十九 バックドラフト
イズは出来上がった道を駆け抜け、喰蝦蟇へと一直線に駆け抜けていく。それを迎え撃つように放たれた長い収縮性を持つ舌がイズの右腕を絡み取り、ねっとりとした唾液がイズの腕を感の官能的に濡らしていくが、今のイズには「強化」の属性が付与されている。
元々、持ち合わせている類稀な膂力に、「強化」。力負けする事は有り得ない。
イズが桜色の舌を左手で掴んだのと同時にナチは喰蝦蟇の開いた口に向けて、符を投げ飛ばした。口内へと消えていく符を見送るとイズが舌を力任せに引っ張り、街の外に向かって走り出していく。
引き摺られる喰蝦蟇は必死に抵抗しようと四肢を地面に食い込ませ、踏ん張ろうとしている。だが、「強化」の属性を付加されたイズの膂力には敵わず、すぐに地面を理不尽に引き摺られる事になった。
「このまま街の外へ、引っ張り出すぞ」
街の出入り口にもなっている門。イズは舌を引っ張り、喰蝦蟇の体を引き寄せると口の端を掴み、門に向かって投げ飛ばす。投げ飛ばされた喰蝦蟇はとてつもない速度で石造りの門へと激突し、街を囲んでいた石壁諸共、木端微塵に変える。
それでも勢いは衰えず、街道を大きく転がっていく喰蝦蟇。体に張り付いた雑草が喰蝦蟇の体を覆っている粘液を吸って黒ずんでいく。蛙は身を包む皮膚が薄く、体内の水分を逃がさない為に粘液を分泌し、全身を湿らせている。喰蝦蟇もその例に漏れず、全身に粘液を纏っている。
地面を転がる喰蝦蟇に向かってイズが路地を駆ける。壊れた門を通過し、街道へと躍り出ると、イズは転がっている喰蝦蟇の腹を蹴り飛ばす。街道を跳ねる喰蝦蟇。「強化」しているとはいえ、さすがのイズも街から大きく離す程の距離を蹴り飛ばす事は叶わない。
数十メートルの距離を跳んだ喰蝦蟇はすぐに体勢を立て直すと空中を翔けた。強靭な四肢が生み出す跳躍力はイズの体を優に跳び越え、巨大な肉体と重量でナチとマオ諸共イズを踏み潰そうとする。
イズは右に素早く方向転換。「強化」が生み出す剛力はイズの機動力も底上げする。単純な攻撃ならば避ける事は容易い。先程までイズが居た場所に急速に落下した喰蝦蟇。その衝撃で地面が揺れる。その振動をものともせずにイズが喰蝦蟇の背に向けて一歩踏み出そうとすると、喰蝦蟇がその場で大きく時計回りに回転した。
その瞬間に伸ばされた桜色の舌が鞭の様にしなり、イズへと迫る。
遠心力も追加され速度を上げ続ける鞭へと変貌した舌をイズは右腕で防ごうとするが、その威力の衝撃を相殺し切れず、舌が当たった瞬間左側に吹き飛ばされた。地面を転がる瞬間、ナチとマオはイズから手を離す。このままイズと共に地面を転がれば、イズに踏み潰されナチ達が命を落とす。
ナチとマオは数メートルの距離を転がり、地面に手を着くと後方へと視線を向けた。ナチの遥か後方に転がっていくイズはブラスブルックの石壁に激突して、動きを止めた。その距離、約百メートル弱。
おそらく、転がった拍子にイズに施していた「強化」の属性が付加された符も効果が切れた。符が効力を失った時に感じる独特な虚脱感に似た様な物を感じる。
強化を失ったイズがここまで来るには早くても数秒は掛かる。しかも、まだ体を起こせていないイズがナチ達の下へすぐに駆けつける事は不可能だ。
ナチは舌を口内へと引き戻している喰蝦蟇へと視線を注ぐ。イズが体勢を整え、ナチ達の下へと駆けつけるには最低でも二十秒は掛かる。二十秒もあれば喰蝦蟇がナチ達を殺す事は赤子の首を捻るよりも簡単だ。
だが、それは喰蝦蟇がナチとマオを瞬殺できるだけでナチ達が喰蝦蟇を倒せないという訳ではない。勝利を望むには圧倒的に不利だという状況は変わらない。けれども勝てない訳ではない。
単純な事を言えば、瞬殺される前に瞬殺する。これが出来れば、ナチとマオは勝てる。
ナチは符を三枚取り出した。その全てに属性を付加。「火」と「火」。同じ属性を二つも込める理由。それは単純に基本能力値の底上げ。純粋に威力の増加を追求した結果だ。
「マオ、お願いがあるんだ」
「何?」
戦闘中とは思えない様な穏やかな声。こんな状況だというのに両者は穏健な声を紡ぎ出す。ナチはこれからの作戦を手短に説明。ナチの作戦は単純だ。マオにしてもらいたい役割も単純そのもの。
「余裕だよ、そんなの」
「今日のマオは頼もしいね」
「いつも頼もしいよ。お兄さんが鈍感なんだよ」
「そうだね。……そうかな?」
「そうだよ」
ナチとマオは軽く拳を打ち付け合うと、二人を見下ろす喰蝦蟇へと戦意を向ける。隣に立つマオの呼吸音が聞こえてくる程に静かな戦場。街道を駆け抜けた風が雑草を揺らし、落ちた新緑が宙に舞い上がる。
餌を前にした喰蝦蟇は腕に力を込め、顔をナチ達に向けて突き出している。その姿は餌を目の前に置かれ、延々と待たされている飼い犬の様だった。手に持った符を握り締めていると、背後から音が聞こえてくる。おそらくはイズが立ち上がる音だ。ナチ達にも聞こえているのだから当然、喰蝦蟇にも聞こえている。
その音は喰蝦蟇の注意を一瞬だけ引き付ける。視線が動き、僅かに体がナチ達の後方へと向く。
「マオ!」
マオは頭上に氷の剣を二本、素早く作り上げるとその一本を喰蝦蟇に向けて射出。高速で撃ち出された氷剣は切っ先を喰蝦蟇に向けて、真っ直ぐに飛んでいく。
だが、喰蝦蟇は俊敏な動きで、飛来してくる氷剣を左に跳躍して避ける。が、マオは作り上げたもう一本の氷剣を喰蝦蟇が避けた瞬間に射出。空中に居る喰蝦蟇に氷剣を避ける術は無い。
氷剣は喰蝦蟇の右の眼球に直撃する。と思われた。
ところが喰蝦蟇は大口を開け、長い舌を振り回す事で氷剣を撃墜。無残に砕け散った氷剣は喰蝦蟇の舌に絡め取られていく。喰蝦蟇の口が大きく開いた瞬間、ナチは符を三枚投げ飛ばした。口内へと侵入した三枚の符は食道を通過し、胃に到達。
それを見た瞬間、ナチとマオは同時に口角を上げる。
ナチがマオに頼んだ役割。それは喰蝦蟇の口を開放する事。僅かでも半開きでも大口でもいいから、とにかく口をこじ開けろ、それがナチがマオに伝えた指令。その役割をマオは見事に完遂した。心の中で賛美を送りながら、ナチは霊力を流し『四枚』の符に込めた属性を具象化する。
「火」と「火」の属性を付加した三枚の符。そして、イズが街中で奮闘していた時に先に胃に到達させておいた「大気」の属性を付加した符。その合計四枚の符を同時に具象化。
「マオ、離れるよ」
「うん!」
ナチとマオは喰蝦蟇から距離を取る為に後方へと駆けだした。だが、ナチ達が距離を取ろうとするのを喰蝦蟇が見逃すはずもなく、二人に向けて無数の肉片がこびり付く長い舌が放たれる。唾液が絡んだ舌はマオの背に追い縋ると、彼女の背を舌の先端でなぞる様に舐めた。そのうえ舌がマオに触れた瞬間、さらさらだった唾液は粘性を増し、蜜の様に粘り気のある液体へと変わる。
そのまま舌はマオの左腕から腹へ回り、右腕まで回ろうとする。だが、マオを絡め取ろうとしていた舌は緊張が走ったかのようにピンと伸び、素早く持ち主の下へと戻って行く。
マオはその場に膝を着き、粘液で体中をべとべとにしながらも戻って行く舌をやや恐怖で震える瞳で凝視していた。ナチも舌の動向を目で追い掛けつつ、座り込むマオに手を貸し素早く立ち上がらせる。
舌が戻った先にはマグマを天高くまで轟かせようとする噴火山の様に紅蓮の炎を吐き出している喰蝦蟇の姿があった。
口から漏れ出る炎は地面に伸びる雑草を燃やし、芝を焦がし、茶色い大地を黒へと塗り替えていく。発生し続ける黒煙に覆われ悪魔の様な雰囲気を身に纏い、胃の内容物を吐瀉し続ける様に炎を口から放出し続ける喰蝦蟇の姿は、酔っ払いが酔いと吐き気に任せて胃液を吐き出している姿に近い。
目の前の蛙が炎を吐き続けている理由。それは喰蝦蟇の胃の中に侵入させた、「火」が付加された符によるもの。「火」と「火」の符が合計三枚。それらを三つ組み合わせる事によって、火種が存在せずとも業火灰燼を生み出し、例え胃の中であろうが山火事の様な猛々しい烈火を生み出す事が出来る。
だが、それ程の熱量と火を維持するには大量の酸素を常に供給する必要がある。火が荒々しく燃え上がれば上がるほど、酸素消費量は急激に増していく。しかし、ナチが生み出した烈火を維持する為の膨大な酸素は胃の中には存在せず、供給される事も永遠にない。また呼吸で賄える酸素量では瞬く間に鎮火してしまう。
だから、ナチは火種を維持する為に一枚の符をあらかじめ胃の中に用意しておいたのだ。「大気」の属性を付加した符を先に胃の中へと内包した理由は後から来る火種を絶やさない為。酸素を常に供給し半永久的に炎を燃やし続ける為。
つまり、常に火種に酸素を送り続ける半永久的な酸素供給機関を即興で作り上げた。これでナチが任意で符を解除しない限り、喰蝦蟇の胃の中で炎は猛々しく燃え続ける。
喰蝦蟇は腹の中で燃え続ける火を消そうと、地面をのた打ち回った。腹を叩き付け地面を転がるが、炎は消えない。全ては腹の中で起きているのだから、どれだけ体を動かそうが消えるはずもない。
一瞬の内に緑と茶色が色鮮やかに広がっていた草原は、橙色と赤の対比が美しくも恐ろしい焔と黒煙によって、屍山血河とした悲惨な戦場へと早変わりしている。ナチとマオは燃える喰蝦蟇から距離を取りながら、駆け寄ってきたイズと合流する。骨に異常は無い様だが、それでも右腕や歯には出血の跡が見られた。
イズの怪我を心配しつつ、大炎上と化している草原で地面を転がり回る喰蝦蟇を少し離れた場所から見つめるが、喰蝦蟇が倒れる気配は一向に見られない。
「酷い事をするな、お前は」
「でも、倒せてない」
「もうすぐ倒れるんじゃない?」
「いや、あの程度の火力じゃあ倒せない」
あれでは勝てない。あのままでは炎もいずれ鎮火する。いや、させられる。胃に内包した符が何かの拍子に壊れる可能性が無い訳ではないのだ。
それに喰蝦蟇は胃の中の符を破壊しようとしている様にも見える行動を、繰り返し起こしている。胃に元から内包していた何かが喰蝦蟇が転がった拍子に激突し、砕け散る。それはあり得ない話ではない。割と現実的だ。
それを思えば、胃の中の符を破壊される瞬間はそう遠くない。
「だがどうする? 炎のせいで喰蝦蟇には近付けもせぬぞ」
どうするか、とナチは思考を加速させる。ポケットに入っている符はまだ大量に残っている。それに雑草を引き千切ればすぐに符に変換する事も可能だ。この戦闘において、武器が足りなくなるという事は無い。
だが、何の属性を込める。何を発動すればいい。ナチは喉を大きく鳴らすと目の前の状況を確認する。燃える喰蝦蟇。飛び火した無数の火種。発生し続ける黒煙、可燃性ガス。蛙の胃の中で半永久的に燃え続ける炎。酸素を供給し続ける気流操作の符。
それら全てを結び付ける。連結させ、答えを導き出す為の式を脳内で展開していく。
何ができる。何が起こせる。あの化け物を倒す為に、ナチは何ができる。生み出された案を消去法で消していく。これは駄目。あれも駄目。これも喰蝦蟇には効かない。次々と消しては効果的な案を厳選していく。
そして、厳選された効果的で必勝の案。それに必要な符をナチはポケットから取り出した。全部で七十枚ほどだろうか。ナチはそれら全てに「大気」の属性を付加。それからナチは、それら全てを喰蝦蟇へと放り投げる。そして、霊力をすぐさま放出し属性を具象化させる。
雑草に飛び火した炎も、その中心でのた打ち回っている喰蝦蟇も、全てをドーム状に展開した風の結界に押し込める。だが、それは喰蝦蟇が本気で結界を壊そうと思えば、いつでも壊せる軟弱な壁。ウサギモドキを押し込めた状況とは比べ物にならない程の圧力と威圧感。
急がねばならない。喰蝦蟇がナチの策に気付く前に終わらせる。
「何をする気だ?」
「成功するかは分からないけど、少し試したい事があるんだ」
「成功するよ、大丈夫。お兄さんなら成功する」
マオがナチの背中を叩く。乾いた音が響いた後にナチに宿るは膨れ上がる勇気と必ず成功するという確信。振り払われていく不安から目を逸らし、ナチは指先から霊力を放出する。
ナチは結界内の気流を操作。
ナチは作り出した結界内に新鮮な空気を流し込み、雑草を燃やしている炎の勢いを強め、そして、その燃焼によって生み出される可燃性ガスを結界上部に集めていく。さらに、結界外部に拡散されていた可燃性ガスも全て収集。
生み出された膨大な可燃性ガスを結界内に押し込め、留め続ける。
ナチはポケットから全ての符を取り出した。何枚あるのかは不明だが、少なくとも百枚以上はある。それら全てに「火」の属性を付加し、ナチは結界に向かって投げ飛ばす。
投げ飛ばした瞬間に霊力を放出し、ナチは結界内の酸素供給を停止。
そして、結界内の酸素を猛る炎が火種として生きられる程の酸素量に固定。一瞬にして不完全燃焼を起こし、小さくなる炎。その後に「火」の属性を付加した符が、酸素量の少ない結界内に次々と侵入する。
その瞬間、ナチは固定した酸素量を変更。結界内に大量の酸素を送り込み、火種を再燃させると共に「火」の属性を具象化。燃え上がる火種と新たな火種。
それら全ては送り込まれた大量の酸素によって急速に勢いを増していく。死灰復燃した炎に取り込まれていく新たな火種達。火種を取り込む度に温度と勢いは上昇していき、猛々しく燃え上がる紅蓮の焔は結界内に留まらせておいた膨大な量の可燃性ガスを爆燃させる。
それは本来ならば室内などの密閉空間で起こる、バックドラフトと呼ばれる爆発現象を引き起こす。




