十七 心に巣食う弱虫
そう言えばそうだったかもしれない、と思いながら、ナチが瞼を上げると、何故かナチは囲まれていた。マオとネル、クィルがナチを見下ろしている。マオの手がナチの鼻に伸び、ネルの両手は両目に向かっている。
それを静かに見つめるイズ。
イタズラ小僧の様な悪い笑みを浮かべながら、ナチへと魔手を伸ばすマオとネルは、ナチが目を開けた事で静かに手を戻し、笑顔を浮かべた。そして、静かに立ち上がると、マオとネルは空を見上げた。
「星が綺麗だね、ネル」
「こんな幻想的な夜に感謝だね、マオ」
二人は肩を抱き合い恍惚な表情を浮かべ、頬を赤らめている。艶めかしい官能的な瞳でお互いを見つめ合い、月光を吸って神秘的な輝きを放つ二人の美しい髪が夜風に煽られて翻る。
「おい、誤魔化すな」
ナチが体を起こそうとすると、イズが静かに手でナチの体を制した。再び地面に密着した背中から、冷たい土壌の感覚が伝わってくる。
「お前はゆっくり寝ていろ。その時が来たら起こしてやる」
「本当に? 置いて行かれる気がしてならないんだけど」
「本当だ。我はそんな幼稚な事はせぬ」
何処かしおらしいイズを見て、ナチは首を傾げる。
「どうしたの? 何かあった?」
「……ネルから聞いたぞ。お前は昼間、クィルを助けたそうだな」
ああその事か、とナチは冷たい土壌がナチの体温によって少し温くなったのを感じながら、イズに視線を送る。
「助けたっていうかシロメリアさんに助けてって言われたから」
「それでも、お前は助けたのだろう?」
「結果的には、そういう事になるのかな」
「その後に住民達と一悶着あったと聞いたが?」
「あったかも」
「あったかもって……お前は阿呆なのか? どうして、得体の知れぬ獣の味方などをした? 人の世で生きるお前にとって、利口な行動ではないと分かっておったのだろう?」
「そう言われてもなあ。僕にクィルを殺さなくちゃならない理由は無いし、噂とか迷信だけで人の本質を決めつけるのは少し嫌だ、というか」
「それがクィルを助けた理由か?」
「かもしれない。だって、クィルは悪魔だって呼ばれてる割には人を襲わないし、無抵抗だった。見聞きした話と現実の齟齬があまりに酷いから、ずっと疑問だったんだよ。疑問がある内は悪魔だって断定は出来ないよ」
「……おかしな男だな、お前は。まあ、お前がおかしいおかげでクィルは助かった訳だが」
「僕のおかしさに感謝だね」
「そうだな」
急に優しくされると何故か怖くなるな、と思いながら、ナチはイズを見た。遥か遠くの景色を見つめるイズはナチの視線に気付くと、少し不機嫌な雰囲気を醸しながらナチへと顔を近付けた。
「何だ? 人の顔をジロジロと見て?」
「イズは優しいね」
「下らない事を言っていないで、疲れているならさっさと寝ろ」
「まだ大丈夫だよ。確かに今日は戦闘続きで疲れてはいるけど、イズが気にしなくても大丈夫」
「我は気にしてなどおらぬわ、馬鹿者」
照れと怒りが混在した声を発した後に再びどこか遠くを見つめるイズを見て、ナチは声を上げて笑った。本当に優しい獣だ、と思う。イズがナチに対して急に優しくなった理由はネルやマオから色々と耳にしたからだろう。日中に行っていたマオとの特訓や騒動も全て。
その後に起きたイズとの戦闘を加味しても、ナチは相当疲弊しているとイズは思ったのかもしれない。
少しだけマオと似ているな、と思う。口調などは全く違うが、本質的にはマオと少し似ている気がする。脳筋な所も、優しさをあまり見せたがらない所も、意地っ張りな所も。
それにマオとイズの会話を聞いていると馬が合っているのか、話しが弾んでいる様にも思う。やはり、本質は似ているのかもしれない。
「イズは五十年間、この森で待っていたの?」
イズはすぐには答えなかった。丘を吹く風だけがナチの耳に届き、静寂がより一層強調される。この丘から誰も居なくなってしまったのではないか、と錯覚する程の寂れた空気にナチの心臓は嫌な高鳴りを増す。
それから数分が経った後、星が右から左に流れて行った瞬間を目にした時にイズは口を開いた。
「ブラスブルックの子供らが行方不明になったという怪奇現象。それは紛れもない事実だ。クィルを贄にして、不安を断ち切ったのはよいが、原因を断ち切った訳ではない。原因はほったらかしだったのだ」
そうだった。イズに言われてハッとなり、気付く。子供達が行方不明になった怪奇現象。これは、クィルが封印される前から起きていた事で犯人はクィルではない。クィルは住人達の不安を断ち切る為に用意された傀儡。つまり、真犯人は別にいたという事になる。
「当然だが、クィルを封印した事で街は仮初めの平穏を取り戻した。その翌日には子供が外で遊ぶようになり、親達も悪魔の災厄は終わったと妄信しておった。だが、原因は取り除かれてはおらぬ。災厄が潜む屋外で子供が遊んでおれば何が起こるのかは想像しがたくはなかろう?」
「子供が再び行方不明になる」
「そうだ。その翌日、一人の子供が行方不明になった」
ナチは首を傾げた。それだと少しおかしい。頭に浮かんだ具体性を持たない様々な疑問を連結させていき、それを言葉にする為に脳内で思考を加速させる。そしてたどり着く。
「それだとクィルは悪魔じゃないって証明になるんじゃないの? クィルが無実だって証明しているようなものだ」
「我も最初はそう思ったさ。だが、ワドルフがそうはさせなかった。封印が不完全だった、とワドルフが口にすれば、住民達は何の疑いも無しにそれを信じ、平和は破られてはいなかったのだと錯覚した。あれはまるで催眠だ」
話を聞く限りでは、ワドルフが住民達を巧みに騙し、疑似的な平和を維持させていた様にしか聞こえない。が、やはり所詮は疑似的な平和。本物ではない以上、どこかで綻びが生まれる。
「でも、原因は払われていないんだよね? その後も子供の失踪は続いたんじゃないの?」
「いや、続かなかったのだ。理由は分からぬが、それ以上の行方不明者は出なかった。子供達が行方不明になる事も無く、街には平和が戻り、原因不明の平和は始まりを告げたのだ」
「え? どういう事?」
「まあ、最後まで聞け。ブラスブルックは今でこそ暖かいが、やがて寒い時期がやってくる。我等は違うが、寒い時期になると暖かい時期がやってくるまで眠りに着く生物がおるのだ。そして、クィルが封印された時、気温は冷えつつあった」
「本当の災厄は丁度、眠りに着いたって事だね」
イズは「そういう事だ」と醒めた口調で言いながら、天を仰いだ。赤い双眸に映る星の煌めきが幻想的に見えないのはナチの心が沈みつつあるからか。それとも、真実を聞いた事で混乱しているからなのか。
ナチは心に溜まった動揺や混乱を整理する為に、息を大きく吸って吐いた。この世界に四季の概念があるのかは分からないが、その生物はやがて訪れる冬に備えて、冬眠した。そういう事なのだろう。そうなれば、街で起きていた怪奇現象も冬の訪れと共に起きなくなる。
冬眠している間は、災厄は訪れないという事になる。
「でも、それも永遠じゃないよね?」
「ああ、当然だ。だから、我等がこの土地から追い払った。眠りから覚めたばかりで弱っていた奴を。卑怯とは言ってくれるなよ」
「言わないよ。だって、ブラスブルックにはクィルとシロメリアさんが居るんだから。僕がイズの立場でも、きっとそうすると思う」
「まあ、慰めてもらいたい訳ではないのだがな。素直に喜んでおくとしよう」
「あ、うん」
イズの軽口に真顔になりつつ、ナチは上半身を起こした。両手を地面に着き、体を支えながらイズを見上げた。
「ねえ、イズ」
「何だ?」
「ワドルフって人。寒い時期に眠りに着く事を知っていたのかな?」
「どうだろうな。知りたければ、ワドルフに聞いてみろ」
「もう亡くなってるらしいよ」
「お前も死ねば、会えるぞ?」
「会えないよ!」
獣ジョーク怖っ、と思っていると、イズが微笑んだ様な音が頭上から聞こえてくる。そして、イズは目を閉じ、顎を芝の上に乗せると口を開いた。
「……我も詳しくは知らぬのだ、ワドルフという男は。だが、あの男が居たからブラスブルックは崩壊しなかった。その事実は我も認めなくてはならない。奴がしでかした行いは到底許せるものではないがな」
「当たり前だよ……」
ナチの呟きがイズに届いたのかは分からない。丘を駆ける疾風に流れて、イズには届かなかったかもしれない。別にそれでも構いはしない。
ワドルフが行った行為はブラスブルックから見れば、英雄染みていて必要な行動だったのかもしれないが、それでも一人の少女と三頭の獣を不幸にした事実は変わらない。少女と両親からすれば、嘘偽りを口にし、身勝手な理由で最愛の存在を奪った極悪非道の人間。
シロメリアとイズから見たワドルフという存在は、間違いなくそう映ったはずだ。
イズの言う通り、ワドルフの行いは許せるものではないし、ワドルフ本人もそれは承知の上だろう。許してほしいなどとは露にも思ってもいないはずだ。
きっと、ワドルフにも守らなければならない物があったのだろう。
イズやシロメリア、クィルの様に。彼はブラスブルックという街を守る使命感に燃えていたのかもしれないし、義務感に囚われていたのかもしれない。大切な家族の為に必死になっていたのかもしれない。
亡くなっている以上はもう聞く術はないが、きっとそういう理由なのだろう。
「少し寝るけど、ちゃんと起こしてよ?」
「当たり前だ。我を誰だと思っている」
「そっちの二人も、イタズラしない様に」
「「はーい」」
本当に起こしてくれるか、という不安と、本当に分かっているのか、という疑問を抱きながらもナチは瞼を下ろした。
ナチが再び目を覚ますと空は白み、星や月は薄っすらと暁の空に消えつつあった。白い雲が浮かび、それが風と共に流れて行くのを目にしながら、ナチは視線を動かす。
寝ぼけた頭で辺りを見渡す。左から右へ、ゆっくりと顔も一緒に動かした。綺麗な緑色の天然芝が見渡す限り生え並び、ここでピクニックでもすれば最高かもしれないな、と呑気な事を考えていたが、すぐに頭は覚醒した。
それこそ頭から冷水を被せられたかの様な覚醒の仕方だ。
誰も居ない。左にも右にも、人影一つ見えない。慌てて上半身を起こす。やはり、左にも右にも前にも誰も居ない。
「置いて……かれた……?」
ナチは呆然と前方を見つめた。前方には木々が立ち並び、少し薄暗い闇が木々の間から覗き見えた。その闇がナチを少しだけ不安にさせると共に、胸に芽生えだした焦燥感を助長させる。
ブラスブルックに戻れるのか、とナチは頭の中で必死に考える。こんな知らない場所で、知らない土地で、どちらの方角にブラスブルックがあるのかも分からないこの状況でナチは帰れるのだろうか。
この場所はブラスブルックからはそれほど離れてはいないとは思うが、歩き出す方向を間違えれば距離は遠ざかる。慎重に判断しなければならない。
どちらだ。どちらへ向かえばいい。ほぼ無意識に地面に着いている手に力が入る。芝生がブチブチと切れる音がするが、集中しているナチの耳に届くことは無かった。
そして、ナチの頬を汗が伝い、顎へと到達した瞬間に早朝の丘に肉声が響き渡った。
「こっちだ。早く起きんか、馬鹿者」
「お兄さん、寝すぎだよ」
声がしたのは背後。厳しい声と楽観的な声が順に聞こえてくる。ナチはゆっくりと首を動かし、顔を背後へと向けた。視界もゆっくりと背後へと向いていき、すぐに支子色の髪の少女と黒い獣を視界に捉える。
しばし、言葉を発する事なく背後に居た存在を見続けた。全員いる。マオもイズもネルもクィルもシロメリアも。全員、微笑みながらナチを温かい目で見つめていた。
ナチは目を閉じ、空気を体内に取り入れる。苦しくなるまで吸った。それから先程までの緊張と焦燥感を払拭する様に大きく息を吐く。吐きながら目を開け、再びマオ達へと視線を向ける。
「お兄さん、大丈夫? めちゃくちゃ顔怖いけど。まさか、置いてかれたと思ったの?」
「……大丈夫」
自分でも酷くゆったりとした口調だと思った。物凄く不安を押し殺した様な物言いだと思った。どうしてそんな口調になっているのか。それに関しては答えが出ている。記憶の引き出しが開けっ放しになっているからだ。
記憶の引き出しから次々に取り出される、白の監獄での記憶。誰も居ない空間でただ一人、孤独を強いられた空間。声も手も意思も何もかもが届かない鉄壁の独房。命が存在しない無命の監獄での記憶が現在の状況と何故だか重なって見えた。
ここには命がある。緑がある。木もある。すぐそこにはマオが居て、イズが居て、ネル達が居る。視界に映る景色はこんなにも明瞭で鮮明で生命に溢れているのに、孤独を強いられているかの様な恐怖が全身を包んでいく。
もう白の監獄は存在しないというのに。白の監獄ではあんなにも立ち回れていたというのに、どうしてこんなに臆病になっているのか。心に寄生した弱虫が、ナチの心を弱く変えていってしまっているのだろうか。
白の監獄と今の状況が全く異なっているという事は自分でも良く理解している。なのに、心を塞いでいたコルクが勢いよく抜けてしまったかの様に孤独感と虚無感が心から際限なく噴き出してくる。
何が引き金になったのかは自分でも分からない。それでも白の監獄で植え付けられた恐怖はとても深刻で、粘着質で中々剥がれてくれない事だけは分かる。
あの時、感じた恐怖はナチの中で今も巣喰っているのだ。それを再確認させられている。
「本当に大丈夫か? 顔色が悪いぞ?」
「……大丈夫。芝の上で寝たから体が冷えただけだと思う。すぐに良くなるよ」
「本当に? 本当に大丈夫なの?」
マオがナチの左側にしゃがみ込み、顔を覗く。何故かマオの顔は血の気が引いているかの様に青白く、本当に至近距離で見ないと気付かない程に唇は微細な振動を灯していた。
「本当に大丈夫だから。もう、大丈夫。皆が居るのが分かったから」
「男のくせに幼子の様な事を言うな。しっかりせんか」
「……うん。そうだね、そうする」
ぼんやりとした頭でナチは深く考えずにそう答えた。自分でも笑えているのか判然としない笑顔を浮かべながら。右手を地面に着け、ナチが立ち上がろうとすると唐突に左手の上に温かい物が添えられた。それを確かめる為に視線を左側へと送る。
その温もりの正体はもしかしなくともマオの手だ。マオの両手がナチの左手を包み込む様に添えられていた。
「大丈夫。怖い夢を見た後、誰かに傍に居て欲しいって気持ち、私にも分かるよ。心細いよね。凄く分かる。めっちゃ分かる」
「別に怖い夢を見た訳じゃ」
「大丈夫だよ、お兄さん。夢だから。どれだけ怖くても、夢だから」
「いや、だから」
「怖い夢を見た時にはね」
「……もう街へと戻るぞ、馬鹿者共」
呆れた様な声が頭上から掛けられ、ナチはそれに縋る様に頷くと立ち上がった。「あ、お兄さん。話はまだ終わってないよ」と宣うマオは無視して、ナチはイズへと歩み寄る。その足取りは力強く、ナチの口端は僅かに上がり、目尻は僅かに下がっていた。
不思議と先程まで感じていた恐怖はもう感じてはいなかった。




