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二十三 七日後

 喰蝦蟇との戦闘から七日後。禁書にまつわる騒動から七日も経ったというのにナチは未だに目を覚まさなかった。生きてはいるのに死んだ様に眠り続けている彼は時折、涙を流す。


 何を思って泣いているのかは分からない。けれども、無表情のまま零れる涙は悲痛に満ちた顔をして零す涙よりも、一層悲哀を帯びて見えた。


 それが幼い子供の様に見える時もあれば、男泣きの様にも見えて、判断に困ってしまう。どちらにしても何故か一緒に居てやらねば、という気持ちが芽生えてくるのだから不思議だ。


 それから、ナチは寝言で「ナキ」という単語を度々口にした。その単語を口にする時は決まって涙を流す。枕を涙で濡らしながら、彼は譫言で「ナキ」と呟くのだ。しかも、時々「イズ」と呟く時もある。その時は涙を流す事はないが、それでも何故自分の名前は呼ばないのだ、と怒りに任せて腹部を踏ん付けてやりたくなる。


 腹いせに鼻をつまんでやるが、ナチは一向に目を覚ます気配はない。とはいえ、イズの事を呟きたくなる気持ちは分からないでもない。結局、ナチはイズを発見してすぐに意識を失ってしまったのだから。


 さぞ、心配な事だろう。寝言で呟きたくなってしまう程に。



 ナチが意識を失ってから、大変だった。


 全員が青褪めた顔で発見されたイズを見つめ、言葉を発する者は現れず、静かな寝息を立てるイズとナチの寝息だけが聞こえてくる、という状況が長時間続いたのは今でも記憶に新しい。


 シロメリアとネルはしばらくすると平静を取り戻していたが、クィルは二人の様にはいかなかった。


 状況を中々受け入れる事が出来ず、あまり喋っていなかったように思う。とはいっても、シロメリアとネルも事実を受容したという訳ではなく、無理矢理に納得したと考えた方が良いかもしれない。マオだってそうだ。


 現実を受け入れられた訳ではない。現実として起こってしまったのだから、と無理矢理に納得しただけ。納得するしかないのだ。もう過去には戻れないのだから。そんな事を思いながら、マオはシロメリアが淹れてくれた紅茶を一口啜った。


「ナチはまだ起きぬのか!」


 一階の作業場。暖かな朝日が差し込むその場所で苛立ちを隠そうともしない小さな黒い兎は、作業台を力強く叩いた。凛々しい声が作業場を駆け抜ける。


 そして、二階で眠り続けているナチに対して苛立ちを募らせている、この小さな黒い獣。その正体は正真正銘イズ本人だ。


 疲労困憊のナチが気を失う直前に見つけた小さな黒い兎。マオが両手に抱える事が出来る程に小さな黒い兎はイズで間違いない。断言する事が出来た理由はクィルが匂いで判別したからであり、意識を取り戻したイズ本人が自身の身分を証明したからに他ならない。


 ナチと同じく深い眠りに着いていたイズは、今より三日前に目を覚ました。


 本人に体が縮んだ原因を聞いては見るものの、本人曰く黒い球体に包まれた瞬間に意識を失い、目が覚めたら、体が縮んでいたとの事。つまり、名探偵として名高いマオの頭脳を持ってしても何も分からないという事だった。


 それに禁書に記されていた文字も七日前に全て消えてしまい、禁書は再び無文字の黒本に逆戻り。禁書を調べる事も出来ず、イズの体が縮んだ呪いを調べる事も出来ず、文字通り八方塞がりの状況に陥っていた。


 それから、マオとネルとシロメリアとクィル。その四人で話し合った結果。


 森の中で体を休ませるよりも外敵が存在しないシロメリアの仕立屋で、イズを休ませた方が安全だろうという結論に至り、イズをシロメリアの仕立屋で居候させる事に決まったのだ。


 マオもそれが最も安全な策だろうと思った。彼女の小さな体では食糧倉庫に蔓延る鼠にすら敗北してしまいそうだ。


「まだ起きないんだね、ナチ」


「あの寝坊助は気合が足らぬのだ、気合が」


「まあまあ。疲れていらっしゃるのですよ、ナチさんは」


「そうだよ。お兄さんずっとイズさんの心配してたし、疲れてるんだよ。今も寝言でイズ、イズって譫言の様に」


 少し演技調でマオが言うと、イズが机から手を離し、椅子の上で体を丸めた。


「む……まあもう少し寝かせてやってもよい、か」


「イズは単純だねえ」


 ネルがけらけらと笑いながら、紅茶を両手で掴んだ。「我は単純ではない。心が広いだけだ」とイズが即反論していたが、ネルは笑って「はいはい、単純単純」と適当にあしらった。


「それにしても良く寝るねえ。心配したマオが毎晩枕を濡らして寝言でナチ、ナチってうるさいのに。おかげで私は寝不足だよ」


 急激に顔が熱くなるのを感じながらマオは机を叩き、ネルを見た。目を擦り、泣く演技をしている悪女に向かって声を荒げる。


「濡らしてないし! そんな寝言も言ってない」


「本当かなあ? 意外と言ってるかもよ?」


 からかう様な口調と上目遣いで見られて、マオは更に顔が火照っていくのを感じた。


「本当だし! っていうか、そもそも寝不足じゃないじゃん。私より早寝遅起きのくせに」


 ネルはマオよりも早い時間に就寝したというのに、誰よりも遅い時間に起床した。マオとシロメリアが日の出前に起床し、朝食の準備を開始するとシロメリアが作る野菜スープの香りに引き寄せられてかイズが起床し、三人が朝食を済ませた後にネルは起床してきたのだ。


「ほら、私の名前ネルだから。誰よりも寝なくちゃいけないようになってるんだよ」

 

「うっわ、またそんなつまんない事言ってるし。ネルって昔からその冗談言ってるよね」


「つまんないとは聞き捨てならないなあ。これ私の中で最高傑作なんだけど」


「え、マジで? それはやばいよ。お兄さんがたまに言ってる冗談くらいつまんないよ」


「ナチと同列なの私? やばいな……」


 マオとネルの会話を聞いて、シロメリアとイズが嘆息しつつ、額に手を当てて首を横に振っていた。そして、窘める様に二人を交互に見ると口を開いた。


「ネル、マオさん。いけませんよ。ナチさんも一生懸命マオさんを笑わそうとしているんです。優しい殿方ではありませんか。だから、そこは面白くなくても優しく微笑むなどして、愛想笑いの一つでも浮かべてあげるべきです」


「そうだぞ。どうせ話半分も聞いておらぬのだろう? だったら笑うくらいはしてやるべきだと我も思う。まあ、笑っておれば男は大抵満足するしな。それが淑女の嗜みというやつだ」


「じゃあ私、お兄さんのつまらない冗談にいつも笑ってるから立派な淑女だね」


「こりゃ淑女の定義が大きく歪み始めちゃうね。マオのせいで」


「そうですね。もう一度、淑女の定義を協議し直す必要が出て来てしまいましたね。マオさんのせいで」


「もう、このコンビやだ……」


 マオが嘆息しつつ愁容を浮かべていると、さすがにそれを憐れに思ったのかイズがマオの肩をぽんと叩いた。落ち込んだ気分を払拭する為にマオが紅茶を啜っているとシロメリアがイズを見ながら「話は変わりますが」と話を切り出した。


「イズ」


「何だ?」


「本当にクィルに言わなくてよいのですか?」


 その言葉にイズの視線は分かり易く下がった。机の上で肩を小さくして、背中を丸くする。長い耳を顔を隠す様に前方に倒しながら、シロメリアを一瞥した。


「まだ……心の準備が、だな」


「早く言った方が良いと思いますよ」


「それは分かっておるのだが……」


「そうだよ。マオ達の旅について行くって事はしばらく会えなくなるんだよ。ちゃんと言わないと」


「それはそうなんだが……」


 マオはしばらく黙って、イズを見た。体が大きかった時には恐ろしく見えた爪も、今は可愛らしく思えてしまう程に、小さくなってしまっている。その爪でイズは猫の様に顔を掻いた。手と同様に可愛らしい長い耳を小刻みに動かしながら、イズは頻りに手で顔に触れる。


「……せっかく再会できたというのに、また別れ、だからな」


 マオは横に座っているイズを抱き上げ、膝に置いた。そして、背中を優しく撫でる。


 イズの体に降り掛かった呪い。それが完全に解呪されたという保証は無いのだ。呪いは体に残っているのかもしれないし、今もそれはイズを蝕んでいるのかもしれない。そして、イズは意識が戻ったすぐ後に決断をした。この街で死に怯えながら暮らすよりも、完全に呪いが解呪されているという証拠を得る為に、マオ達の旅に同行すると。


 それが、クィルとシロメリア。二人と安心して暮らせる事に繋がるのだ、と。気を遣われるのは嫌なのだ、とイズはマオとネルにだけ口にした。二人とは対等でありたいのだ、とイズは静かに震えた声で口にしていた。


「旅に同行するのを止めるっていうのは?」


 イズは首を横に振り、小さく鼻を鳴らす。


「それはならぬ。我の体の事なのだ。我自身が動かねばならん」


 マオはイズを抱き締めた。胸に収め、彼女の赤い双眸に視線を合わせる。


「なら、今日行こうよ。お別れを言うのは寂しいし、辛い。でも、二人共まだ生きてるんだから。再会の約束をしに行こうよ。お別れじゃなくて、もう一度、巡り会う為の約束を」


「別れでは無く、もう一度巡り会う為の約束……」


 イズがマオの視線を真っ直ぐに見つめる。二人の間に生まれた沈黙。マオは微笑を浮かべながら、首を少し傾げた。


「……そうだな。そうするとしよう」


「私達も一緒に行けば怖くないでしょ?」


「別に暗がりが怖い訳ではないぞ」


「はいはい。それまでにお兄さんも起きればいいんだけど」


「最悪、叩き起こせばいいよ」


 何故かネルの提案を誰も否定しなかったが、本当に叩き起こすつもりなのだろうか。マオは少しばかりの不安を抱くと共に、紅茶を飲み干した。





 太陽と入れ替わりで月が昇る。陽光が月光に入れ替わり、青空は夜色の空へ。暖かな大気は夜の訪れとともに少しずつ冷めていく。ナチが目を覚ますと月が雲間に隠れてしまっているのか、部屋は真っ暗で、ナチはしばらく目が闇に慣れるのを待った。


 頭も瞼も体も、全てが重い。瞼が再び下りようとしてはそれを堪える。それを何度も繰り返した。少しずつ目が暗さに慣れて来ると同時に見えて来る、部屋の輪郭。


 見覚えがある部屋だ。天井に吊るされたランプも、部屋の隅に置かれた木箱や布類なども見覚えがある。この部屋にあるのは全て見覚えがある物ばかり。


 ここはシロメリアの仕立屋の物置。ナチが与えられた部屋。ブラスブルックに居る間ナチが過ごした場所。


「そうか……僕は……」


 眠ってしまったのだ。いや、眠ったというよりは気絶したという方が正しい。脳が行った意識の強制シャットダウン。霊力の酷使によって行われたそれは睡眠では無く気絶だ。


 ナチが額に右手の甲を当てると気絶する直前の記憶が、じわじわと甦って来る。喰蝦蟇と戦闘し、禁書に呑まれかけ、それをイズに救ってもらった。


 そして、物置売りの男を禁書に捧げイズを包んでいた黒い球体を止めた。


 その後、どうなったんだったか。


 黒い球体があった場所にイズは見当たらず、ナチは無理を承知で符を作った。それから属性を込め、イズを捜索。その後に自分はイズを見つけられたのか。分からない。


 記憶が混濁している。


 最後の瞬間、ナチが何を見つけたのかは分からない。黒かった。それだけは朧気ではあるが覚えている。小さな黒い何か。ナチは最後に、それを風で拾い上げた。気がする。それが何だったのか、思い出せない。寝起きで重たい頭が記憶の引き出しに鍵をしてしまっている。


「僕は……救えなかったのか」


 そんな事を思わず口走ってしまう。暗い部屋の景観がナチを悲観的にさせてしまっているのかもしれない。ナチは額に乗せた右手を強く握り締めた。皮膚が破れるのではないか、と思う程の力で拳を作る。


「イズ……」


 黒い渦に飲み込まれていくイズの背中が鮮明に脳裏に浮かぶ。あの時、何も出来なかった。闇の様に黒い世界に怯えるだけで身動き一つ取る事が出来なかった。


 弱い。弱すぎる。何て弱さなのだろうか。技や力だけでは無く、心も強くなっていたつもりだったのに。心が脆弱過ぎる。自分でも驚くほどに脆く弱い。


 どうしてこんなに弱いのか。どうして強くなれないのか。もう、何も失いたくないのに。


 ナチは右手で額を殴った。軽く小突く程度の力で。まだナチは守ってもらっている。ずっと、ナチは誰かに守ってもらっている。ナキに守られて、今度はイズに。誰かを守れる様な強い存在になりたいのに。


 ナチは奥歯を噛み締め、再び右手で額を小突いた。


 すると、扉が小さな音を立てながら開いた。音を立てない様に気を遣っているのか、扉が開いた後に入ってきた足音は極小だ。ナチは反射的に身構えると体内で霊力を練り上げた。霊力は問題なく全快している。使用にも問題はない。ナチは体を寝かせたまま、すぐに体を動かせる様に瞑目し続ける。


「お兄さん起きてるかな?」


「起きてなかったら、起こせばいいって」


「乱暴は駄目ですよ?」


「大丈夫ですって、丈夫そうですし。死なない死なない」


 マオとネル、シロメリア。三人の声だ。その声にナチは体を脱力させる。身構える必要もない。


「起きてますかあ?」


 呑気なマオの声が耳元で囁かれる。少しくすぐったく思いつつ、どのタイミングで起きるべきかナチは悩んだ。部屋に入ったタイミングで起きれば良かった、と少し悔やみながらも、すぐに結論を出す。次、誰かが声を掛けてきた時に起きよう。


 ナチは待った。ぱたりと喋らなくなり、足下も聞こえなくなってしまった女性三人に若干の恐怖を抱きながら、ナチは待ち続けた。


 すぐに声が掛かると思いきや声が掛かる事は一向に無く、その代わりに聞こえてきたのは何かが落下する音。その音がしてすぐにナチの腹部に強い衝撃が走る。「ぐえっ」と呻き声を漏らしながら、ナチは飛び起きた。上半身を起こし瞼を上げる。


 首を動かし、辺りを見回す。マオとネル、シロメリアの三人はすぐに視界に飛び込んできた。全員が笑いを堪えている理由は謎だが、ナチは腹部にしがみ付いている小さな存在に目を向けた。


 小さな黒い兎の様な生き物。ナチを射抜く赤い双眸。どこか懐かしい感じがする雰囲気。


「ペット?」


 ナチは女性三人に顔を向けながら、言った。


「我はペットではない、この寝坊助。さっさと起きぬか」


 目を見開きながら、素早く視線を小さな黒い獣を見た。通る凛々しい声。強気な物言い。だというのにどこか安心する声質。ナチは震えた手で黒い兎を腹部から剥がし、持ち上げると自分の顔の高さまで上げた。


「……イズ?」


「ああ、我だ。ペットの様に持つな、下ろせ」


 ナチは苦笑を浮かべながら、確信する。この物言いはイズだ。理屈じゃない。この生物はイズだ、と直観やら本能やらがナチに確信を持たせる。


「そっか。僕は助けられたんだね……」


「ああ。お前のおかげだ。だから早く下ろせ」


「良かったよ……。本当に良かった……」


 頬を伝うのは汗か、涙か。ナチはイズを抱き締めると、嗚咽を漏らしながら、部屋に差し込み出した月明かりに目を細めた。


「めそめそと泣くな。男だろう」


 ナチはイズを床にそっと置くと、目尻に溜まった涙を拭った。鼻を啜りながら、笑顔を浮かべる。


「うん」


「そうだ。笑っていろ。男の泣き顔など見ても、誰も得はしない」


「その内、得するかもしれないよ?」


「屁理屈を言うでない」


 可愛らしい前足で足をぺしぺしと叩かれるが笑顔のまま、ナチはイズの頭を撫でた。「触るな、馬鹿者」と手を払われるが、ナチの笑顔は崩れなかった。


「ほら、お兄さん。起きたなら、準備して」


「準備ってなんで?」


「出掛けるよ、ナチ」


「う、うん」


 先に部屋を出て行った女性陣を追い掛けつつ、ナチは自分が霊力枯渇による強制睡眠の後に何が起きたのか知らされた。ナチが発見したのは間違いなくイズだった事や、ナチが七日間も寝続けていた事。その間ナチの世話をしたのがマオだという事も。イズがナチ達の度に同行する事を望んでいる事もイズ本人から聞いた。


 イズの同行に関しては二つ返事で許可を出した。断る理由も無いし、ナチ個人としてもイズに降り掛かった呪が本当に解呪されているのかは気になる所。それに彼女の言い分も理解できる。死の陰に怯えて生活を続けるよりも、肉体を取り戻し、解呪されたという確証を得た方が安心して暮らせるというものだ。


 ナチは七日間も寝続けた凝り固まった体をほぐしながら欠伸を掻いていると、不意にネルがナチへ振り返った。


「ナチが倒れてから大変だったんだよ?」


「そうなの?」


「そうだよ。マオが寝てるナチの世話してる時に『お兄さんって意外と良い体してるんだね』とか言うからずっと心配してたんだから。マオの頭の」


「ちょっちょっと! なんでバラしちゃうの? じゃなくて、そんな事言ってないからね、お兄さん」


「本当に? 変なことしてないよね?」


 ナチが全身を触りながらマオに懐疑的な視線を向けていると、彼女は拗ねた様に唇を尖らせながら階段を下りていった。


「もうネルもお兄さんも知らない」


「嘘嘘。感謝してます。ありがとう、マオ」


「ごめんごめん。マオの反応が可愛いからつい。可愛い姉心ってやつだよ」


 ナチとネルがマオに謝罪を繰り返し、彼女の機嫌を取っていると、イズを抱えるシロメリアが三人を見て、穏やかに微笑んでいるのが見えた。そして、何を言い出すのかと思えば、


「お兄さんが目を覚まさなかったらどうしよう、とは言ってましたよね」


「シロメリアさん!」


 階段を下り、作業場に出たナチは天井に吊るされたランプの光に目を細めた。闇に慣れた瞳は光を拒む。目を細めているとマオがコートの袖を摘まんだ。


「別にお兄さんがあんまりにも寝過ぎだから、少し心配になっただけで」


「いや、心配してくれてたなら普通に嬉しいよ」


「……本当に?」


 少し顔を赤らめながら、視線をいじらしく向けて来るマオにナチは頷き、温柔な笑顔を向けた。機嫌を戻す瞬間はここしかない。ネルがマオの後ろでナチに期待の眼差しを向け、任せろ、と言わんばかりに鋭い視線をネルに返すと、ナチは口を開いた。


「本当だよ。マオが心配してくれて嬉しい。本当だよ?」


「そっか……お兄さんは嬉しいのか」


 口角を上げ、目を細める彼女は背中で腕を組みながら、ナチに白妙の歯を見せた。すっかり上機嫌になったマオは作業場を抜け、先を行くシロメリアとイズの下へと歩いて行く。ナチが安堵の息を吐いていると、ネルがナチの肩を叩き、目には悪童の様な邪な感情を浮かべながら、ナチを見ていた。


「ちょろい妹だが、頼むぜ? ちょろすぎてネルお姉ちゃんは少し心配だが」


「大丈夫。これからはイズが居るし。少しくらいちょろくても大丈夫だよ」


「他力本願の極みだねえ。まあでも、ナチならきっと大丈夫か。マオがあんなに楽しそうな顔してるの久し振りに見たし。きっと、ナチのおかげなんでしょ?」


「いや、僕じゃないよ。僕と出会う前からあんな感じだったし」


「ナチも大概か……。まあいっか。この数日でナチの為人(ひととなり)も分かったし」


 ネルが顎に手を添え、独白の様に呟くと彼女は瞑目した。長い睫毛が影となり彼女の表情を隠すのに一役買っている。


「何が分かったの?」


「んー? 何だと思う?」


 半分だけ開いた瞼から覗き見える茶色の瞳。口角が僅かに上がると共に覗き見える白く歯並びの良い歯。両頬に出来る笑窪が彼女の愛らしさを強調させ、ランプに照らされる彼女の微笑は夢幻的な魅力を醸し出していた。


「お兄さん! ネル! 早く行くよ!」


「おや、お姫様がお呼びの様だぜ」


 ナチの肩をパシンと叩き、ネルは作業場を抜け、シロメリア達の下へ合流していく。取り残されたナチは早まった鼓動と彼女の微笑によって揺れる心を何とか諫め、ナチを待つマオ達の下へと悠然と歩いて行った。

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