二十六 塔へ
詰所に戻ったマオ達は詰所の前に集まっていたリーヴェとマナ、それから団長であるクレイの三人の下へとナチの歩行速度に合わせて、緩やかに近付いて行った。
「おっ、もう動けるのか? 若いって素晴らしいな」
足を引き摺りながらも歩行しているナチを見て、クレイは力強い笑みを浮かべながら言った。
「まだ完全に治った、とは言えないですけど、歩くくらいならなんとか」
取り繕う様に言ったナチの肩をリーヴェが優しく叩き、無邪気な子供の様に相好を崩した。
「そっか。まあでも、大事を取って今日も休んでなよ。大人しくさ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」
詰所へと向かって行くナチの肩に飛び乗ったイズは首だけを動かし、マオに顔を向けた。その視線に覇気が無いように見えるのは気のせいではないだろう。
「マオ、気を付けてな。……こやつのことは心配するな、我がしっかり見張っておく。だから……」
「大丈夫だよ、イズさん。大丈夫だから……」
震えそうになる声を必死に律し、漏れ出そうになる熱い吐息を理性が喉奥に押し込めていく。浮かべた笑顔が確かな形になっているのか分からないまま、マオはイズに笑顔を浮かべた。
その笑顔を見たイズがナチの肩を両前足で柔く握り締めたのが見えた。イズだけではない。マナもリーヴェもクレイも視線を彷徨わせ、ナチとマオを交互に見ては静黙を貫いていた。
「さあ、ナチ。さっさと進め。ここは寒い」
大袈裟に言ったイズの言葉に従い、ナチは詰所へと歩いて行く。無言で、悠揚と彼は詰所へと進んでいく。
何か言わなくちゃ……。
でも、何を言えば……。
分からない。他愛も無い言葉を投げ掛けるだけでもいいという事は分かっているのに、心が音を言葉に変換する事に臆病になっている。何を言っても正解な気がするし、何を言っても不正解な気がする。ナチはマオが何を言ったとしても、きっと穏やかに返答してくれるだろう。でも、何を言っても、空気がぎこちなくなってしまいそうでマオは開きかけた口を静かに閉じた。
詰所の扉を潜る彼を目で追う事しか私には出来なかった。彼が居なくなった詰所前は静かすぎるほどの沈黙に包まれ、マオ以外の三人が顔を見合わせ、困った様に眉を顰めていた。
「さ、今日はみんながお待ちかねの『テラリアの天塔』に向かうからね」
「別に待ってないですよ」
陽気に言ったリーヴェに冷たく切り返したマナを見て、クレイが苦笑する。
「リーヴェがどうしてもって言うから時間作ったんだ。さっさと塔に向かうぞ」
少し乱暴な物言いで言ったクレイ。誰もが気まずい空気を払拭しようと努力をしているのは明白で、マオもその空気には当然気付いていた。気を遣わせている。マオの私的な問題を持ち込んでしまっている。
駄目だ。切り替えよう。笑え。今は笑え。声を捻り出せ。無理にでも笑って、声を上げろ。
「……じゃあ、行きましょう!」
マオは努めて陽気に言った。が、マオの儚い努力とは裏腹に吐き出した声音には脆さが滲み出ていた。槌で軽く叩けば壊れてしまいそうな程に綻んでいる様な気さえした。
「あなたを待っていたのだけれどね。では、早く向かいましょう」
優しく紡いだ後に、瞬時に表情を凛としたものに切り替えたマナはマオの肩を柔く叩くと、無言で進行方向へと歩き出した。その後をリーヴェ達と共にマオもついて行く。
ナチと散歩した道を四人は進み、区を隔てる壁に差し掛かると、クレイが四人分の通行料を憲兵に渡し、マオ達は『貧民区』から『商業区』へと移動した。均されていなかった土の地面から、敷石が詰められた平坦な石の地面が姿を現す。まだどの店も開店準備前なのか露店には眠そうな主人が欠伸を掻きながら開店の準備を進めていた。
露店続きの路地を進み、窓から見える商店の様子を覗き見しながら、『商業区』の奥。『商業区』と『貴族区』の狭間に存在する壁に囲まれた『テラリアの天塔』の前までマオ達は足早に進んでいった。
眼前に佇む天高くそびえ立つ塔を見て、マオは微かな吐息を漏らし、強風を受けてもビクともしない頑丈さに感嘆の声を上げた。荘厳、とはこういう建造物のことを言うのかもしれない、とマオは内心で納得して、石造りの塔に設置された巨大な木で造られた扉に向かって歩いて行く。
前を歩くクレイが羽織っている厚い上着から、古びた羊皮紙を取り出すと扉の前に立っている憲兵の顔の前に突き出した。その紙を見た憲兵は巨大な扉を軽々と開くと、クレイ達を塔の中へと招き入れた。
そのやり取りを懐疑的に見つめていると、マナに「早く来ないと、置いていくわよ」と淡々と告げられ、マオは塔の中へと入っていくマナ達の後に続いた。
塔の内部に入ると、そこには延々と続く螺旋階段が壁に沿って形成されており、石床は普段から掃除が行き渡っているのか、どこか清潔感が感じられた。
「この『テラリアの天塔』に入るにはさ。町長が発行してる通行許可証がいるんだよ」
「さっきクレイさんが見せていた紙が通行許可証なんですか?」
「そうそう。許可証を発行されてる奴って町長を除けば、団長と司教だけだからさ。ここに入るには団長か司教を引っ張って来ないといけないって訳なんだ」
「そうなんですか。面倒ですね、その決まり。でも、なんで通行を制限しているんですか? 塔の中に大事な物が保管されてる感じはないですけど」
マオを塔の内部を一周見回した。塔内部は清潔感に溢れていて、カビや埃の臭いが充満しているという事はないが、生活感は皆無だった。家具は一つもなく、窓も数える程度しかない。窓が少ないせいで差し込む陽光も少なく、塔内部は常に薄暗い。風が遮られる為に外よりも体感的に温かいが、それも微々たるものだ。
稀少で貴重な物が皆無の塔に通行制限を実施する理由がマオには分からなかった。ここに労働力を割く意味があるのだろうか。
「この街では、『テラリアの天塔』は神が住む天界と地上を繋ぐ橋だと言われているの。だから、神様の通り道に人が軽々しく進入してはならない、と言われているのだけど……まあ、実際のところは人の出入りが激しいと掃除が面倒くさいとかそんな理由じゃないかしら」
「そんな適当な理由なの? やば……。なら、こんな場所には何も隠さないんじゃ」
「立ち入りを制限してる理由に関しては俺達にも分からないんだが、この『テラリアの天塔』は何かを隠すにはうってつけの場所なんだよ」
クレイは遥か遠くに存在する天井を見上げながら、口角を僅かに上げた。マオはクレイが言っている事が理解できず、首を傾げた。この塔の内部には遮蔽物は何一つない。物を隠すには向かない場所だと思うのだが、と思いながらマオは塔内部を再度、一周見渡した。
「どうしてですか?」
「この塔には警備してる憲兵達も入ることを許されてないんだ。入れるのは俺か、司教か、町長だけ。町長は知らねえが、俺も司教もこんな何もない場所に滅多に来ねえからな。俺達三人の動きにだけ注意しておけば、ここは絶好の隠し場所になるって訳だ」
「でも、人を担いでこんな場所に入ろうとしたら、必ず目撃者が……」
マオは言いかけて口を噤んだ。もし、犯人がナチの様に透明になれるとしたら。犯人が複数存在したとしたら、隠密に適した能力を持ち合わせていたとしたら、誰にも見つからずに塔の内部へ人を隠す事はあり得ない話ではない。
確かにこの塔は物を隠すのであれば、適していると言えるだろう。けれど、人を隠すとなると、あまりここは適さないのでは、とマオは思った。連れ去る時は気を失っていたとしても、意識を取り戻した時に叫びでもすれば、声は外に届く。外に居る憲兵達も居るはずの無い空間で人の声が聞こえるという異常事態に遭遇すれば、行動を見せるのではないだろうか。
それに、最初の行方不明者が出たのは一月も前なのだから、この場所の捜査は最初に行われていてもおかしくないのではないだろうか、と思わずにはいられなかった。
俯き、そんな事をマオが考えていると肩を誰かがぽん、と叩いた。マオは顔を上げ、叩いた人物を確認する。肩を叩いたのはリーヴェだ。彼女はマオと視線が重なると穏やかに口角を上げ、天井を見上げた。
「マオが言いたい事は分かるよ。隠し事するにはうってつけって分かってるのに、何で一月後に探してるんだって、そう思ったでしょ?」
「はい……その通りです」
マオが控えめに頷くと、リーヴェが腕を組みながら、満面の笑みを浮かべた。
「別に責めてるわけじゃないから、そんな顔するなって。マオが思った様に私達はこの塔が隠し事をするには適していると分かっていた。だから、私達は最初の行方不明者が出た時にこの塔を一度探したんだ。その時は何も見つからなかったけどさ」
「何も見つからなかったのにどうして今になって」
「犯人は間違いなく私達を警戒してると思うんだよね。それに喜ばしい事に教団は毎日仕事で溢れてて忙しいから、一度探した場所を何度も探すような人手は無い。だから、一月も探さなきゃ、隠すにはうってつけの場所に仕立て上げられるんじゃないかっていう団長殿の安直な発想だよ」
リーヴェの軽口にスレイは少し苛立った様にむっとした表情をして、大きく咳払いした。
「確かに安直ではあるが、手掛かりが見つからない以上はこうやって地道に探すしかないからな」
窘める様に言ったクレイに対して、リーヴェはからからと笑いながら、豪快に彼の背中を数回叩いた。乾いた音が静寂に包まれた塔内部に心地良く響き渡り、窓から吹き込む風音と混ざって、少しだけ静寂を緩和させる。
「はいはい、拗ねない拗ねない。さ、目的は頂上だからね。さっさと行っちゃうよ」
「別に拗ねてるわけじゃねえよ」
二人のやり取りを微笑ましい気持ちで横目に見ながら、マオは壁に沿って作られている階段に向かって歩き出した。すると、歩き出してすぐにマナに引き留められ、マオは歩みを止める。
「え? 行くんじゃないの? 階段で」
「行かないわよ、階段でなんて。階段で頂上を目指したら、日が暮れてしまうわ」
「じゃあ、どうやって行くの?」
マオが問いを投げ掛けた数秒後にマナとクレイはリーヴェに視線を送り、リーヴェは視線を受け取った瞬間に胡乱な微笑みを見せる。マオもすぐに気付く。リーヴェと出会ってすぐに彼女の能力は一度見ている。天災を操る強力無比の超能力。リーヴェの能力を行使すれば、文字通り瞬息に頂上へたどり着く事が出来るだろう。
「じゃあみんな、その場から動かないようにね」
リーヴェは右手の人差し指をクレイ、マナ、マオの順に向けると、手を半周回し、人差し指を勢いよく曲げた。挑発しているかの様にも見える挙動の後にマオ達の足下で空気が勢いよく動き始めたのが目に見えて分かった。空気が右回りに回転していく。
そして、空気の回転速度が急上昇を開始し、マオ達が一様にバランスを崩しかけたその時、四人は猛烈な上昇気流に乗って、飛翔を開始する。全身を支配する浮遊感とそれに付随して増加する不安感。一瞬で塔の石床が遠い景色へと変貌し、遥か遠くに見える天井が徐々に近付き始める。
それでも天井はまだ遥か先。マオはぼんやりと覇気のない眼勢で天井を見つめた。
何とか動けている。機能が鈍い頭を無理矢理に動かして、気怠い肉体を強引に前に進める。動いていないと考えてしまうから。彼の言葉の意味を。気付かされた真実に嫌でも意識が向いてしまう。
だから、ただリーヴェの能力に身を任せて浮遊しているこの時間が私には辛い。早く頂上に着け、その言葉を脳内で復唱する。何度も何度も何度も。同じ言葉を復唱して、真実を霞ませる。そうしないとまた集中が途切れてしまう。意識が悪い方向へと流れてしまう。
天井がまだあんなにも遠い場所にある。文字通り、風の様な速度で上昇しているのに。もっと早く。自分で速度を調節できない事実がもどかしい。
マオは轟轟と通り過ぎていく風音に紛れて、大きく息を吸って、吐いた。高度が上がる度に冷えていった空気を胸一杯に吸い込むと、思わず咽返りそうになったところで空気を吸い込むのを止めた。
冷えた空気が体内を侵食し、精神をひたすらに冷静に落とし込んでいく。分散していた集中力が一点に定まっていく感覚があった。
「この塔の頂上って何があるんですか?」
マオは猛る様に響いている空気の音に負けないように声を張り上げた。三人はほぼ同時にマオを一瞥する。そして、クレイとマナがマオから視線を外し、リーヴェだけがマオを見つめるという形になった瞬間に彼女は口を開いた。
「何にも無いよ。金になりそうな価値のある物は何も。でも、塔の一番上なら何でも隠せる。何にも無いって分かってるから誰も登ろうなんて思わないし、許可証を発行されてる団長も司教も頂上までは登ったりしない。だから、塔のてっぺんはルーロシャルリで最も一目に付かない場所に成り得るんだ」
有り得ない話ではないが、有り得る話でもないのでは、というのがマオの見解だった。この塔の高度がどれほど高いかは外見からも内見からもすぐに理解できる。だからこそ、塔の頂上が何かを隠すにはうってつけだという事実も理解できる。
けれど、リーヴェやナチの様に空気中を飛翔する能力を保持していなければ、人を担いでの塔登りとなる。人を複数人運ぶ程の風力や念力となるとリーヴェの様にかなり強力な能力でないと難しく、また、この高すぎると言っても過言ではない程の塔を人が人を担いで純粋な人力のみで登る事が出来るとは思えない。
人力では難しく、強力な能力を保持していなければ塔の頂上は絶好の隠し場所には成り得ない。辿り着けなければ、どんな楽園も所詮は絵空事だ。
「でも、空飛べないと隠す場所には向かないんじゃないですか?」
「そうだね。その通りだと私も思うよ。だけどさ、空飛べるかもしれないだろ?」
可能性だけの話をするなら、それは確かに有り得る話だ。この世界には人の数だけ超能力が存在する。犯人の能力が何なのか。その手掛かりすら見つけられていないこの状況では、彼女の言葉を完全に否定する事は出来ない。
「確かにそうですけど」
「頂上に着けば分かるわよ」
瞑目し、溜息を吐いたマナがマオとリーヴェに鋭い視線を向けながら、冷たく言った。それを見て、クレイが高笑いする。
「そりゃそうだ。おら、リーヴェ。さっさとスピード上げろ」
「これ以上は無理だっての」
結局、速度は変わらないまま四人はこの十分後に塔の頂上に到着した。




