二十五 溶けない氷
クィルと別れを済ませた翌日の早朝。ナチ達も新たな旅路へと出発するという事で、ネルとシロメリアはナチとマオにある贈り物を渡していた。
「おお、馬子にも衣裳とはこの事だね」
ネルは作業場の丸椅子に座り、目の前で恥ずかしそうに立っているナチとマオに向かって、そう言った。二人共ボロボロだった上着ではなく、シロメリアとネルが仕立てた上着を羽織っている。
さすがに短期間では全身を作る事は出来ず、仕立てられたのは上着だけになってしまった。それでも、上着が変わるだけで大分印象は変わる。
特にボロボロの白いコートを羽織っていたナチなんかは、印象の変わり方が顕著だ。
「変じゃないかな?」
「うん。変じゃないよ、ナチ」
鋼色のコートを身に纏いながら、何度も姿を確認するナチは照れ臭そうに頬を掻いていた。シロメリアの仕立屋にある最高級の皮や装飾を使用して仕立てた一級品のコート。コートに使った素材の値段を計算すると、貴族が泣いて値下げを交渉してくる様な馬鹿げた値段に実はなるのだが、本人には言わない方が良いだろう。
コートを返すなどと言いかねない。
「ポケットがたくさんあるんだね」
上着に付いた六つのポケット。左右に三つずつ付けられたそれをナチは嬉しそうに口角を上げながら、頻繁に触れていた。
「うん。マオが付けてくれって言ったからさ。健気だよねえ」
「ちょっ、ネル!」
顔を真っ赤にしたマオがネルに釘を刺す。本当に可愛い妹分だな、と思いながらネルは舌を出して誤魔化した。
「え? そうなの?」
「そうだよ。お兄さんのポケットいつもパンパンだからって健気に言ってくる可愛いマオの頼みを誰が断れるというのか」
「そんな事言ってないし!」
「えー言ってたよ。いじらしい感じで」
「……まあ言ったけど」
少し拗ねてしまった様子のマオに、ネルは苦笑しながら丸椅子から立ち上がった。そしてマオが羽織っているナチと同色のジャケットの襟を正した。
二人の羽織っている上着が同色なのはシロメリアの仕業だ。「二人は旅を共にする仲間なのですから。結束を強める為にも色は同じにしましょう」などと言い出したのが発端。ネルも概ね同意した。
その結果、最初は白色になるはずだったマオのジャケットは、ナチと同色の鋼色になった。
マオのジャケットには特に変わった装飾は付けていない。ポケットが左右に一つずつ付いているだけの一見、何の変哲もないジャケット。だが、重量が軽く機能性も高い。マオが氷を使うという事もあり、防寒にも優れており、見た目よりも機能面に特化したジャケットと言って良いだろう。
それにマオは綺麗な顔立ちをしており、体型もスレンダー。シンプルな格好の方がより本人の美しさが際立つという、世の女性を嫉妬の渦に巻き込みかねない様な現象を既に起こしていた。
「マオは何を着ても似合っちゃうから、特に驚きは無いんだけど、ナチはかなり印象変わるね」
ボロボロの服を着て男性にしては少し長めの髪の毛のせいか、以前は浮浪者の様に見えていた。が、新たなコートに着替えたナチは浮浪者感が限りなく薄れ、割と整った顔立ちの好青年という印象に変わった。
あらあら、とシロメリアが僅かに眉を上げ口を半開きにしている位にはナチは変貌を遂げ、正直ネルも驚きを隠せない。ここまで大変身を遂げる事になるとは予想もしていなかった。
「身だしなみを整えれば、お前もまともに見えるではないか」
「それだと前までまともじゃなかったみたいな感じになるんだけど」
「まともな格好では無かったよ、お兄さん」
「普通にやばい人だったよ。マオの知り合いじゃなかったら関わりたくないなこいつ、って思うくらいにはやばい見た目だったよ」
そんな馬鹿な、と少し視線を落とすナチの肩をマオがそっと二回叩いた。すると笑顔を取り戻すナチ。それを見てマオも笑顔を灯す。
ネルはその光景を見て、自然と微笑を浮かべた。その暖かな光景を見て、ネルは一つの確信を得た様な気がした。
この人になら大事な家族を任せられる。甘えん坊で我が儘で、でも人一倍優しいネルの大事な家族をナチになら任せる事が出来ると思った。
ウォルフ・サリ以外にも大切な何かを見つけてほしい、とずっと願っていた。ウォルフ・サリに依存し過ぎるマオはずっと不安定な精神状態だった。少なくともネルがウォルケンに在住していた二年前までは、マオの精神は酷く不安定だったのは間違いない。
けれど、この街に現れた時マオはウォルフ・サリの人間ではない男性を引き連れていた。家族ではない男性に素の自分を見せていた。それがネルにはとても不思議な光景に見えて、嬉しいと思うのと同時に寂しくもあった。
普段は感情が伴わない愛想笑いばかりを浮かべていたマオが、ナチの横では楽しそうに笑い、嬉しそうに微笑み、悲しそうに表情を歪めていた。眠っている時にはナチの名前を譫言で呼び、涙を零していた。
あんなに感情豊かなマオを見るのは十年ぶりだ。両親が亡くなってからのマオは常に愛想笑いをする子供になった。親の庇護を失ったマオに誰もが悲観的な言葉を投げかけ、同情し、親代わりの庇護を与えようとした。
けれど、親を失った幼き子供の心にはそんな大人の気遣いを受け止めるだけの余裕はなかった。両親の死、という受け入れがたい現実を善意で毎日の様に突き付けてくる他人。帰宅しても誰も迎えてくれない薄暗い家。両親を失った事による強い喪失感と、心を侵し続ける耐え難い孤独による寂寥にマオの心は次第に壊れていった。
その瓦解に、ネルを始めシャミアもリルもサリスも誰も気付けなかった。マオが抱えていた庇護への渇望と強い孤独感に誰も気付けなかった。
そして、気付いた時にはマオは笑顔を失っていた。瓦解していく心を繋ぎ止める為にマオは愛想笑いを続け、気付けばネル達の前ですら心から笑うことが出来なくなっていた。涙を流す事も無くなり、弱音を吐く事も無くなった。
それでもネルがウォルケンを離れる事になった二年前。マオはウォルフ・サリの人間に対しては感情を見せられる様になった。少しぎこちなかったけれど温柔な笑顔を浮かべ、仕事に失敗すると落胆し、ネルが街を離れる際には涙を流してくれた。
本当に嬉しかった。マオが見せた感情の発露が、別れ際に自ら再会を望んでくれたことが。マオの為に何もしてやれなかったのに。マオの力には何一つなれなかったのに。彼女が自分の事を家族だと言ってくれたのが、本当に嬉しかった。
だから、ナチを見ると少しだけ悔しさが湧き出てくる。一瞬でマオの心を変えたナチが少しだけ憎らしい。みっともない嫉妬だという事は分かっている。けれど、ネルに出来なかった事を颯爽とやってのけた彼に一抹の悔しさを抱くのは仕方が無い事であり、もう自然の摂理と言っても過言ではない。
分かってはいるのだ。自分がブラスブルックに移住し夢を追い始めた様に、マオだって成長する。何かのきっかけさえあればマオも成長し、大人になっていくという事は。
だから、私はマオの成長を祝福する。この場所で、この店で。私はここで祝福し続ける。
それから既に旅支度を終えていたナチ達と共に、ネルとシロメリアは扉を潜り、外へと出た。シロメリアの仕立屋の前で変な置物を売っていた男性はもう居ない。その男性と入れ替わりで露店を開いている男性はネルが良く知っている果物を売っていた。
同じ商売人として、軽く挨拶を交わしたネル達は早々に露店を離れると、修繕中の通用門の前まで歩いて行く。そして、ブラスブルックの外へと出たネル達は戦場の跡が色濃く残る街道を見渡しながら、門から少し離れた場所で立ち止まった。
「マオ」
ネルはマオを手で自身の下へと手招いた。素直にネルの下へと歩み寄るマオをネルはそっと抱き締めた。二年前よりも少しだけ背が伸び、胸が大きくなった彼女の頭と背中を撫でる。
「どうしたの? ネル?」
「大事な妹が無事に帰って来れます様にっておまじない」
「……」
「困ったら帰って来なさい。私はマオのお姉ちゃんなんだから。遠慮なく頼っていいんだからね」
「……うん」
マオがネルの腰に手を回し、強く抱きしめる。それに合わせてネルも腕に力を入れる。マオの背中を擦り、愛する家族の温もりを感じながら、目の前で微笑んでいるナチに視線を向ける。
「ナチ。マオの事、よろしくね。私達の大事な家族を頼んだよ」
「大丈夫。僕が必ず守るよ」
「うん」
ネルは笑顔を浮かべて、マオから離れた。そして、ナチにマオを預ける。
「じゃあ行っておいで、マオ。ナチ、イズも気を付けてね」
「うん! ネルも元気でね。シロメリアさんも」
「はい。皆さんも気を付けてくださいね」
「ああ、さらばだ、シロメリア。クィルをよろしく頼む」
「はい。任せてください」
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「行ってきます!」
ナチとマオ、そしてイズはネル達を見ながら手を振り、街道を進んでいく。徐々に小さくなる三つの背中。それもすぐに見えなくなった。
別れは寂しい。今でも、胸を締め付ける寂しさは心を蝕んでいる。でもこれは最後の別れではない。ネルもシロメリアも三人と約束を交わしたのだから。
もう一度、巡り会う為の約束を。だから、いつまでも寂しいなどと宣っている訳にはいかない。
「さあ、帰って仕事しましょう、シロメリアさん」
「そうですね。戻りましょうか。仕事していないと、ネルが泣いてしまいそうですから」
「そんな事ないですよ。私はお姉ちゃんですから」
ネルの頭をシロメリアが撫でる。優しく慈愛を含ませた笑顔を浮かべながら。
「もうマオさんはいませんよ?」
「……はい」
地面に落ちていく雫。黒い斑点を地面に作り上げていく涙を拭う事もせず、ネルはしばらく涙を流し続けた。
「やっぱり、寂しいものは寂しいんですよ」
路地を歩きながら、ネルは言った。睫毛に付着した涙を指で拭いながら、鼻を勢いよく啜った。
「そうですね。でも、この寂しさも無駄な物じゃないですよ。寂しさを溜め込んで、次にナチさん達と再会した時に喜びに変えてやりましょう」
「じゃあ私、一杯溜めます。溜めまくって一杯喜びに変えます」
「仕事に支障が出ない程度でお願いしますね。ネルには期待しているんですから」
「はい! お任せください!」
シロメリアの仕立屋の前に到着した二人が店の入り口に手を掛けようとすると、前方から三人の子供達がネル達に手を振りながら走って来た。
「ネル姉ちゃん、シロメリアさん、おはようございます」
口を揃えて言った子供達に二人は笑顔で対応。二人はしゃがみ込んで子供達と視線を合わせ「どうしたの?」と笑顔で言うと、子供達は手に持っていた透明な水晶玉をネルに渡してきた。
それを手に持つとひんやりと冷たく、すぐにそれが水晶玉ではなく氷だと気付いた。だが、溶ける気配が一向に見られず、一見本当に水晶玉の様だった。
「これどうしたの?」
「これ、オレンジの髪のお姉ちゃんが作った氷。全然、溶けないから教えてあげようと思って」
「そうなんだ。ありがとね。でも、オレンジの髪のお姉ちゃんは旅に出ちゃったから、これは君達にあげよう!」
「本当?」
「本当だよ。だから、お姉ちゃんが帰った時に教えてあげれる様に、君達にはその氷を守る使命を言い渡します!」
「はい! 任せてください!」
「よろしい。じゃあ、お姉ちゃん達はお仕事があるから、じゃあね」
「お仕事頑張ってね!」
そう言って、走って大樹の方へと歩いて行く子供達。
「元気で良い子達ですね」
「はい。元気で良い子達ばかりです」
「では、仕事に戻りましょうか」
「はい!」
扉を潜りながら、ネルは先程の氷の事を考えていた。あの氷はおそらくナチとマオが特訓していた時に作られた氷。少なくとも五日以上は経過している。氷という物はそんなに長期間、溶けずにいられるのだろうか。中にはそういう氷も存在するのだろうか。
マオが作り出した氷だから溶けないの?
「ネル? どうしましたか?」
「いえ、何でもないです」
きっと、気のせいだろう。あの氷もあと数日経てば溶けて水に戻るだろう。きっと、そうだ。溶けない氷が存在する訳がない。
でも、もし溶けなかったら?
止めよう。ネルは首を横に振った。今は仕事に集中しよう。せっかく期待してもらっているのだから。その期待に応えなくては。
よし、と頬を両手で叩くと、ネルは店頭を抜け、作業場へと消えていった。
これで第二章も終わりです!




