九 闇に浮かぶ、赤い光
ナチが目覚めたのは、全員が寝静まっているだろう時間帯。深夜。濃紺と月光の対比だけが空を支配する時間帯。静寂に包まれた家屋、その自然の静寂に包まれた時間にナチは一人起き上がる。
目を覚ましたばかりの頭は覚醒の時を静かに待ち続け、開けたばかりの視界は月光さえも拒もうと目を細める。
起き上がろうとした体から、何かが落ちる。それはマオの上着。マオの匂いを濃く残すそれが、ナチの体から静かに床に落ちた。
ナチは上着を拾いながら微笑んだ。彼女が部屋を出る前にナチは意識を落としてしまった為に特定する事は出来ないが、おそらくはマオがナチに掛けてくれたのだろう。そして、上着を綺麗に畳み、立ち上がるとナチは体を伸ばした。凝り固まった腰と背中の痛みに苦悶しながら、ナチは眠る前のマオを思い出す。
悲痛を感じさせる声、表情。マオの表情にこびり付いた怒り、恐怖。それが何に対する怒りや恐怖なのかは明確には分からない。それでも彼女は言っていた。無理をして取り返しのつかない事になったら、と。
彼女は知っているのだ。休息を取る事の正しい意味を。疲弊し集中力が切れた体や思考を以って事を成す事で起こる最悪の可能性を。彼女は経験則から言っているのだ。
実際、マオの言う通りだった。霊力の長時間に亘る使用。それによって引き起こされる体内霊力の枯渇。ナチの体が急速に疲弊し、意識が猛烈な眠気によって混濁した理由も主にこれらが原因だ。
霊力の大量消費、枯渇によって命を落とす事は無いが、それでも目に見える形で代償は表れる。それは睡眠だ。脳が霊力の枯渇を確認した瞬間、肉体は睡眠する為の準備を強要される。つまるところ、意識の強制シャットダウンが本人の意思とは関係なしに引き起こされる。
霊力の消費量が多いだけならば数時間も眠れば体内霊力量は元に戻るが、もし霊力が体内から枯渇した場合、それを全快する為に十日以上の眠りに着く可能性もある。
今回はそこまでの大事ではなかったが、脳が体を休めようと肉体に指示を出していたのは事実だ。書庫を出た時のナチは行動できなくはないが、心身は疲労困憊。常に睡魔が襲い、気を抜けば意識の混濁が始まってしまう、という危険な状態だった。当然、マオの特訓に付き合うなど不可能だ。
疲れたなら疲れたと言ってくれと、マオに言われた言葉が胸に刺さる。マオに連れられて、ここに戻っていなければナチは道端で倒れていたかもしれない。もし倒れていたらマオに迷惑を掛けるところだった。決して軽くはない成人男性をここまで運ばせる所だった。
ナチは頬を叩いた。乾いた音が部屋に響き渡る。
ナチは事実を見誤っていた。この世界に降り立ったのがナチだけだという事実を正しく受け止められていなかった。もうナチはナキと旅をしている訳ではないのだ。無茶を押し通せた以前の旅とは違う。ナチが気絶しても常に傍らで守ってくれていた「最強の盾」はもう居ない。
ナチが旅をしているのはマオなのだ。彼女は世界を救う可能性を持っているとはいえ普通の少女だ。ナチが道端で気絶すればマオの力では運搬するにも時間や労力が必要以上に掛かるし、ナチが霊力の枯渇による強制睡眠に陥った場合、彼女一人ではサリスの襲撃に耐えられない。その可能性を見事に失念していた。
それに旅を共にする仲間が変わった以上、今までの習慣は変える必要がある。霊力量は調節し枯渇しないように心掛ける必要があるし、これからはマオと協力して物事を進める必要がある。博識で、聞けば何でも教えてくれたナキという存在が離れた以上は基本的にはこの世界の住人と協力する必要がある。
つまり、マオだ。ナチにとって、この世界で最も頼りになるのはマオであるし彼女はこの世界において、ナチにとっての命綱と言ってもいい程に重要な人間だ。世界を救う可能性を持ち、異世界や世界樹などの情報を知っている数少ない人物。
それに彼女が居なければウォルフ・サリのメンバーをナチ一人で尋ねたとしても門前払いが良い所だろう。つまり、旅をするうえでも彼女の存在はかなり重要な立ち位置にいるという事だ。
「マオ、起きてるかな」
耳を澄ましても音がしない事から、マオが起きている可能性は限りなく低いが確認するだけならばすぐに出来る。ナチが窓から扉へと視線を向け歩き出そうとした時、突然部屋は暗くなった。薄暗かった部屋は濃い黒に包まれ、一瞬目の前に掲げた手の平すら見えなくなった。
背後を振り返ると、月明かりに反射して白く煌めいたガラス窓が影の様な黒に覆われていた。差し込んでいた月光を遮る黒の中に浮かぶのは、二つの赤い光。窓に映る人の血を球体状に凍らせた様な赤い光は自発的に左右に動き、上下にすら動いて見せた。
ナチはすぐにこの月光を遮り、赤い二つの光を浮かべる存在に心当たる。蝋燭の灯を浴びても損なわない黒に、鮮血に彩られたかのような紅い双眸。二階の窓を覗けるだけの巨躯を有する生物をナチはこの街で目撃している。いや、解き放っている。
黒い獣だ。
音も無く現れた黒い獣は、何をする訳でもなくナチが眠っていた部屋を眺め、ただ呼吸を繰り返している。動く気配も見せない。本当にただ部屋を眺めているだけ。
黒い獣の肺活量が尋常ではないのか、鼻息が当たる度に窓はガタガタと大きく揺れ、深呼吸を三回ほど繰り返せば窓は破壊されるのではないかと言う不安にナチは駆り立てられる。気が付けばナチはポケットから符を一枚取り出していた。
だが、ここはシロメリアとネルの家。この場所で戦闘するなど以ての外だ。ここで戦闘を行えば、黒い獣が瞬く間にこの家を破壊し、この家に住む住人を殺すだろう。それを行うだけの膂力を持っている事は書庫の扉を破壊した事で証明されている。それは避けなければならない。
そして戦場は慎重に選ばなくてはならない。少なくともこの家からはかなりの距離を取る必要がある。街中で戦闘をする事も現実的ではない。この獣が一度腕を振るえば、家屋は倒壊し死体は積み重ねられる。最も現実な戦場として考えられるのは街の外。むしろ、壁の外以外での戦闘はあり得ない。
となれば黒い獣を街の外へと誘導する必要がある。黒い獣を外に誘導する策はあるにはあるが、正直自身は無い。が、この場所で戦闘をして死体を量産するよりは余程被害を最小限に抑えられるはずだ。
よし、とナチが扉に向けて歩こうとした時、不意に窓の揺れが収まった。部屋に静寂が戻り、今度はナチの荒い呼吸が部屋の中で立ち込め始める。緊張と不安のせいでナチの呼吸は不自然なほどに荒くなっていく。
そしてゆっくりと振り向いた。すぐに赤い双眸と視線が重なり、ナチの心臓がドクンと強く脈を打った。速くなり続ける鼓動とは裏腹にナチの呼吸は徐々に速度を落としていく。それは黒い獣の威容に心が取り込まれてしまった証拠だ。恐怖が気道に詰まり呼吸をせき止めてしまっているかのように吐息は体外に漏れない。
子供を喰う悪魔。本に封印された異形の怪物。五十年前の災厄。嫌な噂ばかりが頭に浮かぶ。荒唐無稽の噂が脳裏を掠め続ける。
過呼吸の様な浅い呼吸を繰り返し、ナチは思わず一歩、後ろに下がった。一歩下がった程度ではどうしようもない事を知りながら、それでも恐怖を紛らわす為に一歩下がる。それから数歩下がるとナチの背中は壁に激突。背中と壁をぴったりと合わせ、ナチは背水の陣と言わんばかりに全身に力を込めた。
そんな余裕の無さを露呈しているナチを嘲謔しているかの様に紅い双眸は今もこちらを見ている。その視線から瞳を逸らす事は何故だか許されない気がして、ナチは手に持った符を強く握ると視線を重ね合わせる。
それから黒い獣とナチの沈黙は続いた。耐え難い長い沈黙にナチの理性は酷く攪拌される。この沈黙を破らなければナチの理性はこのまま攪拌され続け、ナチの心は音を立てて崩れ落ちそうになる。そう確信した時、ナチは無意識に口を開いていた。
「君は…………悪魔なの?」
自分の心を守る為に放った言葉は自分でも理解しがたい問いだった。どうしてそんな質問をしたのかも判然としない。ナチが呆然としていると、黒い獣の顔が遠ざかっていくのが見えた。黒い獣が窓から離れた事で、再び部屋の中に差し込み始める月明かり。
窓から見える黒い巨躯が遠くなっていく。それから黒い獣はシロメリアの仕立屋に背を向け、空を見上げている。月光を浴びる黒い獣はどこか寂寥感を漂わせ、ゆっくりと一度だけナチを見た。
その視線にどういう意味があったのかは分からない。
呼んでいるのか……?
分からない。ナチには答えられない。だから、その答えを求めてナチは扉を開いた。未だに震える足を何とか動かしナチは階段を駆け下りた。寝ているかもしれない三人の事は既に頭には無く騒々しい足音を立てながら、一階に下りていく。
暗い作業場を抜け、ナチは玄関を勢い良く開けた。その勢いのまま外へと出たナチは周囲を確認。首を、体を、瞳を動かし辺りを確認する。居ない。黒い獣はもうどこにも居ない。
これが人間だったのならば短時間で遠くには行けないはず、となるのだが、黒い獣にその理屈は通らない。あの巨体と膂力ならば、短時間でここから長距離を移動する事が出来る。その気になれば街から高速離脱する事すら可能だろう。
もう黒い獣はここには居ないのだ。
唐突に拭いた夜風が砂塵を運び、手に持っているマオの上着を揺らす。また足下に出来上がっている巨大な足跡の上に積もっていき、その痕跡を隠そうと躍起になっている。これは黒い獣がここに来たという証明。ここに居たという証。
何をしに来たのだろうか。
黒い獣はただここに座って、シロメリアの仕立屋を眺めていただけだ。家屋を破壊する訳でもなく誰かを襲う訳でもなく、ただここに座って眺めていただけだった。そこに悪意など存在しないように思う。
分からない。本当に悪魔なのか。本当に子供を殺して喰らっていた災厄だったのか。
それに応えてくれる者は、もう居ない。人通りも無い、静寂に囲まれた路地で一人、ナチは街を囲む森へと視線を向けた。鬱蒼と生え並ぶ常緑樹の更に奥へと視線を向ける。
黒い獣は森へ消えていったと、ブラスブルックの住民は口を揃えて言った。ならば、森に住処があると考えていいかもしれない。封印される前に使用していた住処が。
五十年も経てば他の動物に住処を破壊されている可能性もあるが、森に居る確率は高い。住処など、もう一度作ればいいのだ。自然界の弱肉強食社会において、住処は奪う物。縄張りは奪う物。
ならば、森に居を構える確率が最も高いはずだ。この近くに洞窟などがあれば別だが。それは後でシロメリアかネルにでも確認すればすぐに分かる。ナチは闇に閉ざされた暗い森から視線を外し、踵を返した。そして、開いたままの玄関に向かって進んでいく。
最後に黒い獣が見せた視線が脳裏を掠める。ナチに構築されつつあった黒い獣に対する概念が揺らいでいるのが分かる。瓦解していく思考。見つかるはずの無い答えに思考を巡らせながら、ナチは扉を潜った。




