三十四 笑顔の理由
「どうしたんだい? ミアさん」
ジョゼフの穏やかな声がミアを追想から帰還させ、ミアは思わず周囲を確認していた。荒れ果てた荒野はどこにも存在しない。腹部にも大きな空洞は開いていない。自らを救おうとした小さな人形はどこにもいない。
急にミアに抱き着いてきたシャルは確かに現実に生きる人間で、誰かが誰かを愛し、その結果に生まれた存在。
ミアとは違う存在。ただ人を殺す為に作られたミアとは根本から異なる存在。
ここにいると霞んでしまう……。
あなたの事も、私がこの世界に来た目的も。
ルキ……。
「昔のことを思い出していました」
ジョゼフは穏健に微笑み、カーラが鼻で笑う。ミアの腹部に抱き着いているシャルはミアの言葉に即座に反応し、瞳を輝かせた。
「ミアお姉ちゃんの昔のお話聞きたい!」
「それは……」
ミアが言葉を詰まらせていると、ジョゼフが笑みを苦笑に変えて言った。
「こらこら、シャル。ミアお姉ちゃんは老人の話し相手をして疲れているから、少し休ませてあげなさい。そうだ、気晴らしに二人で散歩でも行ってきたらどうだい?」
一瞬だけ気を落としたシャルだったが、ジョゼフの提案にすぐさま笑顔を灯し、口を開こうとした。だが、それを遮るようにミアがシャルよりも先に口を開く。
「ですが、スレイからは外出は控える様にと」
「外出するな、とは言われてないんだ。問題ないさ」
カーラがぶっきらぼうに言い、シャルが嬉しそうに首を縦に振る。
「さあ、行っておいで」
「うん! 行こ、ミアお姉ちゃん」
ミアの手を取り、外へと向かおうとするシャルにされるがまま、二人は孤児院を出た。その間に他の子供達が「ずるい」と口を揃えてジョゼフ達に言っていたが、シャルは気にする素振りも見せなかった。
外に出ると、シャルは力強くミアの手を引っ張り、真っ直ぐに進んでいった。既に行先は決まっているのだ、と言わんばかりの迷いの無さにミアはやや呆然としながら、黄色の髪が揺れる少女の後ろ姿をただ眺めていた。
過去を振り返っていたせいか、シャルの後ろ姿がルキと重なる。
背格好もほぼ同じ。髪の色も似ている。整った顔立ちも、強気で明るい性格もよく似ている。
だからか、ミアはほぼ無意識に口を開き、言葉を紡いでいた。
「そんなに急ぐと転びますよ? あなたはまだ一人では歩く事もままならない半人前なのですから」
彼女との旅で幾重にも紡いだ嫌味を、ミアは無意識に口にしていた。そして、すぐに気付く。シャルはルキではないと。今の言葉で彼女を無意味に傷付けてしまったのではないか、と。
シャルはミアの言葉を聞いて立ち止まり、一瞬だけぽかんと呆けた様な表情をしていたが、すぐに笑顔を浮かべた。
「大丈夫だよ、一人じゃないから。ミアお姉ちゃんが側にいるからだーいじょうぶ」
「そう……ですか。そうですね」
再びシャルに引っ張られる形で歩き始めたミアは空を見上げ、ルーロシャルリに天高くそびえ立つ『テラリアの天塔』を漫然と眺めた。
「どこに向かうのですか?」
「教団の詰所。マナちゃんに会いに行くの!」
「マナちゃん……ですか」
マナという少女はミアも知っている。ナチ達を手助けしたいと心から願い、それでも結局は性悪な異能に善意を捻じ曲げられた、フルムヴェルグの一件でナチ達が出会った少女の名だ。
ミアがこの世界で一抹の興味を抱いた唯一の人間。
フルムヴェルグがナチによって殺害された後、マナは自ら死を選択すると思っていた。だが、彼女は涙を流しながらも、再び自らの人生を歩んでいくことを決めた。前を向いて生きる事を彼女は自ら選んだ。
素直に知りたいと思う。まだ生きていく事を選んだ理由を。
「マナちゃんはすっごく綺麗なんだよ。おっぱいもすっごく大きいし」
「……外見以外に褒めるべきところはないのですか?」
「んーとねえ、教団の皆にはすっごく厳しいけど、私達にはすっごく優しいよ。あと、意外と怖がりかな。なんか怯えてる……気がする。なんとなくだけど」
「そうですか……。よく見ていますね」
「でっしょー?」
誇らしげに言ったシャルを横目にミアは繋いでいる手を僅かに強めた。
子供というのは存外侮れない。人格形成途中の子供は特に。
性格に裏表が少ないせいか、人の本質を無意識によく観察している。
いや、シャルだからなのかもしれない。親に捨てられたシャルは少なからず、心に傷を負っている。そして、また誰かに捨てられたくない、孤独に戻りたくないという考えを多少なりと持っているはず。
だから、人の顔色や声色の変化には常人よりも敏感なのかもしれない。
「ですが、あまり人前で言うのは控えた方がいいかもしれませんね。マナという人物も欠点を容易く広められては気分を害してしまうでしょう」
シャルは首を傾げ、懐疑的な視線をミアに盛大にぶつけていた。それを見て、ミアはすぐに補足説明をする。
「あなたが口にした言葉でマナがあなたを嫌う可能性があります」
「そんなのやだ!」
「ならば、発言には気を付けましょう。言葉は時に剣よりも鋭い刃に成り得ます」
「……うん、気を付ける」
繋いだ手から抜けていく力と元気。シャルの表情は瞬く間に翳りを落としていく。二人を包む無言が気まずい空気に変わる前にミアは一度瞑目し、頤を上げながら、瞼を上げた。
「ですが、言葉は時に他者に安息を齎す事もできます。他愛の無い言葉一つで救われる事も。あなたは救える側の人間であると良いですね」
私は何を言っているのでしょうか……。
これから、滅ぼそうとしている世界の人間に私は。
……訂正すべき……でしょうか?
けれど、どんな言葉で訂正すればいいのか、ミアには分からなかった。
まだ十年も生きていない少女に、親に捨てられても必死にこの世界で生きている少女に残酷な真実を突き付ける事が正しい事なのか、ミアには判然としない。
そんな事を思いながら無言で歩いていると、ふとシャルが手を握る力を強めた。ミアの手に伝わるか弱い力。その力でミアの意識は天塔からシャルに移動する。
シャルに視線を移せば、彼女は地面を真っ直ぐに見つめていた。それもミアの視線に気付くとシャルはすぐに顔を上げ、笑った。
「私も誰かを救えるかな? 救えたらいいなあ……」
悲しそうに、今にも綻びそうな程に脆弱な笑みをシャルはミアに返した。
その悲哀に満ちた笑みを見て、ミアはまたも歩みを止めてしまう。
まただ……またこの笑顔……。
分からない。悲しいのに笑う理由が。
あの時からずっと。
「ミアお姉ちゃん?」
シャルは首を傾げ、微動だにしないミアを心配そうに見つめていた。その視線に気付いていながらも、ミアはすぐに次の行動を取る事が出来ずにいた。
「どうして……あなたはそんなに悲しそうに笑ったのですか? 悲しいのに笑う理由を教えていただけませんか?」
それでも何とか紡いだ言葉は、まるで幼い子供が母親に問う様な幼稚な質問。
それは、疑問に思いながらもルキに聞けなかった問い。
そして、永遠に聞く事が出来なくなってしまった問いでもある。
唐突に放たれた問いにシャルは困惑気味に顔を引き攣らせたが、それでも彼女はミアの問いに答えを出そうと一生懸命に頭を抱えていた。考え事をするときのシャルの癖なのか、彼女は熟考している間、ずっと眉間を右手で擦っていた。
それから数分が経った頃にシャルは乾いた笑みを溢し、苦笑を浮かべた。
「やっぱり分かんないや。でもね、ミアお姉ちゃん。お父さんもお母さんも私と別れる時、泣いてたけど笑顔だったよ。ずっと泣きながら、優しく笑ってた。だから……何というか……泣いちゃうくらい悲しくても笑顔な時もあるんだよ!」
力強く発言したシャルは放った言葉と同じくらい力強い笑顔を浮かべ、ミアの手を握った。ミアもその手を自然と握り返す。温かい手だ、と漫然と思いながら、ミアは空を見上げた。
「心配を掛けまいとする優しき心、そんな所でしょうか」
「そうだといいなあ。いや、きっとそうだよ」
そうですね、とミアは少しだけ柔い口調で言った。
「では、行きましょうか。マナという少女の下へ」
「うん! 行こう!」
左手を空に勢いよく上げて歩き出したシャルの横にミアが並ぶのとほぼ同時。ミアは前方から見知った顔が歩いてくるのを発見した。
前方から歩いてくる青年もまた、ミア達の存在に気付き、柔和な笑みを浮かべた。




