二 夢からの帰還
ルーロシャルリの仮設テントで眠るナチは数秒前まで妻であるナナと夢の中で惚気ていたはずだった。
だが、それはすぐに終わりを告げる。
ドン、という鈍い音と共に腹部に伝わるのは、思わず目を見開いてしまうほどの鈍痛と圧迫感。そして、何かが腹部に乗っているという確かな重さ。
ナチは苦痛に呻きながら、視線だけを動かし、現状を確認する。
最初に映ったのは黒く大きな耳。次に血のように真っ赤な瞳。
それだけでイズの仕業だと理解するが、問題は腹部に乗っているのはイズだけではないということ。
揺れる見慣れた梔子色の髪。悪戯めいた小憎たらしい笑顔。頭上に広がる晴天をそのまま内包しているかのような美しい青の瞳がナチを真っ直ぐに捉えている。
「あ、やっと起きた」
「いつまで寝ておるのだ、馬鹿者。さっさと起きろ」
「え? 何? 何かあったの?」
「ん? 別に何にもないよ。お兄さんの寝言がムカついたから起こしただけ」
「僕、なんか言ってた?」
「えっと……ナナ、愛してるって……」
マオはそう言った後に少しだけ悲しい顔をした。が、すぐに表情が切り替わる。悲しみは消え去り、苛立ちからか真っ赤に顔を染めたマオはナチの腹部を思い切り殴った。
「夢でも惚気んな、バカ!」
思い切り鳩尾を強打され、ナチは腹部を押さえながら、止まりかけた息をすぐに再開させようと躍起になる。
「……そんな無茶苦茶な」
「マオ、流石にそれは我も理不尽だと思う」
「だってえ……」
マオはイズを腕に抱えながら、泣き顔を浮かべ、情けない口調で言った。それを聞いたイズが盛大に溜息を吐いた後にマオの腕を優しく叩いた。
「……まあ我も、寝言で愛してるとか気持ち悪い言葉を吐く奴が実在するのだな、とは思ってはいる」
「ほらー、やっぱりお兄さんがおかしいんじゃん」
「僕がおかしいの……? あーまあ僕の愛妻家っぷりに驚くのも無理はないけど」
「……普通にキモって思っちゃった」
「我もだ。普通に気味が悪いと思った」
「あんまり言われると僕も普通に傷付くよ?」
視線を落とし、声の調子も落としたナチを見てか、イズがナチの頭を思い切り蹴り飛ばしながら、床に着地。ナチとマオを交互に見てから口を開いた。
「とにかくだ。マオ、まずはナチの話を聞いてやれ。ナチとこの男の妻は夢と夢を繋ぐ能力があるらしいからな」
「夢と夢を……繋ぐ……?」
何言ってんのイズさん? と言わんばかりの冷たい顔と目をマオに向けられたイズはすぐさまナチを睨めつけた。
「さっさと説明しろ。我がおかしな事を言っているような空気になっておる」
ナチはイズに話したように『神威』と『神器』を簡易的に説明し、それらの能力に夢の中でコンタクトを取る方法があると説明。それを聞いたマオはうーんとうねる様に頭を捻らしていた。
「夢の中で本当に会話してた……ってこと?」
「簡単に言えばそういうこと」
ナチがそう言うとマオはあからさまに不機嫌を表情に前面に押し出した。
「じゃあ夢の中で本当に……あ、愛してるとか言ってたってこと?」
何故か自分の発言に狼狽し、顔をやや朱に染めているマオを見て、ナチは口角を上げた。
「あー……言ったかも。なんで照れてるの?」
マオが眉間に皺を寄せながら、ナチの脇腹を抓る。
「ちょっと痛い痛い痛い」
ナチが苦痛に呻いているとマオが手を離し、立ち上がる。
「夫婦仲が良好で良かったですね!」
「それ嫌味のつもりなの?」
ナチが苦笑いで言い、イズが笑いを噛み殺しているとマオが顔を真っ赤にしながら、ナチのコートをナチとイズに向かって投げ飛ばした。
「う、うるさい! バーカバーカ! 私もう先にマナ達のところに行くから!」
勢いよく扉を開け放ち、外に出て行ったマオをナチとイズは呆然と見つめ、すぐに笑顔を浮かべた。
「さあお前もさっさと支度をしろ。お前のせいでルーロシャルリを発つ日が遅れておるのだから」
ナチは未だに痛みを残す肉体を起き上がらせ、立ち上がった。
「分かってますよーすみませんねー」
オズとの戦闘から早七日。ミアとクライス。二人が施してくれた治療行為のおかげでナチの体は何とか動くまでに回復した。
それでも傷はまだ完全には癒えていない。神威の封印を緩めた代償は未だナチの中に確かに残っており、体を起こそうとするだけで全身に痛みが走る。
これからユグドラシルが向けてくるはずの使者を退けられるのか、ナチにはもう皆目見当もつかない。
互角どころか、逃走すら出来ないかもしれない。
そして、次に送られてくる敵はナチにとって天敵になるかもしれないとナナは言う。彼女がそう言うのなら、そうなる可能性を多分に秘めているに違いない。
それでも僕は勝たなくちゃならない。勝ち続けなくちゃ……。
「大丈夫か? 真っ直ぐに歩けていないぞ」
フラフラとした足取りで仮設テントの出口に向かうナチを気遣うように言ったイズに微笑を浮かべ、ナチはその場で深呼吸。
「大丈夫、とは言い難いけど、そろそろ行かないとね。この世界に来てから、かなりの時間が経ってるし」
残り時間は既に半分を切っているはず。無理をしてでも動く必要がある。
世界が終わってしまっては意味がないのだから。
「無茶はするなよ」
「僕がピンチの時はまたイズが助けに来てくれるでしょ?」
レヴァルでイズに命を救われたときの嬉しさは今でも鮮明に覚えている。歓喜に心が震えた事は今でも記憶している。
ナチが嬉々としてそう言うと、イズは目を僅かに細め、ナチを睨んだ。長い耳がやや前傾に垂れ下がっているのは気のせいではないだろう。
それを見て、ナチは白い歯を覗かせた。
恥ずかしがっているイズを見て。
「今は助けなければよかったと猛省しておる」
「素直じゃないね、イズは」
「お互いさまだ」
だね、と笑いながらナチは簡易テントを出た。降り注ぐ陽光に目を細めながらナチは雪でぬかるんだ地面を歩いていった。
そして先導するイズの後を歩いていくと、知った顔が多く混じる集団を発見する。リーヴェやスレイ、カーラとジョセフ、孤児院の子供達と談笑しているクレア、それを笑顔で見つめるマオとマナ。
それからナチは集団から少し視線を動かし、二人の姿を鮮明に捉えた。




