二十七 応えられない
「声を掛けなくて良かったのか?」
イズの問いにナチは静かにかぶりを振った。省かれた主語が誰なのかは聞くまでもない。間違いなくマオだ。ベッドに腰を掛けていたナチは床をぼんやりと見つめながら、ポケットから符を一枚取り出した。
「想わせぶりなことしておいて、結局想いに応えられないっていうのは酷い話だから」
彼女の好意には当然気付いていた。気付かないわけがない。それだけ露骨な表現だった。けれど、ナチは彼女の想いに気付いていながら曖昧な態度を繰り返していた。それはナナへの想いが心の中心に居着いて離れず、その想いをナチ自身が離そうとしていなかったからだ。また、数百年の月日が流れていると知った時、ナチはナナの死を確信していた。生きている訳がない、と根拠のない確証を得ていた。
だから、マオに好意を向けられた際に悪い気はしていなかったのは確かだ。それでも迷いは明確に心の中で渦巻いていた。断ち切れない想いと募る想い。その二つの想いによって攪拌されていたナチの想いは、ナナとの再会によって自身でも驚くほどの速度で収束に導かれていった。
その取捨選択をした結果は一目瞭然だ。片方を選択する以上は、もう片方は捨てるしかない。どちらも選択する事は出来ない。
自分の選択に後悔はない。今も後悔の念に駆られてはいない。
だけど…………。
別れ際の悲愴感漂う愁色にはさすがに心が揺れ動いた。微かな波風は波紋を呼び、今も心をざわつかせている。それでもナチはこの選択を間違いだとは思わない。
仲間として、一人の友人として確かにマオは大切な存在だ。絶対に失いたくないと思えるかけがえのない唯一無二の仲間。それはイズにも言える事だ。恋慕ではない。友愛だ。
「今日は符術の改良とやらに取り組まぬのか?」
藪から棒に言ったイズに視線を向けると彼女はナチの肩から飛び降り、床に見事に着地すると真っ直ぐにナチと視線を通わせた。その瞳は僅かばかりの憂いが垣間見えた気がした。
「今日は……」
それだけ言ってナチは口を閉じた。急ぎ完成させる必要はあるが、集中できる気が全くしない。この曇天に覆われた様な不明瞭な思考では改良に着手したとしても大した成果は得られないだろう。それに完全な完成に到達しえないのならば、改良に回す時間は無駄に成り得る。
ナチは緩やかに瞑目し、鼻で大きく深呼吸した。そんな事をしても思考は明瞭にはならないと分かってはいるのに、ナチはもう二回ほど深呼吸を繰り返した。
それからゆっくりと目を開くと、イズがベッドに飛び乗り、自身の左横に腰を落ち着けたのが見えた。彼女は長い耳を小さく揺らし、ナチの膝に自身の右腕を添える様に置いた。
「一つだけ、聞かせてほしい。お前は、マオに全く恋慕を抱いてはおらんかったのか? マオは大切な仲間という枠から微塵も出てはおらぬのか?」
その物言いは懇願の様にも思えた。そうであってほしい、と彼女が願っている。ナチにはそう聞こえた。ナチは下唇を少しばかり強く噛むと眉根を寄せた。僅かな逡巡の後に重い口を開く。
「マオは大切な仲間だ。世界を救う意味でも、個人的にも、大切で失いたくないと思えるほどに。でも、僕はマオに……」
ナナに向ける愛情以上の想いを向けられない。どうしても仲間という認識から昇華させることが出来ない。どうしてもマオの笑顔を失くす選択しか掴み取れない。
彼女には嘘を吐きなくはない。だから、軽率に彼女の想いに応える様な事はしたくない。いや、出来ない。大切な仲間だからこそ、マオには誠実でありたい。
ナチは横でナチの言葉を待ち続けているイズを真っ直ぐに見下ろした。そして、小さく首を横に振った後に明瞭な声音で想いを綴った。
「僕はマオの想いには応えられない。今も、これからも」
「可能性はないのか? 未来は不確定事項の塊だ。その想いが変わる可能性も」
ナチは言葉を続けようとしたイズを遮るように言葉を漏らした。
「それは……僕には分からないよ。けど、今の僕に言えるとしたらそれだけだ」
「そう……だな。すまぬ、今のは忘れてくれ。我が聞くべき問いではなかった」
「僕もごめん。僕の態度にも問題があったと思うから」
「それを伝えるべきは我では無いであろう。まあだが……人の想いばかりは思い通りにはいかぬものだからな。誰が悪いわけでもないが、間違ってもマオに謝罪などするでないぞ。今のマオに謝罪など毒にしかならぬ」
「分かってるよ」
するしない以前に謝罪など出来ない。彼女に辛く冷たい現実を突き付けたばかりなのだ。無駄に追い込む必要は無い。そこまで非情になる必要も理由もない。
「やはり、お前の意識の変化には妹が関わっておるのか? お前がこの前言い掛けていた言葉にも」
「今は聞かないんじゃなかったの?」
「マオが傷付かない選択を選べればと思っておったが、お前は昨日の今日でさっそく傷付けおったからな。聞かない理由も無くなってしまった。だから、さっさと話せ」
「何でそんな適当かつ上からなの?」
ナチは苦笑しながら、ベッドに寝転がった。シーツの上に勢いよく倒れた瞬間に埃が舞い上がり、窓から差し込む陽光が迅速に照らし出す。その埃の流動を眺めながら、ナチは顔の右側に移動したイズを一瞥した。
「僕が『白の監獄』にたどり着く前の九十九番目に旅をした世界はね、僕と僕の妹のナナが生まれ育った『カナンフェロウ』って世界だったんだよ。『カナンフェロウ』を僕とナキ、ナナの三人で旅をして、そこで僕とナナは夫婦の契りを交わしたんだ」




