十三 黒い獣との戦い
森を進む度に、落ちていく太陽。森を照らしていた、ただ一つの光源はすっかりと姿を消し、代わりに現れた月は雲間に隠れて顔を出さない。その結果、森は静かな静寂と足下すら見通せない程の不気味な闇に覆われていた。
ナチはポケットから符を一枚取り出すとそれを半分に引き裂いた。二枚になった符に属性を付加。「光」。霊力を放出し、属性を具象化すると、ナチは符を持つ腕を少しばかり前に突き出した。
符から発せられる白光。
黒い本から発せられた光よりも白く眩い光は、三百六十度全てを照らし出す。このままではナチの視界すらも白い光で覆われてしまう為、その後にナチは進行方向のみに光を集中させる。眼前を照らす白光は、走行用前照灯の様に遠方まで照らし、先程までの闇を一瞬で追い払った。
これで即席の懐中電灯の出来上がりだ。再び鮮明に視界に映ったマオに、符の一枚を渡す。
「何か、便利な能力だね、符術って」
符を受け取ったマオが、まじまじと符を見つめた。感心する様に息を漏らし、符から放たれる光を前方に向けるマオは無邪気な子供の様な笑みを浮かべる。期待と羨望が入り混じった様な、そんな視線。
「火も使えるし、風も起こせるし、氷も作れる。光も放てるなんて無敵すぎじゃない?」
「それが意外とそうでもないんだよ。符術使いは戦闘中に符を失えば無力だし、接近されると何もできない。僕が使う符術はある程度の近接戦闘は可能だけど、本来は中遠距離での戦闘が主だから。マオとかサリスみたいに自分の身一つで戦える人の方が余程万能だし無敵に近いよ」
「そんな真面目に返されても、困るんだけど」
「だってマオが聞いてきたんじゃ?」
「私が言いたかったのは、符術って火も風も簡単に起こせて生活に活かせるし便利だよねって話だよ。符術使いの戦闘の立ち回り方じゃないよ」
少し苛立ち混じりにマオに肩を小突かれたナチは苦笑しつつ、乾いた笑い声を溢した。
「あ、そういう事。でも、マオの氷だって似た様なものでしょ? マオの氷を使えば普通なら保存がきかない食料も長持ちさせられるし、水に入れれば冷たくなるし」
「まあそうだけど、私は氷だけだから。でも、お兄さんの符術は一人で色んな事が出来るでしょ。火打石も必要ないし、お兄さんが作ってくれる水は美味しいし、重い荷物も風で運べる。一人で何でも出来るし、やっぱり無敵だよ」
「何が無敵なのかは全く分からなかったけど、まあ便利なのは確かだね」
この世界のように文明の発展具合が中途半端な世界だと特に符術の利便性が浮き彫りになる。ガスや電気という概念が無く火を起こす手段は火打石や火打金を使用した原始的な方法を取り、水の濾過技術もまだ十分に確立されていない。そんな世界でナチの符術を目にすれば、確かに無敵のように映るのかもしれない。
火を自在に起こし、汚水を濾過し清水に変え、人力では決して持ち上がらない重厚な荷物を軽々と持ち上げるナチの符術は、それこそ魔法の様にも見えるのかもしれない。魔法の原理を幾分応用しているのだから、そう見えるのも無理はないのかもしれないが。
「私も符術覚えたい」
「無理」
ナチが即答すると、マオがナチの肩を三回ほど小突いた。しかもかなりの力を込めて。
「もうちょっと考えてよ。お兄さんの記念すべき弟子一号になれるかもしれないじゃん」
「一号はリルだから、マオは二号だね」
「そんな事どうでもいいわ! 何で無理なの?」
ナチは符術に発動する為には霊力という力を肉体に内包していなければならないという事をマオに懇切丁寧に説明し、何故マオは符術を習得できないのか、という理由を猿でも分かる様に噛み砕いて教示した。すると、彼女は拗ねた様に唇を尖らし眉尻を落とした。
「じゃあ、その霊力ってどこで手に入るの?」
「手に入りませーん。僕がマオの氷の様な固有の能力を手に入れられないのと同じだよ。僕には霊力しかないし、霊力を活かせるのが符術だっただけ。つまり、僕には符術しかないし、マオには氷しかないって事。もうこの能力でこれから先も頑張っていくしかないんだよ」
「えー。私も符術使ってみたい」
駄々っ子のように地面に背中を付けて泣き喚いてしまいそうだった為、ナチはコートのポケットから符を一枚取り出し、それをマオに手渡した。それを懐疑的な視線をナチに向けながらも、素直に受け取ったマオは期待に満ちた表情でそれを握る。
「ほら、前に投げてみて」
「うん!」
マオが前方に投げた瞬間にナチは霊力を放出し、符に込めた属性を具象化。「大気」。地面に落ちている緑と枯葉色が混在する葉が宙を舞い上がり、それらをマオの周囲を渦状に回転させる。その姿は正しく《風使い》。風を操る美少女。マオの背後に風の精霊王の影が見えない事も無い。何故か震えているマオの肩と瞳には取り合わず、ナチは符術を解除した。
「どう? 初符術の感想は?」
マオは大気が付加された符を地面に叩き付けると、それを足で粉々に踏み潰した。粉々になった符は土に同化して見えなくなり、それを物悲しい気持ちで眺めているとマオが憤慨した様に顔を真っ赤にし、ナチに詰め寄った。
「ちっがうよ! そういう事じゃないんだよ! 私が符術を使いたいの。これ結局お兄さんが符術使ってるだけじゃん」
ピンポーンと頭の中で正解の鐘が鳴り響く音が聞こえた気がしたが、ナチはまだ諦めがつかない様子のマオの肩を叩くと、かぶりを振った。
「だから、無理なんだって。僕がマオの氷使いたいって言ってるのと同じ事だよ?」
「じゃあ貸してあげる。だからお兄さんの符術貸して」
「また無茶苦茶な事を。ほら馬鹿なこと言ってないで先に進むよ」
「もー! お兄さんのバカ!」
牛の様に喚き続けているマオの手を引っ張り、ナチは符の光が煌々と照らす森の先へと一歩を踏み出した。そこから三十分ほど歩き続け、奥へと進む度に闇が濃くなる森は鬱蒼さを増していく。空を見上げれば複雑に絡まった梢が月光を隠し、視線を落とせば下草がナチ達の靴に絡まり行く手を遮ろうとする。
それを力づくで引き千切りながら前に進んでいたが、この時ばかりは前に踏み出そうとした足を止めた。
動かないナチを見て、背後から「お兄さん?」と声が掛かるが、ナチはその声には反応する事はせずに、前方に向けていた光を凝視した。目を見開き、前だけを見る。雑草が平伏す獣道の奥。そこに映し出された漆黒。暗澹とした前方に、ナチの眼球は自我を持ったかの様に釘付けになる。
ナチの視線の先には道が無かった。いや、違う。無いのではない。道は確かに続いている。その証拠に、ナチが手に持つ白い光は木々が奥へと生え並んでいるのを照らし出している。
道を塞いでいる何かが居るのだ。
ナチが符を前方から上空へと向けようとした時、雲間に隠れていた月が姿を現した。白光と月光。二つの光が道を塞ぐ何かを鮮明に映し出す。
木々が複雑に絡まる事で出来上がった自然の天井。そこに開いた巨大な穴。丁度、月明かりが差し込む場所に佇むそれはナチ達が探していた存在。
兎の様な二本の長い耳と顔。雑草を踏み付ける強靭な四肢。地面を抉る漆黒の爪は雑草を裂き、土壌にまで貫通している。そして、それら全てを包む黒い毛皮は二つの光に照らされてなお、濃い黒を損なわない。黒い影に飲み込まれたナチ達の頭上で、血の様に赤い双眸がナチとマオを静かに見下ろしていた。
道を塞いでいるのは、目の前に佇んでいるのは、黒い獣だ。
だが、ナチは目の前の黒い獣を見て、少し違和感を覚えていた。その違和感を探るべく足下から頭まで、舐める様に視線を送るがその違和感の正体は掴めない。分からない。日中に見た黒い獣であるという事は変わらないのに、違和感を覚えるのは何故なのか。同じ赤い双眸だという事は変わらないのに、どうしてこうも恐ろしく思えるのか。
心臓が掴まれているかの様なこの圧迫感、息苦しさ。背筋に走る悪寒が全身を駆け巡り、呼吸器官をせき止めているかの様に窒息しそうになる。頬を垂れる汗を拭う事すら忘れてしまう程に、ナチは目の前の赤い双眸に取り込まれていた。
ここに立っているという実感が曖昧になる程の浮遊感と現実感の希薄。僕は本当にここに存在しているのか、と錯覚してしまう程にナチの精神に雪崩れ込んでくるのは、黒い獣が放つ明確な殺意。
足が震える。手が震える。体の芯から震えだす。震えの正体すら分からない。恐怖なのか、と自問自答するも、脳は答えを出してはくれない。心は解を出してくれない。解答欄が空白な事に、ナチの心は酷く不安に駆り立てられる。
「お兄さん!」
ナチの震えた右手を誰かが掴む。急速に引き戻される現実。足裏に戻る現実感と、ここに存在している証明。手から伝わる体温が、ナチの不安を打ち消していく。
ナチはゆっくりと右手を握った存在を見た。心配そうに見つめる眼差し。薄い唇が必死にナチに何かを言っている。働く事を放棄している頭は、その音を認識しない。声を拾おうとしない。
だけど、何を言っているのかは分かった。マオの唇の動きがナチに言葉を伝えている。「お兄さん」と呼び続ける彼女の唇を見て、ナチの頭はようやく機能を再開する。せき止められていた血流が脳内に大量に流れ込んでくるかの様に、活発化する脳細胞。
ナチは咄嗟にマオの手を握り返し、黒い獣へと向き直った。
ナチを見つめる赤い双眸が、ただ怖い。その理由は分からない。だけど、手から伝わる体温がナチに勇気を与えてくれる。恐怖で竦む体を後押ししてくれる。
「……君は……誰?」
震えた声。届いたのか分からない程に、小さく掠れた声。酷い声だと、自分でも思う。黒い獣は微動だにしないまま、ナチを見下げる。聞こえていないのか、行動を起こす気配はない。ナチは息を大きく吸い込み、腹に力を入れた。そして吸い込んだ空気を一気に放出すると共に、声を張り上げる。
「お前は誰だ!」
目の前の黒い獣の腕が天に向かって上がり、伸びきった所でナチとマオに向かって振り下ろされる。膂力を活かした黒い鉄槌がとてつもない速度でナチ達に迫る。
ナチはマオを右側へと突き飛ばすと、自身は左側へと跳躍。間一髪、黒い獣の腕を避けた。
「あの子を殺しに来たのか、人間」
王に忠誠を誓った騎士の様な凛々しさで紡がれた女性の声。ナチは雑草を引き抜き、それを全て符に変える。そして、マオへと駆け寄ると彼女の体を起こし、すぐさま二人は黒い獣から距離を取る。
「違う! 僕達は殺しに来た訳じゃない! 真実を確かめに来たんだ」
「そのような戯言を我が信じると思うのか? お前達は、平然と嘘を吐く。平気な顔で我から息子を奪った。我等を慕ってくれていた娘から笑顔を奪った!」
黒い獣の腕がナチに向かって伸びる。高速で撃ち出された右腕をナチは跳躍し、木枝に捕まると素早く枝の上に乗り、回避。が、高速で引き戻された右腕がもう一度ナチを狙う。再び眼前に出現する巨大な拳。ナチが符を起動させようとした瞬間、視界の端に巨大な氷の塊が右腕に向かって射出されたのが映り、ナチは両脚に力を込める。
氷塊が激突した右腕は鈍い音を鳴り響かせながら、僅かに右側へ軌道が逸れる。軌道が逸れた事により、ナチの直線上から外れた高速の突きを、ナチは左側へと跳躍し枝上から雑草へと飛び降りた。
地面に着地すると同時に雑草を引き千切り、更に符を作る。
「私達は敵じゃない! 信じて貰えないかもしれないけど、息子さんを傷付ける為に来た訳じゃない。信じてください!」
「二度も言わせるな! 信用して欲しいというならば、信じるに値する証拠をここに持ってこい。無実の証明も無しに、お前達は信用してほしいとほざくのか!」
黒い獣は両手を重ねると、それを頭上へと上げた。それを見た瞬間、ナチは黒い獣が何をするのか理解した。ナチはマオに駆け寄ると、先程作った全ての符に属性を付加。それを二人の足下に放り投げると、属性を具象化した。
そして、ナチが符を投げ飛ばした瞬間、黒い獣の両腕が力任せに地面へと振り下ろされる。振り下ろされる瞬間に鳴る風切り音。腕に込められた膂力によって筋肉は隆起し、地面に激突した瞬間、響く破砕音と共に地面が大きく振動する。
地面がヒビ割れる程の振動。人が立っていられなくなる程の振動を黒い獣は腕力だけで引き起こす。
だが、ナチとマオの姿は地上には無い。月明かりに照らされる地面には、雑草から作った符が無数に散らばっている。それら全ては既に効力を失い、ただの白い雑草へと戻っていた。
黒い獣は首を動かし、見当たらないナチ達の姿を探している。首を右に左に後ろに動かし、ナチとマオの発見に尽力している。それを見下ろしながら、ナチは笑顔を浮かべる。
そして、森に差し込む月明かりに重なる影が二つ。
光源が遮られた森には再び闇が蔓延し、一瞬の内に世界は黒一色に呑まれていく。その黒い世界で唯一動きを見せる赤い双眸は上空へと向けられ、ようやくナチとマオの姿を視界に捉える事に成功する。
黒い獣よりも遥かに高い位置を飛翔し、地上を見下ろしているナチとマオの姿を。
ナチとマオが空中に舞い上がり、黒い獣を見下ろす程の高度で佇む理由。それは黒い獣が地面に両腕を振り下ろす瞬間に具象化させた「大気」の属性によるものだ。
足下に集めた大気を、上方向へ向けて放出。二人の体を浮かび上がらせる程にまで高めた上昇気流は、二人の体を黒い獣の上背を優に超える高度にまで押し上げる。
これが、ナチとマオが上空を飛翔している理由。
だが、二人は空中を飛行している訳ではないのだ。二人が空中に居る理由は、上昇気流に押し上げられ飛翔しただけ。つまり、二人は飛翔の最高到達点に達した瞬間、自然落下を開始する。二人は今この瞬間も、落下を始めている。
「マオ!」
「分かってる!」
ナチが猛ると同時に、マオは氷の精製を開始。空中で生成されたのは、巨大な氷の鎚。氷で作られた棒に長方形の氷が付いているだけの簡素な形の氷鎚。だが、彼女が作る氷は不純物を含まず、水分子の結合が高い為、重厚かつ最硬。
ナチとマオは氷鎚の柄を握り込むと、黒い獣に向けて勢い良く振り下ろす。ずっしりとした重たい氷鎚を手に持った事で、二人の落下速度は急激に上昇すると同時に、氷鎚が振り下ろされる速度も急上昇する。
振り下ろされる氷鎚を迎え撃つように放たれたのは黒い獣の黒腕。力一杯に溜め込んだそれが、高速で撃ち出される。
両者の雄叫びが森を駆け抜けると同時に、氷と拳が激突。一瞬で粉々に砕け散った氷鎚と、激突した衝撃で弾き飛ばされた黒腕。ナチとマオは破壊された衝撃で体勢を崩し、地面に背中から落下する。
黒い獣は弾き飛ばされた衝撃で僅かによろめき、後退。そのまま尻餅をついた。そして弾き飛ばされた方の腕を押さえ、呻き声を漏らしている。
効いているのだ。二人が放った攻撃は、黒い獣に確実にダメージを与えた。
「……行かせは、せん。お前達をあの子の下へと行かせはしない!」
ナチは地面に手を着き、何とか立ち上がる。木に背を預け、落下した衝撃が体から抜けきらないまま、ナチは黒い獣へと視線を向けた。
「僕達は敵じゃないんだ。信じて欲しい、頼む」
「無理だ、諦めろ」
「この分からず屋……」
奥歯を噛み締めながら、ナチは黒い獣を睨みつけた。視線に込めた明らかな怒気。
「あんたは息子を永遠に悪魔にしておきたいのか! 息子を助けたいとは思わないのか!」
「そんな訳ないだろう! 我は」
「僕達はあんたの息子を助けるために来た。あんたの大切な息子が悪魔じゃないって証明する為に来たんだ! 分かったら居場所を教えろ!」
目の前の黒い獣が勢いに圧倒され、刹那の瞬間、押し黙る。その間に腕を押さえながらナチに駆け寄って来たマオが、ナチを見て驚愕を浮かべているのが分かる。ナチの感情の爆発にマオが目を点にしていた。
「だが……」
言い淀んだ黒い獣は静かに息を吐いた。喉を鳴らし、熱い吐息を数度吐き出す。地面の土を雑草ごと握り、それを音が鳴る程の握力で握り潰していた。
ナチは言葉を待った。黒い獣が何を選択し、ナチ達に何を告げるのか。静かに待ち続けた。赤い双眸に視線を向ける。月明かりに照らされた黒い獣の顔を見る。
顎に力が入り、顔が微かに震えている。覗き見える白く鋭い犬歯の様な歯がカチカチとかき鳴らされている。それから、少しの時間、黒い獣は黙考していた。時間にして五分も経っていない。ナチ達へ向けられた赤い双眸に浮かんだ苦悩。何度も口を開きかけては閉じ、言葉を窮している。
そして、黒い獣は息を大きく吸って、握り込んでいた拳を開いた。無駄な力を吐き出す為の脱力。言葉を発する前準備。そうである事を祈りながら、ナチは黒い獣の挙動を見守った。
「我は」
「お母さん。その人達は敵じゃないよ」
突然、背後から掛かる声。ナチ達が進むはずだった森の奥側から聞こえてくる声に、心臓が破裂するのではないか、と思う程に跳ね上がり、鳥肌が全身に広がっていく。だが、目の前の黒い獣程の恐怖は感じない。その声は一度聞いた事がある。聞き覚えがある。だからか、身が竦むほどの恐怖を体が感じない。
ナチは緩やかに背後へと振り向いた。月光が差し込むその場所に、それは居た。月明かりに照らされる黒い体。赤い双眸。先程、ナチ達が戦った黒い獣よりも僅かに小さく、それでも巨躯と呼べる程の体をナチは今日見ている。声も聞いた。初めて対話もした。
それは今日、シロメリアの仕立屋の前に居た獣。シロメリアが捜索の依頼をし、彼を見た瞬間、泣き崩れてしまう程の存在。
ナチ達が探していた黒い獣。それが今、目の前に悠然と佇んでいた。




