八十 強くなれる可能性
世界樹の前。そこの中央。残された二つの世界を凝視している世界樹の主は返された鍵を手に持ち、無言のまま世界樹の洞に入っていった。
そこに座る銀髪と狐耳を持つ女神と世界樹の蔓に四肢を縛られた人間を立ったまま見つめた。主の身長では直立しても彼女達を見下ろすことはできず、視線は平行になってしまう。真っ直ぐに見つめ合うと世界樹の主は鍵を虚空に消し、口を開いた。美しい一柱と一人が僅かに身構えたのを感じながら。
「……これもあなたの思惑通り、ナキ?」
「いや、ミアが離反した原因は私にはない。そもそもあの人形を私は知らない。ミアが裏切ったのはユグドラシル、お前の人選ミスだ」
ナキは少し硬い口調でそう言った。
そんなことはユグドラシルにも分かっている。彼女には世界を滅ぼそうという世界に対する明確な憎悪はなかった。赫怒もなかった。離反する可能性が高かったのは最初から知っていた。知っていてもユグドラシルは彼女に鍵を与え、自身に協力させた。自ら死ぬことを許されず、寿命という概念すら持たない人形。
強い自殺願望を持つ人形を仲間に引き入れたのは彼女がルキの母だったからだ。彼女がルキのために死を望んでいたことを知っていた。先に逝ったルキを安心させるために死を望んでいたことをユグドラシルは知っていた。
だから、彼女に死を与えてあげたかった。娘の安寧を望む彼女の願いを私は叶えてあげたかった。
けれど、ミアは見つけた。自分を停止させてくれるナチという存在を。見つけてしまった以上はミアが世界を滅ぼす理由も、ユグドラシルの味方をする必要もなくなる。それを悲しいとは思わない。怒りすら感じない。そうなる可能性は最初から示唆されていたから。やはりそうなったか、としか思わない。
「お主、最初からミアが裏切ることを知っておった、というような顔じゃな」
「……別に。あなた達が私を裏切ったところで世界の滅亡は覆せない。あなた達を消すことなんて造作もないことよ」
「おお、怖い怖い。主様は今日もご立腹なようじゃな」
「……あなたの弟子がどれだけ強くなろうと私の敵じゃない」
「まあ今のナチでは、お主には勝てないじゃろうな」
あっさりと、淡々とマトイは認めた。
「十三曲葬はわっちが考案し、作った術じゃ。当然、わっちは十三曲全てを扱える。ナチよりも高い威力、精度で。そのわっちがお主に勝てないんじゃ。勝てるはずもない。だが、楽しみじゃな」
「……なにが?」
「ナチは必ず十三曲葬を全て扱えるようになりんす。そして、必ずわっちを超える。そうなった時、あいつの曲葬はお前をも殺す可能性を秘めるやもしれぬ」
「……有り得ないわ、絶対に」
「可能性に苛立っても仕方ないじゃろ?」
楽し気に笑うマトイを睥睨するユグドラシルは次にナキに視線を向けた。
「……あの《世界を救う四つの可能性》。マギリの後継者にするつもり?」
「それはマオとマギリが選ぶことだ。強制はしない」
《雪の流刑地》をその身に宿し、発現することが出来る器。その膨大なエネルギーに耐え得る器。そして《絶硬》と《絶対零度》を《絶硬零度》に昇華させることを可能とするマオという少女の広漠ともいえる器の広さ、底知れぬ大きさ。
ユグドラシルを以って、言える。
あの氷雪を操る少女は危険だ、と。今でこそ脅威と呼ぶに値する実力はない。脅威を感じるほどの成熟した精神も思考も持ち合わせてはいない。だが、可能性だけで言えば、彼女こそが世界を救う器に最も近い。
ナチはその器を失った。自ら手放した。愛する者を守るために、愛する家族を救うために、彼は《世界を救う可能性》を自ら手放した。
彼にはもう脅威を感じない。どれほどの力を身に着けようと、私には届かない。
彼と彼女がその身に宿していた力。《神威》と《神器》。突然変異した世界が創造した神の御業、御霊。私に届く可能性を秘めた牙。それももうない。御業は振るえず、御霊は失われた。もう《世界を救う可能性》は完全に機能を失った。
「……必死ね。《世界を救う可能性》を失ったあなた達は五百年の歳月をかけて《世界を救う四つの可能性》を用意した。けど、それも急拵え。あのマオという少女がここにたどり着くことが出来たとしても、私の脅威にはなり得ない。そこまでの成長を見せることはない」
「分かっていないな、ユグドラシル。確かにマオはお前から見れば雑魚だよ。だが、その隣にいる男は、その内にいる女は紛れもない最強だ。そして、お前の人選ミスによって解き放たれた最強も彼女を守るために動き出す。世界を守る理由を手に入れた彼等も《世界を救う四つの可能性》を守る必要が出てくる。確かにお前の言う通り、マオは脅威にはならないかもしれない。強くなる保証なんてない。だが、マオが急成長する可能性は用意してある。あの子はお前に届く可能性を秘めている」
急成長するにはマオが実力の違いを、格の違いを意識し続けるしかない。力が均衡した人間ではダメだ。それでは少しずつしか前に進めない。そんな悠長なことを言っている時間はない。ならば、実力が遥かに高い人間に師事し、高い実力を目の当たりにし、技術を盗み続けるしかない。彼女の周りには人間として最高峰の実力、最強と呼ばれるに相応しい超絶技巧を持つ人間が溢れている。
幸い彼女には強くなりたいという強い意志がある。それがある限り、可能性は潰えない。
「そして《世界を救う可能性》も死んではいない。私が五百年の歳月をかけて用意したのが《世界を救う四つの可能性》だけだと思うか? 無限の異世界を救おうというのに、その危機を救う可能性が四つだけだと思うか?」
「……何を……」
ユグドラシルは少しの逡巡の後に生き残った二つの世界のうちの一つ。ナチ達が降り立った世界とは違う真っ白な光に包まれた世界に視線を飛ばした。
確証はない。だが、いる。あそこに《世界を救う可能性》がいる。生きている。彼女が。
彼女だけではない……。きっと、奴もあそこにいる……。
「……本当に……用意周到ね」
「ユナ、考え直せないか? 今ならまだ」
「……できない。これが唯一可能性を見出せた奇跡だから」
ナキは歯を喰いしばる。彼女と争いたくない。彼女の命を奪うことなどしたくない。
頼む……ナチ。強くなってくれ、強くしてあげてくれ。
この孤独に泣いている少女のために。
その日、私は夢を見た。
よく見知った少女と、その父と母が横に並ぶ平和な光景。両親と手を繋ぎ、笑顔を浮かべながら世界を旅している少女の姿。
その光景は、その表情は少女がずっと待ちわびていた光景。愛しい者と手を繋ぎ、世界を旅をすること、それこそが彼女の儚くも叶わない願い。そして、父が果たせなかった娘の願いでもある。
だけど、この泡沫の夢では二人の願いは成就している。愛しい者達と手を繋ぎ、底抜けに明るい笑顔を浮かべ、両親に長かった旅路の思い出を語る彼女はとても幸せそうで、見ている私すらも幸福に彩っていく。
私はもう必要ないですね……。
私がどこか遠くに去っていこうとする三人の後ろ姿から目を背けようとした時、その三人は同時に振り向き、私に手を伸ばした。
ずっと、待ってるよ。私達はここでずっとミアを待ってる。
あなたは私達の家族だから。かけがえのない友達だから。
……私を家族だと、そう呼んでくれるのですか?
ありがとう、娘を守ってくれて。娘を愛してくれて。私達家族を救ってくれて、ありがとう。
ありがとう……ございます。私に心を与えてくれて。私に愛することの喜びを教えてくれて、ありがとうございました。
分かる。あなたを失ってから、現実では一度も変わらなかった表情が変化しているのを。上手くできているだろうか。自分で見えないのが歯痒い。それでも幸福感に心が埋まっていく。
ああ……私は今笑えている。
ありがとう、ルキ。
また会う日まで、愛する者達との旅を謳歌していてください。
私ももう少し現実で足掻いてみます。あなたに誇れる友だと言ってもらえるように。私がそう思えるようになるまで。
では、また会いましょう。




