表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
39/233

十八 喰蝦蟇

 街へと戻る頃には日は完全に昇り、始業の始まりを告げる鐘がブラスブルックに響き渡る。どこで鳴らしているのだろうか、などと思いながらブラスブルックから少し離れた場所に存在する、小さな池の前でナチ達は腰を落ち着けていた。


 クィルとイズが街の住人達に見られては困るだろう、とこの場にナチ達を下ろしたのだ。昨日、守衛に姿を見られているのだから、あまり意味は無い様な気もしたが、それでも心優しい獣の気遣いは有り難く受け取っておくべきだろう。


「街まで送ってあげられなくてごめんね」


「気にしないでください、クィル」


「そうだよ。気にしないでよ、クィル」


 シロメリアとネルがクィルの右腕を擦りながらクィルを宥めていると、池の水を飲んでいたイズが唐突に顔を上げる。ボタボタと毛に着いた水が池に落下し、その度に水面に波紋が広がる。


 ナチがその波紋を無感動に眺めていると、突然マオに袖を引っ張られ、視線は半ば強制的にマオへと向けられる。


「どうしたの?」


 マオはナチには視線を向けず、ある一定の方向へと視線を注いでいた。いや、イズも同じだ。マオと同じ方向へと視線を向けている。シロメリアもネルもクィルも。ナチ以外の全員が同じ方向へ体ごと顔を向けている。


「お兄さん、あれ」


 マオが指を指した方向へとナチは懐疑的な感情を抱きつつ視線を傾けていく。ゆっくりと視線を動かしていると、重々しい旋律を奏でていた鐘の音が不自然に途切れ、音が途切れたのと同時にナチの視線はマオの指が指し示す方向を視認する。


 マオが指差していたのはブラスブルックの街。細かく言えば、ブラスブルックの中央にそびえ立つ大樹をマオは指差していた。


「あれは……」


 大樹の先端にマオが指し示す「あれ」は存在した。傘の様に広がる広漠な樹冠の上で、玉座に座る王の様に荘厳に佇む黄土色の存在。あれは蛙だ。巨大な蛙。巨大な大樹と比較しても見劣りしない程の体格に、視界に捉えた瞬間に全身が嫌悪を示す程の気色悪さを漂わせる黄色の蛙は樹冠の上からブラスブルックに、熱情的な視線を向けていた。


 あの蛙の正体はナチには分からない。マオとネルもナチと同様に巨大な蛙を見て、驚愕してはいるが頭上に疑問符を並べ、二人で未知の生物に関する情報交換を行い始めている。意外な事にシロメリアとクィルもナチ達と同じ反応を見せていた。首を傾げ、未知の生物に対して困惑している様だった。


 そして、最後にイズへと視線を向けると、そこでイズの豹変に気付いた。


 ナチの右隣で茫然とブラスブルックを見ていたはずのイズの体がハッキリと振動しているのが分かった。怨嗟に支配されたかのように鋭さを宿す赤い双眸。顎に力が入り、歯が砕ける予兆の様な音が聞こえてくる。


「イズ?」


「あれは……五十年前のブラスブルックに災厄をもたらし、我が夫の命を犠牲にして、この地から追い払った人食い蛙。(しょく)蝦蟇(がま)だ」


 強い怒気が込められたイズの言葉は終始震えを見せ、彼女の肉体は時間の経過と共に振動を増していく。込み上げてくる怒りの制御は完全に失われ、怒り、憎しみ、恨み、胸中を渦巻く負の感情に取り込まれそうになっているようでもあった。


「あれが本物の悪魔って事?」


「そうだ。幼い子供が行方不明になった怪奇現象。その全てが喰蝦蟇の仕業だ。奴が子供達を喰らっておったのだ。あれのせいでクィルも、我が夫も、シロメリアも」


「喰蝦蟇……。蛙……」


 クィルに会いに行く為に、森へ向かった時、ナチは不思議な液体を発見した。蜂蜜の様な粘性を持っていたはずの液体が、ナチが触れ、僅かな時間が経過した後、水の様にさらさらになった液体。


 そして、科学が発達した世界でナチは、一度だけだが耳にした事がある。


 蛙の唾液は、最初は水の様にさらさらで、獲物を捕らえた瞬間、粘性が変化し蜂蜜よりも粘度が高い物へと変化。そして、獲物と共に舌が口内へと戻った瞬間、再び水の様にさらさらな液体へと戻る。蛙の唾液は粘度が一定では無く変化する流体。非ニュートン流体だという事に。


 もし、あの大樹の上で鎮座する蛙が異世界の蛙と同じ特性を持ち合わせているとすれば、あの液体を零したのは喰蝦蟇の可能性が高くなる。だが、森に戻ったのが昨日だというのならば、何故イズが気付かなかったのだろうか。彼女は聴覚に優れていると自身で豪語していた。


 あれほどの巨躯を誇る蛙が歩行もしくは移動すれば、その足音は人間の足音の比じゃないはず。むしろ気付かない方が不自然だ。だが、イズもクィルも喰蝦蟇の存在には気付かなかった。たった今、喰蝦蟇の帰還に気付いたというのは二人の反応を見れば一目瞭然であり、演技をしている様にも思えない。


 でも、どうして……?


「でも、イズさんが追い払ったんでしょ?」


「ああ、間違いない。間違いないが、この地に帰って来ぬ、という保証は無いのだ。それに別の固体という場合もある」


「どうする? シロメリアさんは今ブラスブルックには居ない。クィルの封印も解けた。あの街を助ける理由は無いけど」


 ナチは大樹の上で動きを見せない喰蝦蟇に視線を固定したまま、言った。


「お兄さん!」


 マオの怒りに満ちた声が響く。ナチはそれには取り合わず、イズへと視線を向け続ける。


「馬鹿者。あの街はシロメリアとネルが暮らしておる街だ。それだけで助ける理由になり得る」


「そっか。なら、今度こそ災厄を払わないとね」


「何を考えておる?」


「喰蝦蟇を殺す」


 その場にいた全員が、ナチへと視線を向けた。


「出来るのか。我に臆していたお前が」


「それは言わない約束でしょ?」


「そんな約束を交わした覚えはない」


 ちょっとイズちゃん? と内心で唇を尖らせつつ、ナチは喰蝦蟇を捉える。運が良い事に樹冠の上で静止し続けている喰蝦蟇を。だが、それも時間の問題だ。


「……まあ殺すつもりで戦おうって事だよ」


「何だその脆弱な覚悟は」


「僕は殺すつもりだって」


「……まあよい。まず我とナチ、マオの三人で喰蝦蟇を街から引き離す。我等が喰蝦蟇を街から引き離した後、クィル。お前はシロメリアとネルを連れて、ブラスブルックに戻れ」


「どうして? 僕も戦うよ」


「お前は二人と街を守れ。相手は喰蝦蟇だ。我等もどうなるのか分からぬ。我等が敗れた時は、お前が街を守れ」


 クィルがイズに向かって一歩踏み出す。クィルはイズに反抗の意を示そうとして一瞬大口を開けようとしたが、そぐにそれを飲み込んだ。


「……大丈夫。お母さんは負けない。僕のお母さんは無敵なんだ。だから、絶対に負けない」


「馬鹿者。世の中に絶対は無いのだ。だがまあ……お前が無敵だと言うのなら、我は無敵なのだろう」


 ナチとマオはイズの物言いに苦笑し、お互いに「素直じゃないなあ」と口にした。それを聞いたイズは恥ずかし気に耳を掻くと、ナチとマオの前に首を差し出した


「行くぞ。まずは、喰蝦蟇をブラスブルックから引き摺り出す」


「うん」


「任せてよ」


 ナチとマオは差し出されたイズの首に足を掛け、そのまま背に乗った。前屈みになると同時に毛を掴み、大樹の上でまだ動きを見せない喰蝦蟇に視線を固定する。


「皆さん。気を付けて」


「マオ。やるからには本気でね。派手にぶっ飛ばしておいで」


「お母さんのこと頼むね、ナチ」


 ナチは無言で頷き、マオはネルに見える様に拳を握りしめた。ナチは上着のポケットから符を五枚、取り出すとそれを幾重にも破った。破り終えた符は、数にして数百枚。これだけあれば、戦闘中に符切れを起こす事は無いだろう。


「行こう!」


 ナチとマオを背に乗せたイズは、小さく首を頷かせると、ブラスブルックへ向かって全速力で駆けだした。




「イズさん! 喰蝦蟇が」


 イズが走り出した瞬間、行動を開始する喰蝦蟇。ゆっくりと動き出す四肢が徐々に前に踏み出される。大樹が揺れ、葉と枝が無数に街に落下していくのが遠目からでも見て取れる。


 それを嘲笑うかのように喰蝦蟇の頬が巨大な飴玉を両頬に口にしたのではないか、と思う程に膨らみ、体をブラスブルックへと向けている。もう時間はあまり残されてはいない。


「イズ! 急いで!」


 ナチは気付けば声を張り上げていた。


 捕食の時間はもう始まろうとしている。間に合うか、とナチが懸念し始めると同時にイズは速度を上げる。


 街はもうすぐそこにあるのに、景色は常に高速で流れているのに、砂漠で見る蜃気楼の様にちっとも距離が縮んでいないかの様に見えた。それがナチの焦燥を助長させ、天然の温泉に浸かったかのように大量の汗が全身を濡らしていく。


 符を五枚取り出すとナチはそれに属性を付加し、イズの四肢と背に投げ飛ばし張り付けた。


 符に付加した属性は全て「強化」。ナチは霊力を放出し、属性を具象化。イズの全身に人の身では御せない剛力が宿る。一瞬、全身の毛が逆立ち、電気が走ったかのように筋肉が振動したのが背中で振り落とされまいとしているナチの所にまで伝播してくる。


「何をしたのか知らぬが、しっかりと捕まっておれ! 振り落とされても拾ってはやれぬからな」


 背に乗る二人はイズの言葉通りに毛を力強く握った。その瞬間にイズの速度は格段に上昇し流れてく景色が急速に加速。また速度の上昇と比例して跳ね上がった風圧に二人の上着が翻り、前髪が後方へ流れて行く。


 ナチが「強化」を使用する場合、約十秒の制限が設けられる。それはナチが「強化」の属性に耐え得るだけの肉体を持っていないからだ。だが、それも「強化」に耐える事が可能な土台が存在すれば、話は転換する。


 人よりも遥かに丈夫で強靭な肉体を有し、巨大な肉体に相応しい膂力を持ち合わせているイズに「強化」の制限時間が設けられることは無い。


 超高速で流れ始める風景。その流れ続ける景色の中で、一つの光景がナチ達の前に映し出される。


 宙に浮かぶ黄土色。頬を膨らまし、両手を大きく広げた喰蝦蟇が街へ勢いよく落下していくのを。体が重いせいか、とてつもなく速い落下速度で落ちていく喰蝦蟇は着地と共に街の何かを破壊した。


 何かが壊れる破砕音。それが何なのかを判明する事は叶わないが、それが鳴り響いた瞬間、甲高い悲鳴が次々に上がる。その阿鼻叫喚は徐々に増え始め、やがて衝撃音の様な爆音へと変わっていく。


 悲鳴が上がるのと同時にイズはブラスブルックを囲む石壁を跳び越えた。朝日が差し込む路地を逃げ惑う人々。泣き叫び、我先に街の外へと向かう人々はイズの出現に先程までとは別種の悲鳴を上げ、一瞬の内に阿鼻叫喚へと戻る。


 路地は大勢の人で溢れ返っており、足の踏み場も無いようなこの状況では迂闊にイズは身動きを取れない。街に侵入した瞬間にイズは立ち往生を余儀なくされ、喰蝦蟇の暴挙を黙認し続けるという最悪の状況が生まれようとしていた。


 重ねて喰蝦蟇とイズ。真の悪魔と偽の悪魔が同時に出揃った事で街は恐怖と混乱に包まれていく。


 それが更に、イズの動きを妨げる要因になっていく。


 身動きが取れなくなっているイズとは裏腹に必死の形相で街の出口に向かって走り去っていく住民達に対してナチとマオが道の開放を呼び掛けるが、それらは悲鳴と絶叫に飲み込まれて無残にも掻き消されていく。仕方が無い、とナチが符を取り出し道を開こうとした瞬間、イズが阿鼻叫喚に勝る声で吠えた。


「邪魔だ! 道を開けろ!」


 遥か遠方まで通る凛々しい声。広範囲にまで及ぶ音の爆弾は街の人々に間違いなく届いた。その証拠に街の人々はぴたりと動きを止め「悪魔が喋った……」などと、緊張感の無い事を口走っている者が現れる始末。


 そしてそれは大樹の下で長い桜色の舌を振り回し、破壊活動に勤しんでいる喰蝦蟇にも届いている。動きを止める喰蝦蟇。巨大な紫の双眸が、ぎょろりとナチ達へと向けられ頬が大きく膨らんだ。


 視線が重なった瞬間に射竦められる程に肩に圧し掛かる重圧。心臓を握られ鼓動を制御されているかの様に苦しくなる呼吸。背中の毛が一斉に逆立ち、そこを伝う汗は枚挙に暇がない。ナチは巨大な黄土色の蛙をハッキリと視界に捉えると、符を力強く握った。


 体中に出来た発疹の様な膨らみは生命を宿しているかの様に胎動し、肉付きが良さそうに見える腹部とは裏腹に水掻きが付いた四肢は分厚い筋肉で包まれ、春の訪れを彷彿とさせる桜色の舌は肉片と瓦礫を大量に付着させ殺伐とした色調へと変貌してしまっている。


 ナチが予想した通り、イズとほぼ同じ大きさの肉体を有する喰蝦蟇。イズの背に乗っている事もあり、喰蝦蟇の視線が真っ直ぐにぶつかり、真っ直ぐにぶつけ返す。


「お前達は街の中に居ろ! 喰蝦蟇は我等が何とかしてやる」


「だが、お前は」


 この期に及んでも、悪魔という固定概念に囚われているのか、こいつらは、とナチは符を取り出し、イズの肩に足を乗せ、立ち上がった。路地に居る全ての人間を見下ろし、符を住人達に向ける。


「死にたいんですか、あなた達は?」


「死にたくはないが、そいつは悪魔で」


「現実を見てください! 今、あなた達に危害を加えているのはどちらですか? 今、あなた達の平穏を壊しているのはどちらですか? あなた達を救ってくれるのは一体どちらなのか、良く考えてください!」


「もうよい、ナチ。我は信用してもらう為に来た訳ではない。勝手に助けて、勝手に救って、それで終わりだ。こやつらが我の事をどう思っていようが、我は勝手にやる。死にたくない者は道を開けろ! 退かない者は踏み殺す!」


 冷たい声色に潜んだ優しさがブラスブルックに虚しく響く。ナチは歯を食いしばると再び背に戻り、毛を掴んだ。悔しさからイズの毛を掴む力が無意識に強くなる。


 結局、ナチに人の意思は変えられない。鉄壁の壁に貧弱な刃をぶつけても刃こぼれするだけなのと同じ。強固に結びついた固定概念を解く事は出来はしない。余所者のナチの言葉では、この街の人々には届かない。


「…………道を開けて」


 声が聞こえて来た。小さな声だが、誰かの声が不穏な静寂に包まれている路地に響き渡る。ナチは顔を上げ、声がした方へと振り返った。


 そこに居たのはコルノンだ。コルノンが震えた唇で、恐怖で怯えた瞳を彷徨わせ、目尻には一杯の涙を溜め、声を上げていた。恐怖を押し殺して上げた声はとても小さな声だった。だが、それでも彼の勇気はハッキリと伝わってくる。小さな小さな勇気の種が、確かに伝わってくる。


「……わ、私はこの二人に助けられました。私はこの二人に救われました。だ、だから、この二人が信用するこの人も信用できます! どうか、道を開けてください!」


 震えた声が路地に響く。それはほとんど、泣き声の様だった。何度も何度も、コルノンは声を引き絞る。上ずった声で、喉が枯れるまで叫び続けた。そして、縋る様に引き出された勇気ある声は街の人々を少しずつ動かしていく。


 路地の端に寄っていく、人々。


「全員、端に寄れ! 家の中には逃げるなよ!」


「道を開けろ! どうせ、街の中も外も危険なんだ! この人達に賭けてみよう」


 その声に従って、端に寄っていく人々。出来上がっていく喰蝦蟇へと通ずる道。黙って、その光景を目にしていると一人の男性がナチ達へと歩み寄って来る。


 コルノンだ。


「僕達はもう逃げる事しか出来ません。逃げた所で安全なのかどうかも分かりません。どうせ何をしても危険なら、私はナチさん達に賭けます」


「コルノンさん……」


 ナチが驚きで言葉を告げられないでいると、マオが右手で自身の胸を叩いた。どす、と鈍い音がすぐ隣から聞こえてくる。


「任せてください! 私達が必ず救って見せます」


 マオは歴戦の勇者の様な勇ましさを表情に宿しながら言った。その口調はどこか頼もしい。ナチは無言で頷き、視線を喰蝦蟇へと移す。出来上がった道の先に居る喰蝦蟇は頬を一定速度で膨らませ、イズを凝視している。


「準備はいいな?」


「もちろん!」


「いつでもどうぞ」


「行くぞ!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ