十五 白と黒、再会
月が空高く鎮座する夜闇を駆ける二つの獣。その身に受ける暴風に毛を揺らし、地鳴りの様な足音を以って野を駆ける黒い影。情緒的な煌めきを放つ月光は二つの獣を照らし出そうと躍起になっているが、闇をその身に纏っているかの様な肉体は月光の侵入を拒み続ける。
ブラスブルックに迫る二つの黒い獣は、紅を差した様な赤い双眸を煌めかせながら、眼前に街を映し出す。木に囲まれた街。石壁に囲われた石造りの街。街の中央にそびえる一本の大樹は黒い獣の接近を真っ先に察知すると、冷気を孕む風に梢を揺らし、街に葉擦れを下ろす。
夜を恐れて籠に消える雑踏。夜に漂う人影は守衛のみ。黒い獣は月光に輝く草原を、疾風と共に駆け抜ける。
「クィル。お前は昨日どうやって街に入った?」
草原を駆け抜けながら、イズは静かな声で言った。
「どうやってって壁を跳び越えただけだよ」
街を囲う石壁は確かに高くは無い。高くても三メートル程度だろう。人が跳び越える為には梯子などの道具が必要になるが、クィルやイズならば脚力だけで跳び越える事が可能だ。実際にブラスブルックに向かう道中にもその強靭な脚力をまざまざと見つけられた。
木の樹冠を跳び越え、高速で野を駆ける姿を見た後では、ブラスブルックを囲う石壁を跳び越えた程度では動じることも無い。
「そうか。ならば、跳び越えるとしよう」
「街の外で待っていてくれれば、僕達が」
「我は待つのは嫌いなのだ」
ナチの言葉をすぐに否定したイズは迫る石壁に向かって、更に速度を上げていく。ナチとマオは顔を見合わせ、イズが何をしようとしているのか、すぐに理解する。彼女は本当に壁を跳び越えようとしているのだ。ナチとマオは静かに息を呑み、イズの毛を少し強く掴んだ。
「行くぞ!」
ブラスブルックの石造りの門の前。閉ざされた門の前で欠伸を掻いていた守衛がイズとクィルに気付いた途端に悲鳴を上げているのが分かった。それらを無視してイズは跳躍。門を軽々と飛び越え、街に侵入すると土壌の上を疾走。クィルも難なく門を跳び越え、イズの後を続く。
「さすがお母さん。余裕だね」
「当たり前だ。あの程度の高さを跳び越える事など造作も無い」
「これ大丈夫なのかな?」
マオが少し呆れ気味にぼそりと呟く。
「……大丈夫だよ」
「変な間があったけど」
「ここまで来ちゃったらもうどうしようもないし」
「……そうだね。もう遅いよね」
ナチとマオは醒めた目で前方を見つめながら、高速で流れていく風景に目をやった。流れていく家屋。奇跡的に人々は路地には居ない。もし、ここに人が居たとしたら、黒い獣に轢かれ無残な肉塊に変貌するところだった、と思うと肝が冷えた。
マオも同じ事を思っているのか、青褪めた顔で流れていく街の景観を映していた。そして、時折「人が居なくて良かったね……」と呟いてはどこか遠くの方向を見つめている姿からは哀愁が滲み出ていた。
「心配するな。人が居ればさすがに避ける」
「お母さん、そこの建物」
クィルが首を動かし、一つの建物を指し示す。その家屋は間違いなくシロメリアの仕立屋だった。
「む? どれだ?」
「あれだよ、あれ」
クィルがライムグリーンの建物を首で再び指し示す。「ああ、あれか」ととぼけた様な声で呟いたイズはシロメリアの仕立屋に真っ直ぐに突っ込んでいく。そしてシロメリアの仕立屋の前で急停止すると、イズは両腕でナチとマオが振り下ろされない様に優しく包み込んだ。
そして、完全に静止するとイズはナチとマオを地面へと下ろし、シロメリアの仕立屋へと視線を向ける。静かに息を漏らすと無言で懐かしむ様に目を細めていた。
「ナチ、マオ。呼んできてもらっても良い? なるべく早くね。さすがに昼間の出来事が尾を引いてるだろうから」
二人は頷き、扉へと向かって行った。扉を開け、中へと入る。当然ながら、店へと入ると待っていたのは暗い店頭。だが、暗い店頭の先に仄かな橙色の灯りが見えた。
ナチとマオは、店頭から店の奥へと顔を覗かせる。作業場に置いてある一枚板の机。そこに向かい合う様に座っている二人の美女。深刻そうな顔で俯くシロメリアとネルの姿を見て、ナチ達はすぐさま足を動かした。
足音に気付いたシロメリアとネルの顔がぱっと上がり、二人は一度顔を見合わせた後に視線を店頭へと向けた。二人はナチとマオの姿を捉えると、ほっと息を吐きながら椅子から立ち上がり、ナチ達に体を向けた。
「どう……でしたか?」
「詳しい事は後でお話しします。とりあえず、外へ」
ナチはシロメリアとネルを扉へと促しながら、先頭を歩く。背後でネルが「何だかボロボロだけど大丈夫?」と言った後にマオが「大丈夫。軽く運動しただけだから」と軽快に言った。決して軽い運動では無かったとは思うが、マオなりの気遣いなのだろう。
優しい少女だ、と思いながらナチは扉へと手を掛けた。そして、勢いよく開く。
眼前に広がる夜闇の街。ナチが一歩踏み出すと共に、シロメリアもそれに続く。そして、視界に入る二つの黒。家屋の全長すら超える巨躯が視界に入ると共にシロメリアは外へと一歩踏み出した場所で立ち止まった。
時が止まったかの様に立ち尽くすシロメリアだが、眼前で佇む二頭の黒い獣を確かに捉えている。夜の風音だけが響く路地で、一人の老女と二頭の獣の視線は重なった。
クィルとイズを見上げるシロメリアは瞬きを頻りに繰り返し、現実と幻想の区別をつけようとする。だが、幾度となく瞬きを繰り返そうが消えない黒い獣にシロメリアの頭はようやく現実を認識する。目の前に佇むクィルとイズが、本物なのだと理解する。
シロメリアが左手で右手を擦る。揺れる瞳が彼女の動揺を物語っている様で、何度もクィルから目を逸らしては視点をクィルに戻している。
そうして続いた長い沈黙の後、シロメリアは一歩前に向かって踏み出した。
「……クィル……なのですか?」
震えた声。手も足も震え、それでも立ち続ける彼女にクィルは手を差し伸べる。
「うん、僕だよ。シロメリア。すっかりお婆ちゃんになっちゃったね」
差し出された手にゆっくりと触れるシロメリア。指先で、手の平でその感触を確かめる。感触を確かめる度に、漏れる熱い吐息。静かに漏れ出る嗚咽は風に運ばれて誰の耳にも届かない。黒い手に零れ落ちていく雫を目の当たりにして、クィルは顔をシロメリアに近付けた。
目の前に現れた大きな顔。その大きな顔にシロメリアは手を添えた。涙を零しながら、シロメリアはクィルの顔を優しく撫でる。
「……ごめんなさい、クィル。私のせいであなたは」
「シロメリア……」
「私があなたを特別だと思ったから、あなたを不幸にしてしまった」
伏せられたシロメリアの顔。クィルは鼻でシロメリアの顔を上げさせる。無理矢理に重なった視線にシロメリアは口を引き絞り、涙を更に零す。
「シロメリア。僕は不幸なんかじゃないよ。確かにシロメリアと同じ時を一緒に歩めなかったのは悲しい。でもね。また、こうして巡り会えた。もう一度シロメリアとこうして会えた。だから、僕はもう全然不幸なんかじゃない。こうして触れ合えることが僕は嬉しい」
「でも、私のせいで」
「シロメリアはずっと自分を責めていたんだね。五十年間ずっと。僕の事をずっと思っていてくれたんだね」
「当たり前です。クィルの事を忘れた事など一度も無かった。忘れる事なんて出来なかった。あなたは、私の特別で大切だから」
「ありがとう。僕もね、シロメリアにずっと会いたかった。暗い闇の中でずっとシロメリアの事を考えてた。シロメリアの顔ばかりが浮かんで、怒った顔でも泣いた顔でも良かった。ただ、シロメリアに会いたくて、それだけを闇の中で願ってた」
クィルがシロメリアの顔に、自身の顔を擦り付ける。優しく、震えながら。
「僕もシロメリアが特別で大切だ。だから、今度こそ僕はシロメリアと生きたい。これから先、ずっと一緒に」
「はい。はい……」
次々に地面に落ちる雫は雨の様に降り注ぎ、土壌に黒い斑点を生み出していく。シロメリアがクィルの顔を抱き締める様に触れ、クィルが嬉しそうに目を細めている。
それを見て、ナチとイズは微笑み、マオとネルが目尻に浮かんだ涙を拭っていた。




