三十二 動機
スレイが孤児院を出発してから、早一時間。残されたミアは椅子に座りながら、リビングを走り回る子供達をぼんやりと見つめていた。ミアのすぐ隣にはジョセフとカーラが談笑に励み、時折ミアに話しかけては、すぐに二人だけの世界へと帰還するという作業を飽きもせずに繰り返していた。
二人共、白髪に包まれた高齢に見えるが、屈託のない笑顔は十代の少年少女のようにも見える。
この二人が奴隷だったスレイとリーヴェを引き取り、彼等の人生観を良い意味で変えた存在。ミアは横目で彼等を見た。興味がある。人間が人を救う時の動機、意味、理由に。ミアが持っている人間観はあまりにも乏しすぎるから。
「つかぬ事をお聞きしますが、あなた方はどうしてリーヴェとミアを引き取ったのですか?」
藪から棒に紡がれた言葉にジョセフとカーラは瞬刻に会話を止めた。言語機能を失ったかのようにも見えるほどに静黙し、表情からは光が消えていく。二人が作り出す沈黙が、子供達の遊び声を巨大なものに変えていくように、三人を包む空気は深刻さを増していく。
「……どうしてそんな事を聞くんだい?」
ジョゼフの声色は優しい響きで放たれたが緊張しているのがミアにもすぐに分かった。
「何となく……でしょうか?」
奴隷として扱われた人間がどうして身寄りのない子供達の為に慈善事業を成せるのか。ミアはそんな人間を見たことがない。人が人を滅ぼす為に製造されたのがミア達、殺人人形。製造を計画したのも人。製造したのも人。ミア達に人の殺戮を命じたのも人。同族すらも簡単に切って捨てる、それが人。そんな人間にしかミアは出会わなかった。
だからこそ、あの二人が理解できない。理不尽な境遇に追いやられ、殺人を強要される。それを強いたのが同じ人間だというのに、人に対して何も報復しない事が。
リーヴェには強力な力がある。天災を操り、天変地異を引き起こす能力が。その気になれば、世界を滅ぼせる。
だというのに、彼女達は人の世で生きる事を決めた。人の世で、人が定めた枠組みの中で自由に生きる事を決めた。この二人の老人のおかげで。
理不尽に全てを奪われたクライス・バークホルムの様に世界を滅ぼそうとしなかった理由が分からない。ミアは彼こそが正解で、正常な選択をしたと断言できる。
全てを奪われた人間が全てを奪っていいという理屈は間違っているのだろう。だが、全てを奪おうという動機には成り得る。自らの精神の根幹を成すキーパーツが失われた時、人は正常なる倫理を見失う。常識とは掛け離れた行動を取る事がある。
実際にミアは見てきた。生命が死に逝く世界で人が取った行動を。自殺した者。贄として親友をミア達に差し出し、命乞いした少年。逃げ惑う女を強姦し始めた男。食料が尽きて父親を殺して食べた母親と娘。
極限まで追い込まれた人間は理性を失い、本能のままに動きだす。
あの二人は違うのか? あの二人は例外なのか?
この眼前の老人二人はあの二人にどんな特別な言葉を投げ掛けたというのか。
カーラとジョゼフは顔を見合わせ、困った様に笑顔を浮かべると、椅子ごとミアに体を向けた。
「ミアさんは奴隷というとどんな印象をお持ちかな?」
「基本的には非人道的な労働目的の為に購入し、使役される。もしくは主人の憂さ晴らしの為、でしょうか。自身に蓄積された鬱屈な感情を発散しようとする為の使い捨ての肉塊」
「言い方はともかく、ほとんど当たっているよ。スレイとリーヴェに初めて会った時、二人は『一番』『二番』という名前で呼ばれていたんだ。首には首輪が付けられ、両手は鎖で縛られていた。その鎖は主人が仕事を与える時にのみ外され、手を真っ赤に染め上げて帰って来ると再び両手を鎖で縛られる。その後はご主人様の暴力に耐え続ける日々を二人は送っていたねえ」
「とても人並とは言えない様な酷い生活だったよ。私と主人はリーヴェとスレイを買った主人の所で料理番をしていたんだけどね。あの二人はよく残飯を貰いに厨房に来てたよ。新しく作ってやろうか、って聞くとおばちゃん達が殺されちゃうからいいって毎回断わるんだ」
「あなた方はあの二人に恩を売っていたのではないのですか? だからこそあの二人は道を踏み外す事無く、今を生きているのではないのですか?」
「言いにくいことをハッキリと言うねえ、ミアさんは。ワシらはスレイとリーヴェに特別な事は何もしていないよ。ただ残飯を温め直してやっただけさ」
「なに格好つけてるのさ。ちゃんと残飯っぽく料理作っていたんだよ。残飯っぽく料理作るのなんて、朝飯前さ。あの二人にちゃんとしたご飯を食べさせてただけだよ、私達がしてやったことなんか」
「たったそれだけ……ですか?」
「それだけだよ。ワシらは飯を食わせてやっただけ。けど、それがバレてしまってねえ、ご主人様に」
「大丈夫だったのですか?」
「大丈夫じゃないよ。私も主人も、リーヴェもスレイも」
ミアは息を呑むこともなく、動揺する事もなく、無風の海面の様な気持ちで二人の表情を見つめた。既に思い出として昇華してしまった様子の穏やかな表情の二人は、部屋の中で元気に遊ぶ子供達を視界に入れては口角を上げていく。
「ご主人様はリーヴェとスレイに命じたのさ。私か主人か、どっちかを殺せってね。そうすれば、お前達を助けてやるって」
「殺さなかったのですね、あの二人は」
「ああ、殺さなかったよ、私達は」
「それはどういう……」
そこまで言って、ミアは気付いた。彼等が少しだけ俯き、悲愁に彩られている瞳で自分達の足下を見た理由を。ジョセフはミアを一瞥すると、自分を嘲笑うかのように鼻で笑った。
「強力な能力なんて言っても、それを操るのは人の心だ。しかも、選択を迫られているのはまだ年端もいかない幼い子供ときた。奴隷としてどれだけの人を殺そうと、どれだけの暴力を受けようと、感情は消えたりはしない。やがて限界は来る」
「とうとう限界が来ちまったんだろうさ。選択を迫られたあの二人は完全に暴走しちまった。あの子達は私達以外の全てを殺して、壊して、最後に自分の命を絶とうとした。でも、私達はそれを止めた。あんな終わり方は嫌だったのさ。何よりも私達が。泣いたまま死んでいく事を私達が許せなかった」
「死を望んでいるのならば、その通りにさせてもよかったのではないですか?」
「言っただろう? 私達が死んでほしくなかったのさ。あの子達の意思を捻じ曲げてでも、私達は涙を流したあの子に生きていてほしいと願った。あんな幼い子供が絶望だけを抱いたまま死んでいくなんて、私達は許さない」
感情的になるカーラを諫める様に肩を叩いたジョセフは、椅子の背に大きくもたれ掛かりながら、「素直じゃないねえ」と息を大きく吐いた。
「一度だけ見たことがあるんだ。あの子達がワシ達に笑いかけてくれたのを。本当に普通の子供のように笑顔で礼を言ってくれたんだ。だから、ワシ達はあの子達にもう一度笑顔を浮かべて欲しいと思った。あの子達を引き取った理由はそれだけだよ」
「笑顔を見る……たったそれだけのことで」
「人間なんてそんなもんさ。こんな簡単な動機で良くも悪くも動く。あんたには分からないかもしれないけどね」
「そう……ですね……」
この二人は救われた訳でも、特別な言葉を投げ掛けられた訳でもない。ただ一度の笑顔を再び見る為だけに二人の奴隷を引き取り、生きていく為の居場所を与えた。
そんな簡単な動機で人は動く。実際にこの老人達は動いた。
知っている。そんな簡単な動機でも意思を持つ者なら行動を見せる事をミアは知っている。
真っ直ぐにカーラに見つめられたミアは視線を不自然に逸らした。視線を離してすぐ後にジョセフが何やら陽気な声で何かを取り繕う様に言っていたが、ミアの耳がその言葉を理解する事は無かった。




