六十九 壊れかけの土塊
「へえ、まだ立ち上がるんだねー」
吐血しながらも楽し気に言ったコトは真っ赤に染まる歯を覗かせた。
「こっちの台詞だよ」
「そろそろ能力使ったほうがいいんじゃないのー?」
「嫌だよ。使ったところで状況は好転しないからね」
「自分が劣勢だって分かってるんだー。さすがー」
「さすがにこの状況で勝てるなんて自惚れてはいないよ」
どうする、か……。
スレイの能力ではこの状況を一変することは不可能だ。それはクレアが駆け付けたところで変わらない。彼女も個人としての力は高いが、この状況を変えるほどの能力を持っているわけではない。
この状況を変えられる人物。すぐに思い浮かぶのは、幼馴染の少女。辛い奴隷時代を共に支え合いながら生きてきた少女の姿。
彼女を頼りたくはない。彼女を守りたくて強くなったのだから。彼女に頼られたくて強くなったのだから。
「じゃあ、バイバイだねー」
誰かを頼るのはもうやめだ……。僕しかいないんだから。僕がやるしかないんだ。
例え時間を稼ぐことしか出来なくても。
スレイは右足と右腕を巧みに動かし、向かってくる死体を何度も破壊し、迫るコトの砂を躱しながら彼女との距離を詰めていく。
狙うべきは本体。コトのみ。
彼女は不死身なわけではない。現に戦闘中に何度も吐血しており、土と肉体の接合部分からは血液が滴り落ちている。経験で分かる。彼女はスレイが何もせずとも時期に死ぬ。
なぜ生きているのか分からないほどの出血量。けれど、まだ彼女は死なない。けれど、あと一撃入れることができれば、勝利する自信がスレイにはあった。
致命傷じゃなくてもいい。決定打じゃなくてもいい。あと一撃、それが勝利への鍵になるはず。
「やるねー」
コトは大量の血を地面に吐き出すと、膝をついた。それでも笑っている。迫る死に対し笑顔を見せている。
それでも能力の精度は全く落ちない。そう教えられているからだ。
スレイには分かる。命よりも優先すべきことを体に叩きこまれているのだ。
自らの命よりも敵を屠ることを優先しろ、何よりも最優先すべきなのは主の命、かつてのスレイがそう教え込まれ、その身に叩きこまれ、実践し続けていたように。
コトも誰かの言い付けを守り続けている。
そして、もし彼女がスレイと同じような思考だとすれば、おそらく彼女には隠していることが一つある。
「君、死ぬのが怖いわけじゃないでしょ?」
痛みを感じなくなった肉体は死を恐れないわけではない。眼前に迫る死に対し、怯えない訳ではない。
「急にどうしたのー?」
口元から垂れる血を拭うこともせずにコトは言った。クレイとコールマン、司教の体内に存在する土砂は肉体を突き破り、体外へ放出。さらに砂は赤く変色するほどまでの高熱を宿し、スレイに襲い掛かる。
「いや、ただの独り言。僕は昔そうだったけど、誰の記憶にも残らないのが怖かった。たった一人で、誰にも気づいてもらえずに死ぬのが一番怖いことだって思ってたし、今も思ってる。だから、異常者のフリをしてた。そうすることで必ずご主人様の目に留まるって分かってたから」
そうすれば、僕にだけ意識を向けることができたから。そうすることでしか、僕は彼女を守る方法を知らなかったから。
死を本質的に怖いと理解している人間はもう目を背けることは出来ない。精神に刻まれた恐怖は目を背けることは出来ても、掻き消すことは二度と出来ない。それほどまでに強い傷跡を植え付ける。それが死という概念。
自分が本当に死を実感したとき、スレイは初めて人間らしい心を取り戻した。生きたい、と本気でそう思えた。リーヴェと一緒に、いや、彼女がいなくても生きていたいと思ってしまった。
それがスレイという人間の本質。醜いまでに生に縋りついたのが僕。
だから、早く気づきなよ君も。もう真実は目前まで迫っているんだろう?
スレイは火傷を恐れることなく、人の形をした砂を右手で吹き飛ばした。手の平が一瞬で焼けただれる。水泡すらも浮かび上がらず、皮膚が焼け落ちていく。次第に血液が落下し続けても、スレイは土砂を折れた四肢も使って破壊していく。
「死ぬのが怖いとか子供だねー」
軽薄な口調は変わらないが、笑顔は消えていた。砂の操作も若干精度が鈍っている。
「ほんと子供みたいだよ。結局寂しいから足掻いてる。それだけだからね。僕は孤独に戻りたくないだけなんだ」
「へー。僕は……『私』は違う。寂しくなんてないし」
無感情の笑顔しか浮かべていなかったコトの表情に初めて感情らしきものが浮かぶ。それが何なのかは判別すらつかない。喜怒哀楽なのか、寂しさから滲み出たものなのか。
いや、恐怖なのだろう。現実と向き合う恐怖。死を目前に控えた今、彼女はその現実と向き合わなければならない。既に出血量は致死量を超えている。助かる見込みはない。少なくともルーロシャルリに助けられる人間はいない。
彼女もそれを理解している。だから、感情が溢れ出そうとしている。
死は心の殻を破壊する最強の矛。虚像を打ち砕く剣。
そして、スレイの言葉で感情が溢れかけたということで彼女が抱える闇が透けて見えてくる。
「コトは誰に見てもらいたいの? 誰に、見てもらいたかったの?」
スレイは冷笑を浮かべながら、砂を吹き飛ばし、左足を引きずりながら必死に駆けた。恐ろしい形相でスレイを睨んでいるコトに止めを刺すために。
「そんな奴いないしー……。そんな奴……どこにもいないし!」
寂寥が乗せられた叫びと共に拳大の砂の弾丸がスレイの胸を狙って放たれる。
直撃すれば体が容易く貫通するほどの威力と速度を持ったそれをスレイは体を捻って右肩にまでずらした。右肩を貫通した弾丸は木を一本薙ぎ倒したところで地面に零れ落ち、スレイはコトの足元に倒れこんだ。
そこからは一方的な展開。スレイの腹部を、折れた左手足を、火傷が酷い右手足をコトは容赦なく殴り、蹴った。能力を使うことなく、彼女自身の力だけでスレイを殴打し続けた。
これは怒り。感情任せの攻撃。故に繊細さが欠けている。だが、これが彼女の本来の姿。その一部。彼女が本来持っているはずの感情の一端。
そうだ。壊れたフリなんてしなくていい。君は人なんだから。誰にも望まれなかったとしても、誰にも必要とされなくても、壊れかけていたとしても。
君はまだ壊れてはいないんだから。




