三 入団テスト
「入るよ、お兄さん」
マオの声に足を止め、ナチは一軒の店の前で止まった。ナイフとフォークがバツ印の様に描かれた看板が入り口に設置され、店の壁に沿う様に酒樽が四つ程置かれていた。橙色の蝋燭の光と思われる光が扉の横に設置された二つの窓から覗き見える。
その樽をテーブル代わりにして酒と料理を楽しんでいる客が数人見え、その誰もが仄かに顔を朱に染めている。声も無駄に大きく、挙動も大袈裟だ。先程まで見ていた陰鬱な光景とは反対に、ここは世界から切り離されたかのように明朗快活な雰囲気を宿していた。
「酒場?」
「そそ。入るよー、お兄さん」
扉を開けて迷う事無く中へと入るマオに続いて、ナチも酒場に入った。
入った瞬間に耳を塞ぎたくなる程の喧騒がナチの耳に響く。鼓膜が盛大に揺れ、耳鳴りが一瞬で引き起こされる。ピーっとした音が鳴り、薄い膜が耳の中に張られているかの様な感覚にナチは眉を顰めた。
テーブルを囲んで酒を飲む大男や剣を腰にぶら下げた若者達が机に突っ伏している姿が至る所に存在し、気になる女性を必死に口説き落とそうとしている若人は酒が回りすぎているのかろれつが回らなくなっている。
空腹を促す香ばしい料理の香りと、臭いだけで酔ってしまいそうな強いアルコールの香りに、ナチは耳を押さえつつ右手を上げ、猫の様に手招きしているマオが大声で何やら叫んでいるのを視界に捉えた。
「こっちだよ!」
「……うん」
あまりの喧騒に気後れしながらも、マオの後をついて行く。
マオが向かった先は厨房。小太りで蝶ネクタイをした男性と、赤い長髪をお団子の様に丸め後頭部に括り付けている美しい女性が韋駄天の様な動きで料理や酒を作っては、給仕係の女性を呼びつけている。目まぐるしく動く厨房の光景に圧倒されていると、マオがナチの腕を引っ張った。
ナチとマオは厨房に設置された扉を開き、外へと抜けた。外へ抜けると、そこには石壁に囲まれたかなりの広さを持つ裏庭が存在し、土壌が剥き出しの地面は均された形跡はなく、雑草は伸び放題、落ち葉は大量に地面を埋め尽くしている。
ナチから見れば、符を作る触媒が膨大に転がった宝の裏庭にも見えるが、実情は木造の家屋がぽつんと存在するだけの何とも寂しい裏庭だった。
一階建ての築何十年かも想像できない様なやや風化が見られる家屋を見て、マオは手を美しい流線を描く腰に手を当てる。
「到着だね」
マオに手招きされ、ナチは木造の家屋に近付いてく。家の側面に設置された上げ下げ窓から見えるのは蝋燭の灯り。橙色に包まれた家屋の内側。つまり、ここには人が居るという事になるのだが、ナチは家の一歩手前で急に立ち止まった。
闘気とでも言うのだろうか。もしくは、強烈な存在感と言ってもいい。ビリビリと肌を刺激する存在感にナチは、息を呑んだ。それは先程すれ違ったラミルには感じなかった物だ。
本能的に警戒せざるを得ない人物がこの家屋の内側には居る。この中に居る人物こそが、理不尽な暴力なのではないか、と疑わずにはいられなかった。
「どうしたの?」
急に立ち止まったナチを、マオが怪訝そうな顔で覗く。そんな彼女を気にせずにナチは地面に落ちていた葉を一枚拾った。それを符に変換し、属性を付加する。その光景を見ていたマオが眉を顰める。不快感を露わにし、眉がつり上がったのが見えた。
「止めた方が良いよ? お兄さん」
「使う必要が無いと良いんだけどね」
彼女とはまだ初対面。出会って数時間の薄い間柄。まだマオを完全に信用はした訳ではないのだ。ここに誘い込まれた可能性を完全に否定できるまでは、武器を持っておいた方がいい。
ナチの行動に納得できないのか、唇を尖らせるマオは家屋の扉を開き、中へと入っていった。入る直前にナチを振り返る。家屋に消えていく直前、挑戦的な笑みがナチへと向けられる。
一度大きく深呼吸し、ナチは覚悟を決める。作ったばかりの符を左手で握り込むと、扉を潜った。
家屋に入ってまず目に入ったのは燭台だ。白い陶器で出来た小皿の様な形をした燭台。そこに乗せられた蝋燭がナチの出現に灯す焔を僅かに揺らす。それは歓迎の乱舞か、拒絶の表明か。
燃える様な朱に染まっていた夕景は酒場にたどり着く間に濃紺に染まり、宝石のように煌めく星々と燦然と輝く満月が鎮座する夜闇がウォルケンに夜の帳を下ろしていた。夜の闇を照らすには蝋燭の灯りだけでは、少し薄暗い。特に家屋を照らすには蝋燭一本だけでは役不足だ。
だからか、ナチは右側に人が立っている事に気付かなかった。
「よう、初めましてだな」
突然、発せられた声に体を震わせ、ナチは反射的に左側へ跳んだ。心臓が爆発したかのように激しく鼓動を刻み、視神経が焼き切れんばかりに眼球を右側に高速で移動させる。動揺が大きすぎるのか、背中に感じる蝋燭の熱の事など気にもならなかった。
緑色の逆立った短髪。右の頬に付いた一文字傷は赤黒く変色しており、完治の兆しを見る事は叶わない。また脳まで筋肉で出来ているのではないか、と思う程に分厚い筋肉の鎧に全身を包み、腕の太さだけで言えばナチの二倍か三倍はある。
休日の父親の様なラフな装いで佇む男性が、ナチを見て無邪気な子供の様に屈託のない笑みを浮かべる。一見すると精悍な顔つきをした強面な男性ではあるが、口調や声質、柔和な表情のおかげか穏和な雰囲気を感じられた。
「あなたは?」
「俺はサリス。ウォルフ・サリのリーダーだ。それで、お前こそ誰だ? まさか、マオの彼氏じゃないだろうな?」
凄味ながら言うサリスに、ナチは思わず背筋を正した。なぜ婿入り前の彼氏の様な行動をとったのかはナチにも分からない。そして、ウォルフ・サリとは一体何だろうか。何かの集団の総称七日、内心で首を傾げつつ、ナチはきっぱりと否定する。
「違う」
「違うよー」
特に慌てる様子も無く、二人は同じ意味合いの言葉を口にした。それを見てがっくりとうな垂れるサリスはゴツゴツとした堅硬そうな拳をナチに向けた。ナチの拳よりも遥かに大きい拳。赤子とゴリラほどの差はあるだろう。
「何だ、つまらん。もし、お前が彼氏だったらボッコボコにしてやったのに」
「父親?」
「それも違う」
では、この二人の関係性は何なのだろうか。うら若い少女と中年男性の恋か、と訝しみつつナチは離れて行くサリスの拳を見つめた。
「それで、お前は何をしに来たんだ?」
退屈そうな響きをたっぷりと含ませてサリスは言った。表情にも声と同様の感情が表れている。マオは両手を背中で組むと壁にもたれ掛かり、楽しそうにナチとサリスのやり取りを諦観している。彼女はどうやら口を挟むつもりは無いらしい。彼女の笑顔の裏にそう書いてある。
ナチはサリスに淡々とウォルケンに連れて来られた理由を告げる。
「ラミルを倒す為にここに連れて来られたんだ」
「ラミルを? お前がか?」
ナチが頷くと、体を小刻みに振動させ笑いを噛み締めていたサリスが大声で笑い出す。腹を抱え、それこそ地面に顔を着ける勢いで腰を屈めている。顔を真っ赤にして笑っているサリスを見て、ナチは冷笑を浮かべ、マオは呆然としていた。
一頻り笑った後、サリスは急に真面目な顔つきになり、ナチの肩を叩いた。近付いて来るサリスの顔。無理矢理に重ねられる視線。彼の瞳に浮かぶ冷ややかな感情にナチは人知れず息を呑んだ。
「無理だ、無理。お前みたいなヒョロいやつには無理だ。諦めて田舎にでも帰るんだな」
「ラミルには勝てないかもしれないけど、お兄さんは強いよ」
サリスの背後で言ったマオの言葉に感化されてか、サリスはナチの全身を俯瞰的に見る。事細かに見なくとも意見は変わらないと告げるかのように視線は動かない。
「ハッキリと言わせてもらうが、俺にはそうは思えない。お前がラミルに勝てるとは思えない」
本当にそう思っているのだろう。淡々と紡がれた言葉に、向けられる視線に虚偽は混じっていない。曇り無き眼でナチを見て、ナチはラミルに勝てないと感じた。彼が口にしたのはただの本心だ。
だが、ナチにも世界を渡り歩いて実力を上げてきた経験がある。それに伴う実績もある。それに付随する形で自信も持ち合わせている。弱いと罵られるのはそれなりに悔しいし、腹が立つ。
ナチは自身よりも上背が高いサリスを敵意を込めて見上げる。微笑みもしない。不敵な笑みなど必要ない。告げるのは言葉だけで十分だ。
「やってみないと分からないと思うけど。何もせずに引き籠ってるサリスより強いよ、僕は」
一瞬、驚いた後にサリスは笑った。サリスは後方に置いてあった木製の丸椅子に座ると、その横に置かれている樽に肘を着く。
「ならば、入団テストをしてやろう」
「別にいらな」
「明日の日が出る頃に、またここに来い」
「だから、別にそんなのいら」
「マオ、宿に案内してやれ」
「ほーい」
ナチの意思など全て無視され、ナチはウォルフ・サリと呼ばれる謎の集団に入る為のテストを受けることが決定した。否定する権利は既にナチから離れ、サリスはもう聞く耳を持たないと言わんばかりに大欠伸を掻いている。
半ば強引にナチはマオに腕を引っ張られ、ナチは家屋を出た。月明かりが幻想的に差し込む裏庭に出る。
賑やかな喧騒は終わり、星空に吹き荒れる夜風だけが裏庭を支配している。裏庭を囲む塀外に生える落葉樹が冷気を伴い始めた風に揺れ、葉が擦れる音を裏庭に運ぶ。その風は裏庭に積もった落ち葉を翻し、ナチの男性にしては長い髪の毛を右から左に靡かせた。
「じゃあ、宿行こうか」
「僕、お金持ってないよ」
「……え? 何で? 今までどうやって生きてきたの?」
「…………野宿?」
「私が聞いてるんだけど……。まあいいや」
ちょっと待ってて、と言い、再度家屋へと入っていくマオを見送るとナチは夜空を仰いだ。夜空を彩る、無数に煌めく星が切り離された異世界と重なって見える。生命線を切り離され、真黒な虚空に消えていった無限の世界。死を理不尽に押し付けられた憐れな世界。
この世界はまだ大丈夫だ。星が見える。月が見える。太陽がある。空がある。この世界がまだ生きている証拠だ。世界樹と繋がっている証明。
この世界はまだ生きている。この世界ともう一つ。二つの世界だけがまだ生かされている。どうして二つの世界だけが生かされているのか。他の世界は躊躇なく切り離したというのに、どうして二つだけ残す必要があったのか。
分からない。何もかも。これからどうすればいいのかも。何をすれば世界は元に戻る。そもそもどうやって世界樹に戻る。鍵は失われた。ここに居るのはナチ一人だけであり、ナチ一人では世界樹に戻れない。それは自明の理であり、覆せない摂理でもある。
これからナチが探さなくてはならないのは、世界を救う為の力を持った存在と、この世界から脱出する為に必要な鍵。もしくはそれにきわめて類似した能力を持った異能。探し当てられるかどうかは別として、存在しないとは言い切れないのは、世界を渡り歩いて学んだ事の一つ。
探してみないと存在しないかどうかは断言する事は出来ない。一年という長い様で短い時間しか残されていないが、それでも一年という時間は用意されている。その時間の中で最善を尽くすしかない。
ナチは左手に握り締め続けていた符をポケットにしまうと、背後で扉が開いた音を聞いた。小さな麻袋を片手に持ったマオがそれを顔の前でぶんぶんと振り、硬貨が擦れる音とマオの幼くも美しい声が混ざり合い、裏庭に滲みる様に体に響き渡っていった。
ナチを宿へと送り届け、再び酒場の裏庭に立ったマオは、真っ直ぐにウォルフ・サリの家屋へと向かった。深夜だというのに、未だに灯りが点いている。しかも、話し声が聞こえるという事は、サリスの他に誰かいるのだろう。
誰が居るかは、深く考えなくとも分かるが。
マオは扉を開けて、家屋へと入った。
中に居るのは、マオとサリス。そして、もう二人。
茶髪の髪を無造作に伸ばし、髪と同色の瞳を控えめにマオへと向ける少年と、酒場の厨房で働いていた赤い髪の女性。合計四人の人間が小屋には居た。
「何か、入団テストとかいう訳分からない事するって聞いたけど?」
赤髪の女性が呆れた口調で言った。サリスを蔑む様な目つきで見つめる赤髪の女性に、サリスは拗ねた様に唇を尖らせる。
「仕方が無いだろ。あいつが生意気な事言うから」
「そんな子供みたいな事言って。入団テストも何も、そんなのした事ないくせに」
「来るもの拒まずが、ウォルフ・サリのモットーだもんね」
ケラケラと笑いながら、マオが言った。ウォルフ・サリなんて大層な名前が付いてはいるが、実際は所謂、何でも屋だ。街の清掃やペット、紛失物の捜索。毎日そんな雑用をこなし、たまに森に棲む悪性生物の住処の破壊などの大きな仕事が来る。
とは言っても夜は基本的に暇になり、酒場の手伝いをこなす。そんな毎日。そんな地味な仕事ばかりをこなしているウォルフ・サリに働きたいと志願してくる者が現れる訳もない。そもそも、人なんて本当は募集していないのだから、来るはずもない。
「だから、明日初のテストをする。マンネリ化は良くないからな」
赤髪の女性がこめかみを押さえながら、溜息を吐く。そして、一度大きく息を吸った後、二回目の溜息を吐いてから赤髪の女性は口を開いた。
「……それで? テストって何するの?」
「あいつのお人好し度をテストする」
サリスは茶髪の少年の肩を叩いた。
「リル。明日の朝、あいつがここに来る前に誰かと喧嘩して来い。派手にな」
リルと呼ばれた少年は絶句する。涙目でサリスを見つめ、首を横に勢いよく振った。
「駄目に決まってるでしょ。テストならサリスと戦えばいいでしょ?」
「俺と戦っても俺が勝つんだから、意味ないだろ」
「そうかもしれないけど」
「リル。どうする? やるか?」
名前を呼ばれたリルは体をビクッと震わせながら、視線を彷徨わせた。ひ弱な小動物の様に涙を浮かべている茶色の瞳はどうみても拒否を訴えている。無理だ、と如実に訴えている。だが、宙を泳ぐ視線がある一点で止まる。マオだ。マオを一度見て、すぐに視線を逸らす。
それから、しばらく考え込むとリルは首を縦に振った。
「僕、やるよ」
「よく言った、リル。それでこそ、男だ」
「良いの? この街に手加減してくれるお人好しなんていないのよ?」
「危なくなったら俺が助けてやる。それに、俺が助けなくても、あいつがどうせ助けるだろ。見るからにお人好しだしな」
「それが見たいが為にリルに喧嘩しろ、って言ってるんじゃないでしょうね?」
「それが見たいだけでしょ」
マオがすかさず言葉を挟む。どう考えたってナチにリルを助けさせようとしているではないか。どうせ自分は何もしないくせに、とマオが内心で毒づいていると、不意にリルと視線が重なった。彼は忙しなく瞬きすると、不自然にマオから視線を外し、顔を赤らめていた。
「シャミア。お前、少しリルに対して過保護すぎるぞ。リルがやるって言ってるんだから、良いんだよ。なあ、リル?」
「うん。シャミア大丈夫だよ」
「それを言われちゃうともう止めれないじゃない」
シャミアが盛大に溜息を吐きながら、リルに近付いていく。「いい? 危なくなったら逃げるのよ?」と母親みたいな事を言いながら、リルの肩に手を置いた。
リルは二回程、首を縦に頷かせる。もう顔は茹で上がってはいない。
「マオ。お前はあいつを誘導する係だ。ちゃんと誘導しろよ?」
「了解しました」
マオは丸椅子の上に腰を下ろしながら、笑顔で言った。
「それじゃあ今日はもう解散。無駄な早起きだわ……」
シャミアの嘆きに苦笑を漏らしながら、全員が家屋を後にした。




