二十三 朝の遊歩
その日の朝は全身に広がる浮遊感から始まった。寝る前には確かに感じていた床の感触が突如として消え去り、すぐに柔い感触が背中を通して伝わってくる。そして、柔い感触が背中に伝わるのとほぼ同時に全身が温もりに包まれていく。温かい。人に抱き締められている様な温もり。けれど、感触は柔らかく、穏やかな温かさ。
それにどこか彼の匂いが鼻腔をくすぐり、マオを微睡からゆるりと引き摺り出そうとする。安心する香り。微睡と覚醒の狭間でマオの心は揺れ動き、少しずつ覚醒に近付いていく。
瞼を僅かに開く。映し出される色彩の中、瞳を右側へと移動させると、もう見慣れた彼の後ろ姿が存在した。細く、引き締まった肉体をしているのに、どこか力強さを感じさせる背中。今すぐに彼の背中に飛び込んで、抱きしめたい。もっと近くで、もっと近くで彼を感じていたい。
このどうしようもないほどに胸の内から溢れてくる想いをあの背中にぶつけてみたい。喉から言葉が出そうになる。想いを言葉に変換して、彼に伝えたら、彼はどんな表情をするだろう。どんな反応をするだろう。マギリの言う通り、マオの想いは通らないだろうか。叶わないのだろうか。
そう思うと怖くてたまらなくなる。恐怖が先行して微睡に逃げたくなる。けれど、それは出来なかった。理由は明白だ。彼が床に両足を着き、しっかりと立ち上がっていたから。その瞬間にマオの意識は瞬息に覚醒の時を迎える。
ベッドに手を着き、マオは体を起こす。そして、体に掛けられた毛布を雑に剥がすとマオは立ち上がっているナチの背中へと手を伸ばす。指先が彼の鋼色のコートに触れ、手の平が確かに彼の服を握り締める。
「お兄さん、もう大丈夫なの? 足動かなかったんじゃ」
強引に振り返る形になったナチはマオと向かい合うと、苦笑気味に笑顔を浮かべた。彼の肩に乗ったイズもやや驚いているのか目を見開いている。
「まだ少し麻痺は残ってるんだけどね。でも、歩くくらいなら出来るから、ちょっと散歩にでも行こうかなって」
寝過ぎで体も痛いし、ともナチは付け加えた。表情に苦痛の色は見えないが、本当に問題ないのだろうか、とマオは彼の全身をじっくりと見た。確かにナチは右足を軸に問題なく立っている様に見える。怪我自体は治癒能力によって完全に塞がってはいるし、一見問題ない様にも見える。が、彼の肉体に蓄積された疲労は治癒能力では治せない。
まだ体を休める為にベッドに寝ていた方が良いのではないか、というのがマオの本音だが、彼は左足を引き摺る様にして歩きながら、扉へと歩いて行ってしまっている。マオは慌てて彼に追い縋った。
「ちょ、ちょっと待って。私も行くよ。病み上がりのお兄さん一人じゃ心配だし」
「うん、ありがとう。じゃあ、一緒に行こうか」
「だが、お前は昨日街中を歩き回ったのだろう? この病み上がりの引き籠りの散歩に付き合って、無駄に体力を消費しない方が」
「いいの。私がお兄さんと散歩したいの」
「そうか。ならば、何も言わぬが」
イズは小さく頷くと納得したのか、ナチの肩からマオの肩へと跳躍し、移動した。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
マオはナチが転倒した時にすぐさま支える様に彼の傍らを歩きつつ、部屋を出た。早朝の詰所には人の気配はなく、澄んだ空気と体が震えるほどの冷気に包まれている廊下へと出ると、二人は詰所の出口に向かって歩き出す。
「誰もおらぬな。今日も朝から行方不明者の捜索に向かうのだろう?」
「うん。朝から向かう予定ってリーヴェさんは言ってた」
「そうか。ナチ、お前はどうするのだ?」
優しい声音で発せられた言葉。マオにはまだ止めておいた方がいいのではないか? という意味合いが含まれている様にも思えた。イズの問いにナチは頬を掻きながら、苦笑を浮かべて首を横に振った。
「僕はまだ止めとくよ。足手まといになりそうだし、それにもう少しで完成しそうなんだ」
玄関の扉を開けたナチは詰所を出て、土の香りと思わず咽返りそうな程に冷え切った空気を胸一杯に吸い込んだ。そして、吸い込んだ空気を一気に吐き出すと、彼はまだ日の出前の曙色の空を見上げた。曙色に染まった白雲が徐々に流れて行く様子をぼんやりと眺めるナチはマオへと振り返ると、白い歯を覗かせた。
「マオ。街を案内してくれる?」
「う、うん。でも、私も『貧民区』は良く分からないよ?」
「いいよいいよ。じゃあ、二人で道覚えながら散歩しようかね」
「三人だ、馬鹿者」
「あ、ごめん。忘れてた」
イズの怒声に笑って返すナチは先に歩き出したマオを追って歩き出した。『貧民区』の地理をマオはほとんど知らない為に目的地未設定のままに歩いているが、次々に『商業区』に建つ家屋などに比べると質素で貧相な建物が姿を見せ始めた。
けれど、貧困さは感じられず、生活に困っている様子は見受けられない。マオは建ち並ぶ家屋を無感情に見ては歩き辛そうにしているナチを何度も横目で見ていた。
「お兄さんが試したかった事って何なの?」
ただの質問だというのに、異常に高鳴る心臓の鼓動。それを抑えつける為にマオは両手を握り締め、勇気を振り絞る。声が震えない様に細心の注意を払い、彼の横顔を真っ直ぐに見つめた。それから、ナチがマオへと顔を向けた事で視線が交錯する。
「んー、一言で言えば符術の改良かな」
マオは疑問符を掲げながら、首を傾げた。
「改良する必要あるの?」
改良する必要性が存在するのか、マオには分からなかった。彼が放つ十三曲葬はユグドラシルが送った使者を二人、撃破している。それに精神面が左右される符術の秘奧を彼は二種類も発動している。それにナチは、彼が自身で考案し、開発した二種類の符術を操る事が出来る。これ以上の改良が必要なのだろうか。
今でも十分強いのに……。
「あるよ。もう負けたくないからね。互角じゃダメなんだ。現状維持のままだと僕は近い内に死ぬと思うから、強くなる必要があるんだよ」
「負けてないじゃん。クライスにもユライトスにも勝ったし」
ナチは優しい笑顔を浮かべながら、かぶりを振った。
「ユライトスに勝ったのは僕じゃない、マギリだよ。僕は戦いの途中で気絶したんだから。ユライトスを倒せなかった時点で僕は敗北してたんだ。それに、結果的に僕はクライスとの戦闘には勝ったけど、僕とクライスの勝負としては僕の惨敗だった。今のままクライスと戦ったら、次は勝てないと思うよ、僕達」
「そんなことは……」
そう言いつつも、マオは彼の言葉を強く否定する事が出来なかった。ナチの言葉をマオは無意識に納得してしまっていた。腑に落ちてしまったからだ。
確かにユライトスを撃破したのはマギリだった。ナチは戦闘中に気絶し、戦闘の終焉を見届けることは無かった。クライスに関しては、ナチは何度か死にかけている。クライスの驚異的な身体能力に追い縋ること敵わず、一方的に追い詰められ、主砲の直撃を彼一人では回避できなかったという事態まで起きた。
ナチの言う通りだ。
おそらく、現状維持のままクライスに挑めば、マオ達は敗北する。実力が互角で拮抗しているという事は、勝利がどちらに転ぶか分からないという事だ。戦闘に敗北すれば死ぬ。だから、次は勝てるか分からないと思えてしまう様な状況が発生している時点で問題なのだ。この旅は敗北が許されない旅なのだから。
「お兄さんはどうしてそこまでするの? 無限の異世界を旅してたって言ってもほとんど知らない場所なんでしょ?」
知らない人達をどうして助けようと思えるの? とは口には出さなかった。マオにはそれが理解できない。知らない人を助けようなどとは思えない。助けたいと思えるだけの動機も無ければ、強い想いも無い。何故ならば、無限の異世界の住人など一人も知らないから。そんな顔も声も知らない人間のことなど、助けようなどとはマオには到底思えない。
異常だよ……お兄さん……。
けれど、ナチは真面目な表情のまま、歩く速度を緩めるとマオの瞳を真っ直ぐに見た。まるで、マオの内心を悟っているかのような瞳にマオは人知れずたじろいだ。
「僕が旅をした異世界は百。無限に存在する異世界の中のたった百つだ。それでも僕は異世界を旅する楽しさを知った。だから、僕はもう一度、異世界を旅したい。その為に僕は世界を救う。誰かの為なんかじゃないよ。全部、僕の為だ」
「ナキさんともう一度、旅したいからって事?」
「それもあるけど……」
「けど……なに? 妹さんの為?」
マオは恐る恐る問いを投げた。マオの言葉にナチの瞳が緩やかに動き、遥か遠くに存在する『テラリアの塔』を映し出した。
「……僕に妹がいるって話、したっけ?」




