九 夢の再会
全てが白く染まった空間。そこに僕は一人、佇んでいる。何をする訳でもない。ただ茫然と、そこに佇んでいるだけ。『白の監獄』の様に白く染まった景色が一面に広がる世界で息をし、漫然と世界を傍観するだけ。けれど、僕は知っている。ここが『白の監獄』ではないと。ここがどこなのかも僕は知っている。
ここは夢の世界。実在せず、存在しない空間。『神器・梔子の種』によって創られた彼女の夢の中。ぼんやりと夢の世界に佇む僕の前に現れた一人の少女。腰ほどまである黒く長い髪に、夜の如き濃黒の瞳。全体的に淑やかな雰囲気を纏う美しい少女が僕を見つめ、やはり淑やかに微笑む。
この少女を僕は知っている。知らないなどとは口が裂けても言えない。
彼女は僕の前に悠然と佇み、首を傾げると、へその辺りで手を組んだ。その所作には上品さが感じられ、ナチは思わず苦笑する。一体、どこでそんな所作を覚えたというのか。
「《神堕落日》以来ですね。お久しぶりです」
落ち着いた声質。安心する。イズとは違う安心感を持つ声質に、ナチは全身から徐々に力を抜けていくのを感じていた。最近は気を張り詰めなくてはならない状況が続いていた。自身よりも強い敵。手が負えない敵が連続して現れ、不慣れな力を行使し続けている状況はストレス以外の何物でもない。
けれど、この空間ではそれを感じる必要は無い。ここは悠久の安息が約束された場所。ナチが知り得る限り、最も安心できる空間といった所か。この空間と彼女の声。その二つの相乗効果によってナチは久し振りに気が緩んだ顔をしているのだと思う。
「久し振り。生きてたんだ……って質問するのは無意味かな?」
「ええ、無意味です。意味のある質問を提示してください」
淑やかな笑顔のまま言った少女は口元に手を当てて、ふふふ、と上品に笑声を上げた。
「じゃあ、今までどこにいたの? 僕達は命を繋ぐために力を失った。それにあれから数百年の時が経ってるし、どうやって生き永らえてたの?」
「それは私にとっては限りなく無意味な質問にカテゴライズできますが、どうなされますか?」
「なら、意味のある質問にカテゴライズしてもらっていいかな?」
一歩ナチに近付いた彼女は、右手に流麗な形状の和弓を出現させる。白縹色に煌めく和弓は鳥の羽毛の様な装飾が全体に施され、どこか神々しさすら感じさせる。ナチは唐突に現れたそれを食い付く様に見た。
見間違いではない。これはナチが知っている和弓だ。人が創りし弓ではなく、その身に尋常ならざる力を内包した異能の弓。
「私は力を失っていない。それだけですよ。兄さん?」
すぐに気付く。彼女の言葉の意味に。ありえない、と否定する事は出来ない。彼女ならば、その選択を取る事が出来るとナチは知っているから。ナチは彼女を冷漠に見つめながら、右の拳を強く握り締めた。
「あー……そういうこと。そんな性根腐ってたっけ?」
「兄さんは変わりましたね。冷たい光を瞳に宿してしまった。村を出る前の兄さんは無垢で穢れを知らない純粋な眼をしていたというのに。兄さんは性根がぶっ壊れてしまわれましたね」
「小さな器じゃあ受け止められない想いが存在するからね。でも、どうしてこのタイミングで僕の前に現れたの? 誰かの命令?」
「察しが良いですね。そう、兄さんの言う通り、誰かの命令です。私も合意の上ですので、無理強いという訳ではないですけどね。このタイミングで現れた理由にも、特に意味はありません。兄さんを私の夢と繋いだ理由はあくまで実験的な理由が主ですから」
会話を重ねるごとに視線が鋭くなっていくナチとは対照的に、淑やかで上品な笑顔を崩さない彼女は和弓を虚空に消し去ると、再びへそ辺りで手を組んだ。
「その誰かって、誰? ナキ?」
「名を伏せた理由を考えて下さい。今はまだ何も言えないから、言わないのですよ」
「そんな事は気付いてるよ。気付いてる上で教えろって言ってるんだ。僕と夢の中でコンタクトを取ってメリットが得られる人物って誰なんだよ」
「ええ。だから、名を伏せた理由を汲んでくれと言っているんです。何も知らない兄さんに名を教えた所で何も分からないと思います。だから、今は教えられません」
「分からないから教えてくれって言ってるんだよ。教えてくれなきゃ何時まで経っても知らないままでしょ?」
「今は教えられないと言っているではありませんか。今の兄さんには不必要な情報だと私達は判断し、私はその判断を間違いだとは思いません。少なくとも、『神威』を使用できない兄さんには、この情報は身に余る。今の兄さんでは、この情報を守れない」
淑やかさが完全に消え失せ、睨む様な眼差しでナチを見つめる彼女に対し、ナチは真っ向から睨み返す。口から漏れ出そうになった舌打ちを引っ込め、ナチは奥歯を一度噛み締め、鼻から盛大に息を吐き出す。
「なら、僕が『神威』を超える力を身に着ければ、教えてくれるんだね?」
「まあ、そうなりますね。今の兄さんの実力はユグドラシルが選定した鍵保有者達と同等程度。符術の秘奧を使用できるようにはなったみたいですが、符術が抱える重大な欠陥が改善されていない以上は、兄さんはいずれ命を落とす。その程度の実力では、まだ教えられないのですよ」
彼女の言葉を信じるのならば、彼女はナチがこの世界に訪れてから繰り返してきた戦闘の軌跡を見てきたという事になる。ユグドラシルが仕向けてくる使者との戦闘を。それがもし事実ならば、彼女はその状況を確認できる場所に居たという事になる。
それは一体どこだ……? 世界樹?
「我が妹ながら、痛い所をズバズバ言ってくるね。嫌いになりそうだよ」
「という事は、今は私が大好きなのですね。私もですよ」
いつの間にか淑やかな笑顔を浮かべ直している彼女は、少し頬を赤らめながら言った。が、ナチは若干の呆れを込めた笑みを浮かべ、一笑に付した。懐かしいやり取り。やはり、彼女の前では非常に徹しきれない。敵味方の区別がついていない状況だというのに、ナチは彼女には完全に敵意を抱けないでいた。むしろ、もう敵意が自身の中に微塵も残っていない事をナチは確信していた。
それくらい安易に、容易に、ナチは彼女に対しての信用を瞬息に取り戻していた。
「そんな事は一言も言ってないんだけど」
「相変わらず、素直じゃないですね。分かっているとは思いますが現段階で『神威』を使用する方法は存在しませんし、使おうなどとは間違っても思わないでください」
「思わないよ。自分の体は自分が一番分かってるし。でも……どうすればいいかねえ。『神威』なしで『神威』を超える為には」
ナチはほぼ無意識にそんな問いを彼女に投げ掛けていた。ナキにも師匠にも、マオにもマギリにもイズにも投げ掛けない様な、情けなく弱弱しい言葉を彼女に。その事実にナチは気付かないままで、彼女は気付いた状態で、二人は顎に手を添え、頤を僅かに下げた。
「意地を張るのを止めたらどうです? 理論と変換術式は確立しているのですから、あとは兄さん次第だと思うのですが。気付いているのでしょう? 残り少ない時間の中では、それしかないのだと」
「まあ、そうなんだけどさ。何だか裏切ってるような罪悪感があるというか、ね」
「私は構いませんよ。意地と命を秤にかけて意地を取るのならば、どうぞ死んでください、と告げるだけですから」
「あーはいはい」
ナチは瞑目し、瞼の裏に流れる情景にまたも懐かしい感情を覚えながら、口角を上げた。結局、彼女に後押ししてほしかっただけだったのだ。自身が考案し、完成までほとんど確立させたにも拘わらず、ずっと二の足を踏み続けていたこの問題を。
彼女ならば、きっとナチに厳しい言葉を投げ掛けてくると分かっていた。その投げ掛けられる言葉の心地良さをナチは分かっていた。彼女は弱さを受け入れてくれると。だから、これは甘えだ。ナチが無意識に彼女に甘えた結果なのだろう。
無限に異世界が存在しようが、無条件に心を許せる人間は一握りだ。ナチにとっては両親ですら、その一握りには含まれない。
ナチが無条件で信用し、弱さを見せられる人間というのは片手で数える程度しかいない。そこには師もナキも含まれない。彼女等は師だ。敬うべき存在で、弱さを見せるべき存在ではない。それにナキはナチの中で敵味方の定義が曖昧になっている。今は信用していいのか、それすらも判然としない。
この何もかもが曖昧模糊となっている状況で、無条件で信用出来る存在というのは貴重で稀少な存在なのだ、とナチは改めて実感する。
「とりあえず頑張ってみるよ。間に合うかは分からないけどね」
「ナキさんを助けられなくてもよいというのなら、その腑抜けた態度でこれからも旅を継続すればいいと私は思いますよ」
「……どういう事?」
二人を包んでいた安穏とした雰囲気が突如として消え去っていく。まるで、ナチのスイッチをオンにする方法を熟知しているとでも言いたげな視線をナチに向けながら、彼女は淑女然とした笑みを浮かべる。
「そのままの意味ですよ。ユグドラシルとナキさんが共闘していると思っていたのですか?」
「……その可能性を否定できないなら、その線も考えておくべきでしょ?」
「兄さんは本当に馬鹿ですね。ですがまあ、いいでしょう。とにかく、ナキさんはユグドラシルに捕らえられ、分かり易く言えば尋問されています。今は手荒な真似はされていませんが、その均衡もいつまで続くのか分かりません。ですので、あまり悠長な事は言っていられないのですよ、兄さん。タイムリミットも告げられたのでしょう?」
「告げられはしたけど、それは世界滅亡のタイムリミットで」
「そうです。彼女が告げたタイムリミットは世界滅亡のタイムリミットで間違いありません。ですが、彼女の命のタイムリミットはそれよりも短い可能性が高いという事実を兄さんも知っておいた方がいいと思いまして」
兄さんはその方が頑張れるでしょう、と視線で訴えかけてくる彼女は口角を上げ、目を細めた。細く、形の良い眉尻が下がり、柔和な雰囲気が彼女を包んでいく。
「……それを伝えるのが本当は目的だったんじゃないの?」
「いえ、この情報は兄さんには告げてはならない、と口止めされていました」
「なら、どうして?」
「彼女は私達の恩人ですから。私も出来ることならば、助けたい」
なら自分で、などと彼女に言うほどナチも馬鹿ではない。現段階でナチよりも高い実力を有する彼女がナチに彼女の救出を託すような物言いをしたという事は、彼女は救出に行けない立場にあるという事だ。彼女の背後にいる彼女の協力者も同様に。
彼女も協力者も出来れば彼女を切り捨てたくはない。けれど、彼女達には動けない事情があり、その役目を託せる人間がナチ以外に居ない、そういう事なのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
「蒼天が祝音に満ちる時、『神威』と『神器』は『神妙』に混ざりて、姿を変えん。『神威』は災厄を払う神の刃。『神器』は全人を運ぶ救世の器。『双生の神子』。『神威』と『神器』を振るいて、地底に眠りし、災禍を打ち砕かん」
ナチは白に覆われた天井を見つめながら、淡々と言った。一切の熱を持たせず、感情を持たせず、流れる水の様に流麗に。ナチと彼女の故郷に伝わる古歌を口遊む。
「覚えてる? 『双生の神子』の最後の一説」
「覚えていますよ。当たり前じゃないですか。それがどうしたのです?」
視線を落としたナチは彼女を見つめ、不敵に微笑んだ。勝ち誇る様に、余裕を表情にふんだんに込める。
「僕達はあの日、禁忌を犯して神の座を降りた。その代償に僕は『神威』を使えなくなって、災厄を払う力を失った。けど、僕が『神威』を超える力を身に着ければ、僕達は今度こそ最強だ。どんな災禍だって打ち砕ける」
「出来るのですか? 兄さん、ヘタレなのに」
「僕は何時だって頼りなくて、ヘタレだったけど。嘘を吐いたことは無かったでしょ? ナナ」
ナナは微笑む。淑やかにではなく、家族にのみ見せる無垢で純粋な満面の笑みを浮かべている。それを見て、ナチも自然と覚悟を決めていた。歯車がようやく噛み合った様な感覚が、全身を駆け巡る。円滑に回り出した歯車が生み出す力が心を軽くしていき、ナチは圧し掛かっていた重りを捨てるかの様に息を吐き出した。
『神威』を行使できなくなった事に対する後悔は正直ある。けれど、行使できなくなった要因が自分達にある以上は仕方が無い、とも思う。だから、無意味な執着はしない。限られた時間を執着に使うのはあまりにも勿体ないから。
残された時間全てを使って身に着けるしかない。まずはナナ達に信用してもらえるだけの力を。『神威』はその後でいい。当てにできない力は最初から存在しないものとして考えておくべきだ。
「ですが、兄さんはいつもマイペースで時間を守れた例がないんですから。今回は遅刻厳禁ですよ? いいですか?」
「大丈夫だよ。今回の旅も一人じゃないから」
「そう……でしたね。可愛らしい少女が旅の同行者でしたね」
どこかナナの顔が強張った様な気がするが、ナチは気にせずに首を小さく縦に振った。彼女の心配は杞憂だというのに、何を心配しているのだろうか。
「次はいつ会える?」
「今回は『神器・梔子の種』の効果範囲の検証、実験が主な目的でしたので。次はそうですね……兄さんの符術が完成したら、また会いに来ます」
「じゃあ、すぐだね。でも、あまり無茶しちゃだめだよ。『神器』も完全じゃないみたいだし」
ナナが驚愕に満ち溢れた表情を浮かべ、目を一瞬で見開いた。そして、すぐに嬉しそうに目を細め、首を僅かに右に傾かせると彼女はナチに一歩近づいた。
「気付いていたんですね」
「まあ、一応ね。これでも家族だし」
「兄さんは優しさの線引きがハッキリとしていますよね、昔から。敵と認識した相手には容赦がないくせに、信用に値すると判断すれば底抜けに優しくなる。正直、怖いです」
「ハッキリ言わないでよ。ナナもハッキリ言い過ぎなんだよ、昔から。僕がそれでどれだけ傷ついてきたか」
「昔の兄さんは優柔不断でしたからね。ハッキリ言ってあげる必要があったんです」
私は何も間違ってなどいないのだ、と言わんばかりに勝ち誇った様な力強い笑みを浮かべるナナは、ナチに背を向け、虚空に向かって歩き出す。
「では、そろそろ接続を切ろうと思いますが……兄さんも、あまり無茶はしないでくださいね。兄さんの体は今、非常に危険な状態なんですから。先程も言いましたが、『神威』は絶対に使用しない様に」
危険な状態なのはお互いさまだろうに……。
ナチは苦笑しつつ、腰に手を当てた。
「分かってるって。相変わらずの心配性だね」
「……心配しますよ。家族なのですから」
背をナチに向けたままのナナは、頤を上げ、虚空を見上げると震えた声で言葉を紡いだ。悲痛に彩られた声は鈴の音の様に美しく、その後ろ姿はどんな宝石よりも優美に染まっている様にナチには見えた。事実、ナチにとっては彼女こそが無限に存在する人類の中で最も美しい女性だと断言する事が出来る。
「……兄さんは後悔していますか?」
「何を?」
「禁忌を犯した事に対してですよ。『神堕落日』によって私達は多くの物を失った。力も立場も信用も、命すらも失いかけた。この結果は全て、私の」
震える両手、肩。よく見れば、全身が小刻みに振動している。両手は力強く握られ、綺麗な爪が皮膚を裂こうとしているのが確認できた。長く艶やかな黒髪が彼女の表情を覆い隠してしまっているせいで、感情の機微を確かめる事は出来ないが、それでも察する事は出来る。
「ナナ。僕は後悔してないよ。あの日、二人で考えて、悩み抜いて決めた選択を後悔はしない。ナナこそ、僕があの時言った言葉。ちゃんと覚えてる?」
「覚えてます……。忘れられるわけが、ないです……」
震えた声。上擦った様な涙声で彼女は訥々と言葉を紡いだ。
「なら、大丈夫。必ず追い付くから待ってて、無名葉」
「はい。待っていますね、無名蜘兄さん」
泡が弾ける様に一瞬で消えたナナの姿。それと同時に『神器・梔子の種』も消滅を開始し、白で覆われていた景観が失われていく。それはつまり夢の終わり。現実への回帰。約束された悠久の安息は終わり、ナチは再び世界救済の旅へと戻る事になる。
ナナとの対話を経て、ナチは数多の事実に気付かされた。
僕はまだスタートラインにすら立てていなかったのかもしれない。
複数の陰謀と思惑が渦巻くこの旅は、間違いなく仕組まれたもの。ナキとナナ。そして、ナチの知らない協力者。どんな思惑によって旅をさせられているのかはナチには分からないし、今のナチには知りようもない。
だが、少なくともナキが敵ではないという事は判明した。彼女がユグドラシルに協力していないという事実だけは判然とした。それだけでも十分な収穫と言えるだろう。それにナナが生きている事も判明した。彼女に関しては一切の謎に包まれたままだが、あれだけの情報を開示したという事は敵である可能性は低いと考えていいだろう。
ナチを利用しようとしている事は明白だが、それもナナの為ならば別段悪い気もしない。
まずは何に巻き込まれているのか、何をさせられようとしているのか。
世界を滅ぼそうとする本当の目的を調べる必要がある。
そして、ナキの救出も、ナナとの再会も、『神威』に関しても、まずは強くなる必要がある。そうしなければ、情報が得られないというのならば、強くなるまでの事だ。
さあ、泡沫の夢からはさよならだ。次の夢幻の回廊に誘われる為には現実に赴かねば。




