七 本来の符術
「封殺符術《天日牢》」
光が拡散され、爆裂する。
白縹色の閃光が流星の様に地上に降り注いでいく。
爆発的に光量を増した符は周囲に膨大な光を衝撃波と共に拡散。
流れていた雲は一瞬で消し飛び、《天日牢》が生み出した光は青天すらも白縹色に染めていく。白縹色の空に生まれ変わっていく空は太陽の光すらも捻じ曲げ、地上を白縹色に染め上げていく。
そして、光の爆裂と共に生み出された爆風と衝撃波は天災すらも吹き飛ばす威力を兼ね備え、人が造りし文明を無に帰す結界殺しの符術は意気揚々と地上へ降下を始める。
生え並ぶ落葉樹は衝撃と暴風で大きく曲がり、ミシミシと音を立てながら、葉を散らしていく。揺れる梢は次々に音を立てて折れ、ぬかるんだ地面に落下しては転がっていく。
ナチは腕で目を守りながら、霊力を流し《天日牢》を停止。光の放出は止まり、空を埋め尽くしていた白縹色の光は一瞬で霧散した。
《天日牢》が消え去った後に現れたのは、本物の青天と太陽。
光が消えた瞬間に暖かい陽光が地上へと降り注ぎ、目の前の光景を鮮明に照らし出す。林道に転がる無数の枝と葉。水溜りには無数の葉が浮かんでおり、葉が水を吸い込み次々に沈んでいくのが見えた。
先程までは真っ直ぐに立っていた落葉樹もほとんどが右か左か、どちらかに曲がっており、遠くの方には倒れている木も見えた。
天を統べる日輪を捉える、白縹の牢獄。
あらゆる結界を破壊する符術《天日牢》。超高密度の霊力を符に閉じ込め、超圧縮し解き放つ事によって、爆発的に高まった霊力を全方位にぶつける符術。
元々は神の結界を破る為に編み出された符術であり、その威力は凄まじく、小さな街程度ならば跡形もなく吹き飛ばす事は造作もない。ナチの師匠が生み出した符術の奥義。と言っても良い程に数ある符術の中で最高の威力を兼ね備えている。
「……お兄さん、何したの?」
呆然と空を見つめ続けるマオ。よく見れば、イズとイザナも無表情で空を見つめ続けている。
「符術だよ符術。ちょっと調べたい事があったから」
「私の知ってる符術とはちょっとっていうか、かなり違う気がするんだけど。何か変な言葉喋ってたし」
「今までマオの前で使ってたのは僕が独自に編み出した符術で、さっき使ったのがオリジナルの符術なんだよ。言ってなかったっけ?」
符術や符とは本来、即席で作る物では無い。
霊札と呼ばれる特別な木から製紙された紙に呪文を記し、そこに霊力を込める事で符は初めて完成する。そして、符を作る際に記した呪文を読み上げることで符術は起動し、この現世に神秘を顕現させることが出来る。
これが本来の符術。
だが、ナチはその法則を無視する事が出来る。命を灯していない無機物ならば、ナチは符を即席で作り上げる事が出来る。ただの紙や布を霊札に変換する事が出来る。
この能力は師と永久契約を交わした際に宿った能力 《まつろわぬかみ》。
符術使いは師と契約を交わす事で、師の能力を宿し、その力を自在に行使する事が可能になる。弟子を多く取る者もいれば、ナチの師の様にナチ以外の弟子を一人も取らない者もいる。つまり、この《まつろわぬかみ》は無限の異世界の中で二人しか使用する事が出来ない能力という事だ。
この能力だけがナチと師匠を繋ぐ糸であり、彼女を唯一感じられる楔。
それから、ナチが普段使っている符に込めている属性は異世界で学んだ神秘の術。魔法や魔術、神聖術などの神秘を霊力分解し、魔術や魔法の発動に必要な触媒を霊力に強制変換。そして、分解され、霊力改変が行われた異世界の神秘を再構築し、符に込める。魔法や魔術を発動する為に必要な詠唱も全て、霊力に再構築して。
そうする事で、ナチはあらゆる世界の神秘を符術に組み込む事が可能になる。この世界の超能力など先天性の能力に関しては学ぶ事すら不可能な為、符術に落とし込むことは出来ないが、魔法や魔術などの理論や術式が論文化され、数値化されている様な術に関しては符術に落とし込むことが出来る。
とは言っても、霊力改変する際にナチが魔法や魔術に組み込まれている術式を霊力式に組み直さなければならないので、ナチが理解できない術式や理論、特に天変地異を引き起こすような強力な術に関しては基本的に何が書いてあるのかすら理解できない為に符術に組み込むことが出来ない。
そうなると符術に落とし込める神秘は簡単な術に限られる。だから、化学変化や空気構成などの知識を学ぶ必要があったのだ。弱い力を強い力に変える為に。
また、オリジナルの符術も既に確立されている術式に関しては、ある術を除けば、全て使用する事が出来る。だが、戦闘中に呪文を符に書き連ね、詠唱している様な時間は無い。敵が与えてくれるとも思えない。
符術というのは本来、戦闘向きではないのだ。
つまり、あまり戦闘向きでは無かった符術を戦闘向きに改造したのが、ナチの符術という事になる。
「えーっと。お兄さんの符術は元々あった符術を、お兄さんが使いやすい様に変えたって事でいいの? 頭がこんがらがってきたんだけど」
「まあ間違っては無いよ。中遠距離戦しか出来ない符術を、全距離戦闘できるように改造したのが僕の符術って事」
「何故、今まで使わなかった? あれほどの威力ならば、もっと楽に喰蝦蟇を倒せただろう?」
「あんなの戦闘中に放ったら僕もイズもマオも自滅してたよ。多分、ブラスブルックも平らになってたと思うし。使えない使えない」
ナチが顔の前で手を翻していると、イズがナチを見て慨然として嘆息していた。
「使えない術だな。この愚図が」
「そんな事言われても仕方ないでしょ? あれは結界殺しの符術なんだから。戦闘用に作られた術じゃないんだよ」
「あの……一体、何を調べるつもりだったのですか?」
ようやく現実に戻って来たイザナが小さく手を挙げながら言った。
「イサナとメリナを村から出られない様にする為に、結界が張ってあるんじゃないかって思って。結界を破壊する符術を使ったんですけど」
「それで結界とやらは張ってあったのか?」
「いや、全く。結界のけの字もなかった」
イズがしばし黙ったかと思うと濃い溜息を吐いて、俯いた。それから顔を上げると、再びナチを視界に入れ、先程よりも更に濃い溜息を吐く。
そして、溜息を吐くのを止めたかと思うとイズは大きく息を吸った。
「全くの無意味ではないか! あんな大技をいきなり使いおって! 心臓が止まるかと思ったわ! もっと考えて術を使え、この馬鹿者!」
あまりの大声と怒気にナチは思わずたじろいだ。マオが同意する意思を示すかの様に首を大きく縦に振っているのが最初に見え、その後に小さく頷いているイザナの姿を見た。
「お兄さんっておっぱいと美人にも弱いくせに、頭も弱いの? 見損なったわ」
「喰蝦蟇の時も大爆発ばかり起こしおって。少しは共に戦う我等の事も考えろ。このままではお前に殺される未来が垣間見えてくる」
「ごめんなさい……」
まあまあ、とイズとマオを宥めるイザナに感謝しつつ、ナチは息を吐いた。急激に重くなった頭と瞼。《天日牢》は見た目も威力も派手な分、霊力の消費も激しい。
《天日牢》を一発放つだけで、ナチが普段使っている符を数百枚使用したのと変わらない量の霊力が消費される。それは体に警告が走る量だ。おそらく、撃てて四発発。三発で意識が混濁し、四発で強制睡眠に入る。五発目は無い。
ナチは重たくなった瞼と思考に内心で喝を入れると、最後にもう一度だけ深呼吸をした。
「じゃあ、そろそろ行こうか」
「お前が言うな。誰のせいでこんな意味のない立ち往生をしておると思っておるのだ。反省しろ」
「まあまあ、イズ。あんまり怒ってると皺が増えるよ」
「やかましいわ! さっさと進め!」
「はいはい」
ナチが体をイズから進行方向へと向けると、前方から人が走って来るのが見えた。
全身を銀色の鎧に身を包み、腰に剣を携えた兵士が二人。一歩を踏み出す度に金属が干渉している音が耳障りに鳴り響き、顔を覆い隠している兜が揺れていた。必死に腕と足を回転させ、ナチ達へと向かって来ている。その姿はどこか焦っている様にも見えた。
何をそんなに焦っているのだろうか、とナチは走る兵士二人を見ながら自問自答を繰り返す。焦らなければならない程の何かが起きただろうか。何も起きてはいないはずだ。少なくとも兵が慌てる様な事は何も。
「これはお兄さん捕まっちゃうかもだね。さようなら、お兄さん。元気でね」
「え? 何で? 僕何もしてな」
マオが「上、上」と空を指差した。マオが指差す上空へとナチは視線を向ける。そして、間抜けにも気付いた。起きたではないか、と。
いや、自らが起こしたではないか、たった今。兵が思わず慌ててしまう様な、天変地異の様な出来事をナチ自らが起こしたではないか。
「おい、お前達!」
荒々しい声で叫ぶ、兵。その声で兵士の一人が男性だというのが判明した。どうでもいい情報を手に入れてしまった、と嘆いていると兵士はナチ達の前で立ち止まった。
兵士二人が兜の中で息を切らしているのが分かる。鎧に包まれた手を膝に置き、肩を揺らしている。どこから走って来たんだろうかと少し考えていると、兵士二人はゆっくりと背筋を伸ばした。息がまだ整っていないのか、吐息が兜に勢いよく当たる音が聞こえてくる。
「どうしたんですか?」
「お前達、さっきの光を見たか?」
「はい、見ましたよ。凄かったですよね。それがどうかしました?」
ナチは柔和な笑みを浮かべながら、兵士に言った。
「ああ、俺達は街道沿いで待機していたんだが、凄い光だっただろ? フルム様を狙った刺客が現れたんじゃないかって心配になってな。慌てて戻って来たんだ」
街道沿いで待機? 何の為に?
胸に浮かんだ疑問を言葉にするべきかナチは悩んだ。フルム様と口にした段階でこの兵士達がフルムの部下だという事は一目瞭然だ。そのフルムの部下が街道で待機している理由は一々言葉にしなくても、察しは付く。
けれど、それは確証を得られた訳ではない。今のままではナチが立てた仮説でしかない。が、限りなく真実に近い仮説を得られているのも事実。どうするべきか、と悩みつつナチは口を開いた。
「そうでしたか。結構な衝撃と光でしたからね。心配にもなりますよね。僕達もたった今、駆けつけたばかりで」
マオとイズが冷ややかな視線をナチに向け、何故かイザナはマオの背後に隠れるようにして立っている。肩を震わせ、頤を下げ、悚然とした様子で怖い者から隠れる様にして立ち竦んでいた。
「ああ、そうなのか。あんた達も変な奴を見かけたら、教えてくれ」
「ええ、必ず」
「頼むぞ」
ナチの横をすり抜けて、奥へと進もうとした兵士達はイザナを視界に入れると、足を止めた。突然の急停止。急に足を止めたせいか、金属音が甲高く鳴り響いた。
「……お前」
どちらの兵士が言ったのかは分からないが、兵士の一人が威圧的な声を上げた。その声にイザナは咄嗟に兵士達から目を逸らし、一歩後退る。立ち塞がる様にして立っていたマオを突き飛ばし、兵の二人はイザナへと詰め寄っていく。
「お前、フルム様の婚約者を攫った娘の母親だろ?」
「攫ったなんてそんな事」
イザナの口から漏れたのは震えた声。上目遣いで、覗く様に男達を見ている。兵士たちを見上げるイザナはとても小さな人に見えた。とても弱い人に見えた。
「なあ。お前の娘のせいでフルム様にも、フルム様の婚約者にも、トリアスにも迷惑が掛かってるってちゃんと理解してんのか?」
突き飛ばされたマオが兵士達を睨み、氷を作ろうとしていた。マオの周囲を包む空気が変化していく。周囲の気温が低下していき、彼女の眼前に白い煙を放ちながら精製されていく透明の氷。
ナチはマオの肩を叩くと、首を横に振った。マオは無言で氷の精製を中止し、小さく頷いた。
「それは……」
イザナは唇を引き絞った。視線が下がり、顔面は蒼白。頬を伝う汗が彼女の頬を伝い、顎に溜まっていく。
「分かってんのかって聞いてんだよ! なあ、あんたの娘のせいで皆が辛い思いしてるっていうのに、あんたはガキを連れて、呑気に散歩か? ふざけてんのか?」
イザナは必死に首を横に振った。彼女は許しを請う様に首を横に振った。
ナチは符を二枚取り出して、属性を付加。「火」。
「おい、聞いてんのかよ!」
「まあまあ、落ち着いて」
ナチは兵士の背後に立ち、彼等の背中を軽く二回叩いた。その際に彼等の鎧に符を張り付ける。そして、すぐに霊力を放出し属性を具象化。符は徐々に熱を宿し、それらを彼等の鎧に伝えていく。
「落ち着きましょうよ。ふざけてないって真面目に答えてるじゃないですか」
「あんたは知らないかもしんねえけどなあ……。あつ、あつ、あつつ! あっつ!」
ナチは霊力を放出し、彼等に張り付けた符の温度を急激に上げていく。鎧は金属で出来ている。金属は熱しやすく、冷めやすい。高温の熱を与え続ければ、金属の鎧は超高温の熱を宿すプレートアーマーへと変貌を遂げる。
つまり、彼等が着ている鎧は触れれば火傷は免れない程の高温を宿しているという事になる。二人とも熱された鎧を必死に脱ごうと手で掴もうとするが、あまりの熱さに触れる事も出来ずにその場に倒れ込んだ。
倒れてからも「熱い熱い熱い!」と叫ぶ事を止めず、ナチへと這いつくばろうとする。
「お前何をしやがった! 早く止めろ!」
「はいはい、止めません」
ナチは霊力を放出し、さらに温度を上昇させる。金属の鎧から放出される高温の蒸気は景観を歪め、男達の姿を不鮮明にしていく。ナチはそれを冷淡に見下げた。
兵士達は兜を被ったままナチを見上げると、ナチの足を掴もうとした。ナチはその腕を踏み付ける。まだ高温を宿している鎧の上から強く踏み付けた。靴越しに伝わる熱が、鎧に宿っていた温度の高さを物語っている。
「本当に理解していないと思う?」
「何が?」
未だに熱を宿す金属に悶え苦しんでいる様だった。声が苦痛に歪んでいる。
「自分の娘が誰かに迷惑を掛けてる事実を、母親が気付いていないと本当に思っているの?」
「思ってるさ! だから、その女はこんな場所にいるんだろ」
「気付いてない訳ないだろ。ふざけてるの?」
ナチは踏んでいる男の腕を強く踏み付けた。足裏が火傷する。そんなのは気にもならなかった。全身を駆け巡る熱が足裏から伝わってくる熱を凌駕している。
「あなた達こそ、少し考えが足りないんじゃないかな? あなた達が知っている情報は本当に真実なのか? 表面だけをなぞって、全てを知った様な気になってない?」
「フルム様の婚約者が消えたのは事実だろうが! その女の娘と一緒に消えたのも事実だろ!」
「そうだね。それは事実だよ。でも、あなた達はその先の情報を何か調べた? 逃げた娘が二人って事実だけで、事実を歪めてない? 正確性に欠ける憶測と妄想だけで、誰かを一方的に悪だと決めつけてないかな?」
「……お前、何を知ってる?」
「僕は何も知らないよ。だから、フルムさんもイサナもメリナも悪だと断定はしない。断定するべきじゃないんだよ。真実を知らない奴に何も言う資格なんてないんだ。なのにあなた達は、さも真実を知っている様な口ぶりで人を悪だと断定する」
ナチは怒気を込めた視線を、二人にぶつける。沈黙する二人。何も言わない代わりに聞こえてくるのは、荒い吐息だけ。
「人を悪だと断定するのなら、確かな証拠と根拠が必要なんだ。それすらも追う気が無いんだったら、何も言わない方がいい。何もせずにただ黙って見てろ」
行きましょう、とナチは呆然と静黙しているマオとイザナに先を促し、半ば無理矢理に林道を進ませる。マオを先頭に歩いて行く二人の背をナチも追おうとした時に背後から金属音が鳴った。
「……俺達にこんな事して、無事で済むと思うなよ」
「無事に帰れるといいね」
ナチは振り返る事もせずに二人の後を追った。霊力を放出し続ける。背後で金属が擦れる音が鳴り、遠ざかっていく。フルムの屋敷に向かって走っている様だった。
金属音が聞こえなくなるまで、四人は誰も言葉を発しなかった。沈黙が続き、足音だけが聞こえてくる。前を歩く三人の息遣いすらも聞こえてきそうな程の沈黙がしばらく続いた。
そして、金属の干渉音が聞こえなくなった時。永遠に続くかと思われた沈黙が破られる。
突然、立ち止まるイザナ。立ち止まった拍子に落ちていた枝を踏み付け、大きな音が鳴った。それを気にする事も無く、イザナはナチに頭を下げた。
「ナチさん。すみませんでした」
「いえ、気にしないで下さい。やった事と言えば、力で脅しただけですから。あの二人と変わらないですよ」
「それでもお礼を言わせてください。確かに暴力は駄目だと思いますけど、ナチさんが口にした事は間違っていなかったですから」
朗らかに笑顔を浮かべるイザナは右手で左手首を握った。そして、手首を強く握っていた。
「ナチさんの言葉で気付いたんです。あの子達が逃亡した理由もそうせざるを得なかった理由も、私は何も知らない。今のあの子達を取り巻く環境を私は何も知らないんだって事に」
「はい」
「さっきまでは、イサナとメリナをこのままどこか遠くに逃がしてあげられたらいいなって思っていたんです」
「あ、そうなんですね。村に連れ戻したいのかと思ってました」
ナチは瞬きを数回繰り返すと、眉を少し上げた。イザナはイサナとメリナをトリアスに連れ戻したいのだとばかり、勝手に思っていた。
「戻って来られる環境が整っているのなら、私も戻って来てほしいとは思います。ですが、村に戻ってしまえばメリナはフルムさんと婚約する事になってしまう。そうなってしまったらイサナの恋は終わる。どうせなら初恋が実ってほしいじゃないですか。死が二人を分かつ時まで、とは言いません。けれど、二人を分かつ瞬間は今じゃないと思うんです」
「はい」
「二人が望む永遠を私が助けることで守れるんだったら、私は守りたい。二人で居ることが二人の幸福に繋がるんだったら、私は子供と離れ離れになっても構わないです」
イザナの覚悟を聞いて、ナチ達は唖然としていた。言葉を失い、立ち尽くす事しか出来なかった。トリアスから二人を逃がせば、イサナとメリナとは一生再会できくなる可能性が存在する。それでもいい、とイザナは言い切った。娘の幸せの為に私は涙を呑む、と断言した。
彼女の覚悟の強さに、ナチ達は言葉を失った。
「だから、ナチさん、マオさん、イズさん。私に協力してくれませんか。イサナとメリナを逃がす為に私に力を貸してくれませんか?」
ナチ達を順番に見つめるイザナの瞳は鋭い刃物の様に鋭く、熱された鉄の様に熱い感情を宿していた。その熱に当てられてか、ナチ達の心は自然と奮起する。心に高熱が灯されていく。
ナチ達はほぼ同じタイミングで首を縦に振った。
「我も一人の息子を持つ母親だ。お前の気持ちは痛いほどに分かる。だから、我等にも言わせてほしい。我等に二人を助けさせてくれ」
「はい……ありがとうございます。ありがとうございます」
何度も頭を下げるイザナの肩を叩くと、ナチは頭を上げさせた。目尻に涙を溜める彼女は鼻を真っ赤にして、肩を震わせている。
「僕達で良ければ、協力させてください」
「何でも言ってください。私達に出来ることなら何でもしますから」
「ありがとうございます……。本当にありがとうございます……」
イザナの目尻に溜まり続けた涙が次々に落下していく。陽光に煌めき、流星の様に落ちていく雫は顎から落下する瞬間に宝石の様に美しい光を灯して地面に吸い込まれていく。
拭っても拭っても何度も流れ落ちる涙と必死に嗚咽を噛み殺そうとしているイザナは何度もナチ達に謝罪と感謝を繰り返しながら、泣き続けた。




