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二十一 黒い本 

 三人は喰蝦蟇の所までゆったりと歩いて行き、その死体をまじまじと眺めた。吹き飛んだ顔や胃袋の所在は分からないが、それでも確かに死んでいるのは分かる。


 吹き飛んだ顔を埋める様に飛び出ているのは、腸だ。赤く濡れた腸は極太のミミズの様で、この腸が自立して動いたりしないだろうな、と少し不安になるも、そんな事は何時まで経っても起きはしない。


 沈黙の中で喰蝦蟇の全身を見ていると、風に乗って運ばれてくる焦げた臭いに混じって饐えた臭いが鼻を通った瞬間、三人は顔を顰めた。


 その理由も明確だ。


 喰蝦蟇の肉体が腐敗を始めていた。煮込み過ぎた肉の様に柔く崩れ落ちていく体。粘り気のある糸が絡み、肉が地面に落ちる度に腐臭は辺りに広がっていく。そうして辺りに漂い始める死臭が、この戦闘は間違いなく終わったのだ、とナチに告げているかの様で、ようやくナチに溜まった不安が心の外へと漏れ出ていく。


 腐敗する速度が些か早すぎる気もするが、それは考えた所で意味を成さない。喰蝦蟇が死んだ瞬間を見た者などブラスブルックには居ないし、イズも知りはしないだろう。命が尽きると同時に急速に細胞が壊死し、肉体を腐敗させるという特性を持った生物が存在する可能性を否定できないのだから。


「どうだ? 勝利の実感は湧いたか?」


 言った後に大きな欠伸を掻いたイズは体を丸め、顔をナチの視線の高さに合わせた。ナチは喰蝦蟇の死体を見つめながら、瞬きを二回繰り返した。勝利の実感が湧かなかった理由はもう分かっている。目の前の死体がそれを教えてくれた。


 足下に転がった死肉を見つめながら、ナチは言った。


「今はね。でも、これだけボロボロになって、考えられる全ての策を弄してようやく勝てた。僕達は、あれだけ苦戦していたはずなのに死は一瞬で訪れて、勝利も一瞬。だから、実感が湧か無かったんだと思う」


 存在感が強ければ強い程、命が失われた実感は遅れて来る。


 本当は死んでいないのではないか、誰かが嘘を吐いているのではないか、などと憶測を重ね、現実を虚偽に塗り替えようとしてしまう。


 今回もそうだ。これだけ苦戦し追い詰められ、何度も死を意識させられた相手が、こんなにあっさりと死ぬ訳がない。きっと、ナチはそう思ってしまったのだ。


「まーたそんな難しい事、考えてるの? もっとシンプルに考えなよ」


「……勝利したら、嬉しい。敗北したら、悔しい。もしくは死ぬ。それだけの話だ。何をそんなに小難しく考えておるのだ」


「二人が単純すぎるだけだよ」


 とは言いつつも、二人が言っている事は間違ってはいない。むしろ、真理だ。ただナチが複雑にして、自らを意味も無く追い込んでしまっているだけで、二人が言っている事の方が世間一般からすれば正しい。


「でも、たまには僕も二人を見習おうかな。もっと単純に」


 穏やかにそう言うと、マオは少し目を細めながら下唇を突き出していた。


「お兄さん。私達のこと馬鹿にしてるでしょ?」


「若造のくせに生意気だぞ、全く。礼儀がなっておらぬ若造だ」


「してないしてない」


 ナチはぶっきらぼうに手を顔の前で翻すと、体中の力を脱力させるように息を吐いた。霊力を酷使したせいか、頭の上に岩石を乗せているかの様に重い頭。脳が霊力回復と体を休養させる為に睡眠を要求しているのが深く考えずとも分かる。


 街はもうすぐそこに見える。ナチ達の行く手を阻もうとする敵はもういない。街に着いたら、ゆっくりと寝かせてもらおう。何日、眠り続けるだろうか、などと考えながら、ナチは何やら文句を垂れ続けているイズの背に乗り込む。


 ナチの隣に腰を落ち着けたマオもナチに対して文句を述べているが、眠気に支配されかけたナチにはどんな言葉も届かない。


 ゆっくりと動き出したイズの背の上でナチは大きな欠伸を掻くと、それを見たマオが盛大に大声を上げる。が、何を言っているのかはナチには判然としなかった。



 壊れた石造りの門の前。イズはそこで立ち止まった。しかも「疲れたな……。我は先に森に帰るとしよう。だからお前達は歩いて帰れ」とナチ達に歩いて帰る事を強要してくる。


 断る理由も特になかったが、イズの言い分は自然に見えて、明らかに不自然だ。どうみても、街に入りたくないだけの言い訳。ブラスブルックの人々と対面するのを恐れている様にも見えた。


 けれども、イズの気持ちが分からないでもない。喰蝦蟇が襲来した事で不安と恐怖を抱き、混乱していた人々は最初イズを悪魔だと断定し助力を拒んだ。


 コルノンの言葉で街の人々はイズに街の命運を預けはしたが、それは街の内外が安全な場所では無くなってしまったから。あの絶望的な状況で唯一頼れる存在が突如として現れた悪魔と余所者のナチとマオだけだったからだ。


 それは悪魔がもたらした災厄という迷信を覆す材料にはならないだろうし、喰蝦蟇こそが真の悪魔なのだと親切丁寧に説明した所で信じて貰えるかは怪しい。


「イズさん。本当に行かなくていいの? シロメリアさんに挨拶だけでもしようよ」


「我はよい。会いたくなれば、すぐにまた会える」


 ナチはマオの肩を叩いた。眉に皺を寄せ、唇を引き絞っているマオが無言でナチを見た。明らかに不機嫌な顔。


「僕達がシロメリアさん達を連れて来るよ。それでいい? イズ」


「別に我は構わぬが……。お前達がどうしてもと言うのなら」


「じゃあ連れて来るから、良い子にして待っててね」


「噛み殺すぞ」


 じゃあ行こう、と言って、ナチがマオの手を引っ張りブラスブルックの門を潜ろうとすると、前方から巨大な黒い獣が歩いて来るのが見えた。路地を歩いているのは間違いなくクィルで、彼の周囲にはシロメリアとネルも含めた多くの人々が彼の傍らに寄り添いながら歩いている。


 歩いている人々は皆笑顔で怯えている様な人物は一人もおらず、談笑と爆笑に包まれた明朗な空気に満ちていた。またクィルの背には子供達が三人乗っており、その三人はナチとマオの特訓を見学していた三人の子供達だ。彼等はクィルの耳に頻りに触れ、キャッキャと無邪気な笑顔を見せている。


 これはどうなっているのか……。夢を見せられているのか?


「お兄さん。あれどういう事?」


 マオがナチの袖をくいくいと引っ張りながら、前方の光景を指し示す。ナチは首を横に振った。それは僕が聞きたいよ、と思いながら、ナチは前から訪れる光景を眠気を抱えた頭でぼんやりと見つめた。



 その場で呆けているナチとマオ、イズの前で立ち止まったクィルとブラスブルックの人々。温柔な微笑みを浮かべるシロメリアとネル。ナチ達は状況を理解できずただ立ち尽くしていた。ナチとマオは何度も顔を見合わせ首を傾げ、イズは興味無さそうに顔を背けているが何度も視線を群衆に向けている。


 皆一様に笑顔なのは言うまでもないが、この変化は一体どういう事なのか。ナチとマオが恐る恐るシロメリアとネルに視線を合わせ、状況説明を求めようとした時にブラスブルックの人々は一斉に歓声を上げた。堰を切ったかの様に膨れ上がる歓声。それら全てはナチ達へと向けられ、次々に称賛の声が掛かる。


 まるで音が衝撃波となって波打っているかの様に音はナチ達へと流れ、その波に流されるかの様に街の人々が一斉にナチ達の下へと押し寄せてくる。


「ありがとな、兄ちゃん達!」


「かっこよかったぜ!」


「凄かったよ、お姉ちゃん!」


 筋肉質の男性に囲まれ、感謝の言葉を次々に向け続けられるナチとは裏腹にマオは若い男性や主婦達に囲まれ、イズの周りには子供が多数集まっていた。


 状況が未だに掴めず困惑していると、クィルが腕を伸ばし、ナチを男達の群れから引っ張り上げる。クィルの手の平に乗ったナチはそこに弱々しく座り込み、胡坐をかくと歓声を上げ続けている人々を見下ろす。全員が笑顔を浮かべる光景を目にしていると、先程までの激しい戦闘が遠い過去の様に思えてしまう。


「皆、見てたんだよ。ナチ達が街を守る為に一生懸命に戦う姿を。最初はあいつやべえとか言ってる人もいたけどね。ナチが喰蝦蟇を倒したら態度が一変したよ」


 穏やかな声でクィルは全体を見渡しながら言った。それからクィルはゆっくりとイズの下へ歩き出し、面倒臭そうに子供の要望を聞いているイズを見て苦笑を漏らした。何だかんだと子供たちの要望を全て聞いているイズはクィルとナチの接近に気付くと、鼻を鳴らしそっぽを向いた。


「おつかれさま、お母さん、ナチもね」


「我は特に何もしておらぬ。ナチが喰蝦蟇を倒し、勝利した。それだけだ」


 ぶっきらぼうに言い放ったイズにナチは苦笑いし、目を閉じた。


「でも、イズが一緒に戦ってくれなかったら、僕とマオは喰蝦蟇を倒せなかったよ。何度も死にかけたし」


 最初に放ったバックドラフトを外した時、ナチは敗北を認め、無抵抗で死を受け入れた。自分でも驚くほどあっさりと。彼女がナチと共に戦っていなければ、ナチもマオも命を落としていたし、ナチが策を考える時間も得られなかった。喰蝦蟇に勝利する要因に絡んだのはナチの策だが、ナチだけでは勝利の女神は微笑まなかっただろう。


 マオとイズ、二人の女神が側でナチを支えてくれたから勝利できた。これがこの戦闘の真実だ。


「そうか」


 穏やかな物言い。どこか安心する口調にナチは自然と口角を上げる。胡坐を掻いている足に肘をつき手で顔を支えると、ナチは眠気を堪えながら、ぼんやりと眼前に広がる草原を俯瞰した。


 緑で溢れていたはずの街道は幾度となく上がった炎によって黒に染まり、未だに鎮火していない火種は大気すらも黒く塗り替えようとしている。それに大規模な爆発現象を二度も起こしたせいか、隕石が落下したかのような大きな窪みが生まれ、爆発によって吹き飛ばされた土砂と符の残骸が焦げた大地を隠すように積もっていた。


 戦禍を色濃く感じさせる光景に惨憺たる思いを抱いていると、クィルの足下には見知った顔が集合し始めていた。シロメリアとネル。マオにコルノン。全員がナチを見上げ、それからナチと同じ方向。つまり、戦場を見つめていた


「ナチさんとマオさんには助けられてばかりですね。何とお礼を言って良いか」


 シロメリアがしみじみと言うと、ネルが「それなら!」と柏手を打った。乾いた音が鳴り響き、全員がネルへと視線を向ける。


「二人の為に服を作るっていうのは、どうですか? ナチの服なんて特にやばいですし、マオの服もいい感じにボロボロですから」


「それは良い考えです、ネル。お二人の服は喰蝦蟇との戦闘でボロボロになってしまいましたしね。ナチさんの服は最初からやばかったですが。どうですか、ナチさん、マオさん。私達に服を作らせてもらえませんか?」


「ぜひ! ぜひ、お願いします!」


 マオが喰い気味で言った。シロメリアとネルの手を取り、子供の様にはしゃいでいる。ナチも「お願いします」と簡潔に答えると、コルノンへと視線を向ける。


「コルノンさん、ありがとうございました。コルノンさんが声を上げてくれて正直助かりました。本当にありがとうございます」


「いえいえ、私は何も」


 コルノンの声で街の人々が動いたのは事実だ。それをコルノン本人が謙遜し、否定しようとも、コルノンの声が結果的に人々の心を動かしたのは間違いない。


 あの時ナチは符術で強引に道を開けようとしていた。もし、ナチがそれを実行していた場合、ナチ達が喰蝦蟇に勝利したとしても歓声が上がる事は無かった。クィルやイズも街に受け入れられることは無かったかもしれない。


 もしも、コルノンが声を上げなかったら、ナチは信用という不可視の感情を見事に破壊していたという訳だ。

 

「それでも僕は、コルノンさんに感謝してます」


「それは私達が言うべき台詞ですよ。本来なら、私達が力を合わせて立ち向かうべき相手だったんです。それをナチさん達に押し付けてしまった。お恥ずかしい限りです」


「私達が勝手にやった事なんだし、気にしないでください。それにお兄さんが約束したじゃないですか。悪魔を倒すって」


 ナチがブラスブルックの人々と約束した悪魔退治の話をしているのだろう。あれは紛れもなくクィルの事を指していたのだが、マオは上手い事言った、と言わんばかりに胸を張っている。


「……またそんな屁理屈を」


 ナチは瞑目し、微笑みながら言った。悪くない屁理屈だ、と思う。


「屁理屈じゃないし。真実だし」


 馬鹿だな、お兄さんは、とでも言う様に鼻を鳴らすマオは片目だけを閉じ、勝ち誇ったかのようにナチを見上げてくる。その生意気な物言いに何故だか穏和な気持ちになると、ナチはマオを真っ直ぐに見下ろした。


「屁理屈です」


 ナチが一蹴するとマオは顔を真っ赤にして憤慨。鼻息を荒くし、ナチにクィルの手から降りてこいと怒りを露わに喚いているのを見て、コルノンが若干引き気味でマオを見つめていた。ナチは百年の恋も一時に冷めてしまったかの様に顔を強張らせているコルノンへ視線を向けると、少し身を乗り出し口を開く。


 そろそろクィルとブラスブルックの人々の蟠りが解消された理由を聞きたい。ナチ達が戦闘していた間に何が起きたのか。どんな会話が成されたのか。非常に気になる所ではある。


「コルノンさ」


「おい、お前! 何してる!」


 ナチがコルノンに声を掛けようとした瞬間、野太い男性の大きな声がどこからともなく聞こえてきた。咄嗟の事に発音した方向を聞きそびれ、ナチが視線を彷徨わせていると、コルノンが背後を振り返る。彼は何かを見て、目を大きく見開いた。口が半開きになっている。そして、そのまま静黙し一言も言葉を発しないまま、岩の様に固まってしまった。


 ナチもマオ達も全員、コルノンが向いている方向へと視線を移動させる。


 黒。


 群衆から少し離れた場所。そこに黒い触手の様な禍々しい黒い光が天高く柱の様に伸び、黒い光を包む様に鮮やかな赤色の粒子が淡く光る。


 赤黒い光は一人の男を中心に展開され、黒い光はまるで意思を持つかのように艶めかしく蠢き、神性をその身に内包するかの様に自然と目を引き付ける魅力を宿していた。


 その中心に立つ男。その男をナチは知っている。一度だけだ。たった一度だけ、会話しただけの浅い関係性であり、知り合いと呼ぶには微妙な間柄の男。


 その男はシロメリアの仕立屋の前で露店を開き、達磨に似た置物を販売していた妙な喋り方をする男だ。その男を中心に黒い光は展開し、男の視線は間違いなくナチ達を射抜いていた。


「ナチさん! あの本を見てください!」


 コルノンが指差すのは黒い光の中心に立つ男が手に持っている本。表紙も紙も、何もかもが黒い本。それはクィルが封印されていた無文字の黒本であり、その翌日に紛失し、ナチ達が手分けして選別した本でもある。


 ナチ達が必死に探しても発見する事が出来なかった黒本を、何故か置物売りの男が手に持っていた。本を開き、何かを呟いている。ナチ達が立っている場所からでは何を言っているのか、露ほども聞こえない。


 だが、何故あの男が本を持っているのかはすぐに判然とする。あの男が盗んだのだ。あの男が深夜の書庫に忍び込み、本を盗んだ。そう考えるのが最も自然な道理であり、そう考えるのが最も安直。どちらにせよ、盗んだというのならば取り返すだけだ。


 ナチは立ち上がろうとしてクィルの手の平に手を着いた。それから立ち上がる為に両足に力を入れようとする。だが、そこで何故か肌が粟立った。全身に稲妻の様な速度で走る悪寒。全身の毛穴が開いていくと同時に、水道の蛇口を強く捻ったかのように大量の汗が噴出される。


 何故、こんなにも心は臆しているのか。その理由を明確に答えることは出来はしない。


 あの本なのか、黒い光が原因なのか、あの男に対してなのかは分からない。だが、ナチの脳内で警鐘が鳴っているのは分かる。鳴り続けている警鐘は、逃げろ、とナチの体に指示を送り続けている。


 ところが、魔王に追われている子供の様にナチの体は動かない。肉体の操作権限を奪われてしまったかのようにナチの筋肉は命令を拒む。脳は正常。電気信号は正常に筋肉に送られ続けている。体が動かない理由はナチの心が動いていないからだ。恐怖に縛られた意思は心に巣食う弱虫を急速に成長させる。


 あれは、危険だ。


 ナチが異世界を渡る旅で培ってきた第六感が漠然と抽象的に告げる。全く具体性を持たない危険性をナチに警告し、逃走を推奨する。


「お兄さん! クィル! 逃げて!」

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