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三 黒い獣

 一度、大袈裟に口元に本を当てて咳払いすると、マオは笑顔でその本を開いた。一応、周りを気にしてか、ナチだけに聞こえる様な音量でマオは読み聞かせを開始する。

 

「世界に点在するとされる秘境。私はそれをようやく見つける事が出来た」


 おそらくは冒頭の文をマオは引用し、声に出した。すぐに続きをマオは口にしていく


 この本は、一人の冒険者が書き記した伝記だ。話を聞いている限りでは、秘境と呼ばれる、誰にも到達しえなかった場所へとたどり着くまでの冒険譚が、この本には記されてある様だ。


 退屈な毎日を過ごしていたこの冒険者は、ある日、秘境と呼ばれる誰もたどり着く事の出来ない場所がある事を、旅商人から知らされる。


 冒険者は胸を躍らせる。


 私こそがこの秘境の謎を解き明かす唯一の人間なのだと、信じて疑わなかった。冒険者はすぐに旅を出る事を決めた。荒波を越え、険しい山を越え、断崖絶壁を幾度となく越える事になった。


 それでも冒険者は旅を続けた。何度も死の恐怖に直面し、その数だけそれを乗り越えた。


 やがて、年月が経ち、冒険者は老いた。剣を振るうだけの体力も、力も残されてはいない。能力ですら満足に操る事は叶わない。


 年老いた冒険者は、体力と年齢の事を考え、最後の探索に出る。最後の冒険は、山にしようと決めていた。何か、確証があった訳でもない。冒険で培った直観に従った訳でもない。


 純粋に、山が好きだったのだ。「私は山を愛している。もし冒険者になっていなかったのならば、私は山で狩りをしていたに違いない」と冒険者は綴っている。


 そして、冒険者は最後の冒険でようやく見つける。緑に溢れ、生命力に溢れた、理想郷を。冒険者だけの秘境を。


 冒険者が最後に冒険に向かったのは生まれ故郷に存在した山だった。


 家族との、友との、恋人との思い出が詰まったこの山にたどり着いた時、冒険者の目には、ただの山の景色が、秘境の様に映ったという。



「一番近くにあった物が、一番大事な物だったのだ。私は生涯を通してその事に気付くことが出来た。私はそれを誇らしく思う。最後に一つだけ。秘境は誰の心にも存在する。それを君達が気付いていないだけだ。君達が生涯を通して秘境に辿り着ける事を、私は空から見守っている」


 マオの少女らしい声で紡がれる本の物語にナチは耳を傾け、その情景を頭一杯に連想させる。


 この冒険者が最後にたどり着いた秘境を、妥協と捉えるのか、本人にとっての理想郷が真の意味で何の変哲もない自分と最も馴染みがある山だったのだ、と捉えるのか賛否両論が分かれそうな所だ。


 ナチはそのどちらもあったのではないか、と思っていた。最後の冒険、と冒険者が決めたその時に、冒険者の中に妥協は少なからず生まれたはずだ。


 最後の冒険を、今までの冒険を、価値があるものにしたくて生まれた妥協。それを悪い事だとは思わない。むしろ、奨励する。


 自分の人生に、行いに価値を見出そうとするのは悪ではないのだ。誰もが、価値ある人生を送りたいと思っている。価値ある人生にしようと誰もが、冒険者の様に努力をしている。


 努力した人生が報われなかったとしても、それを価値の無い人生だとは思わない。


 だから、最後の冒険と意気込んで臨んだ地元の山へたどり着いた時、冒険者は自分の人生を、価値がある人生だった、と思えたのではないだろうか。


 自分の人生に価値を見出せたその瞬間、冒険者には見飽きたはずの山が燦然と輝いて見えたのではないだろうか。



「この人、秘境を見つけた時、どんな気持ちだったのかな?」


「誇りに思ったって言ってなかったっけ?」


「でも、秘境を見つけちゃったって事は、この人の冒険は終わったって事なんだよね。寂しくなかったのかな?」


「寂しい? 何で?」


 マオは本を閉じると、愛する者に触れるかの様に本の表紙を撫でた。


「だって、もう秘境を探す事は無いって事は旅に出ることは無いって事でしょ? 秘境を見つけるのが目的だったんだから。旅で出会った人達に、もう一度会いたいとか思わなかったのかな?」


 マオの本を見つめるその瞳には、寂しさと切なさが込められていた。


「この人は高齢だったみたいだからね。旅は難しいよ。それに、秘境は見つけるっていう目標は叶ったんだ。寂しくは無かったんじゃないかな」


「お兄さんは、世界を救ったら……どうするの?」


 ああ、そういう事か。


 ナチはマオが寂寥感を滲ませる瞳を本に向ける意味をようやく理解する。ナチ達の目的は世界を救う事。サリスを連れ戻す事。


 その目的を果たした後、ナチがどうするのか。目的を果たした冒険者の様に、冒険を終え、この世界に残るのか。それとも、再び異世界を渡り歩くのか。


「僕は」


「いや、やっぱいいや。それよりも、ほら、調べ物をしないとだし」


 マオは本棚の四段目から、本を慌ただしく取り出した。それは闇の様に黒い本。紙も表紙も全てが黒く染まった本だった。何が記されているのか、全く想像が出来ないが、黒から連想されるイメージはあまり幸せに満ちてはいない。


 この本もその例に漏れないのか、それとも。



「何、この本……きゃっ!」


 マオが触れた瞬間、当然発光をし始める黒い本。太陽の様に眩く、全方位を照らそうとする白光にナチは腕で目を覆った。それでも、あまりの光輝に目を開き続ける事は叶わず、ナチは目を閉ざす事で光の侵食を防ごうとする。


 瞼を下ろしているにもかかわらず、瞼を通り抜けようとする白い閃光に、ナチは思わず一歩下がった。


「お、お兄さん、どうしよう?」


 慌てている様子のマオ。目を開けられないせいで、マオの姿は視認する事は出来ず、マオから本を奪う事も出来ず、ナチはその場で声の限り叫んだ。


「どこでもいいから投げて!」


「う、うん!」


 マオの声の後に聞こえてくる、本が床板に落下する音。落下した後にバサバサと鳥が翼を思いきり上下させるときの様な音が聞こえてくる。自発的にページがめくれているのか、誰かが高速でページをめくっているのか。ページが全てめくれてしまったのか、バタンと本の表紙が閉じられる音が聞こえてくる。


 その後に広がる静寂にナチは体を身震いさせつつ、手をポケットに突っ込む。シロメリアの仕立屋で作ったばかりの符を手に取り、それにいつでも属性が込められる様に体内で霊力を練り上げる。謎の発光現象の後に敵対行動を取る存在が居てもおかしくはない。武器は持っておくべきだ。


「お兄さん、ちゃんといる?」


 マオがどこからか大声を張り上げる。目を閉じ、視界が白に覆われているせいで完全に方向感覚を見失ってしまっている。


「いるよ。ここにいる」


「どこ?」


 ナチはマオが居たはずの方向に手を伸ばし、指先が触れた所で、それを掴む。おそらく、腕。胸ではないだろう。感触的に違う。ナチは掴んだそれを引き寄せると、柔らかい感触が体を通して伝わってくる。首と鎖骨をチクチクと刺す、柔らかな絹糸の様な髪。鼻をくすぐる甘い香りが、誰の物なのかナチは知っている。この香りをナチは知っている。マオの香りだ。


「マオ、だよね?」


「正解」


「なら、良かったよ」


 ナチは、白い光を放つ黒い本から、少しずつ距離を取る。社交ダンスの様に二人は呼吸をと声を合わせ、書庫の奥へ向かって歩き出す。何度か躓きかけたが二人は無事に壁に激突し、ナチは蛙の鳴き声に似た呻き声を漏らすとそのまま背中を壁に張り付かせた。


 不安からか、マオがナチの服を力強く掴んでいる事が分かったが、ナチはそれには気付かないフリ。それよりも、今は原因不明の発光現象を見せた黒い本を対処するべきだ。不可思議な力が込められた魔本や聖書は大抵ろくでもない現象を引き起こし、狡猾で悪意ある人間に悪用されるのがオチだ。


 ナチが符に属性を込めようとした時、本から発せられる光は突然、収まっていった。発光した瞬間も突然なら消光する瞬間も突然という事か。収まっていく光に合わせてナチとマオはほぼ同時に瞼を上げた。


 ゆっくりと開けていく視界。強い光を浴びたせいか、しばらく視界に白い靄の様な膜が張られていたが、次第に瞳は正常な機能を取り戻していく。書庫内の薄暗さがより濃く感じられ、蝋燭の火がとても頼りない物に見える。


 それもすぐに慣れ、ナチは胸の内で蛇に睨まれた蛙の様に怯臆した表情を浮かべ、ナチの服を引き千切るかの様な力で掴んでいるマオに視線を送る。マオも緩やかに視線を上げ、視線が重なった瞬間に彼女の吐息がナチの顎を掠めた。

 

 吐息が当たる程に近い距離に居る事にようやく気付いたマオは顔を真っ赤に染め、金魚が水を求めるが如く、口をパクパクとさせる。視線を彷徨わせ、正常な判断力を失いつつあるマオは、中々ナチの体から離れない。むしろ、服を掴む力が先程よりも強力になる。


 ナチの服は一度符に変換した事で、強度は紙と同等。破ろうと思えば子供でも簡単に引き裂ける。その証拠にコートが文字通り音を立てて破れようとしている。


「こらこら。服が破れちゃうから」


「え? あ、ええと、ごめん。……破って捨てた方が良いんじゃないの? もう可哀想だよ、そのコート」


 ナチに言われてようやく気付いたのか、マオはナチの服を離した。マオが手を離した拍子にまたコートが破れた気がするが、気にはしない。そもそもマオやラミル、サリスとの連戦でコートはもう限界を超えている。開いた穴の数はもう一目では数え切れない。


「お金が貯まったら捨てるよ。それまではこの可哀想なコートで我慢」


 そんな事より、とナチはマオの肩を叩く。本題を忘れてはいけないよ、と穏やかに視線も送る。


「それよりも、でしょ?」


「そ、そうだった。本…………何あれ?」


 マオは本を投げ飛ばした方向へと視線を注いだ。最初は頬を紅潮させ、恥ずかしそうに向けていた視線も本がある方へと視線を向けると、マオの表情は一変した。本当に分かり易く変わった。その表情の意図が分からず、ナチもマオが見ている光景を見る。


 目が自然と開き、言葉を失う。少なからず動揺していた思考が静かに心の底へと消えていく。ナチの心は動揺を全身で表しているマオとは裏腹に、冷静に目の前の光景を分析し始めていた。


 何だ、あれは。


 マオが手に取ったのは間違いなく、黒い本だった。紙も表紙も全てが黒く、従来の本と比べると明らかに異質な雰囲気を纏っていたのは否定できないが、それでも確かにマオが持っていたのは本だった。


 少なくとも、あんな生物は居なかった。



 黒い獣。


 

 蝋燭の火をすぐ横で浴びても、照り返しを見せない漆を塗ったかのような黒色の毛皮。前足と後ろ足に生えた鋭い爪は床板に深く突き刺さり、それも毛皮と同様漆黒に包まれていた。


 天井近くまで伸びている首から上。つまり、顔は闇と同化して見えず、ナチは目で追う事をすぐに止める。見えない情報よりも、今は見える情報に集中すべきだ。あの人体など簡単に踏み潰し、圧殺し、魂を刈り取る様相をした四肢に気を張り巡らせるべきだ。


 ナチの上背を優に超える巨躯は本棚と本棚の通路には収まりきらず、棚を倒してしまっていた。それに伴って本が大量に床に落下しているが、それに視線を向けたのは一瞬だけ。


 得体の知れない生物を前に、呑気に本を観察する勇気をナチは持ち合わせてはいない。


「お、お、お兄さん、あれ、何?」


 鶏の様に言葉を区切るマオに少し笑いそうになりつつも、ナチは視線を黒い獣から離さずに口を開いた。


「落ち着いて、マオ。いつでも逃げられる準備をして。いいね?」


「う、うん」


 ナチの言葉通りにマオは逃走準備に入る。戦うつもりは毛頭ない、と言わんばかりに、マオは右側へと視線を配らせる。精神に冷静を運ぶために、マオは息を吐いている。


 目の前の黒い獣がどれだけの身体能力を有しているのかはまだ分からないが、もし黒い獣が小動物さながらの俊敏性を持っているとしたら、ナチ達に逃げ場はない。この状況ではどこへ逃げたとしても結果は同じ。捕まって、餌になる。


 ナチは手に持った符に属性を付加しようか迷った。属性を込め、それを投げれば、それは紛れも無い開戦の合図となる。敵対する事を自ら確定させるようなものだ。そうなってしまえば、ナチ達はこの得体の知れない黒い獣と戦わなくてはならない。それはこの状況では無謀極まりない愚策。


 幸か不幸か、目の前の黒い獣は目の前にナチ達が居るにも関わらず、何か行動を起こす気配は見られない。


 逃げるなら、今だ。今しかない。黒い獣が動きを見せていない、今がチャンス。


 ナチはマオのジャケットの袖をくいくい、と引っ張った。気を張っていると思われるマオの顔がナチへと向けられる。


「何?」


「逃げるよ」


 マオが首を縦に振り、ナチが右に向かって歩こうとした瞬間だった。


 ナチの動きを機敏に感じ取った黒い獣が動き出す。静かな挙動で。だが、大きすぎる体のせいで動く度に周囲の棚を薙ぎ倒し、それを踏み潰している為、物音は激しい。棚は砕かれ、本は踏み潰される。職人と作家の努力が一瞬で水の泡となった。


 今はそんな事を考えている場合ではないというのに酷く感傷的になるのは、死の間際に走馬灯を見る感覚と似ている。


 背中を曲げる黒い獣は腕を曲げ、地面を這うようにして顔をナチへと近付けた。今まで見えなかった黒い獣の顔が、ナチ達に急接近する。


 大きな外見に反して、小さな口と鼻。ピンっと立った長い二本の耳。新鮮な血液の様に鮮やかに彩られている紅の双眸がナチとマオを交互に見つめ、鼻息を二人に大きく吹きかける。顔だけを見れば兎の様に愛くるしい顔をしていた。


 鼻で腹を突かれるも、ナチとマオは何もせず、何もする事が出来ず、その場で固まるしか出来なかった。ここで反撃するなど愚の骨頂。ここはもう運命に身を任せるしかない。


 アイコンタクトを交わし、ナチはマオに反撃しない様に指示。頷くマオ。それをマオがどう受け取ったのかは分からないが、反撃していない所を見ると、正しく指示を受け取ったと判断していいだろう。


 二人は、しばらくなすがままになっていたが、終わりは唐突に訪れた。

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