四十七 怖いことばかり
三人が『貴族区』へと侵入した後にシャルはリーヴェ達に、ミアに言われた文言をそのまま伝えた。孤児院にいると胸の痛みが生じること、ルーロシャルリには群生していないはずの花の香りが発生すること。そして、その香りの濃度が日によって変化することを。
すると、リーヴェ達はすぐにシャルの能力である可能性に気付き、孤児院へと向かっていた。協会に残ると言ったクレイと司教を残し、五人は『貧民区』の詰所前を通過した。
「いつから胸が痛くなったりしたの?」
クレアの問いにシャルはリーヴェを一瞥した後に言った。
「ミアお姉ちゃんが来る少し前から」
「それで孤児院を抜け出したりしたのか?」
「それは……」
シャルは視線を落とし、口をつぐんだ。マオはそれを横目で見て、その次にクレアへと視線を向けた。端的に言ってシャルに何を言ってあげたらいいのか分からない、という趣旨の目配せだったのだが、クレアはマオの視線に気づきながらも口を開くことはなかった。
「それは?」
不自然にシャルの横を歩き始めたリーヴェは柔い口調を心掛けている、と分かるような口調で言った。
「……お母さんが迎えに来てくれたんだって思った……から」
マナが言っていた言葉を急速に思い出す。無慈悲に、理不尽に捨てられた他の子達とは違い、シャルは両親と再会を約束して別れたのだと。
彼女は両親との再会を待ち望んでいる。そんな時に母が好きだった花の香りが漂えば、両親が自分を迎えに来てくれたと解釈してもおかしくはない。だって、シャルはまだ十にも満たない子供なのだから。精神的に大人びていようと彼女はまだ子供なのだ。だから、両親の痕跡にこんなにも簡単に縋ってしまう。胸の内にしまい続けた願望がいとも簡単に解き放たれてしまう。それはこんな状況でなければ自然な感情で、いたって普通の行動だ。
「だからって、約束破って勝手に抜け出すのはダメだ」
「……ごめんなさい」
シャルの謝罪とほぼ同時にリーヴェが足を止めた。それに合わせて、マオ達も足を止める。そして、心配そうに自身を見上げるシャルの前にリーヴェは立つと膝を地面に着け、彼女を抱きしめた。
「……ごめん、シャル。もう怒ってるわけじゃない。ただ、心配なんだ」
震える腕、体、唇。最強と言われている少女が年相応に恐怖に震えている。黙って成り行きを見守っているクレアとイズに対し、マオは軽い衝撃を覚えていた。弱さとは無縁に思えた少女が、少女に歩み寄るために、同じ目線に立つために弱さを曝け出しているように思えて。
「シャルや他の皆を守れなかったらって思うと、怖いんだ」
「リーヴェ姉ちゃんでも怖いって思うこと……あるんだね」
リーヴェの服を握りしめるシャルは嬉しそうにそう言って、リーヴェの胸に顔をうずめた。
「あるよ、そりゃ。怖いことばっかだよ、生きてると」
「でも、リーヴェ姉ちゃんのことはスレイ兄ちゃんがいつも守ってくれてるよ?」
驚きからか目を見開いたリーヴェが顔を真っ赤にして、息を呑んだのが分かった。シャルの言葉にクレアが口元を隠し、笑声を押し殺しながら「ほんっとにこの子は人のことよく見てるわ」と楽しそうに呟いたのをマオは聞き逃さなかった。
「そ、そんなことはないぞ。あいつに守られたことなんて」
「そんなことあるでしょうよ?」
ようやく口を挟んだと思ったクレアは狡猾染みた笑みを浮かべていた。どう見てもからかってやろうという魂胆が見え見えだが、マオとイズはさすがに口をはさむことができず、乾いた笑い声をこぼすだけだった。
「クレアは黙ってろ」
「はいはい、黙ります黙ります。黙るからさっさと行きませんか? 寒いんだけど」
「あ、悪い。そうだな、さっさと行くか。な? シャル」
「うん!」
シャルを抱きかかえながら立ち上がったリーヴェはマオ達に笑顔で謝罪しながら、再び孤児院に向かって歩き始めた。
「一件落着みたいだな」
「そうだね。どうなることかと思ったけど」
「あの二人の場合は、ちゃんと会話してればすぐに解決するような問題だからねえ。マオたん達とは拗らせ方の程度が違うよ」
「そんな、私達の喧嘩は根が深いみたいな言い方しなくても」
「ああ、ごめんごめん」
本当に嬉しそうに笑うクレアはマオの横で笑声を噛み殺しながら、両手を後ろで組んだ。
「なんかクレアさん、人の不幸を楽しんでません?」
「楽しんでないよ、失礼な。仮にもシスターだぞ?」
可愛らしい笑顔を浮かべ、可愛らしくウインクするクレアに苛立ちを覚えつつマオは少し早足でクレアの横に並んだ。
「うわあ、絶対楽しんでる。今すっごく街中にクレアさんの本性を広めて回りたい気分です」
「それはそれで楽しそうだから悪くないかな」
「何ですかね……。すごくイラっとしました」
「マオたんはどんどん言動が鋭くなってくね。見てて面白いよ」
「全然面白くないですよ!」
「その調子だよ、マオたん」
「何がその調子なんですか……」
横を歩くクレアを見やれば、彼女は自身の肩に積もっている雪を払いながら、目を細めて笑っていた。その笑顔に蠱惑的な魅力を感じつつ、マオは彼女から目をそらし、自身の肩に乗った雪を払った。
「降り積もった雪はいつかは水に変わってなくなっちゃうけど、モヤモヤした気持ちっていうのはさ。自分で発散しないと絶対になくならないんだよ」
クレアは自身の胸に手を当てて、息を大きく吐いた。
「心っていうのは代えの利かない消耗品だからさ、一生大事にしていくにはそのモヤモヤを発散し続けなくちゃいけない。だから、マオたんみたいに自分で発散するのが苦手な子はお姉さん心配なのさ。環境をガラッと変えられるなら、それが一番いいんだけどね。マオたんはナチの側を離れるつもりないんでしょ?」
「はい」
「喧嘩中なのに即答なんだね」
「お兄さんは私のもう一人の師匠でもあるから」
「そっか。尊敬してるんだね、ナチのこと」
「尊敬というよりは、憧れてるって言ったほうが近いかもしれないです」
初めて彼の実力を目の当たりにした時、私の心は一瞬で奪われた。彼が放った《天日牢》を初めて見たときの高揚感と衝撃を今でも覚えている。そうだ、彼と一緒に居たい理由はもう恋愛感情だけではなくなっている。彼の戦う姿をもっと見たい。強くなっていく彼の横で私も成長したい。彼の旅が終わるその日まで私は彼の隣で戦い続けたい。
「……マオたんはさ、そういうのちゃんと伝えてる?」
「いや、伝えないですよ。恥ずかしいし」
「そりゃ、日常会話の中でそんなこと言ってたら恥ずかしいでしょ。そうだな……例えば、さっきナチとミアが詰所で喋ってた時にマオたん怒ったでしょ。『お兄さんの気持ちをあんたが勝手に決めないで』でって。あれ、ナチからしたらすごく嬉しいことだと思うんだよね。誰かが自分のために怒ってくれるって特別なことだから」
「あれは、気付いたら勝手に言ってただけで……深い意味は」
「それでもさ、ナチは嬉しかったと思うよ。マオたんが信頼してくれて勇気が出てきた、だから、ミアの意見を受け入れることができたんだと思う。私にはそう見えたな」
「……結局何が言いたいの?」
クレアは右手でマオの胸を指差した。
「言葉や想いってのはさ、そこに貯めこんでるだけじゃ意味ないんだぜ? ちゃんと伝えなきゃ、どんな名言も献身的な想いも存在しないのと変わらない。大事に『想ってる』だけじゃダメ。それを行動と言葉で示して、ようやくマオたんの想いは形になる。そこからが本当のスタートだよ」
本当の……スタート。
マオは無意識にイズを強く抱きしめ、歩く速度を落としていた。それに合わせてクレアの歩行速度も落ちる。徐々に距離が明いていくリーヴェ達との距離など全く気付かないまま、マオは長く深く息を吐きだした。
それと呼応するようにクレアも白い吐息を虚空に吐き出した。そのあとにあはは、と乾いた笑声が上がる。
「ダメだねえ。どうにも説教臭くなっちゃって。マオたん、私が言ったのはあくまで私の考えだから、もし私の考えが合わないって思うんなら堂々と否定すればいいよ。私ならそうするってだけの話だから」
「そんなことないです。否定するところなんてないです」
「そうかね? 私はもう少しマオたんに考える余地を与えたほうがよかったかな、って反省中だけど」
「反省か。お前が口にすると違和感が仕事をするな」
「イズも酷いなあ。私だってよく反省するのに」
「クレアさんが? 嘘つかないでくださいよ」
「君達は私のことを何だと思ってんのかね。私に話を聞いてほしい人の中には私に完璧な正解を求めてる人もいる。けど、私は私の意見しか言えないし、正解を教えてあげるのが正解とは限らないからね。伝えた後に反省することは多いよ。私の言葉で良くも悪くも人生変わっちゃう人もいるからさ」
「辞めたいとか思わないんですか?」
「思う時もあるよ。あるけど、求められているうちは続けようと思ってる。やっぱり人の話を聞くのは好きだし、私の言葉で救われる人がいるって言うのは素直に嬉しいものだから。給料は安いけど」
豪快に笑うクレアはマオの肩を叩くと、マオの少し前を歩き始めた。
「どうしてナチと旅を続けたいのか、マオたん自身が旅を続ける意味、それは自分で答えを見つけ出すこと。それさえ分かってれば、ちょっとやそっとのことで迷ったりしなくなるから。頑張ってね」
「……はい! ありがとうございます、クレアさん」
先を歩くクレアの横に並ぶとマオは笑顔でそう言った。
きっと私は答えを見つけている。けれど、後ろ向きに考えすぎるあまり、答えと正面から向き合えていなかった。私自身が旅を続ける理由はそう難しくはない。私は元々サリスを、家族を連れ戻すために旅をしているのだから。私が旅を続ける理由はこれしかない。
なら、私がお兄さんと旅を続けたい理由は何なのだろうか。好きだから、彼に憧れているから、これが理由なのは間違いない。……それだけなのだろうか。それだけではない、気がする。
すぐに思い当たらないということはその答えを今の私が持ち合わせていないということに他ならない。だから、これからの旅で見つけていけばいい。私はまだスタート地点にすら立っていないのだから。




