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十 氷と氷

 次の日の昼下がり。


 ナチとマオはブラスブルックを観光した時に見つけた空き地に立っていた。周囲には何もなく、家屋や店は最も近い位置で二十メートルは離れた場所にある。地面には天然芝が生え、盛大に転がったとしても痛みは緩和される。


 特訓するに相応しい場所といっても過言ではない。


 途中、書庫にも立ち寄ったのだがコルノンの姿が見えなかった為、すぐに書庫は離れた。黒い本の捜索の進展の有無を聞きたかったが、姿が見えないのであってはどうしようもない。


 ナチは眼前で澄んだ雰囲気を身に纏い、少女には幾分不相応な濃い闘気を放つマオを視界の中央に捉える。彼女も瞳に込めた闘気をナチへと向け、悠然と上下する瞼が艶めかしくナチを挑発する。視線が重なった両者の間に吹く緩やかな風は二人の心に芽生えた闘気の炎を猛々しく燃え上がらせる。


 そして、ナチは左手に収まっている符に属性を込める。全快したから霊力は肉体から鎖から解き放たれた獣のようにナチの体内で熱く迸っている。火山から噴火するマグマのように滾る霊力を指先から放出し、ナチは属性を具象化する準備を終了させる。


 符に込めた属性は「氷結」。ナチは符を投げ飛ばすと同時に属性を具象化。空気中に含まれる水蒸気を氷結させ、符を覆い包む様に氷の礫は形成されていく。弾けるスライムを凍結したかの様な歪で不定形の氷は直線上に立つマオに向かって直進。不規則な軌道など必要はない。勝敗はすぐに判明するからだ。


 ナチが撃ち出した氷。それはマオが迎え撃つように放った水晶玉の様に流麗な線を描く丸い形状の氷に、瞬く間に撃墜された。拮抗する余韻も無く、ナチの氷は一瞬で砕け散り、それでもマオの氷は勢いを失わない。速度を落とす事無く、ナチの眉間を撃ち抜く為に直進を尚も続けている。


 完全な敗北だ。


 勝敗を喫した理由はおそらく氷に含まれる不純物の有無。ナチが作り出した氷は空気中の水分を氷結させて精製した為、空気に含まれる酸素や窒素が、そのまま気体として氷に内包されている。それが不純物となり、分子の結合を弱めてしまい、マオが作り出した氷に比べると密度が低く、脆い。


 意識して作っているとは思えないが、マオが作った氷には不純物がほとんど皆無で高密度に精製している為、ナチが作り出した氷よりも重量が重く、硬い。おそらくはそれが勝敗を分けた要因。


 その証拠に、マオが作り出した氷は透明。不純物を多く含み、氷の内部が白く濁ってしまっているナチの氷とは全くの別物だ。氷の精製能力だけで言えば、マオはナチよりも遥かに高い技術を有していると言ってもいい。


 ナチは飛んできた球体上の氷を体を捻って躱し、氷が自然落下するのを見つめた。地面に落下しても砕けない氷を目で追っていると、ナチとマオの特訓を観戦していた三人の子供達が木の柵に乗りながら一斉に声を上げた。


「姉ちゃん、すげえ」


「お兄ちゃんに勝った! 凄いよ、お姉ちゃん」


「凄い……」


 元気で明朗な気性の男の子と女の子。そして読書が好きそうな大人しい雰囲気の男の子は目を輝かせながらマオに声援を送る。真っ直ぐな声援にマオは少し照れながらも、笑顔で子供達に手を振った。ナチにも声援は来ないかな、と忠犬の様に待ってみるがナチには声援は掛かることはない。


 少し寂しいな、と思いながらもナチは氷からマオへと視線を移す。


「今の氷、どうやって作ったの?」


「硬くなるのだ、氷よ、って思いながら」


「本気? 馬鹿なの?」


「マジ。おい」


 予想以上に感覚と本能で生きている脳筋少女だった様だ。だが、マオが言っている事がもし事実だとすれば能力を発現させている器官は脳の可能性が高くなる。


 もしも能力を発現する器官が脳だとするのならば、能力者の感情が能力に影響する可能性は確かにある。マオが硬度の高い氷を強く心象に思い描き精製しようとした場合、脳が自動的に氷の精製過程で不純物を取り除き、水分子の結合を高める可能性はある、かもしれない。


 全ては可能性の世界であり、推測の域は出ない。あり得るかもしれない、というだけの話だ。が、超能力というのは科学では証明できない超常現象であり、ナチが知り得る常識を簡単に覆す。完全に否定する事は出来ない。


 それにナチが思い描いた過程がもし真実ならば、客観的に見れば弱く有象無象な能力も、想像力を養えば強者に変貌する可能性が見えてくる。


「私の氷、何か変だった?」


「いや、変ではないよ。変じゃないんだけど」


「けど?」


 マオは怪訝そうに首を傾げた。


「思っていたよりも氷を精製する技術が高度だったから、驚いただけだよ」


「本当に?」


 そう言うと、マオの顔がぱあっと輝いた。嬉しそうにはにかみ、目を細めている。それは親に褒められた子供が見せる歓喜の表情の様にも見える。あまりにハッキリと喜ばれた事に困惑しながらも、ナチは笑顔で首を縦に振る。すると、マオの笑顔は一層輝きを増した。


 褒められれば誰だって嬉しいと思う。マオも同じ。ナチだってそうだ。年齢をどれだけ重ねようが、褒められれば素直に嬉しいと思う。マオが喜んでいる理由もきっとそれだろう。褒められたから嬉しいと感じた。嬉しくなったから笑顔を浮かべた。きっと、そういう事だ。


「なら、私はお兄さんの師匠に昇進だ」


「へえ、おめでとう」


「感動が薄いよ。もうちょっと感情込めてよ」


「あーはいはい。おめでとー」


 マオの視線が途端に冷ややかな物に変わる。言わせたくせに、と内心思いながらもナチは背後のマオが作った水晶の様な氷に目を向ける。ナチは首を傾げた。未だに融解を開始しない氷。液体に戻る気配が見られないそれをナチは見つめた。


「あの氷、溶けてないのか?」


 独白の様に呟かれたナチの言葉に、マオは首を捻った。「そんな事あるわけないよ。だって、氷だし」と笑いながらマオは言うが、実際に眼前に落ちている氷に融解する兆候は見られない。


 確かに、不純物を含まない氷は溶けにくいとされる。だが、水を凝固させて精製した氷は溶けにくいだけで必ず溶ける。どれだけ不純物を取り除き、水の分子同士の結合を強めても、それは変わらない。必ず融解し、液体に戻る。


 常に凝固点を下回る寒冷地帯に居続けるのならば話は別だが、ブラスブルックは水の凝固点よりも気温が高い。気温以外の固体を保ち続ける、冷凍庫の様な人為的な冷凍空間なども存在しない。固体を保ち続ける事は、不可能なはずだ。


 他に何か要因が存在するのか……?


「まだ作ってそんなに時間経ってないし、そのうち溶けるって。それよりも特訓するよ、特訓」


 確かに氷を精製してから時間はそんなに経っていない。まあ、そのうち溶けるか、と半ば無理矢理に納得すると、マオへと向き直る。


「そうだね。特訓に入ろう」


 そう言って、符を取り出すとナチは属性を込める「氷結」。ナチとマオが同時に構えると、見ていた子供達も再び歓声を漏らす。圧倒的にマオが支持されている事には耳を傾けず、ナチはマオを見据える。


「行くよ、お兄さん」


「お手柔らかにね」


 膝を曲げるマオ。深く前屈みになった彼女はナチに向かって突進。不自然なほど単調な動きがナチの注意を吸い込む様に引き寄せていく。そのせいか、ナチは彼女の背後で意気揚々と鳴りを潜めていた三本の牙に一瞬気付けなかった。マオに単調な動きと体に隠れるようにしてナチを狙う氷柱が三本。それらはマオを追い抜くと、高速で射出される。


 ナチは左側に大きく跳躍し、迫る氷柱を躱す。ナチの右側を通り過ぎる氷柱。地面に突き刺さる氷柱が二本。一本足りない。ナチは視線を彷徨わせる。


 もう一本の行方を探るがナチの視界に映るのは、迫って来るマオだけ。マオから視界を逸らす事も出来ず、ナチは後方へ跳躍。その瞬間、左側から空を切る音が鳴動する。おそらく、左側から迫ってきている、一本の氷柱。氷柱の最後の一本。


 ナチは一瞬だけ視線を左側へと向ける。向かって来ているのはやはり先程の氷柱。


 持っている符を左側に投げ飛ばす。投げ飛ばした瞬間に霊力を放出し、属性を具象化。生み出すのはナチの上背と同じ体積を持つ、箱の様な形をした正方形の氷。それを長方形に形状を変化させ、地面を這うようにして向かってくる氷柱にぶつける。


 ナチが生み出す氷ではマオの氷は防げない。それは先程ナチの目の前で実証されている。となれば、体積が小さい氷では簡単に貫通され、破壊されてしまう。ならば、ナチに出来る事はマオの氷の勢いを減衰させ、動きを静止させる事だけ。マオの氷は驚異的な貫通力を持っている訳じゃないのだ。長大な障害物を用意すれば、ナチの氷でも止められるはずだ。


 ナチが生み出した長方形の氷に何かが突き刺さる音。氷を抉り、貫通していく音が耳に届く。が、それも途中でパタリと鳴り止んだ。聞こえなくなる貫通音。マオの氷は止まった。これでナチに迫って飛来してくる氷柱は消えた。


 符をポケットから取り出すとナチは後方へ跳躍。迫りくるマオから距離を取る。符に属性を付加。「氷結」。それを何度も破り、一枚の符を二十三枚に。そして、それを地面にばら撒くと同時に指を立てる。芝生の上に落下する白い紙に気付いた、マオが咄嗟に足を止めようとする。


 だが、全速力で突進していた体は急停止を拒む。全力で前に進もうとする力を足は止められない。だから、マオは符が散らばった地面に強制的に足を踏み込まされる。


 ナチは霊力を放出し属性を具象化。その瞬間、符に散らばった氷は一斉に氷結を開始する。マオを包む様に展開される氷の壁は、まるで鳥籠の様に彼女を覆っていく。白い煙を放ち、ペキペキと音を立てながら作り上げられる氷壁はあっという間にマオを包み込んだ。


「まだだよ、お兄さん」


 氷牢内でマオの声が反響する。氷内部でマオが動いている。その影が見えた。その場から動いていないという事はおそらく氷を作っているはず。反撃の氷撃を。彼女はまだ勝利を諦めていないのだ。


 させない。マオが氷を作り終える前に倒す。ナチの脳内から特訓という概念が消えていく。今行っているのは正しく死闘なのだとナチの思考は錯覚を始めていく。

 

 ナチは霊力を流すと氷牢内部を氷結させ、マオが動ける余白を奪っていく。密閉空間内で壁や天井が狭まれば人は焦り、冷静を失う。特殊な訓練を受けた者か、サイコパスなどの精神病質者を除けば、人は少なからず焦り、適切な判断を見失う。


 ナチは芝生を引き千切るとそれに霊力を込め、符へ変換。属性もすぐに込める。「氷結」を込めた符を宙に投げると属性を具象化。無数の符は同時に氷結を開始し、それらは全て連結していく。


 生み出されたのは巨大な爪楊枝の様な氷柱。それをナチは袖越しに握る。氷を直接握れば凍傷は免れず、皮膚の剥離は避けられない。ナチは氷柱の先端を氷牢に向けて、駆け出していく。


 氷柱の先端が氷牢に当たる直前で霊力を放出し、マオを覆っていた氷壁を破壊する。ガラガラと音を立てて崩れ去る氷牢。視界に再び顕現するオレンジ色の少女。


「甘いよ、お兄さん」


 ナチは氷柱をマオの喉元に突きつけた。それをナチが少しでも動かせば、マオの喉元に深く突き刺す事が出来る。この模擬戦闘はナチの鮮やかな勝利。ではなかった。


 ナチの首筋に当たる氷の剣。ひんやりと冷たい感触と共に、透明の刃がナチの皮膚を少しだけ切り裂き、垂れる血液が氷の剣を伝う。マオの手元に付着したナチの血液は瞬く間に凍結し、赤い結晶となって地面に落下した。


「ざーんねん。引き分けだよ、お兄さん」


「そう……みたいだね」


 ナチとマオは不敵に笑顔を浮かべると、互いに持っていた氷柱と氷剣をお互いに芝生の上に捨てた。すると、マオは両手で腕を擦りながら、体を震わせた。白い吐息を口から漏らし、睫毛や髪の一部には霜が付着し、桜色だった唇は紫色に変色してしまっている。


「寒い……」


 チアノーゼだ。寒冷空間に閉じ込められた事による急激な体温の低下。唇が紫色に変色しているのはそれが原因だ。ナチは符を一枚取り出すと、上着をマオに羽織らせる。


「ごめん、僕のせいだ。すぐに何とかする。ちょっと待ってて」


 ナチは持っていた符に属性を付加。「火」。属性を具象化し、温度を四十度程度に設定する。それをマオに手渡し、握らせると、その上からナチもマオの手を包み込む様に握り締める。


「あったかい……」


「もう少し熱くした方が良い?」


「大丈夫。お兄さんの手、あったかいから」


「でも」


 マオが柔和な笑みを浮かべる。首を僅かばかり傾け、ナチの表情を見てくすくす笑っている。


「もう。そんなに心配しなくても大丈夫だって」


「でも僕のせい……だから」


「どうせ戦うのに夢中になってたんでしょ? リルと修行してた時もそうだったし、お兄さんって意外と熱くなりやすいよね」


 図星だ。途中から特訓という名目を失念していた。普通に戦闘を楽しんでいた。いつかのリルとの特訓と同じ。夢中になりすぎて、状況を忘れてしまっていた。それに慚愧の念を抱いてるとマオがナチの手の中で自身の手をくすぐったそうに動かした。


「私も同じ。お兄さんと戦うのが楽しすぎて、特訓だったこと忘れてた」


 唇にほんのり桜色が戻り始めるマオは、少女らしい朗らかな笑みを浮かべた。その後すぐ表情に苦渋が混じる。


「お兄さんはやっぱり強いね。私の完敗だ」


「引き分けだったでしょ?」


 マオは首を横に振る。視線を落とし、ナチに握られた自身の手を見つめている。


「引き分けに持って行けたのはお兄さんが氷しか使わなかったからだよ」


「手加減した訳じゃないよ」


 その言葉に嘘偽りはない。ナチは全力だった。符に「氷結」の属性のみを付加し戦闘したのはナチの意地だ。負けたくない、という子供染みた対抗心だけで属性を単一に縛っていた。その選択を取った事に後悔はない。


「うん、知ってる。でも、もしお兄さんが違う属性を使ってたら私は負けてた。それは事実だから」


「マオ……」


 ナチは視線を伏せた。握っているマオの手に視線を逃がす。


「でもね、お兄さんが氷だけで戦ってくれて良かったって思うんだ」


「どうして?」


「だって、自惚れとか自信って自分じゃ消せないでしょ? 自分よりも強い人が壊してくれないと消えないから」


 視線を上げてマオを見ると彼女は微笑を浮かべながら、ナチの手を見つめていた。そして、ナチと視線が合うと微笑からハッキリと笑顔に変わる。


「だから、氷を使うお兄さんに負けた私の自信はもうボロボロだよ。そりゃもう、お兄さんのコートの様にボロボロだよ」


「そうは見えないけど」


「そりゃそうだよ。自信なんて目には見えないんだから、ボロボロかどうか何て私にも分からないよ」


「いや、そういう事じゃなくて」


 言動と態度が一致していない、という事を言いたかったのだが、マオが笑顔なのでナチはそれ以上の事は何も言わなかった。


「でもさ、強くなろうと思った時に一番邪魔になるのは自信とか驕りとかそこら辺だと思うんだよねー。自分が強いって自惚れてる時に特訓とか修行なんてしないでしょ?」


「それはまあ」


 自惚れているという事は現状の実力で満足しているという事だ。満足している状態というのは新たな技術や知識を望んでいない状態とも言える。そんな状態で特訓したとしても効果は無いし、強くなれる事も無い。現状を維持するだけの特訓を繰り返すだけだろう。


「だから、強くなりたい時は自信を捨てなきゃいけないんだよ。自分が弱いって認めなくちゃいけないんだよ、きっと。弱さを自覚して認めて、初めて強くなる為の準備が整うんだと思う」


「……本当に君はマオなの? 何か乗り移ってない? マオがそんな意識高い事言えるはずが……」


「マオだよ。失礼な。私の事なんだと思ってるのさ」


 珍しくマオが真面目な事を言ったせいか本当にマオの偽物なのではないか、と疑ったが目の前に居る少女は間違いなくマオだ。この物言いは間違いなくマオだ。


「とにかく、私は今日弱さを自覚した。だから、これから強くなれる。お兄さんを踏み台にして私は強くなれる」


 最後の言葉が無ければ素直に称賛できたのに、と思いつつナチは助言染みた言葉を口にしてみる。


「……強くなりたい時は、なりふり構わない事だよ。人から吸収出来る物は全て吸収して、盗める技術は全て盗む。そして、効率的に特訓して意味のある実戦を繰り返す。それを全力でし続けていれば、いつかは強くなれる」


「いつかなの?」


「強くなれる保証が無いのに、必ず強くなれるなんて軽率な事は言えないよ」


「真面目だねえ、お兄さんは。ハゲるよ?」


「真面目だよ、悪いか? あとハゲはやめて」


 少しおどけて言ってみると、マオは目を閉じながら首を横に振った。


「悪くないよ。でも、もう少し気を抜いた方が良いよ。そんなに真面目すぎるとまた倒れちゃうよ?」


 それは昨晩考えていた事だ。昨晩、答えを出した主題。


「……そうだね。そうする」


 マオが少しだけ驚いた顔をした。


「どうしたの? そんな素直になって。怖いよ?」


「マオが言ったんでしょ?」


「んー、もっと理屈っぽい答えが返ってくると思ってたから、少し意外で。どうしたの?」


「……今一緒に旅をしているのはマオだから。世界を渡り歩いていた時の習慣とか考え方から一回離れるべきなんだよ。あの時の習慣、というか考え方はかなり滅茶苦茶だったから」


 マオが何か言い辛そうに視線を下げるのを見て、ナチは首を捻った。どうしたのだろうか。今の話に落ち込む様な箇所があっただろうか。


 ナチが声を掛けようか迷っていると、静かにゆっくりとマオの視線が上がった。


「……お兄さんが前に一緒に旅してた人って」


「二人共!」


 空き地に響く絶叫。女性の声だ。しかも、聞き覚えがある。


 ナチとマオは同時に声がする方へと振り向いた。ネルだ。二人の特訓を見物していた子供達に紛れて、息を切らしているネルの姿が見えた。ナチはマオから手を離し、ネルへと近付いていく。その後をマオも続き、ネルの前まで駆け寄っていく。


 地面にボトボトと雨の様に降り注ぐ雫。ネルの頬から洪水の様に垂れていく汗。それを見て、彼女がナチ達を探す為に必死に街中を駆け回ったのだという事実に気付く。


「どうしたの?」


 どう見ても緊急事態。ナチとマオは固唾を飲んで呼吸が覚束ないネルの言葉を待った。


「黒い、大きな獣が街に現れて」


「どこに?」


 息が荒々しいせいで訥々と話すネルの背中をマオが頻りに擦る。


「シロメリアの、仕立屋の前」


 ナチはシロメリアの仕立屋がある方角へと体を向ける。目的地に行き付くまでの経路を頭の中で計算し、すぐに最短ルートを選定する。


「二人は後からゆっくりと来て。僕は先に行く」


「一人じゃ危険だよ」


「問題ないよ。それに少し確かめたい事があるんだ」


「でも」


「大丈夫。戦うつもりはないから。じゃあ、先に行くね」


「ちょっと待」


 マオが何かを言い切る前にナチは、駆けだした。目的は黒い獣との対話。真実の検証。黒い獣がこの街に再び現れた理由は分からないが、対話する機会はそう何度もあるものじゃない。


 ナチは走りながら地面に落ちる葉を拾うと同時に、それを符に変換した。

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