十八 少女が齎した恩恵
スレイが孤児院に戻ってきたのは昼前。時間にして午前十一時頃だ。彼は子供達の腰に巻かれたミアの『捕縛』を見て、絶句し、扉の前で立ち尽くしていたが、ミアが対人間用拘束糸『捕縛』が人体に与える危険性の少なさを事細かに説明した事とシャルが率先してミアの無実を証明した事で、スレイは「へ、へえ。まあ危険じゃないならいいんじゃない?」と一応は納得してくれた。
それから彼は『商業区』で買ってきた食材を布袋から取り出し、簡単な昼食を作り、それを子供達に食べさせた後、すぐさま夕食の準備に取り掛かった。
厨房でキャベツに似た茹でた緑色の葉でよく混ぜられた挽肉を巻いて包んでいくスレイを、ミアは覗く様に見た。作業は丁寧で、迅速。慣れた手付きで次々と挽肉を緑色の葉で丸めていく彼は嬉々とした表情で、丸めたそれを大鍋に入れていく。
「『貧民区』などと呼称されている割には、この孤児院からは貧困さを感じませんね」
スレイは作業を続けたまま、ミアの何気ない質問に言葉を返す。隣の部屋からは石壁を突き抜けて子供達の遊び声が絶えず部屋中に木霊し、ミアの右隣にはシャルがぴたりと引っ付いている。
「この孤児院はそうだね。教団が設立された事と、リーヴェが教団に所属した事で三区間の優位性が曖昧になっちゃったからね」
「リーヴェと呼ばれる女性が一人で、この街の現状を変えたという事なのですか?」
「んー、少し幼稚な言い方をすると、リーヴェと教団が頑張ったからっていうのが正しいかな。新設の自警団なんて、街や国みたいな大きな組織から見たら、そこらを歩いてる蟻とそんなに変わらないんだよ。成果や結果を上げていないんだから相手にする価値も無いし、気に掛ける必要もない。国やこの街から援助を受ける為にはそれなりに成果を上げて、信用を獲得しなきゃいけないんだけど、設立されたばかりの教団にそんな力は当然なかった。ちょっとごめんね、シャサー」
スレイが大声を張り上げると、ダイニングに居るはずの子供達が一瞬だけ、しんと静まり返る。刹那の瞬間に訪れた静寂の後に小さな足音がキッチンに向かって近付いてくるのが確認できた。子供達に巻き付けてある『捕縛』が一本だけ、魚が釣れた時の様にピクピクと揺れ動く。
「なにー、スレイ兄ちゃん?」
ダイニングとキッチンを繋ぐ開いたままの扉を抜けて、現れたのは揺らめく焔の様な綺麗な赤い髪を伸ばしている少女だ。今朝、マッドの横で物怖じせずに意見を述べていた少女だと、ミアは記憶していた。シャサは可愛らしく首を傾げ、子供らしいあどけない表情でスレイとミアを見つめた後に笑顔でシャルに手を振った。が、シャルはそれを完全に無視。
「あーうん。また、シャサに手伝ってほしくて」
スレイは手でシャサを手招きすると、彼女を木薪が無数に置かれた炉の前に立たせた。木薪の上には先程スレイが大量に作っていたロールキャベツが大量に入った大鍋が入っており、シャサが炉の前に立ったのと同時にスレイは鍋に水を入れた。
「しょうがないなあ。いつも美味しいごはん作ってくれてるから特別だよ」
スレイはシャサの頭を撫でながら、「いつもありがとね」と安穏と言った。真っ赤な髪と同じ様に紅に染まっていく頬。耳まで真っ赤にするシャサは嬉しそうに目を細めると、炉に一歩近づいた。
両手を木薪に近付け、息を大きく吸い込むと同時に閉目。そして、息を盛大に吐き出すと同時に、彼女の両手から紅い蓮の様に玲瓏とした焔が勢いよく放出される。その直後、シャサの全身が仄かに紅色に煌めき、オーロラの様な美しい輝きを纏っていく。
その優美な光輝にミアが心奪われていると、シャルが唐突に手を強く握り締めた。視線を落とし、手を握り締めるシャルに焦点を定める。すると、彼女は羨む様な、羨望の眼差しをシャサに向け、感嘆の吐息を吐き出していた。どうやら無意識に吐き出しているらしく、シャルはミアの視線にも、手に力を込めている事にも気付いていない様だった。
「もういいよ。ありがと、シャサ」
シャサの肩を柔く叩いたスレイ。ゆっくりと開かれる瞼と並行して、シャサを包んでいた紅色の光は虚空に散り、彼女の両手から放出していた焔は急速に減勢していく。
そして、先程まではただ置かれていただけの木薪が猛々しく燃えており、その揺らめく焔の先端が鍋の底を掠め続けている。
「じゃあ、わたし行くね」
朗らかに笑顔を浮かべるシャサは素早くキッチンから出て行くと騒がしいダイニングへと駆け抜けていく。その後ろ姿を赫耀たる瞳で熱心に追うシャルはミアと視線が重なると、手に力を込めていた事実に気付いたのか、すぐに手の力を緩めた。視線も落ち、恥ずかしそうに俯く。
「あの発火能力を持つ少女を追い掛けたらどうですか?」
「別にいい。今はミアお姉ちゃんと一緒に居たいから」
「そうですか。なら、別に構いませんが。では、スレイ。話の続きを」
鍋に調味料と思われる白い粉やコンソメの様な茶色の粉を入れていくスレイは「えーっと。何の話だっけ」と苦笑しながら言った。ミアはすぐさま会話の末尾を説明。すると、スレイは「あーそんな話だったね」と軽快な笑声を飛ばす。
「教団にはね。最初五人しか居なかったんだよ。今も多い訳じゃないけど、区画間の移動料も払えない貧しい人々を救う為に『貧民区』出身の若者五人が集まって生まれたのが『リリア教団』って自警団だったんだ。だけど、五人は戦闘経験や修練を積んだ戦士じゃない、ただの若者だからね。最初は苦労したみたいだよ」
スレイは沸々と煮えだした鍋を木の棒で掻き混ぜながら言った。
「まあ確かに、若者の戯言程度の力で国や街は動きを見せないでしょうね」
慈悲や温情が欠片も無いミアの台詞にスレイは堪える事もなく大きな笑い声を上げた。
「そうだね。僕もそう思うよ。でもね、『リリア教団』はルーロシャルリを変えたい、とかそんな無謀な願いを抱いてはいなかったんだよ。彼等が望んだのは『貧民区』の人達に人並みの生活をさせてあげること。その為に必要な事は街を変えるんじゃなくて、自分達が効率よくお金を稼ぐ方法を探して、お金を循環させる事だったんだ」
「見つかったのですか?」
「いや、見つからなかったよ。設立して二年くらいは現状維持だったと思う。けど、僕達が十四歳の時だから六年前かな。リーヴェが教団に入った事でルーロシャルリは『リリア教団』を注目せざるを得ない状況に陥ったんだよ」
小皿に鍋のスープを乗せ、口に含んだスレイは「まあまあかな」と言った後に、背後に立っているミアとシャルを振り返った。
「『リリア教団』もリーヴェも国に対して何かをした訳じゃあない。でも、リーヴェの能力、『天を統べる覇皇』の力は絶大だった。ルーロシャルリ周辺に居着いていた盗賊達や野生動物が齎していた人為的、自然的被害をリーヴェは一人で次々に解決していった。圧倒的な力で押さえ付けたんだ」
「反感を買わなかったのですか? 力で無理矢理に制圧すれば、あなた方人間は必ず反発しようと試みる。善を悪に染め上げる事に寛容で、その理由をこじつける事に関してだけは優秀。溜め込んだ反動を解き放とうとし、争いを生もうと必死になる。それがあなた方、人間の習性でしょう?」
「まあ、そういう人もいたよ。特に『貴族区』の人なんかはリーヴェの存在を許容する事が難しかったみたいだね。区画間の移動料や税を引き上げる、なんて言い始めたから。でも、ほとんどの人がリーヴェの力を見て、口を噤んだよ。唐突に現れた、国が片付けられなかった問題を次々と片付ける『リリア教団』に所属する勇敢で強大な力を持つ少女」
『リリア教団』という言葉をスレイは強調して言った。そして、スレイは鍋を三周ほど掻き混ぜた後に鍋に木蓋を被せた。
「リーヴェは成果を上げ、結果を出した事でルーロシャルリが『リリア教団』を無視できない状況を作り出した。信用を獲得したんだよ、リーヴェは。たった一人で。まあ、結果を出しても出さなくても、無視できないよね。十秒もあれば街を滅ぼせる力をさ」
「リーヴェが『リリア教団』に所属した時から、この結果は必然だった、とそういうことですか?」
「そういうことになったと僕は思う。冷たい言い方になっちゃうけど、『貧民区』の人々が人並みの生活を送れるようになったのも、街から援助金が支給される事になったのもリーヴェが『リリア教団』を触媒に生み出した功績だと僕は思ってる」
スレイはどこか遠い目で、どこか気が抜けた様な声で言った。その物憂げにも見えるスレイの様子に首を傾げているシャルを横目に、ミアは胸に浮かんだ言葉をそのまま音に変換し、空気に乗せた。
「あなたは納得がいかないのですか? 彼女が一人で全てを成し遂げてしまった事実が。認められないのですか? 彼女があなたには到達しえない未来を歩んでいる事実が」




