四 無文字の黒本
「あそこです! あそこに変な生き物が!」
ナチ達の前方。黒い獣の背後で、男性のものと思われる声が書庫に響き渡った。おそらくはここで働く司書によるものだ。機械的な話し方は鳴りを潜め、焦りが言葉の節々から伝わってくる。声に気付いた黒い獣は、ゆっくりと顔を上げると背後へ、体ごと向けた。
体を背後に向ける間に二つの棚が完全に壊れ、数十冊の本が役目を終えたが黒い獣に気にした様子は見られない。
ナチは黒い獣の背後を黙って見ながら、黒い獣の動きを待った。今は動くべきではない。せっかく、逸れた黒い獣の注意を再びナチ達に向けさせる行動は避けるべきだ。
黒い獣はゆっくりと、四足歩行で歩き出す。その姿は乾いた砂地を堂々と闊歩する獅子の姿と重なる。足を一歩踏み出す旅に建物が揺れ、蝋燭の火がナチ達の動揺と連動しているかの様に揺れ動く。
歩いている通路に置かれた全ての棚を倒しながら進んでいく黒い獣は、司書の助けに応じて書庫に来た複数人の男性を無視して、扉を破壊。壁に大穴を開けながら、外へと出ていった。
穴が開いたことによって、書庫内に光が差し込み途端に陰鬱な空気が薄まっていく。薄暗さから解放されたナチとマオは詰まる様な空気から解放され、その場に座り込んだ。壁にもたれ掛かり、動揺と困惑に淀んだ息を大きく吐く。
「何だったんだ、あれは」
「私のせい、だよね?」
「それは分からない。あの本に何か細工してあったのかな?」
ナチは近くで転がっている黒い本を指差しながら言った。原因不明の発光現象と黒い獣の召喚を見た後では魔本の様にしか見えない。邪気を纏っている様にすら見える。
「あれを見れば、分かるのか?」
「見てみようよ。お兄さん、取ってきて」
「……はいはい」
ナチは震える足に力を入れ、立ち上がると、黒い本を拾うと再びマオの下へと戻った。そして、再び腰を下ろす。
黒い表紙を恐る恐る開き、この本を開いた瞬間に何か呪いや悪魔が溢れ出してきたりしないだろうな、と不安に思いながらも表紙を完全に開く。
それに目を向けた瞬間、さすがのナチも面食らった。脳裏に思い描いていた内容と大きく違った。もっと、仰々しい文字で埋め尽くされていると思っていた。それこそ血の様に真っ赤な文字で全ページ埋め尽くされていると思ったのに、記された内容はナチの期待を大きく裏切るもの。
あれ?
ナチは次々に頁をめくる。速読している訳でもなく、次々と紙をめくり続けていく。熟考せずに読み進めた結果、最終ページまですぐにめくり終わった。ナチは黒い本を片手で持ちながら、首を傾げた。
「何も書かれてない……」
本にはただの一文字も記されてはいなかった。ただの一文字もだ。空白で埋め尽くされた本。あんな現象を引き起こしておいて、あんな生物を召喚しておいて、記された内容は無文字。無文字の黒本。
「それって本としてどうなの?」
マオの指摘も素直に頷ける。文字が一文字も記されていない本など、ただの紙。貴重な資源の無駄遣いだ。だれがこんな本を作ったのだろうか、と義憤に感じても、著者の名前すらも記されていない為、調べようがない。
「本としては不合格だけど……。マオがこの本に触れた事によって、本が突然光り出して、黒い獣が目の前に現れた。信じられないけど、これは事実なんだよね」
「私は本を光らせる事は出来ないよ」
顔の前で手を振るマオにナチは笑顔を浮かべた。そんな事は知っている。彼女は氷を操る能力者。ナチは本を閉じ地面に置くと、表紙を指でなぞった。
「知ってるよ。けど、マオが触れた事で何かが起きたのは間違いない。例えば」
「例えば?」
「マオが本に触れた事によって封印が解けた、とか」
マオは苦笑しながら首を横に振った。顔の前で手を振っている。
「無い無い。だって、私氷しか作れないもん」
「本当に? 何か隠し持ってるんじゃないの?」
からかう為に聞いた言葉に、マオは真顔になった。
「多分、無いと思う。だって、私は物心ついた時には氷を」
「あー冗談だよ、冗談」
「アホ! 真剣に悩んで損したよ、全く」
「むしろ、何で急に真剣になったの? 不思議だよ」
「お兄さんが真面目な口調で言うから」
確かに冗談だと分かり難い口調で喋ったかもしれないとナチは素直にマオに謝罪。最初はむくれていたマオだが、すぐに笑顔を浮かべ、それに合わせる様にナチも笑顔を浮かべる。
マオが封印を解いたという仮説も確かめようが無い為に何とも言えないが、可能性だけを言えば完全否定する事は出来ない。他にも本を開いたタイミングで何かの封印が解けた、もしくは本を開くと異世界へと繋がる能力が本に付加されていた可能性もある。
どの仮説もこの本を調べれば一気に真実に近付けそうではあるが、肝心の本が無文字では解明のしようがない。ナチは早々に仮説の解明を諦め、本から手を離した。
二人が笑顔を交わしていると、前方から足音。
司書の男性だ。心配そうな面持ちで二人に近付き二人の前まで来ると、彼は膝を折り、二人の目線の高さに合わせる。すると、男性は震えている足を手で支えながら、口を開いた。
「大丈夫でしたか? 怪我などはありませんか?」
「はい、問題ないです」
マオは無言で笑顔を浮かべ、頭を軽く下げる。すると男性は頬を赤らめてマオから視線を外し、ナチへと視線を固定させる。それは女性慣れしていない男性が良くやりがちな行動に似ている。美人に見つめられると視線を逸らしちゃうよね、と共感と同情の笑みをナチは浮かべつつ、先程よりも紅潮を強くしている男性へと視線を返す。
「なら、良かったです。あの黒い獣は一体どこから出現したのか。ご存知ですか?」
「いえ、すみません。存じ上げないです」
ナチは足下に転がる黒い本を手に取ると、男性に手渡した。それを受け取った男性は新種の虫を見る様な瞳で、本を眺める。それから黒い本の中身を見ると、男性は顔を顰め、とてつもない速度で全ての頁に目を通し始めた。
「この本なんですが、何か知らないですか?」
「いえ、知らないですね。むしろ、何故こんな本がここにあるのか、私が知りたいくらいです」
ですよねえ、と心の中で思いながら、ナチは壊れた扉からぞろぞろと入って来る人間の群れに目を向けた。武器を持ち、農具を持ち、調理器具を持つ人々が書庫内の惨状に目を向けながら、最奥にいるナチ達へと駆け足で近付いて来る。
向かってくる人間はほとんど高齢。その全てが敵愾心を剥き出しにしているのはどういう訳なのか。
書庫が壊れた事に対して怒りを見せているのか、それとも先程の黒い獣に対してなのか。それは分からないし、興味も無い。それに前から迫って来るのは、おそらく面倒事の類。街に来たばかりだというのに面倒事に巻き込まれるのは正しく面倒臭い。さっさとこの場を離れるのが、利口であり無難。
「マオ、もう戻ろう。あれに捕まると多分面倒くさい」
「ほーい。了解しました」
ナチが先に立ち上がると、マオがナチに向かって右手を伸ばしてくる。これは、起き上がらせろ、という意味だろうか。ナチは呆れ混じりに息を漏らすと、マオの手を掴み、彼女を立ち上がらせた。
思ったよりも軽く、柔らかい手だ。温かい手。薄い桜色をした綺麗な爪が細い指の先で煌めいている。その感触を堪能していると、マオがすぐにナチから手を離した。
「……えっち」
「……」
ナチは何も言い返せなかった。たかが手じゃないか、と思ったが、好きでもない男性に手を触られ感触を堪能されるというのはかなり気持ち悪い行為だな、と今更ながら思う。これは、ナチが悪い。
少女の手の感触を邪な気持ちで堪能していたナチが悪い。
「ほら、行くよ。変態さん」
「……変態ではないよ」
ナチ達は司書の男性に別れを告げて、壁伝いに歩いた。ナチ達へ向けて歩いて来る人の群れから逃げる様に、ナチ達は棚に隠れながら進む。
二人が動き出してすぐに聞こえてきたのは、怒号にも似た大きな声。司書の男性を問い詰めているのだろうか、と倒れた棚の先に居る司書の男性を覗き見ると、司書の男性は営業スマイルを浮かべ機械的な声質で、向かってくる全ての問答をいなしていた。
少し申し訳ない事をしたか、と心に芽生えた罪悪感から目を逸らし、二人は書庫から出た。
二人がシロメリアの仕立屋に戻ったのは結局、日が暮れてから。
観光と探索を兼ねて街を見て回ろうという事になったのだ。二人はこの街に来たばかりで、この街の事を何も知らない。小さな街とはいえ、ウォルケンの時の様にいざ緊急事態が起きた時に、街の経路を知らないと対応が遅れる。経路をあらかじめ知っておく事は、悪い事ではない。
ネルが作ってくれた街の見取り図はあるにはあるが、百聞は一見に如かずと言った諺がある様に、一度自身の目で見た方が早いし、確実だ。
それから街の順路。建造物の特徴。ブラスブルックに伝わる特産物や伝統など、それらを街の人々に聞きながら散策していると、あっという間に日は暮れた。
サリスに関する情報を聞いてはみるものの、あまり目覚ましい手掛かりを聞く事は出来ず、話に出て来るのはブラスブルック在住のサリスルさん、という老齢の男性の話ばかり。よく家から脱走しては倒立しているという話を十回以上は聞いた。
サリスの情報が手に入らず少し落ち込んでいたマオだが、特訓するには最適な広さを持つ空き地を見つけた事で、マオの表情に明るさが戻り、明日の昼頃に特訓しようか、とナチが提案すると、マオは満面の笑みを浮かべていた。単純な子だ。
それを見てナチも悪くない、と思ったのだから、ナチも単純なのかもしれない。
そして、二人が帰路につく頃にはブラスブルックがどういう街なのかは、大体分かった。
この街では貴族や平民、貧民などの貧富の差が小さい。小さな街という事もあるだろうが、それらを明確に分ける区画も無く、入り組んだ路地も無い。人口も五百人はおらず、総人口は三百から四百人程度で、子供の数となると総人口の十分の一程度。この街に住む大半が高齢の職人ばかりであり、目に見えて少子高齢社会。
それゆえ、ネルや司書の男性などの若者は珍しく、街の人からは重宝される。ネルに至っては多くの男性から言い寄られているらしい。
ブラスブルックで生まれた子供は職人としての道を選ぶか、都会の華々しい生活に憧れて王都へと流れて行ってしまうかのほとんど二択らしい。その二択の内、後者を選択する者が多い為に、この街は深刻な若者不足に悩まされている。
また、この街では基本的に生活に必要な物は自分達で何でも作成し、食糧なども基本的には自給自足。
主な収入源は街で作った農具や蹄鉄、武具や刃物、生活用品などの製品が該当し、それらを作る為に多種多様な職人がこの街には存在する。金銀細工師、木彫師、ガラス職人、羊皮紙工、仕立、金属加工など多岐に渡る分野の職人がこの他にも存在する。
職人となると若い職人に数年間、諸国を遍歴して新たな技術を習得させ、人格形成することを義務化した職人遍歴制度などが思い浮かぶが、この街にはそんな制度は無い。理由も明確。この世界は超能力による力関係が明白だからだ。
可愛い子には旅をさせよ、などという精神で旅をさせた結果、命を奪われ戻って来ないなどという結末になりかねない。現にナチとマオはブラスブルックにたどり着くまでに何度も盗賊や野盗に襲われている。その事からも、この世界に蔓延る実力至上主義の側面が垣間見える。
それに強い能力を持つ者は真面目に働くよりも悪事を働いた方が余程生活に困らないだろうし、その方が利口だ。そもそも倫理や法という概念が通用しないのが理不尽な暴力であり、現にウォルケンでは誰もラミルを裁けなかった。
剣と盾の世界ならば通用する法も超能力などの超常現象には通用しない。法も倫理も、裁く側が貧弱ならば意味を持たず、それがまかり通ってしまったウォルケンでは倫理という概念が消失していた。
この世界には確固たる正義が不足しているのかもしれない。絶対にねじ曲がらない倫理の仕組みが圧倒的に不足しているのだ。
シロメリアの仕立屋に戻ると、店頭には誰もおらず、談笑と食器と食器が擦れる音が店の奥側。作業場と思われる場所から聞こえて来た。
ナチとマオは暗い店頭から奥へ顔を覗かせると、優雅にもシロメリアとネルが机を挟んで向かい合う様にしながら、お茶を楽しんでいた。一枚板の机の上に置かれた上品な白いティーカップと、カップと同色のポッド。立ち込める紅茶の香り。
カップに注がれた紅茶を啜りながら微笑み合っている光景は、貴族の孫と祖母のお茶会の様でもあった。
ナチ達は静かに奥へ足を踏み入れると、シロメリア達に近付いて行った。天井に吊るされたランプの橙光を少し眩しく思いながら、ナチはお茶を楽しむ二人に声を掛ける。
「ただいま。今、戻ってまいりました」
「おかえりなさい、ナチ、マオ」
二人はナチとマオを見ると、カップを置いた。そして、笑顔を浮かべながら新たに椅子を用意し、ナチ達にそこへ座る様に指示。ナチは、シロメリアの横へ。マオはネルの横へ座る。
ナチ達が座ると同時に立ち上がったシロメリアは、棚から白色のカップと受け皿を二つ用意すると、そこに紅茶を注ぐ。立ち込める香ばしい湯気が、鼻から体内に侵入し、体に溜まっていた疲労を徐々に分解していく。
シロメリアに礼を言ってから、ナチとマオは紅茶を一口飲んだ。
口に広がる紅茶の香ばしい香り。紅茶の後にほんのりと感じる甘さ。これは蜂蜜だろうか。甘すぎず、それでいて全く甘くない訳ではない良い塩梅の甘さにナチは感嘆の吐息を漏らす。
それに、飲み込んだ後に広がる檸檬の様な風味。蜂蜜の甘さと相まって紅茶を風味付けるのに一役買っている。適度な甘さ、すっきりとした後味。紅茶に詳しくないナチでも文句なしで美味しいと思える一品だった。
「これ、美味しい」
紅茶を飲んだマオが蕩けた表情で言った。マオもナチと同じで、紅茶の味に感動している様だ。あっという間に紅茶を飲み干してしまったマオのカップに、ネルがおかわりを注ぐ。
それを一口だけ飲むと、マオはほっと息を吐いた。
「どうでしたか? ブラスブルックは」
笑顔のシロメリアがナチとマオを見る。ナチはカップを皿の上に置くと、カップを両手で触れた。少し熱い位の温度が手の平に伝わってくる。
カップを少し指で擦りながら、ナチは微かに口角を上げた。
「静かで、自然に溢れてて、人も穏やかで。僕は好きです」
「私もお兄さんと同じ意見です」
「そうですか、なら良かった。若い子が楽しいと思うには、ここは静かすぎますから」
自虐的に笑って、シロメリアは紅茶を一口飲んだ。
「そう言えば、外で何かあったの? 二人が出て少しした後に、何だか街が騒がしくなったけど」
それは黒い獣が出現した時に起きた騒動の事だろう。街全体がざわつく程の騒動は、一日にそう何度も起きはしない。散策していたナチ達も、黒い獣が出現した以上の騒動には遭遇していない。
マオがナチを見る。言うべきかどうか、判断を決めあぐねている様だ。ナチはカップから手を離すと、首を縦に頷かせた。
「今日、書庫に行ったときにね。黒い本から黒い兎みたいな獣が出て来たの」
カップが割れたと思われる甲高い破砕音。ナチは僅かに目を見開きつつ、部屋の片隅にある食器棚へと視線を向けていた。棚の戸は閉まったままだ。という事は棚の食器が割れたという事ではない。
それから、マオとネルのカップに目を配らせる。ネルとマオの前にはカップが置かれている。ナチの前にもカップが存在している。となれば、残すは一人しかいない。
シロメリアだ。
彼女は、真っ直ぐにマオを見つめていた。瞬きもせず、落としたカップにも目を向けず、大きく見開いた瞳をマオに向けていた。ナチはシロメリアが動揺する理由が分からず、彼女にただ視線を送り、瞬きを繰り返すことしかできなかった。
震える腕と肩。急速に青褪める白い肌は彼女の顔立ちと相まって西洋人形を思い出させる。そして、小刻みに震えている唇からは隣に居るナチにしか聞こえない音量で嗚咽が漏れていた。
涙を流す事無く、彼女は泣いている。
ナチにはシロメリアの姿が、そう映った。




