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二十二 禁書

「クィル! ナチさん!」


 シロメリアの泣き叫ぶ声が聞こえてくる。だが、それももう遅い。黒い光がナチとクィルの足下から突如として出現し、二人を包む様に広がっていく。黒い光は花の様な形に形状変化を遂げ、六つの花弁は食人花の様にナチとクィルを包み込もうと、天高く伸びていく。


 黒い花はクィルの上背を優に超える高さに到達すると、花弁を厳かに閉じていく。ナチとクィルは黒い花弁に閉ざされる前の青空を見つめていた。雲一つない青空が閉ざされていく。混沌とした闇に呑まれていく。


 光すらも通さない黒い花に収まった瞬間に全身が震えだす。怖い。泣き叫びたいのに声が出ない。少しでも気を抜けば小便が漏れてしまいそうになる。


 ナチとクィルは全身を恐怖で震わせ、揺れる瞳で僅かに覗き見える青空を見続ける。息を呑む。これから何が起きるというのか。何も分からない。その未知がナチの恐怖を助長させる。


 ここで、死ぬのか……?


 死、という言葉を意識した瞬間、塞がっていく天井。見飽きたはずの青空が消えていく。徐々に暗く、どこまでも暗くなっていく世界の中で二人の男は瞑目した。クィルの震えた吐息が聞こえてくる。ナチを乗せている手は微細な振動を宿し、ナチはその酷く怯えた手に自身の手を添えた。


 クィルは知っているのだ。この黒い花に飲み込まれた後に起こる結末を。この後に起きる悲劇を。いや、知っていて当たり前か。彼はあの本に封印された被害者なのだから。


 天井は固く閉ざされ、完全なる闇は完成する。残すは封印のみ。もう目を開いているのかすら判断が付かない。意識は希薄になり、全身に凍てつく様な寒冷が纏わりつく。凍っていく。命の灯火が凍り付いていく。


 身の毛もよだつ様な恐怖と、細胞の一片すらも凍り付かせ様とする極寒に魂を震わせていると、騎士を束ねる騎士王の様な声がナチとクィルの耳に微かに響く。


「二度も諦めるな、馬鹿者共!」


 黒を引き裂く黒。突如として黒い花に侵入してくる黒い獣。彼女の怒気をそのまま色にしたかの様な赤い双眸はナチとクィルを捉えると更に赤味を増す。兎の様な顔が眼前に迫り、荒々しい呼吸がナチの前髪を揺らす。何が起きているのか認識するまでに数秒の時間を要した。


 イズ……。


 震えるクィルの手が母親へと伸ばされる。震えるナチの瞳がイズへと向けられる。涙が出そうだった。必死に漏れ出ようとする嗚咽を喉の奥に押し込み、力強い意思を灯す赤い双眸に引き寄せられるようにナチとクィルは体を前に倒す。


 イズの手がクィルの腕を掴む。腕を引っ張り、ナチ諸共クィルを黒い光の中から引きずり出すと二人を後方に投げ飛ばした。視界に再び現れる青空と燃える平原。そして、黒い光の出現に困惑している人々の顔が視界に入り込む。


 地面を転げ落ちたナチとクィルは先程まで自分達を飲み込んでいた黒い光へと視線を即座に戻す。


 そこには黒い渦に飲み込まれていくイズの背中があった。


「イズ!」


「お母さん!」


 二人は同時に叫んだ。ナチは雑草を引き千切り霊力を放出。だが、符を作った瞬間に視界が揺れ、霞んでいく。霧が立ち込めたかの様に視界に靄がかかり、霊力の過剰使用の代償がナチに襲い掛かろうとする。瞼が落ちようとし、瞼に纏わりつく眠気を打ち消す為にナチは眉間を右手で殴った。


 鈍い音が響くと共に痛みで開けていく視界。もう少しだけ起きてろ、と脳を怒鳴りつける。


 完全にイズを包み込んだ黒い光は球体の様な形状に変化し、宙を浮遊していく。一メートル程の高さまで上昇すると一定の高度を保ち続け、寂々として物音一つ聞こえてこない。


 その静寂さが新たな悲劇の始まりを告げるかの様で、ナチの焦りを助長させる。それでもナチは震えが止まらない腕を振り抜き、符を投げ飛ばした。霊力を流し、属性を解放。「加速」と「硬化」の属性を付加した符はイズを包む黒い球体を通り抜け、黒い本を両手に持ち、未だに何かを呟いている置物売りの男へと直進する。


 鋼鉄の様な硬度を手に入れた符は進む度に速度を上げ、目にも止まらぬ速さで男に迫る。硬化した符は男の右手に直撃すると手に持っていた黒い本を弾き飛ばし、男の遥か後方へと吹き飛ばす。慌てて本を拾いに行こうとする置物売りの男を五人の体格の良い男達が取り押さえた。


 地面に押さえつけられた置物売りの男にナチはふらふらとした足取りで近付いていく。人を掻き分け、落ちそうになっている瞼に抗い、霞む視界の中でナチは一歩ずつ男に迫っていく。


 途方もなく長い距離を走ったかの様に息を切らし、ナチは物置売りの男の前にたどり着くと膝を折った。崩れ落ちる様に跪き、ナチは大柄の男に取り押さえられている置物売りの男を霞み続ける視界の中に捉える。


「あれを止めてください」


 男の口角が歪に上がり、充血した瞳がぎょろりとナチに向けられる。


「無理でさ。あれは発動したら二度と止める事は出来ないでさ」


「……本当に? どうしてそう言い切れるの」


 ナチは落ちていた木の枝を手に取り、男の右目に突きつける。一センチも奥へと動かせば、眼球に突き刺さる距離にナチは木の枝の先端を置いた。物置売りの男と取り押さえている男達が息を呑む。


「本当でさ。あの本には解除方法なんて書かれていなかったんでさ」


 焦りを滲ませる男の声。恐怖で瞬きする事すら忘れている様子の男を見て、ナチは気付く。この男は、所詮小物だ。この程度の脅しで簡単に口を割ってしまう程の小物。


 コルノンがナチの脇をすり抜け、吹き飛んだ本を拾いに行くのを視界の端に映しながら、ナチは木の枝を数ミリ男の眼球に近付ける。


「あの本には一文字も書かれていなかったはずだけど。何をしたの?」


「あ、あの本は人の邪気を吸うと、文字が浮かび上がるんでさ」


「邪気?」


 あり得るのか? そんな不可視の感情を吸い取る本が実在するのか、と脳内に浮かぶが、すぐに脳内に浮かんだ可能性を棄却する。あり得る。ここは異世界。無限の可能性を内包した超能力の世界。あらゆる可能性は有になり、あらゆる絶望は希望に成り得る世界。邪気を吸収する本が存在したとしても、何もおかしくはない。


「そ、そうでさ。あっしが売っていた置物は、本当は邪気を祓う物じゃないんでさ。邪気を溜め込む物なんでさ」


「どうしてそんな物を売っていたの? まさか、知っていたの? あの本がどういう本なのか」


「あっしはあの黒い本を手に入れる為に、街に来たんでさ。あの本は人を呪殺する方法が記された禁書。邪気を吸う事で、呪殺の方法が浮かび上がる異端の本なんでさ」


 ナチは視線を一度コルノンへと向ける。真剣な眼差しでページを次々とめくっていくコルノン。そこから少しだけ覗き見える本に書かれた赤い文字。


 本当に文字が書かれている。この男の言う通りに。


 なるほど、とナチは心の中でほくそ笑む。あの置物を売っていた理由は本の文字を浮かび上がらせる為。住民達が抱いた負の感情を吸収し、頃合いを見て回収する為、という訳だ。回収する方法はどうとでもなる。不備があったとでも言っておけばいい。


 それに邪気という感情は条件さえ揃えば無限に街中に発生する。また男の説明する置物の理論が真実ならば、街中に設置するだけで置物は邪気を吸収し始める。ここ数日は悪魔に関する騒動で人々は苛立ち、不安や恐怖に駆られる人々が多かった。


 邪気はさぞ大量に発生し回収できた事だろう。


「あなたはあの本を手に入れて何をするつもりだったの? あんな本を街中で使えば一発でお尋ね者だけど」


「あれを使って何かをするつもりはなかったんでさ。あの本は闇商人の間ではお宝中のお宝。売れば、一生遊んで暮らせるだけの金が手に入ったんでさ。だから」


「なら、あれは何?」


 冷淡な声色が発せられると共に枝の先が白目に触れる。痛みに目を閉じようとする瞼をナチが手でこじ開ける。閉じる事は許さない。現実から目を逸らす事は許さない。


「……あっしは商人でさ。偽物を売れば、信用が消える。この本が本物だと試す必要があったんでさ!」


 男の言い分にナチは冷漠な眼差しを向けると、ナチは木枝を握る手に力を込めた。木枝の先端を白目に僅かに突き刺す。白が赤に染まっていき、血の涙を自称商人の男は流し始める。


「あなたを殺せば、あれは止まりますか?」


「わ、分からないでさ。試してみない事には……」


「そうですか。では試しましょうか」


 冷漠な眼差しのまま、ナチは持っていた木枝を引き抜いた。男の目から落涙していく赤い涙が垂れる鼻水と混ざり合って、赤い色味を濁らせる。


「待ってほしいでさ! 金なら用意するでさ! いくら欲しいでさ? 金でも旅に使う道具でも何でも用意するでさ! だから、命だけは助けてほしいでさ!」


「僕は神様じゃないので。命乞いは金の神様にでもしてください」


 ナチは一度、木の枝を手前に引いた。眼球から離れていく木枝を男は凝視し、瞳を激しく揺らしている。呼吸は嵐のように荒々しく、口元から垂れる涎は地面に小さな水溜りを作ろうとしている。


「あれはこの街に恐怖をもたらした悪魔なんじゃないんでさ? 守る必要がどこにあるっていうんでさ!」


 本音が漏れ始めた男にナチが何も言わずに木枝を突き出そうとすると、ナチの右隣に一人の老人が立ち並んだ。老人とは思えない様な軽やかな挙動で膝を折ると、老人は商人の男を冷淡に見据える。その老人はナチがクィルの殺害を確約する際にナチの胸倉を掴み、ナチに啖呵を切った威勢の良い老人。


「お前は一体なにを見てたんだ。この街を守ってくれたのはお前が言う悪魔だろうが。俺達があいつらにしたひでえ仕打ちを許してくれて、俺達を守ってくれたんだろうがよ。俺達の街を俺達の代わりに命懸けで守ってくれたんだろ! だったら守る必要があるに決まってんだろうが!」


 老人の言葉に商人の唇を引き絞り、無言を貫いた。この男は何も見ていなかったのだろう。ナチ達と喰蝦蟇が戦闘している最中も本を起動する為の準備をしていたのだろう。だから、悪魔がもたらした災厄の不可解な点に気付く事も出来ず、真実を知る事も無く、この醜悪で浅ましい状況を生み出してしまっているのだろう。


「真実を知ってから、もう一度出直してきてください。出直す機会は与えませんが」


 ナチは表情の変化を一片も見せず、木枝を男の眼球に向けて突き出した。


「ナチさん!」


 木枝が止まる。男の眼球に突き刺さる直前で、木枝は動きを止めた。過呼吸の様に息を荒くしている男は大量に汗を掻きながら、下腹部辺りに水溜りを作り出している。その後に男の血に染まった黒目は瞼の裏へと消えていき、そのまま地面に左の頬を着けた。失禁しながら気絶した様だ。


 ナチは木枝を捨て、声を上げたコルノンの下へと歩いて行く。


「何か、分かりましたか?」


「はい! この本の表紙にいきなり文字が浮かび上がったんです! 見て下さい!」


 ナチは黒い本の表紙に浮かびあがっている赤い文字を見た。横に連なった文字の羅列を見るが、ナチは首を横に振った。


「すみません。僕は文字が読めません。呼んでもらって良いですか?」


 コルノンは一瞬だけ驚きを見せるも、すぐに頷き、綴られた文章を読み上げた。


「呪を解呪する術。それは全てが共通。全ての解呪は平等。この禁書に触れた、愚者の魂を捧げよ。血肉を捧げ、骨の髄までこの本に捧げよ。さすれば、呪は解き放たれる。呪に込められし怨嗟。一殺多生の呪文アン・リ・フィメイリ。呪に囚われた愚かな魂に、我は救いを与えん」


「愚者の魂……」


 ナチは気絶している置物売りの男を見た。魂を、血肉を、骨の髄まで捧げる。つまり、この男の命を捧げれば、イズを包んでいる黒い球体は消える。イズに降り掛かっている呪は解除される。


 迷いは無かった。ナチは男を取り押さえている体格の良い男達に商人の男から距離を取るように指示を出すと、コルノンから本を受け取った。


 そして、本を気絶している男の頭に乗せ、ナチも男から距離を取るとその場にいた全員に距離を取る様に指示を出す。


「何をするんですか?」


「本に書かれた通りです。こいつの命を使ってイズを助ける。この男の命で、イズを助けられるんだったら、僕は迷わない」


 ナチは気絶している男に目を向ける。呪に囚われた憐れな魂。金に目が眩んだ愚か者。善悪の判断を見失った小物にナチは一歩近づいた。


 目を閉じ、息を大きく吸った。それを一気に放出すると共に目を開く。


「《アン・リ・フィメイリ》」


 呪文を口にした瞬間、本は赤黒い輝きを周囲に放ち始める。禍々しく蠢く赤黒い光に包まれていく置物売りの男。それから、本は宙を浮遊していき、一メートル程の高さまで浮かび上がると、ぴたりと制止した。


 その後に始まる凄愴な光景はその場にいた全員の表情を凍り付かせた。本は男を包んでいる赤黒い光を吸収していき、その過程で本は男の全てを強奪した。


 まず吸収されたのは皮膚だ。林檎の皮をむく様に流麗に剥がれていく肌。筋肉と神経が剥き出しになったその姿は皮を剥がされ天井に吊るされた鶏を彷彿とさせる。男は一瞬にして飛び起き、絶叫を漏らす。男を包んでいる光の影響か、血液が飛散する事も無く、血管が微動しているのが妙に生々しい。


 その次は血肉だった。神経が一本一本、禁書に吸い込まれては消え、蛇口を逆さから眺めているかの様に血液が禁書に流血していき、血液の消失によって色味を失った肉が最後に吸収された。


 残された骨は瞬く間に骨格を失い、液状に変わった。宙に浮く牛乳の様に液状に変わった骨は本に飲み下され、そこに物置売りの男が存在という痕跡は男が失禁し溜まった水溜りだけになった。


 文字通り、男の全てを飲み込んだ禁書は最後に悍ましい輝きを放つ赤黒い光を吸収すると、地面に落下した。落下した本を手に取ろうと、ナチは本に接近していく。


 ナチが本を手に取ろうとした時、前方から黒い光が、高速で本に迫って来る。ナチは尻餅をつき、そのまま後退。禁書から距離を取る。


 禁書に吸い込まれていく黒い光。それはイズを包んでいた黒い光。イズを呪殺しようと躍起になっていた黒い呪。本に書かれた内容が事実ならば、解呪は正常に行われている事になるが、まだ禁書に書かれた内容が事実だという保証は無い。表紙に記されていた解呪方法が虚偽だという事もあり得る。


 それに禁書と称される本の多くは、基本的に人に知られては困る様な不都合な内容が記され、人格破壊を促すような魅惑的で革命的な内容が記されている場合もある。まだナチ達の思いも寄らぬ様な、不吉で凄惨な現象を自発的に引き起こす可能性は十分にある


 まだ気を抜く事は出来ない。


「お兄さん!」


 尻餅をつき、黒い光が本に吸引される様を見ていたナチとコルノンの下にマオが全速力で駆けて来る。息を切らし、目に一杯の涙を溜めたマオはナチの横に滑り込む様に座り込むと、ナチの手を両手で握った。


「生きてる? お兄さん生きてる?」


 嗚咽が混じった様な震えた声をナチの耳に心地よく響かせながら、マオはナチの手や腹、背中などを頻りに触れ、最後に頬に触れる。ナチの頬を包む手は微かに震えており、その振動と彼女が抱えてくれている動揺に気付くと、ナチは密かに嬉しさを込み上げた。


「生きてる。お兄さん生きてる……」


「そんなに触らなくても問題なく生きてるよ」


「だってお兄さんが死んじゃうかと思って……」


 とうとう目尻に溜まった涙は重さに耐えきれず、頬を伝い、細い顎に流れて行くと地面に落下した。黒い光に煌く涙を静かに眺めながら、ナチは頬に触れ続けているマオの手に自身の手を重ねた。温かい手。安心する温もり。


「大丈夫、僕は生きてるよ。僕は確かに生きてる。僕は……ここに居る」


 マオの手に触れて、ようやく自身が震えている事に気付いた。黒い光に包まれた瞬間の恐怖。死を容易に想起させる生命を凍て付かせる極寒。あの時感じた恐怖が手に再び宿ったのかの様に、ナチの手は小刻みに震えだす。


 耐え難い寒冷に晒され続けているかの様な微細な振動が、微かに震えているマオに伝わっていく。それを気付かれなくてナチがマオの手から離そうとした瞬間、マオがナチの手を両手で包み込んだ。


「二人とも震えてる」


 えへへ、と涙を零しながらはにかんだマオ。ナチはどこか照れ臭くて、不自然にマオから視線を逸らしてしまう。視線を逸らした先でコルノンが目尻に涙を浮かべ、指でそれを拭っていたが、ナチと視線が重なると彼は顔を赤らめつつはにかんだ。


 ナチは微笑を浮かべつつ、マオの手を握り返す。


「イズは?」


 ナチは黒い球体があった場所へと顔を向けた。黒い光は完全に収まり、禁書は地面に落下し何の光も灯していない。禁じられた書物は男が失禁し溜め込んだ水溜りに落下し、表紙を濡らしていた。


 ナチはそこから自然に視線を外し、その奥へと視線を移した。黒い球体があった場所。そこに存在するのは黒い獣が一頭だけ。尻餅をつき、シロメリアが傍らに寄り添っている黒い獣はおそらくクィルだ。


 イズの姿が見えない。ナチはマオの手を借りて立ち上がると、ふらふらとした覚束ない足取りで黒い球体が浮遊していた場所に向かって歩いて行く。


「お兄さん」


 そう言って、ナチの腕を自身の肩に回すマオ。それから、ナチの腰に手を回し体全体を支える様に体を寄せるマオに礼を述べると二人は緩やかに歩き出した。


 猛烈な眠気が視界を歪ませ、何度も転びそうになる度にマオに補助してもらい、ナチは黒い球体が存在していた場所に到着する。見上げる程に巨大だったイズの姿はどこにも存在はしない。


 それでもナチは霞む視界の中に不器用で、全く素直じゃない黒い獣を探した。意地っ張りで、人と関わる事に対して臆病な一面を持つ、優しい心根の黒い獣を必死に探す。


 見えない。どこにも見えない。あの黒い背中がどこにも見えない。


「イズ……」


 間に合わなかったのか?


 嫌な予感が心の奥底から地獄の釜の蓋が開いたかの様に噴き出してくる。禁書に流れ込んだ黒い光に同化して飲み込まれてしまったのだろうか。それがあり得ない話ではないという事は、さっき男が禁書に呑まれた一連の流れを見ていれば分かる。


 あの禁書はイズを殺せる力を持っている。


 それを意識した途端に、脳内に広がる嫌な想像が心象に流麗に描かれていく。


 皮と血肉を剥がされ、骨を液状化されて消えるイズの姿が心象にナチの意思に反して描かれ続けていく。その想像を脳内から切り離す事が出来ず、ナチは顎に力を入れた。


 奥歯が砕けるのではないかという勢いで奥歯を噛み締め、顎に生じた痛みによって脳内から醜悪な想像を削除しようとする。だが、こびり付いた悪質な妄想は削除する事も塗り潰す事も敵わず、心象に描き起こされ続ける。


 認めない。認めたくない。


 ナチはズボンに引っ付いていた雑草を手に取り、それを符に変換する。霊力を使用した反動でナチの意識は途切れた。マオの肩から転げ落ち、顔から地面に落下した所でナチの意識は再び戻る


 そして、符に「大気」の属性を込め、それを手に持ったまま属性を具象化した。霊力が体内から枯渇する。意識が失われていく。だが、まだ意識が完全に消失するまでの数秒のタイムリミットが残されている。これが最後の符術だ。霊力が残っていないナチが発動する事が出来る最後の符術。


 瞼が下りていくと同時に吹いた猛々しい旋風は周囲に存在する生物、障害物を探知していく。


 何処かに居るはずだ。彼女はまだ生きているはずなんだ。


 風が周囲を探る。違う。違う。違う。違う。お前じゃない。違う。違う。居た。


 見つけた。長く伸びた雑草の中。それはイズが黒い球体に包まれていた場所から十メートルほど離れた場所に存在している。


 ナチは完全に瞼が下りる前にそれを風によって持ち上げ、マオの胸の中へと優しく送り込んだ。マオが受け止めたのは小さな黒い兎。彼女と同じ空気を纏い、温度を宿す小さな生命。


 静かな寝息を立てて眠っている小さな存在を視界の端に捉えた瞬間、ナチの意識は途切れた。

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