二十四 線引き
「……僕に妹がいるって話、したっけ?」
マオが口を開く前に精神が勝手に同調を開始し、肉体の操作権限がマオから離れていく。瞬く間に体が動かせなくなり、声すらも出せなくなった。
「私が教えたのよ。あんたには妹がいるって」
「それだけ?」
塔を見つめる彼の瞳が心なしか鋭くなったようにマオには見えた。マギリは首を縦に振り、息を呑むと動揺を隠す為に淡々と言葉を紡いだ。
「それだけよ。悪かったわ、勝手に話して」
ナチは目を細め、やや視線を落とした。
「……マギリはどこまで知ってるの? 『神威』を使えなくなった僕には教えられない?」
マギリがハッキリと動揺を表面化したのが、瞬刻にマオには分かった。表情が強張り、心臓が跳ねる。頭が現実を受け止めるのを拒んでいるかの様に思考は愚鈍に変化し、視界が遅延した。何もかもが急速に鈍っていく。
「…………全てよ。私はあんたの過去を知ってる。だから、あんたが異世界で何をしてたのか全部知ってる」
「どうして知ってるの?」
「それはまだ教えられない。急に符術の改良なんて始めたって事はあんた、教えてもらえなかったんでしょ?」
「正解だよ。肝心な事は何も教えてもらえなかった。けど、僕にとっては重要な話も聞いたよ。僕の目的を果たす為には今のままじゃダメだって事も。だから、符術を改良する必要があるんだよ」
「あんた、信用してるの? 信用できるの? 急に現れた人間の話を」
主語が欠落した会話にマオとイズは当然ながら置いてけぼりを食らっていた。何一つ彼等の会話についていけない。分かっている事はマギリがナチの過去を知り尽くしている事と、彼が符術の改良に踏み切った理由だけだ。おそらく彼は何らかの情報を教えてもらえなかった。そして、その何らかの情報を聞くためには符術を改良する必要があるのかもしれない。
それに『神威』とは何だろうか。初めて聞く単語だ。彼はまだ何かを隠し持っているのだろうか。その可能性はある、とマオは自然にそう思った。符術は彼独自の力ではない。師の下で修練を積み、努力を重ねた末に身に着けた能力だ。
ならば、彼が先天的に有している能力が存在してもおかしくはない。マオとマギリがお互いの能力を行使できるように、彼も符術以外の能力を持っている可能性はある。
「完全に、ではないけど信用はしてる。何か目論見があるのは分かり切ってるし、僕を利用しようとしてるのも明白だから、裏切られる可能性がある事も分かってる。でもまあ、ナナになら僕は裏切られても構わないよ」
呆れ半分、感心半分の感情によって上がっていく口角。マギリは彼の言葉を鼻で笑い、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「言い切ったわね。私には理解できないわ。突然現れた人間の話を信用するなんて」
「僕だって誰でも信用する訳じゃない。信用に値する過去があるから信用するんだよ」
ナチは天高く伸びる塔の頂上を見上げながら、淡々と言った。あらゆる感情が排除された無感情な声が早朝の冷えた空気を震わせ、マオの心臓までも震わせた。
感情が一切込められていない声にマオは少なからず恐怖を覚えていた。彼の冷たい声音など、この旅で何度も聞いているというのに。
私の知らない彼の一面が垣間見えた様な気がして、私は不意に彼が怖いと思ってしまっていた。
「あの子もあんたと同じこと言うんでしょうね……」
「え? ごめん、なに?」
極小の声で紡がれたマギリの言葉をナチは聞き取る事は叶わず、首を傾げ、再度マギリに言葉を紡ぐことを視線で要求していたが、マギリはナチの要求を無視した。
「……私からも一つ忠告。優しさの線引きはしっかりとしなさい。あんたにその気がないなら、無駄に期待させる様な事はやめて」
マギリの言葉にナチは僅かに目を見開き、無言で頷いた。彼はすぐにマギリの言葉の意味を察し、納得した様にマオには見えた。マオもすぐに気付いた。彼女の言葉の意味に。あえて主語を省き、真意を濁した彼女の残酷な優しさにも。
「……分かった。気を付けるよ」
彼は少し間を置いた後に、同意した。その意味は深く考えなくとも分かる。同意したという事は、彼はそうするという事だ。その気がないという事でもある。
マギリはマオを《雪の流刑地》へと移動させ、精神の同調を半ば強引に切断した。精神の同調をしているという事は常にお互いの思考が共有されている状態という事だ。当然、彼等の会話を聞いていた際のマオの感情はマギリにも伝わっている。
そして、精神の同調が切断される直前のマギリの感情もマオには伝わっている。ごめん、と。彼女はナチにも、マオにも、無理矢理に答えを引き出させた。それは情報に広く精通している弊害とも言えた。両者の情報に精通しているからこそ、取らなければならない選択を誰よりも早く理解してしまう。
マギリはマオの想いの結末を知っている。
そして、ナチの過去もマギリは知っており、そこから彼の言動と照らし合わせて、ナチの想いを推測した。その推測は限りなく、真実に近い、とマギリは判断したのだろう。
だから、マギリは彼に決断を迫らせ、させた。
何故このタイミングなんだ、と何故かマオは思わなかった。
ナチの手に負えない敵の出現。殺人人形と呼ばれる少女との戦闘で実際にナチは死にかけた。クライスやユライトスとの戦闘でも彼は苦戦を強いられていた。最終的には勝利を収めてはいるが、それでも勝利に行きつくまでの過程は常にギリギリだった。
一抹の不安要素で勝利が遠のいてしまう状況なのだ。取り除ける不安要素は、すぐにでも取り除いておきたいのだろう。
ナチもマギリもイズも言葉を発する事は無いまま、三人を朝日が包んでいく。ようやく顔を出した太陽が燦然と輝き、降り注がれる朝日は燦燦と煌めいている。その煌びやかさが無情にも三人の間を包む沈黙を、悪い意味で浮き彫りにした。
「……一度、詰所に戻らぬか。マオは今日、行方不明者の捜索に協力するのだろう?」
沈黙を破ったのはイズだ。どこか物憂げに呟かれた言葉にマギリとナチは即座に反応を見せる。
「ええ、そうね。そうしましょ」
「そうだね。そうしようか」
ナチとマギリは何事もなかったかのように踵を返し、詰所へと帰還していく。その間も他愛も無い会話が続いてはいたが、会話は途切れ途切れでどこか気まずい雰囲気が満ちていた。




