二十二 確認
夕食を終え、片付けも完全に終えた頃には帳が下り、先程まで寂寞を街に降り注いでいた夕景は完全に夜色に染め終えられていた。
寂寞な夜空に流れる夜風が静けさを吹き飛ばそうと盛大に風音を鳴らしている様相をミアは漫然と見上げながら、先を歩くスレイと、シャルに口を聞いてもらえず若干落ち込み気味のリーヴェの後を緩やかに追い縋る。
山道の様に均されていない凹凸の激しい『貧民区』の路地を三人は無言で進み、リリア教団の詰所近くに存在する池の近くで立ち止まるとスレイとリーヴェはミアへと振り返った。
「それで何なのですか? 話とは」
ミアが二人に連れられて、孤児院の外へ出ている理由。それは二人から散歩に誘われたからだ。最初は子供達の面倒を見る、という名目で断ろうとしたミアだが、カーラとジョゼフが子供達の世話を快く引き受けてくれた為に散歩へ行かざるを得ない状況が生まれてしまったのだ。
ミアは表情を変えることなく、二人に問いを投げた。二人とわざわざ散歩へ行く理由がミアには当然ないし、思い当たる節もない。
二人は取り繕うかのように笑顔を浮かべると、ミアに白い歯を覗かせた。
「まあ私達も幼い子供じゃないからさ。一応、確認。ミアは何の為にこの世界に来たの? ナチ達を殺そうとしてた理由は?」
リーヴェから瞬刻に消えていく笑顔と親和。冷酷にすら感じる瞳の冷たさにミアの感情が危険だ、と警鐘を鳴らす。この少女はナチに気を取られていたとはいえ、ミアを一撃で機能停止に追い込むほどの強力な能力を有する人物。軽率な行動や言動は身を滅ぼしかねない。
「私が子供達に危害を加えるのではないか、と疑っているのですね?」
「疑っているというよりは確認かな。さすがに一日だけじゃあミアを完全に信用はできないからね」
「私に至ってはミアがどんな風にあの子達と接してたのかスレイからの又聞きだからね。スレイから聞いた感じだと、あんまり危険じゃないみたいだし。直接聞いた方が早いかなってさ」
苦笑ながらも再び表情に笑顔が戻ったリーヴェを見て、ミアは短く嘆息を吐いた。信用している、などと断言されるよりも、懐疑的な意思を告げられ、警戒された方が余程二人に好感が持てる。たった一日の出会いや一言の言葉が心を救う結果になる事はミアもあると思う。けれど、たった一日で積み上げた信頼関係など歪で綻びだらけ。そんな関係は信用に値はしないし、信頼関係などとは到底呼べない代物だ。
クライス・バールホルムが鍵を手放す直接的な理由になった無性別の子供の様に心を色覚化し読み取る共感覚の瞳を有しているのならば、信頼関係が迅速に構築される可能性はあり得ると思うが、基本的には一日で構築された信頼関係は信用に値することはない。ミア自身、二人をまだ完全には信用できておらず、まだ信用するべきではないのは火を見るよりも明らかだ。彼女達はまだ他人なのだから。
「……私がこの世界に来た理由は私個人の目的の為です。ナチ及びマオを殺害しようとした動機に関しては目的の遂行のためには二人の殺害が必要不可欠であり、それが最低条件だからです」
「その目的があの子達や教団の皆を傷付ける事になったりしない?」
夜風に揺れるリーヴェの前髪から覗く瞳が真っ直ぐにミアを射抜く。憎たらしい程に迷いの無い鋭い瞳。
「あなた達が私の目的遂行の邪魔をしなければ無闇に人を傷付けるつもりはありません。私の目的はこの街の滅亡や、あなた達の殲滅ではありませんので」
それはつまり、邪魔をすれば子供だろうが誰だろうが容赦なく殺す、という意味合いを多分に含んでいたが、二人は少しの動揺も見せずに互いに顔を見合わせ、呆れた様な乾いた笑声を上げた。
「そっか。私達はあの子達や教団が傷付く事にならないんなら、ミアの行動に文句を付けたりはしないし、止めもしない。ごめん。それだけ確認したかっただけなんだよ。もし、ミアがこの街にとっての悪党になるなら、あの子達を傷つける悪党になるなら私達ミアを排除しなくちゃならないからさ」
「別に構いません。私とあなた方は今日初めて対話し意思の疎通を交わしたのですから。疑うのが当前であり、今日知り合った人間を信用するなど言語道断です」
「そうだね。ミアの言う通りだ。僕達はもう何でも無条件に信用する事が出来た子供じゃなくなったからね」
スレイは右肘を掻きながら、夜空を見上げ、気持ちが過去に向けられているのか浮遊感漂う物言いをした。リーヴェも彼の横で空を見上げると、目を細め、流れゆく雲を緩やかに追っていく。
「まあ正直、別の世界から来たとか、殺人人形とか言われてもピンと来ないんだけどさ。でも、ミアがシャルに言ってた言葉は私達よりも人間らしかったと思うよ」
「あー家族にはなれないけど仲間にはなれるって話?」
「そうそう。私達も所詮は人の子だからね。たまにあの子達の言葉に詰まる時があるんだよ。親から捨てられて孤児院に住まざるを得ない子達の言葉には特にさ」
空を見上げていた二人が頤を下げ、ミアへと同時に視線を寄せる。
「この『貧民区』は人並の生活が出来ないくらいには貧しい生活を余儀なくされてたって話はしたよね?」
「ええ。リーヴェが教団に所属し、信用を勝ち取った事で生活が劇的に変化したとも」
リーヴェの瞳が緩やかにスレイを横目で捉える。
「今でこそ『貧民区』はリーヴェ達が頑張ってくれたおかげで皆が人並の生活を送れてるけど、僕達がルーロシャルリに越してきた十年前の『貧民区』は貧富の差が激しい廃墟然とした街だったんだ。子供達に満足にご飯も食べさせられず、毎日が命懸け。シャルの両親も例外なく貧しい生活を余儀なくされてた。生まれたばかりのシャルの服すら用意できない。栄養失調で母乳すら止まってしまう様な生活が続いてたんだ」
「シャルの両親だけじゃないよ。この街ではそれが当たり前だった。餓死する子供や栄養失調で病気になって命を落とす幼い子供が毎年数えきれない程に出てた。大人ですら、命を繋ぎ止めるのに必死だったんだ。無力な子供達はどうしようもなかったと思うよ。だけど、この街はその惨状を黙認した。だから、私は強引な方法でこの街を変えたんだ」
リーヴェは拳を握りしめると、それを苦渋が混じった瞳で射抜いた。瞳には焔の様な力強さが宿り、ミアと彼女との間に緊迫した空気が蔓延し始める。
「良かったのですか? 強引な政治手法は憎しみや怨嗟の的になりかねない。あなたの強引な行いが子供達や家族を危険に晒す可能性は決して低くないと思いますが」
リーヴェの苦渋を孕んだ瞳がミアの言葉によって揺れる。その動揺を明確な迷いと取っていいのか、ミアは判断に迷い、リーヴェが口を開くのを待った。スレイもミア同様にリーヴェを横目に見てはいるが沈黙を貫いている。
「良いか悪いかで言えば、良くはないと思うよ。でも、私にはこれしかなかったから。この力だけが私の全てで、こんな人を傷付ける事しか出来ないと思ってた力でも人の役に立てるなら、私は私達に降り掛かる憎しみごと叩き潰すよ」
「話を聞いているとあなた方はこの街の出身ではないようですがどうしてそこまでこの街の為に献身的に慈善事業を施すのですか? この街が特別あなた達に慈善活動を施したり、謝恩した訳ではないのでしょう?」
スレイがリーヴェへと何かの同意を求める様に視線を向けるとリーヴェは「ミアも自分のこと話してくれたから、まあいっか。隠してるわけじゃないしね」と軽い口調で言った。ミアは二人のやり取りを無感情で見つめ、漫然と瞬きを繰り返した。
「僕達はね。血の繋がった実の親に奴隷商に売られた孤児なんだよ。今のリーヴェの両親が引き取ってくれるまで、僕達は文字通り奴隷として生きてきた。生きる為に何でもしてきたよ。主人の怒りの捌け口として暴力を振るわれる事なんて日常茶飯事だったし、気まぐれで給仕係を殺す様に命じられた事も少なくなかった。それに僕達みたいな幼い子供達が奴隷として働かされてる姿を何度も見てきた」
感情が伴わない声で淡々と述べるスレイは、自嘲気味に鼻で笑うと眼前に広がる池の水面に自身の姿を映した。そこに映った彼の姿は血の気が引くほどに無表情で感情が一切込められていなかった。まるで、感情が死に絶え、彼の中から完全に消滅してしまったかのようでもあった。
そして、ミアは彼等が異世界出身の殺人人形だとミアが自己紹介をした際に彼が全く驚かなかった理由を漠然と理解する。彼は異世界という存在が希薄に思えてしまうほどに非現実な日常に既に慣れていたのだ。平穏から遠ざかっていた異質で異常な時間が、ミアという存在の異端さを薄れさせてしまっていたのだろう。親に捨てられ、奴隷として働かされる。その異常な日々への遭遇はスレイにとって異世界への到達とあまり大きな差異はないのだろう。
だから、彼等はミアという存在を特に驚愕する事もなく受け止められるのだ。壊され、広がった心の器にミアという少量の水は些か少量過ぎるのだろう。
「憎んでいるのですか? あまりにも不平等で無慈悲で、狡猾なこの世界の在り方に」
スレイとリーヴェは穏やかに首を横に振る。
「全く恨んでないかって言われれば嘘になるけど、奴隷だったから僕達はカーラさんとジョゼフさんに出会えて、シャル達の面倒を見る事が出来たからね。それにあの経験があったから、孤児院なんて始めようと思えた訳だし」
「そうそう。孤児院始めた三年前なんか、大変だったよ。五日連続で玄関先に子供が捨てられててさ。その時捨てられてた五人の内の三人がシャサとマッドとトクなんだよね」
「そうだったね。シャサが特に酷かったのが印象的かな。聞いてた以上に父親からのネグレクトが酷かったみたいでね。二月くらいは僕とジョゼフさんとは口を聞いてくれなかったんだよね。大変だったなあ、あの時は」
満面の笑みを浮かべ、安穏とした笑い声を上げるスレイにつられてリーヴェも自然な笑みを浮かべた。
「大人に対する不信感が人一倍強かったからね、シャサは。大人は暴力を振るう人。それがシャサの大人に対する認識だったから、私達によく炎ぶつけてきたよ」
「熱かったねえ、あれは」
二人は思い出し笑いを噛み殺すかのように笑った後に、思い出を探し求めるかのように空を見上げた。
「笑い事ではないと思うのですが」
「ん―笑い事だって思える程に時間も経ったからね。それに奴隷時代に受けた炎に比べたらシャサの炎は受け止める価値があるから。別に大したことじゃないよ」
「よくそんな恥ずかしい台詞、普通に言えるよね。鳥肌立つわ」
「リーヴェと違って僕は素直だから」
「はいはい。私はまたシャルと仲直りできませんでしたよ。でも、今日は行けると思ったんだよ」
「食べ物で釣ろうとしたからでしょ。魂胆が見え見えなんだよ、リーヴェは。ちゃんと話せば、仲直りできるのに」
「だって、照れ臭いし……」
「もう子供じゃないんだからさあ」
「あの少し気になったのですが」
ミアが片手をやんわりと上げて、二人の会話に割って入ると、二人は同時に口を噤み、ミアに視線を向けた。
「どうしたの?」
「シャルは他の子供達と距離を取っている気がするのですが。気のせいでしょうか」
ミアの問いに解を出したのはスレイだった。彼は視線を空に向けたまま、苦笑を浮かべると口を開いた。
「気のせいじゃないよ。シャルは一月前に孤児院に預けられたんだけど、他の子達とは違って、親と再会の約束をしたみたいなんだよ。だから、私は孤児じゃないって意識が強いんだよね。そのせいか、他の子達とあんまり遊ぼうとしないんだ」
「シャルの両親は今どこに居るのですか? この街に?」
「いや、シャルを孤児院に預けた翌日に行方不明。他の街に行ったのか、生きてるのか死んでるのかすらも私達には分かんない。でもさ、最後に希望をちらつかせられると期待しちゃうよね。だってシャルはまだ九歳なんだから。希望に縋りつきたくもなるよ」
「そうですか。では、シャルは両親と再会できる確率は限りなく低いという事ですね」
ミアはシャルの悲しんでいる表情を思い浮かべて、人知れず視線を落とした。瞳が真っ直ぐに池の水面を映し、そこに悲愁に彩られた表情をしている自分の顔が映し出される。
同情しているのだろうか、シャルに。しているのかもしれない、とミアはすぐに自身の問いに納得した。その理由もすぐに思い当たる。シャルは彼女に少し似ているから。可憐な容姿も、髪色も、背格好も彼女と類似する部分が多い。ミアと短くも長い時間を旅したルキと。
「そういえばなんでシャルはミアにあんなに懐いてんの? ずるくない? 私だってシャルと仲良くなるのに七日は掛かったのに」
ミアは上目遣いで睨みつけてくるリーヴェをぼんやりと見下ろすと、表情を崩す事無く首を傾げた。
「あれを懐いていると断言してもよろしいのでしょうか」
「懐いていると断言してもよろしいよ。だって、シャルから率先して話し掛けてる所なんて、初めて見たもん。あ、でもマナにも懐いてんだよなあ。何でだろ?」
「シャルは綺麗な女の人が好きなんだろうね。お姫様みたいな」
スレイの言葉に即座に反応を見せたリーヴェの瞳は飢えた野獣の様な獰猛さを宿していた。
「私だって綺麗な女の人じゃん」
「リーヴェは綺麗だけど、お姫様というよりはガキ大将みたいな感じだし、シャルの好みとは少し違うのかもしれないね」
真面目な顔でスラスラと言葉を並べるスレイをリーヴェは呆れたように見た。先程までの獰猛さは既に感じられず、空気が抜ける風船のように彼女は息を吐いた。
「冷静に分析してるの、なんか怖いわ」
リーヴェは照れる事も狼狽もする事無く、スレイに対して冷めた瞳を向けた。
「逆に捉えれば、あなたが童話の姫君の様な純潔清浄で在り続ける事を心がければ、シャルと自然に仲直りできるのではないですか?」
「無理無理、疲れるわ。シャルもお姫様みたいな私見たら、逆に離れていくって」
「そうだね。気持ち悪いね」
無言で睨み続けるリーヴェの視線を察知したスレイはわざとらしく咳払いを繰り返すと、踵を返し、孤児院がある方角へと歩を進めた。
「まあミアが敵じゃないって事は分かったんだし、そろそろ戻ろうよ。寒いしさ」
「だな。明日も行方不明者を探さなくちゃならないし」
「次、過労で倒れたら今度こそ子供達に一生無視されるかもなんだから、ちゃんと休みなよ。仕事ばっかりしてないで」
子供を嗜めるような厳しい表情でリーヴェを見た後に、スレイは教団の詰所を一瞥した。特に感情が込められていない冷淡な瞳で彼は詰所を射抜く様に見た。その後に、視線が詰所から緩やかにリーヴェへ移る。
「明日、詰所にお邪魔させてもらおうかな。団長さんと少し話をしに」
リーヴェは小さく頷くと、孤児院に向かって歩き出す。
「オッケー。クレイさんに伝えとくよ。昼頃でいい?」
「うん。それでよろしくお願いします」
二人の軽いやり取りを彼等の背後で聞きながら、三人は孤児院へと静謐に戻って行った。




