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アヴェリアム・コード ~消えゆく世界と世界を渡る符術使い~  作者: ボジョジョジョ
第六章 鋼糸が紡ぐ先には人形と少女がいる
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十 ナチとマナ

 ナチが目を覚ますと、そこには目まぐるしく移動する人々が次々とナチが眠るベッドの前を右往左往していた。表情は険しく、緊張感が漂う張り詰めた空気が空間内を埋め尽くしていく。それによって、ナチの思考は微睡から瞬時に覚め、上半身を起こした。眠っていた場所がベッドである事と、上半身が見えない程に包帯で覆われている事を確認すると、ナチは両足をベッドから下ろそうと力を入れた。


 そこで異常に気付く。


 左下肢が全く動かない。


 脳から伝達されているはずの信号が毛ほども伝わらない。まるで神経が焼き切れてしまったかのように。


 右下肢は若干の麻痺が残るが、動かせない事もない。しかし、左下肢は完全に動きを見せない。これは一過性の症状なのか、それとも永続的な症状なのか。ナチは息を呑み、全身の状態を確認する。上半身には一切問題は見られない。糸を操る少女から受けた傷が痛むが、麻痺などの症状は見られない。


 やはり、深刻なのは左下肢だ。感覚がない。反応しない。このまま動きを見せないのであれば、コトの様に即席に義足を用意する必要があるが、一体どちらか。


「今度の行方不明者ってどこで出たんすか、団長!」


 ナチのベッドがある部屋の外。半分ほど開かれた扉の向こう側から聞こえる大きな声。扉の向こうに広がるのは廊下だろうか。半分ほど開かれた扉からでは木板と白塗りの石壁しか見えず、断定する事は出来ない。が、おそらくは廊下だろう。


「商業区だ! 急ぐぞ!」


 ナチは横目で流れていく人々を見た。扉が勢いよく開き、雪崩れ込む様に人々が外へと押し出されていく。数にして二十人弱、といった所か。完全に開かれた扉から吹き込んでくる冷たい風に身体を震わせつつ、ここはどこなのだろうか、とナチは視線を散りばめた。


 最低限の家具が存在するだけの部屋を見てから、最後に窓から見える外の風景に視線を固定する。日が出ているという事はまだ日中。午前中だろうか、と一人納得していると近付いてくる足音が二つ。


 ナチは窓に向けていた視線を足音がする方向へと向けた。


「お兄さん……」


 支子色の髪を髪紐で纏めたまだ幼さを残す美しい少女がナチを見て、驚愕に表情を歪ませていた。肩には兎によく似た黒い獣が大人しく鎮座し、長い耳を小刻みに揺らしている。


 そして、トリアスで別れた頃よりも少しだけ伸びた黄緑色の髪を揺らし、大人びた表情に悲愁を覗かせる少女が、ナチを見て、分かり易く膠着した。緊張している、と深く考えずとも察することが出来る。それくらいには彼女の表情は強張っていた。


 ナチは毛布を足に掛け直すと、一度深呼吸。咳払いし、発声練習を繰り返すと、ナチは声帯を震わせた。


「久し振りだね、マナ」


 マナの肩がビクン、と震え上がる。努めて優しく言ったつもりではあったが、彼女はナチの声を聞き、ナチと視線を交錯させると息筋を立て、息を呑んだ。気のせいか、彼女の唇に灯っていた振動が酷くなった様な気さえする。


 その様子を見て、確信する。ナチはマナを意図せずして、完全に竦然とさせてしまったらしい。苦笑すると同時に、ナチはマオを手招きする。


「ごめんね、心配かけて。あー状況を確認したいんだけど……」


「あ、う、うん。えーっと、ちょっと待ってね」


 マオはマナの手を掴み、ナチが寝ているベッドのすぐ横まで近付くと、ゆっくりと状況を説明し始めた。糸を操る少女に殺されかけたナチ達はマナとリーヴェと呼ばれる少女に助けられ、この『リリア教団』に保護してもらった事や、無償で治療を施してくれた事。さらには教団に寄せられた仕事を支援する事で僅かながら給金も支給してくれているらしい。


 また、糸を操る少女の行方は未だに分かっておらず、ルーロシャルリでの目撃報告は今のところ無い、という事だった。そして、ナチは少女に敗れ、気を失った日から二日間眠り続けていたらしく、その姿は正に死人の様であった、と治癒を施してくれた教団員の男性ジョーンズは言っていたという。


「お兄さんが二日間も眠りっぱなしだったせいで、ほんとに大変だったんだからね」


「ごめんごめん。それと、教団の皆さんにお礼を言いたいんだけど、どこかに慌てて行っちゃったよね? 行方不明者がどうたらって」


 軽くあしらった事に不満な様子のマオから視線を逸らし、ナチは未だに目を伏せたままのマナに視線を送った。すぐさま視線に気付いたマナが顔を強張らせたまま、説明を開始する。


「ナチ達がこの街に来る一月ほど前なのだけれど。突然、十五歳の女の子の行方が分からなくなったの。名をメリス」


「その子は見つかったの?」


 マナは首を振り、豊満な胸を持ち上げる様に腕を組んだ。自然と持ち上がった胸に目が向いたが、マオが睨んでいる事に気付き、すぐに視線を上げる。


「い、いえ、見つかっていないわ。その後も五人の行方不明者が出ていて、教団や街の憲兵たちが今も捜索を続けているのだけれど、結果は芳しくないわね。多分、ナチが見たのは七人目の行方不明者を探しに向かった教団の皆じゃないかしら。さっき捜索の依頼を司教から受けていたから」


「それで私達も現場に向かう途中だったんだけど」


「僕が起きちゃったから、出発できなくなったと」


「まあ、そういう事になるな」


「そっか……。なら、行ってきていいよ。今、足が動かないから役に立てないし、少し試したい事もあるから」


「足動かないって、大丈夫なの? そんな状態のお兄さんが狙われたりしたら」


 ナチは上半身に巻かれた包帯を千切り、それを符に変換。指に挟んで、それをマオ達に見せた。眉根を落とすマオは符を見ても、少しも安心した様な表情を浮かべないが、それでもナチは幼子を安心させるように微笑んだ。


「大丈夫。足は動かないけど、符術が使えれば身動きは取れるから。問題はないよ。それに……迷惑ばかりかけられないから」


 きっと、彼女は知っている。この旅の真の目的を、世界が滅亡の危機に陥っている本当の理由を。それら全ての思惑を、真意を彼女は知っている。知っているからこそ、彼女はナチにコンタクトを取るために動いてくれたのだろう。何も知らない、ナチの為に。


 彼女は信じてくれているのだ。『神威』を失ったナチが高みに昇り詰めるのを。信用に値するだけの実力を獲得する事を。


 彼女にばかり迷惑は掛けられない。彼女にばかり負担を強いている事実をナチ自身が許容できない。もしかしたら、それは都合の良い解釈かもしれない。が、それでも構わない。


 それで強くなろうと思えるのならば、動機は何だっていい。


「……分かった。じゃあ、ちょっくら行ってくるよ。でも、お兄さん。何やろうとしてるのか知らないけど、安静にしてなきゃダメだよ。お兄さんは怪我人なんだから」


「大丈夫だよ。体動かしたりはしないから」


 マオは右肩に乗っていたイズを掴むと、優しくベッドの上に乗せた。イズは少し物憂げにマオを見上げつつも、すぐに頤を下げ、ナチの傍らに寄り添う様に寝そべった。


「一応、イズさんを監視に付けます」


「信用されてないなあ」


 二人はお互いに顔を見合わせ微笑むと、マオは踵を返し、マナは下唇を噛みながら、その場で立ち竦む様に佇んでいた。ナチには視線を合わせず、眉根に皺が寄っている彼女は険しい表情で床を睨みつけていた。


「マナ」


 ゆっくりと上がる視線、頤。眉間に寄った皺はそのままで、瞳に宿った悲痛は一層強さを増し、哀痛に彩られた彼女の瞳はナチを捉えた。


「気を付けてね。これ、お守り。きっと、マナを守ってくれる」


 千切った包帯で作った符をマナは震えた両手で掴み、受け取った。揺れる瞳は渡された符を見つめ、零れ落ちる雫は手の平に小さな泉を作り出す。


「私を……許すの?」


「二人を殺した悪党はもう死んだ。もう居ない。だから、憎しみの連鎖はこれで終わりだ」


「でも……」


「最期にね、『ありがとう』って言われたんだ。守れなかったのに。二人を助けられなかったのに、二人は最期に僕に『ありがとう』って言いに来たんだ。あの二人は誰も憎んでなかった。誰も恨んでなかった。だから、僕もそうする。フルムヴェルグが起こした惨劇は彼の死によって幕を閉じた。それで終わりじゃダメかな?」


 彼女はゆっくりと首を縦に振った。


「…………ありがとう」


 涙を拭ったマナはナチに踵を返し、背を向ける。後ろ暗い表情は完全にとは言えないが払拭され、どこかスッキリとした表情で先を行くマオの背を追っていく。その二つの背中にナチは声を投げ掛けた。


「じゃあ、二人とも気を付けてね」


 二つの笑顔がナチに返され、扉は閉ざされる。部屋に残された男と獣は突如として生まれた静寂に安穏と笑顔を浮かべ、窓の外を眺めた。


「お前、寝ておる間に何かあったのか?」


「んー。あったと言えばあったかな。何で?」


「上手く言えぬが、どこか嬉しそうというか垢抜けておるというか。とにかく、どこか暗さが無くなった感じだ」


「あーかもしれない」


 ナチは頬を掻きながら、言った。ナチを訝しむ様に見上げているイズを一瞥した後に、すぐに窓へと視線を戻す。急速に火照り出す顔面を覚ます為に、ナチは窓を開けた。冷めた風が火照った顔に心地よく当たる。


「照れるな、気持ち悪い」


「ごめんごめん。でも、久しぶりに会えたから。ずっと、死んでたと思ってたし」


 イズはナチの体に背を預けると、大きな耳をナチの右腕に鞭の様に勢いよく激突させた。


「……まあ、その気持ちは分からんでもない。それで誰なのだ? その久しぶりに再会した人物というのは」


「妹だよ。大事な妹」


 何故か全力で脱力した様子のイズが、息を盛大に吐きながら全体重をナチに預けた。小さな体と言えど、全体重を預けられれば、それなりに重い。今の会話のどこに脱力する要素があったのかは些か疑問だが、ナチは包帯を一部、切り離し、再び符を作り出す。


「なんだ……。お前の喜びようからして、想い人とでも再会したのかと思ったではないか」


 ナチは作り出した符を見つめ、しばし沈黙。そして突然、静黙し始めたナチを不審に思ったのか、イズが懐疑的な眼差しをナチに向けながら、麻痺して動かないナチの両足に乗った。


 イズの頭を柔く撫でると、ナチは僅かに口角を上げた。


「イズ」


「なんだ?」


 優しく、柔らかな声。母が子に投げ掛ける様な温柔な声。


「もし、僕が……」


 マオやマナには言えない。これは正常な倫理を宿す人ならば、必ず否定する議題。肯定する事は有り得ない。否定され続けること永続的で、不可逆的。知られれば、ナチに対する認識は未来永劫、畏怖嫌厭。


 けれど、後悔はない。ナチ達が自ら望み、それを求めたのだから。


 後悔があるとすれば、その時の辛さを分かっていなかった事だろう。分かっていたつもりだっただけ。ナチはユライトスの言葉通り、失う事の辛さを本質的には理解していなかった。失ったのならば、また作り出せばいい。だから、怖くないと。そんな簡単な問題ではないのに、ナチはそれを真理の様に思っていた。


 だから、僕は……。


「口にする決心がまだ付かないのであれば、無理に言わずともよいのではないか? マオやマナには言えぬことなのであろう?」


「うん。けど、もしかしたら、マオ達も知る事になると思うから」


 ナチの推測、憶測、仮説がもしも真に迫っているのならば、ナチの過去は間違いなく露見する。彼女がコンタクトを取ってきた意味。『神威』と『神器』が必要な状況。外れていてほしい。外れないと、また彼女を苦しめる事になってしまう。


「だから、人とは違う思考を持つ我に先に言っておこう、という魂胆か」


「まあ卑怯な感じで言うとそうなる、かな。マギリは多分知ってるから」


 確信はしていた。彼女は知っている。ナチが犯した禁忌を知っていたのだから、その内情も知っているはずだ。


 イズは深く溜息を吐くと、真っ直ぐにナチを見た。視線が交錯する。彼女の血の様に紅い双眸がナチを射抜く。


「よいのか? その話を聞いた我がお前に失望しないとも限らぬのだぞ?」


「後から知るよりはいいかなってさ」


 イズはふん、と鼻で笑うと、ナチの足から降り、再びナチの横で寝そべった。


「その話はギリギリまで話さないでおけ。話さなくてもよい可能性がある以上は隠し続けろ。その話は少なくとも、マオが喜ぶ類の話ではないのだろう?」


「……うん」


「ならば、我も話す必要が生じた際に聞くとしよう。あの子と共に。お前は話す必要が生じない様にさっさとやりたい事とやらを進めろ。いいな?」


「うん。そうする。ごめんね」


「謝るくらいならば、最初から妙な話を匂わせるな」


「それはそうだ。じゃあ、さっさと進めようかな」


 ナチは符を握り締めると、緩やかに瞑目した。右腕に当たるイズの体温が心地よい。それだけで集中力は増していく。


 きっと、彼女は真実を知った時、僕を軽蔑する。彼女は確かに人ではない故に、人とは違う思考、視点を持っている。けれど、彼女は人の言葉を喋れる為に倫理観が限りなく人に近い。


 そして、彼女は母親だ。一頭の息子を持つ親だ。だから、きっと彼女は僕を、僕達を軽蔑するだろう。獣としての彼女は僕達に無関心を通せるかもしれないが、母親としての彼女はきっと僕達を責める。責めずにはいられないだろう。


 正直、ホッとしていた。言わなくてはならない真実を後に回せたことが。この真実を言わなくて済む未来。


 その未来を僕は選び取れるのだろうか。


「寒い。早く窓を閉めろ」


「あ、ごめん。すぐに閉めます」


 ナチが窓を閉めようと手を伸ばした時、イズの耳が僅かに前後する。


「足音……誰か、忘れ物か?」


「マオ達?」


 イズは小さくかぶりを振ると、早く窓を閉めろ、と小さな手を振って促してくる。


「いや、あの子達ならすぐに分かる。聞き覚えのある足音だが、特定はできぬな」


「……敵じゃない事を祈ろうかね」


 窓を閉めたナチは符を握りながら、再び閉目。集中を開始する。体内で霊力を生成。作り上げるのはマトイ式符術を構成している符術術式。


「嫌な事を言うな、馬鹿者。まあ、心配はいらぬだろう。おそらく教団の者だ」


「じゃあ、集中するから敵だったら」


「お前の顔を蹴り飛ばすから心配するな」


「そこは敵を蹴りなよ」


「今の我はか弱い乙女。お前こそ、その便利符術で我を守るくらい言えぬのか?」


「か弱い乙女は守護対象外なんで、僕の符術は」


「あー言えばこう言う奴は、我は嫌いだ」


「……ごめんなさい」


「やはり素直が一番だな」


「はいはい」


 ナチとイズはお互いに笑声を上げた。ナチは符術の解良に着手し、イズは微睡に誘われるままに睡眠へ移行する。静寂に包まれた教団内に響く二つの呼吸音は誰の耳に届く事無く、部屋を這いずり回っていったのだった。

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