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十六 月明かりが差す丘

「どこに向かってるの?」


「森を抜けた先に丘がある。そこだ」


「丘? どうして?」


「ゆっくりと話せる場所が二人には必要だ。誰にも気を遣う事無く、話せる場所が」


「なるほどね。二人がゆっくりと話せる場所がその丘なのか」


「ああ、そうだ。速度を上げるぞ」


 言葉通りに速度を上げたイズ。それに伴って体に当たっていた風が勢いを増し、髪や上着を後方へと、勢いよくはためかせる。野を闊歩する二頭の黒い獣は森の入口へと差し掛かると、大きく跳躍。


 十メートル以上はある木の樹高を軽々と飛び越え、木々を次々と飛び越えていくイズとクィル。下を見れば、木々が連なる一面緑の世界が広がっていた。その緑を次々と踏み越えながら、イズは緑の平面を進んでいく。


 月が近い。月光が二人に惜しみなく降り注ぎ、少し眩しいくらいだ。そして、月に浮かんだ模様を見て、ナチはある世界の話を思い出す。


「ある世界の話なんだけど、月には兎がいて、不老不死の薬を作ってるとか、兎を月に昇らせたのは帝釈天っていう神様だったっていう話があるんだ」


「ほう、そうなのか」


「そうなんだねえ」


 あんまり興味を持たれなかった様だが、ナチはその話を初めて聞いた時、少しだけ心を躍らせたのだ。無数の異世界が存在し、それを繋げ、管理している世界樹という生命維持機関まで存在する。


 それを知ってしまった今、月に兎が居ないと言い切る事は出来ない。


 餅をついた兎、不老不死の薬を作る兎、老人の為に捨て身の慈悲を行った兎。月に兎がいるという伝承にまつわる伝説がその世界には他にも存在する。だが、その世界では月に兎がいるというのはあくまで伝承であり伝説。


 現実には存在しない、あくまで空想上の伝説。


 だが、ナチは知っている。ある世界では空想や幻想だと思われていた存在や土地、武器や神秘の術は別の世界では存在している可能性がある事を。


 そして、ナチは見て来た。空想上の理想郷が、神話の中の存在が、物語の中にしか存在しなかった聖剣や魔法が実在していた事実を。


 世界は可能性で満ち溢れている。月に兎がいる可能性もそうだが、ある世界の医療技術では救えない患者も、異世界の医療技術ならば救える事もある。


 だが、それも世界が滅びれば消える。白の監獄が消えた様に無に帰る。世界を滅ぼそうとする世界樹を、ナキを、サリスを止めて、世界を救えなければ世界に住む住人ごと世界は消滅する。はずだ。


 今は分からない事が多すぎる。世界樹もナキも何を考えているのか、全く分からない。二つの存在に対話を試みようにもその方法をナチが持ち合わせていない。だが、一人だけ世界樹と対話する事が可能な存在がこの世界にはいる。


 サリス。


 彼は世界樹と情報を伝達する手段を持っている。それに鍵まで保有している。あの鍵がナキと関係があるのかは分からないが、サリスは鍵を使用して場所を移動した。


 どこに移動したのかも分からないが、それでも鍵を使用した事実をナチは目の当たりにした。


 そして、彼は言った。世界を救う可能性を持った人間を殺さなければならない、と。それがもし真実だとすれば、彼が向かう先には必ず世界を救う可能性を持った人間が存在する。


 つまり、この世界の住人の中で、サリスが最も世界を滅ぼす可能性を持ち、最も世界を救える情報を持っているという事になる。サリスを追う事こそが、最も世界を救う事に繋がる。彼との再会が、最も世界を救う可能性を高める。


 それが、世界を救う旅で唯一、明確に縋る事が出来る希望。


「お兄さん?」


 考え事をしていたせいか、ナチは咄嗟に反応する事が出来ずに、一息遅れて返事を返した。


「……どうしたの?」


 マオへと視線を向けると、彼女は心配そうな面持ちでナチの顔を覗き込もうとしていた。のだが、ナチの瞳が動きを見せるとマオは急速に体を仰け反らせ、ナチから僅かばかり距離を取った。


「何か難しい顔してたから、どうしたの?」


 ナチは微笑みながら、首を横に振る。


「別にそんなに難しい話じゃないよ。少しサリスの事を考えてたんだ」


 ほっとした様に笑みを浮かべるマオ。


「サリスの事を? どうして?」


「サリスが全ての鍵だから。サリスに会えば、僕達が欲しい情報が全部手に入る気がするんだよ」


「……そうなの?」


「サリスはマオと同じ可能性を持った存在を探してる。それにサリスは世界樹と連絡を取る手段を持ってるみたいだしね。だから、サリスが向かう場所には世界を救う可能性が転がっている可能性が高い。かもしれない」


「また、かもしれないなの?」


 マオが呆れた様な笑顔を浮かべた。


「サリスに会うまでは分からないからね。断言はしないよ」


「やっぱりお兄さんは真面目だね。心配だよ、お兄さんの毛髪が」


 白い歯を覗かせながらマオは言った。その笑顔を見て、ナチも微笑を浮かべる。


「心配するところ、おかしいよ?」


「……お前達が話している事は良く分からぬが、お前達は人を探しておるのか?」


 四肢を懸命に動かし木々を跳び越えるイズは宙を舞いながら、やや弾んだ声で言った。彼女の動きは樹冠を踏み潰し、木々に乗り移る度に洗練されていく。楽しそうに、嬉しそうに、全身で喜びを表現しているかのようにイズは宙を舞っていた。


「うん。私の家族」


「どんな奴だ?」


 マオはサリスの説明を簡単に説明した。髪色、顔の造形、頬の一文字傷や片腕を失っている事などを説明し、最後に能力についても説明した。確かに狼男に変身していたらサリスの外見的特徴は意味を成さない。


 マオの説明を聞き終えたイズは樹冠を蹴ったタイミングで首を横に振った。


「知らぬな。少なくともブラスブルックの近くをうろついてはおらぬと思うぞ。我は耳が良い。余所者がブラスブルックに訪れれば大抵は気付く。我が知らぬという事はこの近辺には来てはおらぬ、と思ってよい」


「そっかあ、サリス来てないのか……」


 マオが落胆した様にくぐもった声を発すると、イズは首を背へと僅かに向け、視線を落とすマオを視界に捉えた。その瞬間にイズは小さく鼻を鳴らす。


「まあ、お前達がブラスブルックに滞在する間くらいならば、そのサリスとかいう男を探してやらんでもない」


 控えめに呟かれたその言葉にマオが即座に反応する。最初は驚きに目を見開いていたが、すぐに喜色を示す。ナチも始めはイズの発言に瞠目していたが、次第に表情を緩めていった。


「ありがと、イズさん!」


「暇だから少し手伝ってやるだけだ」


 本当に素直じゃないな、と苦笑していると、イズの大きく長い耳が小刻みに前後に振動した。顔を覗き込めば口端が僅かに上がり、鋭い歯が覗き見えている。それを見てナチは瞑目し、イズがしたように小さく鼻を鳴らした。口角が上がっているのが分かる。にやけるのを止められない。


 イズとの出会い方は最悪と言っても良いほどだった。ろくに言葉を交わす事もせずに戦闘を開始し、言葉を交わすよりも先に刃を交えてしまった。それは下手をすれば両者のどちらかが命を落としていた可能性すらある死闘であり、事実イズはナチ達を殺そうとしていた。


 けれど、殺し合わなくてよかったと今では本気で思える。彼女が抱いている人間に対しての不信感はこれからも拭い切れることは無いのかもしれない。それでも、ナチ、マオ、イズの三人の内、一人でも命を落としていれば、この会話は生まれなかった。憎しみの連鎖にずるずると引き摺られて、不倶戴天の敵として相対する事になっていたとしても可笑しくはない状況だったのだ。


 それを思えば、今のこの状況は奇跡とも言える。ネルがシロメリアの下に下宿していなければ、ナチ達はクィルを捜索することは無かっただろうし、クィルに対して温情を抱く事もなかった。彼を助けようなどとは露にも思わなかっただろう。


 様々な奇跡が系統的に並べられ、その順序をナチとマオが正しく歩めたおかげで、今のこの状況は生まれている。この笑顔が溢れる光景は決して必然じゃない。けれど、ただの偶然でもない。シロメリアとクィルが互いに再会を強く望み、二人が再会の為に行動した事によって運を引き寄せたのだ。


 そして二人が努力によって引き寄せた運を正しく掴み取る事が出来た。その結果が今の状況だ。


 ナチは目を開くと、周囲を見渡した。イズとマオが母娘の様な会話を重ね、クィルとシロメリア、ネルが談笑に花を咲かせている。水面に浮かぶ蓮の様に儚げで美しい笑顔が並ぶこの光景に、ナチは刹那的に寂しさを覚えると、もう一度瞑目を繰り返すのであった。


 


 女性陣の談笑を聞く事、十分弱。ナチは生え並ぶ木々が切れるのを見た。眼前に広がるのは緑が敷き詰められた丘。傾斜がゆるやかで手入れでもされているのか、と思う程に雑草は伸びていないその丘に、イズは滑りこむ様に飛び込んだ。


 イズが飛び込んだ事により、かなり天然芝が抉られ、土壌が剥き出しになったが、気にする者は誰も居ない。事も無かった。後から、ゆっくりと丘に降り立ったクィルが芝を吹き飛ばしたイズを見て、機関銃さながらに文句を連発し始めた。


 クィルに「お母さんは、どうしてそんなに雑なの?」と言われてイズは俯き、「お母さんは、もう少しシロメリアを見習ってよ」と言われ更に首を地面に落とし「力こそ全て、みたいな考えもうやめなよ」と言われて、自らが抉った芝を元に戻し始めた。


 その背中から感じる哀愁は、おそらく気のせいではないだろう。


「クィル。イズにそんな事を言ってはいけませんよ」


 背後でシロメリアがクィルを叱り付ける声。それにしゅんと体を小さくするクィルを見て、平和だなあ、とナチは芝生の上に腰を下ろした。そのまま、地面に倒れ込み、夜空を見上げる。


 無数の星が、かなり近くに見える。宝石を砕いて散りばめた様な綺麗な白い星々を瞳に映しながら、ナチはただ茫然と夜空を見上げた。綺麗だ、と思いながらナチは大きく息を吐き、イズを宥めるネルとマオを見た。


 どちらが子供なのか分からない構図に苦笑しつつ、ナチは瞼を下ろした。


 純粋に疲労が溜まっていた。マオとの特訓を昼に行い、ブラスブルックの住民達と一悶着あった後、イズとの戦闘。さすがに、疲労も溜まる。符術の使い過ぎによる強制睡眠の兆候は感じないが、深夜帯という事もあり、僅かな眠気はある。


 このまま目を閉じ続けていれば眠れる、と確信した時、大きな吐息が耳元まで聞こえてきた。


「ナチ」


 純粋無垢な少年の様な声。クィルの声だとすぐに気付き、ナチは瞼を上げた。目を開くと、目の前に赤い双眸と黒い兎の様な顔。それを見てナチは苦笑を浮かべながら、上半身を起こした。


 そのまま立ち上がり、クィルと傍らで寄り添うシロメリアに体を向ける。首を傾げ、二人が要件を口にするのを待った。


「ありがとう、ナチ。ナチのおかげで、僕はもう一度シロメリアと話す事が出来た」


「僕だけのおかげじゃないよ」


 イズの殺意に気圧された時、もしマオが居なければナチはイズに殺されていたかもしれない。マオが居なければイズとの戦闘で競り勝てなかったかもしれない。彼女が居たからナチはこの状況を生み出せている。それは認めなくてはならない。


「それに、クィルは僕達が言わなくてもシロメリアさんに会いに行ってたでしょ?」


「まあ、ね。でも、ナチ達が会いに来てくれなかったら、シロメリアと会う事は出来なかったかもしれない」


「イズに頼めば」


「イズとは約束していたんです。もう会わないようにしようって」


 へそ辺りで腕を組み、シロメリアは穏やかな笑みを浮かべた。丘を駆け抜ける風がシロメリアの前髪を揺らす。月光に照らされた白い髪と紫色の瞳を少しだけ憂いて見せる。


「どうしてですか?」


「我と会う事でお前の立場が危うくなる。それだけはあってはならぬ、とクィルが封印された日にイズが私に告げました。本当に優しい方です。本当に辛いのは息子を失った彼女なのに」


「それにね。最初にも言ったけど、五十年の歳月が人の心を大きく変えてしまった。僕が聞いた悪魔が起こした災厄は時間と共に嘘や偽りが混じって、話が大きくなってた。だから、お母さんも街に行く事は躊躇ったんだと思う。会いに行く事自体が、シロメリアの迷惑になるんじゃないかって」


「そう、なんだ……」


「ま、シロメリアに会いたくて僕一人で街には行っちゃったんだけどね」


 体を丸め、首をナチの前に置く。


「でもね、僕もお母さんもシロメリアも、勇気が足りなかっただけなんだよ。僕達は一緒に生活をしようって言っている訳じゃない。ただ同じ時間を少しでも共有したかっただけだったのに周りの視線を気にするあまり、臆病になってたんだ」


「だから、私達に必要だったのは背中を押してくれる誰か、だったんです。私達にとってのそれは、ナチさんだった。ナチさんは堂々としていました。街の人に責められても堂々としていた」


「お母さんにも真っ向からぶつかっていってたし。僕達には出来なかった事をナチは簡単にやってのけたんだ」


「それは僕が部外者で、事情をよく知らなかったから」


「それでもだよ。事情を知っていようと知らなくても、動けない人は動けない。ナチは動ける人なんだよ。僕達に必要だったのは強引に事態を動かしてくれる人だったんだ」


 ナチは苦笑して、頬を掻く。


「それだと、僕が凄く横暴な人に聞こえるんだけど」


「違うの?」


 違うよ、と断言したかったが、あまり強く否定できる材料を持ち合わせていない為、苦笑を強める事でナチは誤魔化す事に徹した。


「ナチさんのおかげです。本当にありがとうございます」


「いえ、僕は本当に」


「謙遜しないでよ。僕達は本当にナチに感謝してるんだ」


 表情から感情が読みにくいクィルから視線を外し、シロメリアを見ると、彼女は朗らかな笑みを浮かべながら頷いた。


「助けになれたなら良かったよ」


 そう言うと、クィルとシロメリアは頭を下げ、ナチやイズ達からは少し離れた場所へと歩いて行くと、そこへ腰を下ろした。夜空に広がる一面の星々を見つめ、笑顔をお互いに浮かべている。


 ナチはその場に腰を下ろし、再び芝の上に寝転がった。ナチは少しだけ誇らしい気持ちで、星を見つめた。人に感謝されるのは悪い気はしない。褒められて嬉しくない人間はいないだろう。


 歳を取る度に褒められる回数は減少し、代わりに褒める回数と叱らなければならない回数が増えていく。それが子供から大人になったという事。それが時を重ねるという事だ。


 最後に、褒められたのはいつだったろうか、と記憶の引き出しを開けながら、ナチは瞼を下ろした。暗い闇が広がっていく中で、次々と引き出されていく記憶。その一つ一つに目を、耳を傾ける。


 流れていく映像の中で、ナチは一つの映像に意識を傾けた。


 そうだ。最後に褒められたのは、白の監獄に入る五年前。ナチが五十八回目の世界渡りを行った時だ。


 そこは魔に呑まれた世界だった。悪鬼と呼ばれる人食い鬼に変貌した人類。それを統率する羅刹と呼ばれる存在。生き残った僅かな人類は戦う術を持たず、ただ逃げ惑うばかり。


 その世界に渡った時、ナチは当然助けを求められた。その言葉通り、ナチは彼等を守る為に尽力し、多くの悪鬼と羅刹を葬った。だが、その結果はほぼ全ての人類を悪鬼に変貌させただけ。ナチが助けられた人間はたった一人。まだ十歳の少女だった。


 その少女をナチは別の世界に移す事で悪鬼羅刹の脅威から少女を救済した。それを救済と呼べるのかは些か疑問だが、ナチにはそうする事しか出来なかった。それしか思いつかなかった。


 それは決して褒められる様な事ではない。ナチは結果的に少女を助けた事になるが、少女が求めた真の救済は新たな世界での平和な新生活ではない。思い出が残る場所で、最愛の両親と共に暮らす事だったのだから。


 だが、ナキはナチを褒めてくれた。


 生きている限り道はある。今はまだ絶望に囚われていたとしても、無数の異世界という可能性が少女をきっと救ってくれる。お前は少女が救われる可能性を守ったのだ。よくやった。さすがは、私の相棒だ。


 ナキはそう言った。その言葉が、ナチには本当に嬉しかった。救われた。絶望に呑まれかけていたナチに、希望を灯してくれた。


 これが、ナチが最後に褒められた記憶。最後に褒めてくれたのはナキだという事をナチは今思い出した。

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