した円筒には大量の風が猛烈な勢いで押し寄せている。また、ナチが作り出したのは十メートル程の筒状の空気。筒には出口は二つしか存在しない。したがって、石は真空を埋め尽くそうとする強風に押し出されて、ラミルに向かって射出しようとする。
発射される直前に小石を押し出そうとする空気を追加し、その瞬間、空気によって急速に加速された石はラミルに向かって高速で射出する。
石が前方の空気を圧縮し、圧縮された空気が一気に拡散される事で爆音を伴いながら、石は時速約八百キロでラミルの右側に大きく逸れて直進。ウォルケンを流れる川の水面に激突した瞬間に石は木端微塵に粉砕。それとほぼ同時に大量の水飛沫が早朝のウォルケンに雨のように降り注ぐ。
呆然としているラミルにナチは急速接近。だが、ナチが動いたのを見て、すぐに意識をナチへと向けるが、集中力は切れている様だった。能力を発動するタイミングが明らかに遅い。目に宿っている覇気も最初より弱々しい。
「くそっ」
ラミルの表情に焦りが生まれる。慌てて後退しているが、もう遅い。ナチは羊皮紙から生み出した符をラミルの周囲に散りばめ、ドーム状に展開された符の結界にラミルを閉じ込める。それと同時に、ナチは霊力を流し結界内の気流を固定する。
「何をするつもりか知らないが、こんな紙」
結界内でラミルが前方に手を突き出しているのが見えた。自身に満ち溢れた表情もすぐに焦りに変わり、驚愕に変わった。片側の口角が歪に上がる。
「風が使えない……お前、何をした?」
能力の行使が不可能になったというのに冷静な対応が取れる事にナチは感心しながら、結界内でナチを睨みつけているラミルに一歩近付いた。
「風を操る。そう聞くと格好よく聞こえるよね? でも、実際は大気を操り、空気の流れを操作してるって事だ。だから、僕は大気を操り空気の流れを固定した、という事なんだけど。分かるかな?」
「インテリ気取りが」
「僕は頭が良い訳じゃないんだよ。君よりも大気を操った経験と、空気に関しての知識が少しだけ多いだけ。分かり易く言うとね、僕の力が君よりも優れているというだけの話なんだよ」
わざと煽る様な言葉と言い方をしつつ、ナチは侮蔑の表情をラミルに向ける。思い知るべきだ。自分の矮小さを。矯正は出来なくても、気付く事は出来る。
「こんな紙、風が使えなくても」
ラミルは、周囲に展開されている符の結界に手を伸ばし握り潰そうとしたが、触れる直前に空気弾をラミルの手に直撃させる。弾き飛ばされた手と共に、ラミルは後退を余儀なくされ、結界内の中心に再び押し戻される。
「無駄だよ。もう分かるだろ? 君の負けだよ」
ナチは瞼を異常なまでに上げると共に、口角をつり上げた。明らかな嘲笑。侮辱と嘲謔が入り混じる見ていて不愉快にさせる笑みでラミルを見下した。
それを見てラミルの表情が一変する。明らかな怒気を孕み、憤怒の表情を以ってナチを射抜いた。だが、そんな程度の怒りはナチには届かない。もうナチがラミルに怯むことは無い。少なくともこの戦闘でナチがラミルに臆することは無い。
今まで弱者を虐げて満足していたラミルを見てナチは、美しい桜色の花を咲かせる異世界の言葉を思い出した。その世界の諺と呼ばれる言葉の羅列を。
井の中の蛙、大海を知らず。ふと、そんな諺を心の中で唱える。今のラミルにぴったりの言葉だ。
「君は世界の広さを知るべきだ」
ナチは指先から霊力を大量に放出。青白い光が指先から天に向かって霧散していく。結界内の気流を更に固定。それを何度も重ね掛けする。
岩の様に強固に固まった空気は、唐突にラミルに変化をもたらした。
「がっ…………」
喉元を手で押さえ、膝から崩れ落ちたラミル。空気を求める彼はナチを見上げると、右手を伸ばした。酸素を寄越せと表情で訴えかけてくる。酸素だけを与えてやってもいいけどね、と自嘲気味に笑いつつ、ナチは符の結界内の手前で立ち止まると、地面でのた打ち回っているラミルを見下ろした。
「呼吸、できないでしょ?」
人は息を吸って、空気に含まれる酸素を体内に取り入れ、また息を吐く。この呼吸の流れを人は自然と身に着ける。そこに疑問など抱かない。そこに疑問を抱く余地など無いのだ。
だから、地上で突然呼吸が出来なくなる状況を人は知らない。
気流の固定を強めた結果、符の結界内の空気の流れは完全に止まった。
空気を構成する窒素、酸素、二酸化炭素などを排除した訳でもない。
空気は確かに結界内に存在しているのだ。空気の流れを止める力が、ラミルの息を吸う力を上回っただけの話。もし、ラミルの肺活量、もしくは風を操る能力がナチの能力を少しでも上回ればこんな結界は意味を成さない。
結果は見ての通り。この戦闘でラミルがナチを上回ることは無い。そんな奇跡は起きない。起こさせない。
お前には負けてもらう。完全に、完璧に、完膚無きまでに敗北してもらう。
何秒経っただろうか。無駄に動く事を止めたラミルの手の甲には太い血管が浮かび上がり、目から零れる涙が敷石に落ちていく。口端には泡が溜まり、必死に空気を吸おうと大口を開けた結果、零れていく涎が口端に溜まった泡と共に頬を伝っていく。
そろそろ、かな。
ナチは符の結界内の気流固定を弱めた。呼吸が出来る程度、にまで弱める。ラミルの戦意が喪失していない以上は、固定を緩め過ぎるのは危険だ。
固定から解放された空気は、急速にラミルの体内に侵入。体内に入った空気を拒む様に、咳き込んだ。ラミルは手で涎を拭い、涙を拭いた後、またも憤怒の表情でナチを見上げた。先程よりも濃い怒り。濃い憤り。
ナチは舌打ちすると、腕を組んだ。
それは調子が良すぎる。
「立場が逆転しちゃったね? 感想は?」
「……許さねえ」
ナチの言葉など、一言も聞いてはいなかった。怒りが感情を支配し、理性を鈍らせている。今のラミルには何を言ったとしても無駄だろう。
「許さない、ねえ」
「お前は絶対に許さねえ」
「いいよ、許さなくても」
ナチは再び、空気を固定させた。もう、ラミルに目を向けはしない。
背後を振り返り、先程までラミルと戦闘していた少年へと視線を向けた。倒れていたはずの場所に視線を向ける。
どこにも居ない。
破壊された木箱や樽はあれど、少年の姿はどこにも見えない。辺りを見回すが、少年の姿はどこにも見えなかった。
逃げたのかもしれない。この光景を見て、逃げ出した可能性は大いにある。ナチが勝手に首を突っ込んだことであるため、別に感謝されたかった訳ではないが、少年の安否は少し気になる所だ。
そして、ナチはこちらを見つめる一人の少女に目を向けた。
マオだ。彼女は見るからに驚愕し、呆然とナチと転がるサリスを見つめている。その場に立ち尽くしていたマオは、ナチの視線に気付くと、ゆっくりとナチの下へと歩みを進めた。
ナチの隣まで歩くと、ナチと共に結界内に閉じ込められたラミルを見つめた。
ラミルは既に気絶していた。白目を剥きながら、力無く地面に伏している。もう彼からは、戦闘続行の意思を感じない。それを見て、ナチは霊力を放出した。空気の固定を解除。
「倒したの?」
呼吸を再開させたラミルをまじまじと見ながら、マオが言った。咳き込んだラミルは過呼吸の様に浅い呼吸を繰り返すと、すぐに正常な呼吸音に変わった。
「うん。倒した」
「お兄さん、何者なの?」
「僕はただの旅人だよ」
正しくも無いが、間違ってもいないだろう。ある意味ただの旅人で、ある意味変わっている。
いや、変わってるな。
一つの世界に留まるだけでは得られない知識を持っているだけで十分に異端だ。言ってしまえばナチ自身がオーパーツの様な存在なのだ。この世界ではあり得ない知識と能力を駆使している時点で。
マオは首を傾げながら、ナチを見る。その表情はどこか懐疑的だ。
「ただの旅人……」
「旅をしていると色々あるんだよ」
「まあ、いっか。色々あるよね、ってことにしてあげるよ」
そう言ってマオは笑顔を見せた。細かい事を気にしない彼女の磊落な性格に感謝しつつナチも笑顔を返す。これでマオの頼みは終わったと考えていいだろう。いや、真の意味で理不尽な暴力というのを終わらせるのなら、生かしておいてはまずい。
殺すべきだ。
「お兄さん、すっかり日も昇ったけど、大丈夫?」
「え?」
マオの言う通り、地平線から顔を出した朝日はすっかりと空に鎮座している。ナチはそれを見て、金魚の様に口をパクパクさせた。
時間が守れないというのは、信用を失う要因になり易い。しかも、ナチがこれから受けるのは入団テスト。遅刻など断じてあってはならない。就職面接で遅刻していくようなものだ。
「終わった……」
ナチの横で何故か、マオが笑いを堪えているが、特に何も言わなかった。それどころではない。今こうして呆然としている間にも、時間は進み続けているのだ。早く行かなければ、と内心に生まれた焦燥感がナチを急かす。
「早く行こう。僕の信用が失われようとしてる」
「大丈夫。私が説明してあげるよ」
マオはどうして笑いを堪えているのだろうか。それを疑問に思いながら、ナチは霊力を流した。すぐに球体を形作っていた符は、全て力無く地面に落下していく。大量にラミルの体に符が落下していくが、まあ大丈夫だろう。
ナチはマオと共に、ラミルから踵を返し、サリス達が待っているはずの家屋へと向かった。
「リル。大丈夫か?」
サリスに背負われたリルは、力無く頷いた。何度も、地面を転がり壁や木箱にぶつかったせいか体中が痛い。だが、骨や筋肉に異常は無い。と、思われた。
「大丈夫な訳ないでしょ。ラミルに一方的に攻撃されたんだから。しかも、手加減なしで」
「……僕は大丈夫だよ、シャミア。ありがとう」
リルは笑顔を浮かべながら、シャミアを見た。大丈夫だから、とリルはシャミアを安心させる様に、わざとらしく口角を上げる。
「今日はゆっくり休みなさい。いい?」
「うん。ごめんね」
「気にしなくていいのよ」
昔からシャミアはリルに甘い。幼い頃から共に居るが、シャミアは本当に母の様であり、姉の様でもあった。その母性に救われる事が多いが、少しは頼りにしてくれてもいいのに、と思う。
もう十七歳になったのだから。少しは大人扱いしてくれてもいいのに、と思う。
「まさか、ラミルに喧嘩を売りに行くとはな。さすがの俺も驚いたぞ」
「そうよ。この街でのラミルの評判を知らない訳じゃないでしょ?」
「うん。でも、そこにラミルが居たから」
サリスに言われた通り、喧嘩を吹っ掛ける相手を探していたリルだが、そこにたまたまラミルが現れたのだ。別に誰でもよかったが、少し興味が湧いたのだ。
あの青年が、ウォルケンに吹く希望の風となるのか。ラミルの死風に飲まれ、そのまま理不尽な暴力に晒されてしまうのか。
だから、わざと肩をぶつけた。ラミルはその程度の事で怒り狂い、過信している能力を憂さ晴らしと言わんばかりに、行使する。
まさか、あの青年がラミルを倒してしまうとは思わなかった。圧勝だった。風を操る能力だけで言えば、ラミルよりも一枚も二枚も上手だった。
まず、風の操り方がラミルとは大きく違う。
ラミルは基本的に派手な技を好む。派手で無駄に体力を消費する技をわざわざ連発する。だが、あの青年は常に効果的で燃費の良い技を厳選し、効率の良い戦略を立てていた様に思う。川の水を巨大な花の様に押し上げたあの一撃も、ラミルの風の数倍の威力を誇っている。
使用していた能力が謎だったが、それでもあの青年は間違いなく強者の部類に入るはずだ。もしかすると、サリスに匹敵するかもしれない。
「強かったね、あの人」
「ええ、そうね。まさか、ラミルを倒すなんて」
「良い拾い物かもしれんな」
「あの人、ウォルフ・サリに来てくれるかな?」
サリスとシャミアが驚いた顔を見合わせている。そんなにおかしな事を口にしただろうか、と思いながらリルはサリスの肩に顔を乗せる。
「来てくれるわよ。きっと」
「安心しろ、リル。俺が無理矢理にでも残らせてやる」
「逆に残ってくれなくなるわよ」
リルが笑うと、二人も笑った。
あの人に、戦い方を教えてもらいたい。サリスにも一度師事を乞うた事があるが、あっさりと断られてしまった。だが、あの青年の戦い方は、サリス以上にリルには魅力的に映った。
一瞬で、魅了されてしまった。
ウォルフ・サリに来てくれるといいな、と思いながらリルは目を閉じた。




