十一 黒い獣との対話
シロメリアの仕立屋にたどり着くと、そこには確かに黒い獣が店の前に居座っていた。シロメリアの仕立屋を見つめる黒い獣。赤い双眸はただ家屋を射抜き、陽光に照らされ紅玉の様な美しい輝きを放っている。
黒い獣を囲う様に広がる群衆。武器を構え、無言で黒い獣に武器を向ける群衆は異様な緊張感に包まれ、目の前に存在する戦場は今にも開戦を迎えようとしている。黒い獣が動いた瞬間、戦闘は開始する。正に、一触即発の状態。その兆候を肌で感じながら、ナチは人の群れに囲まれている黒い獣を静かに見定めた。
武器を自身に向ける人々を無視し、シロメリアの仕立屋を凝視している黒い獣。用があるのはシロメリアなのか、この家屋なのか。それとも、この家屋が建っている場所なのか。分からない。今のナチにそれを解明する事は出来ない。
ナチは一度深呼吸し、落ちている葉を二枚拾う。符に変換し、それらに属性を付加。「強化」。ナチはそれを両の太股に張り付けると、指から霊力を放出。属性を具象化する。
効果範囲は腰から両足の爪先まで全てに。属性が発動した瞬間、両足に宿る怪力は、ナチに比類なき脚力を授ける。足に高熱が宿り、神経も血液もその熱に当てられて煮沸されているかの様に活性化する。
足を深く曲げると、足に力を充電。限界まで溜め込んだ力を足を伸ばした瞬間に一気に解放し、ナチは大きく跳躍。宙を舞う体は群衆を跳び越え、五メートル程の高さに一瞬で到達する。ナチの体が黒い獣の上背と重なった瞬間、群衆も黒い獣も、そこに居た全ての生ある存在がナチに視線を向けた。
重力に逆らう事無く自然落下を始めた体は黒い獣の前に勢いよく落下。足に伝わる心地良い衝撃と振動。それら全てを「強化」の属性が相殺し、地面に逃がしていく。
地面に落下すると同時に符を解除し、ナチは符を足から剥がした。属性が離れた足に宿るのは倦怠感。羽根の様に軽かった肉体に、ナチが人で在り続ける限り逃れる事の出来ない重力の波が途端に押し寄せてくる。
全身に宿った気怠さを無視しながら、目の前でナチを見つめる黒い獣に目を向ける。呆然としている様な黒い獣。周りをよく見てみると、突如目の前に現れたナチに誰もが目を丸くしていた。
全員がナチの登場に困惑し、武器を向ける相手を迷っている。余所者の得体の知れない男か。古くから街に伝わる悪魔に刃を向けるのか、彼等は迷っている。
ナチは黒い獣に一歩近づく。群衆が迷っている今がチャンスだ。対話のチャンスは今しかない。赤い双眸にピントを合わせ、間違いなく視線を合わせる。視線が重なった瞬間に、群衆のどよめきが消える。意識が黒い獣に集中しだした結果だ。
対話が出来るのかは分からない。言葉が話せるのかは分からない。だが、知りたい。あの視線の意味を。二度もこの場所に来た意味を。
だから、ナチは昨日と同じ問いを繰り返す。
「君は本当に、悪魔なの?」
その問いに黒い獣は何も答えない。ただナチを見据えるだけで、何も口にはしない。繰り返される静寂に、ナチはもう一度問いを放つ。
「君は本当に、子供を喰らう悪魔なの?」
答えない。何も答えない。静寂にナチの声が無情に響くだけで、返答は無い。起きる気配も無い。ナチは奥歯を噛み締める。
「君は昨日もここに来た。どうして?」
答えない。反応すら見せず、シロメリアの仕立屋へと視線を移動させる。
「君はこの場所に何の用があるの?」
答えない。が、首が緩やかに動き、林檎のように真っ赤な瞳がナチを見下ろす。
「ここは餌場だった? それともここには何かがあるの?」
また答えない。もう何度目か分からない無反応。
「君を封印していた人間がここに住んでいたの?」
動かない。ワドルフという人物がここに住んでいた訳ではないと捉えても良いのだろうか。ならば、シロメリアの仕立屋に二度も訪れた理由は何だ。間違いなく言えることはこの場所と黒い獣にはナチには判然としない深い縁が存在するという事だ。もしくはここに住む人物と縁があるのか。彼女は黒い獣の捜索を依頼したのだから、有り得る話ではある。
そうなると、この黒い獣の目的は、
「君はシロメリアさんに会いに来たの?」
首が微かに動く。ナチを見下ろす瞳が初めて揺れ動く。感情が初めて灯される。この感情の機微がそのまま答えだろう。シロメリアだ。何の目的かは分からないが、この獣はシロメリアに会いに来たのだ。
「君はシロメリアさんとどういう」
ナチは言葉を切った。いや、切らされた。黒い獣の顔が突然、向きを変更したから。
黒い獣の視線がナチから外れ、ナチの左側へと注がれていく。左側に存在するのはシロメリアの仕立屋。つまり、黒い獣は再び家屋へと顔を向けているという事になる。扉が開閉する音が聞こえる。バタンという音が張り詰めた空気の中で鳴動したという事は、扉が閉まった音で間違いないだろう。
ナチもゆっくりと左側を見る。そこに居た人物は予想外でも不自然でも何でもない人物。
シロメリア。シロメリアの仕立屋の女主人が玄関先で静かに佇んでいた。伏せられた瞳は地面を映し、逡巡した視線は右に左に移ろいゆく。悲哀を内包した空気に押し潰されそうな小さな肩は微細な振動を灯し、その凄愴を感じずにはいられない痛ましい姿に自然と群衆の注目は集まっていく。
ナチも黒い獣もシロメリアの姿を黙って見続けた。そして、大きな息を吐くと共に静かに上がる瞳。シロメリアの暗い紫色の瞳に黒い獣がハッキリと映る。耕作する黒い獣とシロメリアの視線。
その瞬間、シロメリアの表情に浮かび上がったのは動揺。それから程なくして相好が崩れ、感嘆の吐息が漏れ聞こえる。目尻に溜まった涙が陽光に煌めき落下したのを、ナチは見逃さなかった。
その後、足に力が入らなくなったのかシロメリアはその場に膝から崩れ落ちた。派手に土壌に尻餅をつき、口を両手で押さえ、黒い獣を見つめるシロメリアは小さな嗚咽を両手に包んで隠そうとする。だが、その小さな音は静寂の中に響いてしまう。全員に伝わってしまう。
黒い獣にもナチにも、二人を囲むブラスブルックの人々にも。
黒い獣がゆっくりと右腕をシロメリアに向けて伸ばす。だが、その手が届く事は無かった。
「シロメリアさんを守れ、お前ら!」
開戦を告げたのは、小さな小石と男性の怒声。それを境に戦闘は開始する。次々と投げられる石や木材。振り下ろされる剣は、黒い獣の黒い毛皮を切り裂き、その後に飛び散る赤い血液がナチの頬に付着した瞬間、ナチは我に返った。
ナチは地面に落ちている木材を手に取り、それを符に変換。「大気」の属性を付加。だが、ナチは属性を付加した所で動きを止めた。黒い獣を守るべきなのか、群衆を止めるべきなのか。ナチは判断に迷い、手に持った符を向ける先を見失う。視線を頻りに動かし、黒い獣と群衆を交互に見る。
黒い獣は無抵抗で群衆の暴力を受け入れている。反撃もせず、血肉を切らせている。どれだけ傷付けられようが、見に宿る膂力を振るう事もない。このままでは黒い獣は倒される。真実が曖昧なまま、この獣は死んでしまう。
「ナチさん! お願いします! 彼を助けて」
シロメリアの怒号と絶叫が渦巻く喧騒に紛れて微かに聞こえる。「助けて」と叫ぶ声だけが、ナチの耳に届く。それだけで十分だ。それに黒い獣を守る事が結果的に群衆を止める事になる。群衆を止める事が結果的に黒い獣を守る事になる。
ナチは符に変換した角材を地面に突き立てると、霊力を放出し属性を具象化。大気が込められた符によって急激に変化する気流はナチを中心に突風を巻き起こし、人の群れを問答無用に吹き飛ばす。地面を転がっていく男性、壁に叩き付けられた女性。
それは人が地に立つ事を許さない自然の猛威。守護と破壊、両方の側面を併せ持つ対極の暴風。
黒い獣に迫っていた人々を全て吹き飛ばすと、ナチは黒い獣を一目見た。ナチが起こす暴風に黒い毛を揺らし、体を丸めている黒い獣に視線を送る。腕からの出血が酷く、血が滝のように地面に落下している。
「早く逃げろ」
黒い獣がナチを見る。黒い獣が弱々しい瞳でナチを見て、視線を揺らしている。ナチの行動の意図を理解できず、黒い獣は困惑と動揺に彩られた赤い瞳をナチに向けている。
「僕は君とシロメリアさんの関係を知らない。でも、シロメリアさんは君を助けてほしい、と言った。だから、僕は君を助ける」
耳を突く風の嘶きに紛れて、微かに声が聞こえてくる。それは少年の様な明るい声質で、泣きじゃくる子供の様に震えた響きでナチに届いた。
「…………ありがとう」
それは黒い獣が発した声だったのか、ナチが放つ暴風が拾った誰かの声なのか。それとも、ナチの幻聴だったのか。届いた声に呆然としていると、黒い獣は強引にナチの暴風を突破。街の外に向かって驚異的な脚力を以って飛び跳ねていく。それを暴風の内側から見送ると、ナチは符を解除した。
暴風が静まる路地に宿るのは、静寂。起きた現実を理解できずに人々はその場に立ち尽くし、黒い獣が去っていった方角を見つめたまま唖然としていた。それは黒い獣が消えるまで続き、森の中に吸い込まれ見失った瞬間に人々の視線はある一点に集束される。
人々の視線は暴風の中心地。つまり、ナチを視界に入れると一瞬の内に静寂は破られた。
ナチは焦る様子も無く、ナチを囲む群衆に目を向けた。囲むだけで、ナチに接近しようとはせず、全員がナチと一定の距離を保っている。距離にして約三メートル。彼等の顔に浮かぶのは、怒りと恐怖といった所か。人ならざる黒い獣に味方したナチに対する怒り。暴風を巻き起こし、黒い獣とナチに一切の接触を許さなかった能力を持つ事による恐怖。
その二つの感情がせめぎ合う事で、この距離を生み出している様だった。今すぐにでも殴り飛ばしてやりたいが、怖くて近付けない。群衆に灯った感情は、きっとそれだろう。
ナチは視線を右に左に動かし、人々の表情を見る。敵意をナチに向け荒い息を吐く人々。だが、これは予想できた未来でもある。人々の目にはナチが黒い獣を助けた様に見えただろうし、実際、助けた様なもの。
よって、ナチを囲む人々にとって、ナチは悪魔に味方をした人類の裏切り者。大袈裟に言えば、人々の目にはそう映った可能性が高い。けれども、もしナチが戦闘に横槍を入れず、黒い獣とブラスブルックの人々が戦った場合、死傷者が出た可能性があった。黒い獣の無抵抗も永遠に続くとは言い切れず、反撃に講じられた場合、形勢は一気に逆転する。
その事実に気付いているのは、おそらくナチだけで人々にとってはどうでもいい事なのだろう。今、彼等にとって重要なのは黒い獣を逃がしたという事実だけ。
群衆の中から坊主頭の老齢の男性が一歩前に足を踏み出すと、ナチを見て震えた唇を動かした。
「どうして、悪魔を逃がすような真似をした?」
「逃がした訳じゃないですよ。皆さんを守ろうとした結果、逃げられてしまっただけです」
「嘘を吐くな。どう見てもお前が悪魔を守った様に俺達の目には映った。お前が俺達を守ろうとしたとは到底思えない」
「思えなくても事実です」
「お前のせいで俺達は悪魔の脅威に晒され続けたままだ。あの時お前が助けに入らなければ、悪魔は殺せたのに。お前が余計な横槍を入れたせいで殺し損ねた」
「殺せましたかね? あの程度で殺せる気になっていたのなら意識の甘さを考え直した方が良いですよ? あのまま戦っていたら、間違いなく死者が出た。あの黒い獣が本気で力を振るえば、包囲を突破する事もあなた達を殺す事も簡単な事だったんですよ?」
ナチの挑発的な口調と声音によって群衆の温度は跳ね上がる。怒りによって次々に野次が飛び、ナチを揶揄する言葉が飛び交っていく。が、ナチは構わず大声を上げた。
「僕一人にすら勝てないあなた達があの黒い獣を倒すなんてことは到底不可能です。証明しましょうか? 簡単ですよ? あなた達を一網打尽にする事くらい造作もないです」
ナチは周囲を一度見回す。ナチの背後で腰を抜かしているシロメリアに視線を向けている者が数人。懐疑的な表情で、僅かに怒りが滲んだ様な瞳でシロメリアを凝視している。
黒い獣を助ける為に符術を放ち、群衆を傷付けたのは確かにナチだ。だが、シロメリアの声が届かなければ、ナチは黒い獣を助けなかった可能性が高い。そして、彼女はナチに大声で黒い獣の救助を求めた。そのシロメリアの救いを求める声を聞いた者は少なからずいるはずだ。
その声を聞いた者は当然、シロメリアに疑念を抱く。お前こそが悪魔の味方なんじゃないのか、と。その疑念の種を放置し続けるのは危険だ。疑念の種が咲き誇り、花を咲かせた場合、彼等がどういう行動に出るのか予測が出来ない。疑念の種は潰しておく必要がある。
「自分の力に自信があるというのなら、どうぞ悪魔を追い掛けて死んでください。僕は止めないですし、手助けもしません。でも、断言はします。追い掛ければ死ぬ。あなた達はあの悪魔には勝てない」
「そんなの分かんねえだろ! 全員で向かって行けば」
「勝てませんよ? もう一度、言います。あなた達は勝てません。だから、言っているでしょう? 死にたい奴は悪魔を追い掛ければいいって」
氷の様に冷徹で澄んだナチの声が路地に響き渡る。見渡しても、ナチの言葉に納得している者など一人もいない。所詮、ナチは余所者。余所者が戯言を垂れている。ブラスブルックの歴史を知らない青年が、深く考えもせずに、口を挟もうとしている。そんな意図を含んだ視線がナチへと向けられている。
「あなた達程度の実力で倒せるのなら、悪魔は五十年前に死んでます。倒せないから封印するしかなかった? 違いますか?」
「余所者が……」
「確かに君の言う通りなのかもしれないが、なら私達の生活はどうなる。君のせいで悪魔は森に逃げてしまったし、次はいつ街に下りてくるかも分からない。君は私達に悪魔の恐怖に怯えながら暮らせっていうのか」
ナチは内心で口角を歪に上げた。その質問を待っていた。その問いが投げ掛けられるのをナチは待っていた。
「僕が倒してきますよ。この街から悪魔の脅威を払って見せます」
「そんな事……できる訳が」
ナチは群衆に一歩近づくと、無感情の瞳で人々を見渡した。誰もがナチに視線を向けている。シロメリアに向いていた視線も驚愕に淀み、シロメリアの言葉が無事に脳内から失念している様だった。
「僕は余所者だ。僕が死んでもあなた達には何のデメリットも無い。逆に僕が悪魔を倒せれば、この街から悪魔の脅威は取り払われる。良い事尽くめだ」
「だが……」
「あなた達は悪魔を倒したいのでしょう? なら、ここは迷う所じゃないと思うのですが?」
最初に声を掛けてきた老齢の男性がナチに詰め寄ると、ナチの胸倉を掴んだ。体を強引に引き寄せられ、視線が無理矢理に重なる。
「そこまで言うのなら、やってみろ。だが、俺達はお前に何の助力もしねえ。お前が勝手に悪魔に挑むんだ。死んでもお前の責任。それでいいな?」
「別に構わないですけど」
ナチは老人の服を掴むと、自身の額を老人の額に当てた。じんわりと滲んだ老人の汗が前髪を濡らす。
「後で吠え面掻くのはあなた達ですよ?」
「言うじゃねえか。ならやってみな。お前の骨は一つも拾ってはやらねえが、お前の死に様くらいは見届けてやるよ」
ナチと老人の男性は同時に胸倉から手を離すと、同時に距離を取った。ナチはシロメリアの下へ。老人は群衆に向かって歩いて行き「さっさと解散しろ! 悪魔はこの余所者の坊主に任せりゃいい! さっさと仕事に戻れ!」と乱暴に群衆を解散させ、老人も路地を大股で闊歩していく。
路地に消えていく数人から嫌味混じりに文句を言われ、誰かに肩を小突かれる。ナチが少しふらついていると、ナチを囲んでいた群衆はあっという間に消え失せ、ナチとシロメリアだけが路地に取り残された。
土の上で目を伏せるシロメリアの下へと近付き、彼女に手を伸ばす。シロメリアは礼を言いながら、ナチの手を取ると、ゆっくりと立ち上がった。スカートに付いた土を払い落とし、ナチを揺れる瞳で見つめる。
「すみません、ナチさん。私のせいで、大変な事に」
「気にしないで下さい。あの黒い獣を本気で倒そうとは思ってないですし。この街に伝わっている悪魔の話もどこか信憑性に欠けてますからね。悪魔だと断定するには少し情報が貧弱です」
シロメリアは少し驚いた様な顔をした後、黒い獣が逃げていった方角へと視線を向ける。
「ナチさんは、あの黒い獣が悪魔だと思いますか?」
「正直分からないです。最初は悪魔なのかもしれない、と思っていたんですけどね。でも、あの黒い獣は最初に書庫で見た時も今も、人を傷付ける事は絶対にしなかった。だから今は自分でも良く分からないです」
「そう、ですか」
少し残念そうに、でも少しだけ嬉しそうな表情を浮かべながらシロメリアはナチを再び見た。
「ナチさんは不思議な人ですね。冷静な様で意外と感情的ですし、抜けている様で物事を慎重に見定めている。わざと挑発的な物言いをし続けていたのは私に向いていた視線を自分に向けさせる為、ですよね?」
「そんな事は無いですよ。元から挑発的な口調なだけです」
あらあら、と笑うシロメリアは一度暴風が起きた中心地に目をやった。
「あの黒い獣を当時のブラスブルックの人々が初めて見た時、今日と同じ事が起きたんですよ」
苦しそうに笑うシロメリアを見て、ナチは小さく頷いた。
「悪事を働いた訳ではないのに恐ろしい姿をしているから、という理由でこの街の人達は彼に武器を向けた。あの時も、一方的でした。無抵抗の彼に武器を振るい続ける人々。私はあの時、幼かったですが気付いたんです」
シロメリアが左手で右肘辺りを擦る。
「人は本質を見ない。上辺だけの情報で完結してしまう事に。そして、一度刷り込まれた妄信は心に深く、辛抱強く刻まれてしまう。だから、彼はワドルフさんに利用されてしまったんです」
「ワドルフさんに利用された? ワドルフさんというのは誰なのですか? あの黒い獣を封印したと聞きましたけど」
「ワドルフさんの事は私もよくは知りません。黒い本を使って、彼を閉じ込めた。その程度の情報しか私は持ってはいませんが、頭の良い方で人望がある人だった事は覚えています」
「……黒い本には何も書かれていませんでしたよ?」
ナチの困惑にシロメリアの驚嘆が上乗せされ、二人は目を見開いた。
「そんなはずは」
「二人共、深刻な顔してどうしたんですか?」
二人は同時に、声がした方へと振り向いた。ネルとマオだ。二人が同時に勢いよく振り向いた事に驚きながらも、マオはナチに上着を返した。
「ありがとう、お兄さん」
「いや、それは良いんだけど」
「どうしたの?」
マオとネルが首を傾げる。ナチは先程までの喧騒を説明。黒い獣が現れた事。その後に起こったナチと群衆の一騒動。その結果、黒い獣を捜索し撃退する事になった事を。
それを聞いた二人は深い溜息を吐いた。
「ナチは意外と世渡りが下手だねえ。適当に嘘吐いて誤魔化せばいいのにさ。まあ、そんな適当な人じゃ困るんだけど」
「お兄さん真面目すぎてハゲそうなレベルだし、しょうがないよ」
「あらら、ハゲ予備軍か。悲しい未来だね」
「……とにかく今から悪魔予備軍を探しに森に行くから」
ネルとシロメリアが首を縦に振る。お願いします、と深くシロメリアに頭を下げられ、ナチは力強く返事を返すと、二人に背を向けた。
「マオ。行くよ」
「うん」
シロメリア達に別れを告げ、ナチとマオは黒い獣が消えていった方角に向かって歩き出した。眼前に見据える森林に向かって。




