七 本の選別
「どうして? 間違いなくここに入れたのに」
焦燥に駆られ、動揺が滲む声を漏らしながら、必死に消えた黒い本を探しているコルノンの肩をナチはそっと叩く。ビクンと肩を跳ね上げた後に、体の震えだけを維持しつつ動きを止めたコルノンは静かにナチを見上げた。その表情には申し訳なさが浮かび、ナチに許しを請う様にも見える。
それを見て、ナチは可能な限り穏やかに首を縦に振った。
「まだ紛失したと決まった訳ではありませんから、一緒に探しましょう。大丈夫です、見つかりますよ。僕達は奥を探してきますから、コルノンさんは手前をお願いしてもよろしいですか?」
ナチの無責任とも無垢な激励とも取れる言葉に少しだけ希望を取り戻したコルノンは何度も頷き、動揺か歓喜かは分からないが、震えた唇を必死に動かす。
「は、はい。ありがとうございます。では、お願いしても良いですか?」
「はい。構いません。マオもそれでいい?」
「うん。大丈夫」
「あ、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「いえいえ、共に頑張りましょう」
コルノンと別れ、ナチとマオは書庫の奥の方へと歩いて行く。壊れた壁を修繕する金槌が杭を打つ音がカンカンと書庫内に響き渡り、その度に書庫内の床は軽く振動する。その弾みで倒れかけた本棚が僅かに傾き、地面に置ちている本が微細な振動を宿す。
その光景に少しばかりの恐怖を抱きながらも、ナチは落ちた本や、本が入ったまま倒れている棚を選別していく。埋もれた本を漁り、倒れた棚を持ち上げ、見落とさない様に隅々まで神経を澄ます。
ナチが本をいそいそと探していると、隣でマオがしゃがみ込んだまま、天井を見上げている事に気付く。気の抜けた顔で天井を見つめ、本を探す仕事を完全に放棄。整った顔立ちは見事なまでに台無しであり、この怠惰な表情をコルノンが見たらどう思うか。ナチならば幻想がぶち壊された様な衝撃を抱く。
「コラ。サボらない」
「本が多すぎてきりがないよ。もう面倒臭い」
「早いよ。もう少し頑張って」
本の捜索が始まって三十分も経っていないというのに、この体たらく。この少女はこの先大丈夫なのだろうか。この少女も年月を重ねれば否が応でも大人に成長し、やがて伴侶を迎える。その時にこの怠惰を、この我が儘を受け止めてくれる度量の広い人物は現れてくれるのだろうか。少しばかり心配になる。
「お兄さんが符術でパーッとやっちゃってよ。風でバーッて浮き上がらせて一気にさ。ほら、例の二酸化なんとか使えば簡単だよ、多分」
急に擬音語が多くなったマオの言動に苦笑しつつ、ナチは落ちている本を一冊手に取った。そして表紙を開き、黒いインクで何事かが記された紙を数十枚、丁寧に引き千切る。
「駄目だよー、お兄さん。本は破っちゃ駄目。怒られるよ?」
注意しているつもりなのだろうが、マオの言葉に力強さは無い。もっとやれ、と言わんばかりの邪な力強さは感じられるが、力強く注意する気は感じられない。
その緩慢な発言には取り合わず、ナチは霊力を体内に練り上げると同時に集中を高める。軽い口調はともかく、マオの提案は確かに効率的だ。本を一冊ずつ手に取って選別するよりも、一度に全てを見る方法が存在するのならば、その方法を取った方が断然効率は良い。
そして、それはナチの符術を用いれば、十分に可能だ。込めるべき属性も判然としているし、選別方法も脳内に組み上がっている。後は実行するだけだ。
けれど、それをマオに気付かされるのは大変遺憾なことだ。誠に悔しい事ではあるが、素早く効率的に本を探す為にはナチの符術を使うのがこの場では最も効率が良い。この悔しさは心の奥底に沈めるしかないだろう。
「さあ、お兄さん。やっちゃって」
「ちょっと集中するから、静かに」
本から破り取った紙は十五枚。その全てを符に変え、作った十三枚をポケットに入れる。堂々とした紙泥棒。器物破損。その現行犯を見て、マオが眉を上げ、口角を上げてニヤニヤしているのが見える。彼女は無言で口元に手を当てて「お主も悪よのう」と宣っている。完全無視。
手に持った二枚の符に属性を付加「大気」。ナチはそれを宙に投げ飛ばし、霊力を指先から解放。属性を具象化させる。
宙を風車の様に回転する符は、大気を支配権に置き、その権利をナチへと譲渡。符に集まっていく膨大な量の空気は倒れた本棚を軽々と起こし、その過程で落下していく本を全て受け止める。
ナチは地面に落ちている本や、棚に陳列してある本を全て空気で宙に浮かせ、天井付近に天高く舞い上がらせ固定する。無数の本が浮かび上がるにつれて鮮やかな色調に彩られていく天井。
その無数に宙を舞う本の中から、黒い表紙をしている本以外を全て棚に戻し、黒の表紙をした本は手元に引き寄せていく。それを床の上に積み重ねていくが、黒い表紙の本は数えきれない程にある。あっという間に黒い表紙の本は三十冊を超え、それはナチの苦労を嘲笑うかのように増加していく。
黒い本を引き寄せ選別した後に、棚に陳列。その工場社員さながらの選別作業にはさすがに骨が折れる。ナチが苦笑を漏らしていると、マオが積み上げられた本に手を置いた。
「こっちは私が分けておくから、お兄さんはそっちに集中して」
誇らしげに笑ってるけどあなたさっきまでサボってたからね、と一言物申したい気持ちを抑えつつ、ナチは視線をマオに向け、小さく頷いた。
「ありがとう、助かる」
ナチは霊力を放出。選別作業の分業により、ナチの負担が大幅に軽減した事で気流操作の精度は自然と上がる。巧みに空気を操り、より速く、より素早く本を移動させる。天井を埋め尽くす本を俯瞰で眺め、広範囲の本を視界に捉えると、目に映る黒を素早く手元に寄せ、マオの邪魔にならない様に彼女の近くに置いていく。
ナチが選別し終えた黒い表紙の本はマオが素早く選別し棚に戻していく。今の所、ナチ達が求める黒い本は発見には至らず、マオは苦い顔で本を手に取り続けている。
だが、まだ希望が潰えた訳ではない。宙に浮かぶ無数の本の中にあるはずだ。この中に黒い本はある。そう自身の心を騙し騙し鼓舞しながら、ナチは更に集中を研ぎ澄まし意識を洗練させ、書庫を駆け巡る大気に霊力という餌を惜しみなく喰らわせる。
高密度の霊力を喰らった大気は白縹色の仄かな輝きを放出し、蛍火の様に儚げで情緒的な煌めきに書庫内は神秘的な雰囲気を帯び始める。
「一気に行くよ、マオ。サボらない様に」
「私を誰だと思ってるの? この働き者のマオ様にまっかせなさーい」
どの口が言っているんだか、と思いつつナチは不敵に口角を上げた。その瞬間、突風の様な白縹の風がナチの髪を掠めて本へと向かって駆けていった。
全ての本を選別し終えた結果はナチの惨敗。符術による驚異的な選別力により、本の選別自体は短時間で終了した。だが、結果が芳しくなかった。千冊以上の黒い表紙の本の中に、紙すらも黒く、文字が一文字も書かれていない本は一冊も無かった。
そうなると、コルノンに期待する他ないのだが、普遍的な選別方法で本を一冊ずつ確認しているコルノンはまだ黒い本を探しているだろう。もし発見したのなら、真っ先にナチとマオの下へ駆けてくるはず。来ないという事はそういう事なのだろう。
また、コルノンの応援は暫しの間、出来そうにない。霊力の体内保有量が常人よりも遥かに多いナチと言えど、数千冊の本を一度に選別するという作業はさすがに疲労が溜まる。ナチも人間だ。作業をすれば疲労が溜まるし、重労働をすれば疲弊し体が休息を希求する。
霊力を多く保有していると言っても疲労やストレスが緩和される訳ではない。所詮、霊力も魔力も術を発動する為の触媒でしかないのだ。
ナチは床に腰を下ろすと瞑目し、酷使した目を癒す為に目頭を指で強く押さえた。摘まむ様に目頭を内側に押す。
「お疲れさま、お兄さん」
「マオもお疲れさま。大変だったでしょ?」
「まあ、お兄さん程じゃないけどね。私は運んでただけだし」
「でも、助かったよ。マオが居なかったら、もっと時間が掛かってた。ありがとう」
「いえいえ」
ナチが目を開くと、ナチの隣に腰を下ろし、気恥ずかしそうに笑うマオの姿が見えた。嬉しそうに目を細め、白い歯を見せている。少しだけ紅潮している頬は支子色の髪に隠れてしまい、もう見る事は叶わない。
この少女はやはり変わった。初めて出会った時は意味不明な事を口にし、力試しと称して襲い掛かってきた頭のおかしい少女という認識だったが、関わっていく内にマオに対する印象も徐々にではあるが変化しつつある。
生意気で、面倒臭がりで、飽き性。けれども、素直な一面も持ち、基本的には家族思い。やきもち焼きの印象も拭い切れないが、本質的には明朗快活で心優しい。その本質の一端に触れた今はマオの容姿が眉目温厚に見えない事も無い。これが、ナチがマオに対して抱いている印象だろうか。
突然、態度が柔和になり素直に感情を表現し始めた時は慄然としたが、今では何とも思わない。彼女が本当は優しい事を知ったから、もう不思議に思うことは無い。
「そろそろ、手伝いに行こうか」
「うん。コルノンさん、一人で大変そうだし。お兄さん、もう一回符術でパーっとやってあげなよ」
「今度は普通に探すよ……」
符術を便利お掃除アイテムと勘違いしているのだろうか。利便性が高いという意味ではナチも納得だが、さすがに体力的に難しい。霊力が底を尽きるという事は無いが、可能ならば人力で探したい所だ。
ナチとマオは立ち上がると、出口付近で本を探しているはずのコルノンを探す為に歩き出した。コルノンはすぐに見つかった。出口付近の右側。通路に散らばる本を、地道に一つずつ丁寧に選別している姿が見えた。
コルノンは近寄ってくるナチを見て、苦笑を漏らす。それは本がまだ見つかっていない落胆を示しているのか、それとも見つかってしまいましたよ、という驚喜から浮かべた笑顔か。
答えは前者。コルノンは申し訳なさそうに首を横に振ると、ナチ達に謝辞を述べた。そしてすぐにナチ達に背を向けると選別を再開する。それを見て、ナチは符を二枚取り出す。
「おや、お兄さん? 普通に探すんじゃなかったの?」
口元に手を当て、おちょくる様な視線を向けてくるマオからナチは顔を背けた。仕方が無いじゃないか、コルノンが困っているのだから、とナチは心の中で重ねる必要のない言い訳を重ねる。
「そんな事言ったっけ?」
「あー、私の気のせいだったかも」
「気のせい気のせい。僕は最初から符術使うつもりだったし」
「はいはい。もうそれでいいから、早くやりなよ」
言われなくてもやるし、と内心で拗ねつつナチは符に属性を付加。「大気」。今から行う作業は先程と寸分違わず同じ。込める属性も作業工程にも変化はない。
コルノンが「な、何を始めるんですか?」と勇気を振り絞ってマオに聞いている声を聞き、穏やかな気持ちになっていると、マオが「符術使いの効率的なお掃除紹介?」と言っているのを聞いて、ナチは静かに舌打ちした。
集中しよう、とナチは嘆息しつつ、符を天井に向かって投げ飛ばす。天井付近に到達した所で、ナチは霊力を放出し、属性を具象化。吹き荒れる旋風が、本から重力を強奪。無数の本を全て宙に浮かせる。
「浮いてる……」
驚きの声を浮かべているコルノンに苦笑を浮かべつつ、ついさっき行った選別をここに再現する。黒色の本とそれ以外を選別。単純な作業ではあるが、やはり本が多すぎる。
天井を埋め尽くしてもまだ余りある大量の本にナチは苦笑を強めつつ、本をマオとコルノンの近くに落としていく。その本を二人が素早く選別し、本棚に戻し、延々とそれを繰り返す。
五百冊ほどの本を選別し終えた頃、三人の表情には疲労が色濃く灯され、さすがのコルノンも「取り寄せる本の量をもう少し考えないといけませんね」と後悔の色が滲む言葉を溢していた。
そして、全ての本を選別し終えた頃には空の色は澄み渡る青から街に寂寥を注ぐ茜色に変わり、三人は規則的に立ち並ぶ本棚と選別し終えた本を背に、壁の修復作業を眺めていた。
「結局、見つかりませんでしたね」
夕景に投げかける様にコルノンは哀感の滲む声で言った。その後に三人は同時に溜息を吐き、視線を落とした。
その中でもナチの疲労の色が最も酷い。早朝から作業を開始し、夕暮れに作業が終了したのだから、長くても八時間は選別していたという事になる。つまり八時間という長時間の中、立て続けに霊力を放出していたという事だ。それは並の霊力量しか持たない符術使いからすれば、あまりに無謀で常識外れな行動と言える。
霊力を八時間も使用し続け、しかも意識が残っているというのは異常極まりない。もし平均的な霊力量しか持たぬ符術使いがナチと同じ選別をしようと思えば、少なくとも三日はかかる。長くても七日。それだけナチの霊力量は並外れている。
が、霊力量が多い=強いという図式は残念ながら成り立たない。魔力には身体強化や五感強化などの恩恵が存在し、魔力保有量が膨大であれば膨大であるほど、基本能力値は跳ね上がる。基本能力値だけで言えば、子供ですら最強の領域に到達し得る。
けれども、霊力にはそれが無い。霊力は符術を発動する為の触媒でしかなく、霊力単体には身体や五感を強化する様な力は無い。符術という媒体を介さなければ、霊力は正に有象無象と言っても過言ではない。
とはいえ、八時間の霊力使用はナチと言えど無思慮が過ぎる。ナチが体内に保有している霊力は無限ではないのだ。酷使すれば枯渇するし、減少した霊力は休息しなければ回復しない。限界を超えれば目に見える形で代償が待ち構えている。そして、その代償は今もナチに迫ろうとしている。
「見つからないって事は、盗まれちゃったのかな?」
「そう考えるのが普通だけど……。昨日の夜って書庫は無人でした?」
「はい、すみません。泥棒が入るとは露にも思わず」
がっくりと肩を落とし、少し涙目のコルノンの肩をナチとマオは叩く。
「あんまり気にしないでください。黒い本が少し気になっただけで、めちゃくちゃ重要って訳じゃないですから。ね? お兄さん」
「うん。本当に少し気になっただけなので、あまり気を落とさないでください」
「ありがとうございます。お二人の心遣い感謝痛み入ります」
目尻に溜まった涙を指で払ったコルノンは、笑顔でナチとマオを見て小さく頭を下げた。それを見て、ナチとマオも笑顔を浮かべる。
おもむろに立ち上がったコルノンに合わせて、ナチとマオも立ち上がった。そしてコルノンが書庫内に差し込む茜色に向かって一歩踏み出すと、ナチとマオに振り返った。
「では、私はこれで帰宅しようかと思います。もし、書庫に用がある時は自由に入ってくれて構いませんので」
「いいんですか?」
「はい。お二人は特別です」
「あ、、ありがとうございます」
ナチとマオはコルネンに礼を告げると、コルネンが書庫から出て行くのを静かに見送った。書庫内に残された二人は一度だけ、整えたばかりの本棚と本を見ると、書庫を後にした。




