三十九 払うべき礼節
「単刀直入に言います。今ここであなたを殺すつもりはありません」
ミアの発言にナチは皮肉めいた笑みを浮かべる。
「へえ、殺人人形がお優しいことで」
「この場所で戦闘を行えば、あの子も巻き込まれてしまいますから。私は人殺しではありますが、殺戮者ではありません」
「……世界を滅ぼそうとしてる側とは思えない発言だね。君が僕とマオを殺せば、結果的に君は殺戮者と同じだ。この世界では誰も世界の危機を知らないんだから」
誰も世界の危機を知らないという事は、誰も世界を救おうとしないという事だ。そして、世界が滅ぶ直前に改善策を弄しても遅い。遅すぎる。無限の異世界に住む全ての人類は滅ぶ事を義務付けられる。
「確かにそうですね。結果的には私は殺戮者に成り代わる。ですが、その結果を知る者はこの世界には誰もいない。この世界が滅ぶ瞬間を見ている人類は私も含め誰一人としていない。ならば、問題はない。苦痛を経て死亡するよりも、無痛で、一瞬で死亡できるのならば、後者の方が断然いいでしょう?」
「それは詭弁だ。さっきのシャルって子だって、世界が滅ぶかもしれないって知ったら、運命に抗おうとするかもしれない。リーヴェ達だってそうだ。世界の消滅を誰もが望んでいる訳じゃない」
「そんな事は分かっています。ですが、知らないからこそ、起こせる行動もあります」
冷淡に言ってのけた彼女の言葉を聞いて、ナチは内心で僅かに首を傾げた。胸の内で小さな違和感が駆け巡る。
「……君はどうして滅ぼそうとしている世界の人間に最大限の気遣いを施そうとしてるの?」
初めてミアの表情に翳りが落ちた。気がした。
「先程も言いましたが、私は殺戮者ではありません。払うべき礼節は誰に対しても払います」
「そんな事を言う人がどうして世界を滅ぼそうとしてるのか、僕には全く分からないんだけど」
「分からなくて当然です。あなたと私は別固体なのですから」
「そりゃそうだけど。本当に世界を滅ぼしたいって思ってる人はなりふり構わずに僕達を殺そうとするんじゃないかな? どれだけの罪に問われようが僕達が死ねば、世界の破滅はほとんど確定するんだから。どうしてそうしないの? 本当にあの子を巻き込みたくないのが理由なの?」
「類似した質問は止めてもらいましょうか。先程言った言葉が私の真意です。ここで戦えばシャルを巻き込むことになります。私はそれを避けたい、それだけです」
ナチは緩やかに、やや呆然とシャルとイズが出ていった扉を見つめた。
「……あの子は君の何?」
確かにミアはこの世界に来てすぐにナチ達を殺害しようとした。あの時のミアには迷いも躊躇もなかった、ように思う。少女の安全を確保するためにナチと不毛な会話をする気概など、あの時の彼女には絶対になかった。
シャルが特別なのか、それともこの世界に来たことでミア自身に変化が生じたのか、一体どちらなのか。ナチは僅かに目を細め、握り締めている符を握り潰すかのような強い力で握り直した。
「あの子はこの世界の住人であり、孤児。ただそれだけです」
「……まあいいや。君はこの場で戦闘をする意思はない。そういう事でいいんだよね?」
「はい」
ナチは手に持っていた符をビリビリに破くと、それをわざわざミアに見える様に捨てた。
「なら、二人を部屋に入れてあげなよ。この部屋の外は寒い。イズはともかくシャルって子は風邪を引くかもしれない」
ミアは素直に扉のすぐそばで待機していたシャルとイズを部屋に招き入れた。ナチの符術によって暖かい室温になっている部屋に入った瞬間にシャルは感嘆の声を上げ、イズを抱き抱えたまま、ミアのすぐ隣に移動した。
「申し訳ありません。長々と話をしてしまって。寒かったのではないですか?」
「大丈夫だよ。イズさんあったかいから。それにいっぱいお話しできたし」
「有意義な時間だった。このクズの子守りばかりでうんざりしていたからな」
「何てこと言うのかね、この兎は」
「冗談だ。シャル、そろそろ腕が疲れてきた頃だろう? 下ろしても構わぬぞ?」
「うん、下ろすね」
シャルはベッドの上にイズを下ろし、再びミアの隣へ移動。イズはナチの腹部に突撃するように飛び込み、小さな声で言った。
「何もされてはおらぬな?」
憂いが滲む声がナチの耳に届き、ナチは思わず破顔した。イズの頭を優しく撫で、浮かび上がる笑みをミア達に見られまいと窓の外を見た。
「問題ないよ」
「そうか、ならよい」
先程感じられた憂いが確かに和らいだのが分かる。部屋を出ていった後もイズは心配していてくれたのだろう。おそらく、彼女はナチ達の会話にも聞き耳を立ててくれていたに違いない。だからなのか、イズはそれ以上追及してくる事はなかった。
「ああ、そう言えば」
何気なく言ったイズの声に反応し、全員がイズに視線を向けた。
「どうかしたの?」
「先程、マオ達の足音がこちらに向かってくるのが聞こえた。リーヴェやマナも一緒だ」
「え? リーヴェお姉ちゃんも一緒なの?」
「リーヴェが一緒だとマズいことがあるの?」
明らかに苦い顔をしたシャルを見下ろすミアは小さく溜息を吐いた後に、口を開いた。
「仲違いしているのです」
それだけ言ったミアはシャルに睨まれている事に気付いていながらも、完全に無視を貫いた。ナチ達も「ああ、なるほど」と何度か頷き、ゆっくりとベッドから降りた。
「別にリーヴェお姉ちゃんと会っても平気だし……」
ナチは部屋全体を温風で包んでいる符の『大気』を利用して、麻痺が残る左下肢を補助し、平然と歩き出した。そして、シャルの前で屈んだ。視線をシャルと合わせ、穏和な笑みを浮かべる。
「じゃあ、ここで質問だ、シャル。本当にリーヴェに会いたくないなら、僕がリーヴェに見つからない様に隠してあげる。どうする?」
「ほんとに!? ……でも」
一瞬でナチの案に乗っかろうとしたシャルだったが、ナチと視線が重なった瞬間に口を噤んだ。視線が落ちていく。眉間には小さな皺が生まれ、両手に僅かに力が入った。
ナチはわざとらしく、首を傾げた
「でも?」
余計なお節介だという事は分かっていながらも、ナチはシャルの言葉を待った。ミアもイズも口を挟もうとはしない。
「……いい」
俯くシャルは小さな声で何かを紡いだ。だが、ナチはそれを聞き取れず、「ごめん、なんて?」と努めて優しく言った。すると、シャルは顔を上げ、ハッキリとナチに聞こえる声量で言った。
「別にいい。ここで隠れたりしたら、リーヴェお姉ちゃんと、また仲直りできなくなるから」
訥々と話す口調とは裏腹に、シャルの瞳には強い意思が感じられた。子供にしてはやや強すぎるとさえ思う程の強い想いというべき感情が視線からは感じられた。ナチはそれを見て、暫し茫然とした後に白い歯を覗かせて、笑声を上げた。
「そっかそっか。じゃあ、リーヴェ達が帰って来るのをここで一緒に待ってようか」
リーヴェ達が何をしに詰所に帰って来たのか分からない以上は、必ずナチ達を訪ねるとは限らないのだが、ナチは何も言わずにベッドに戻り、腰を下ろした。
「何か忘れ物かな? リーヴェ達」
ナチの何気ない問いにミアを除く全員が首を傾げ、黙考に入ったが口を開くことはなかった。
「忘れ物でしょう、おそらく」
淡々とどうでもいいことのように言ってのけたミアを見て、イズが乾いた笑みをこぼし、シャルが朗らかに笑みを浮かべる。
「そうだな、忘れ物だろう。きっと」
「だね、忘れ物だよ、きっと」
深く考えても仕方がない、とそう告げるかのように二人は軽い口調で言った。イズはベッドの上で横たわり、眠る体制に移行。その横にシャルは移動し、優しくイズの小さな背中を撫で始めた。
その行動をその場で微動だにせずに見ているミアのすぐ後ろにナチは『大気』を使い、椅子を移動させた。
「座りなよ。どうせ、この状況を見られたら面倒な状況になるんだから。今は束の間の休息と行こうよ」
束の間の休戦と言ったほうが正しかったのだろう、と思いながらもナチは苦笑を浮かべた。その笑みを見たミアは忌避するかのようにナチから視線を外し、無言で椅子に座る。




