三 ルーロシャルリ
ルーロシャルリ。街の中心に天高く聳える塔『テラリアの天塔』をシンボルとし、『貴族区』『商業区』『貧民区』の三つの区が存在する三区間都市。それらは巨大な市壁によって完全に断絶されており、区間を移動するには通行料が必要になるなど、区画間の中は不仲極まりない。
特に『貴族区』と『貧民区』の確執は根深く、市壁の撤去と通行料支払義務の撤廃を求めて『貧民区』の人権保護、治安維持を守る為に設立された『リリア教団』と呼ばれる自警団は毎夜抗議の声を上げ、論書をルーロシャルリを統治している貴族グラスハリスト・レン・ルーロシャルリに提出しているらしいが芳しい効果は得られていないという。
そして、傷を負い、意識を戻す気配がないナチが運ばれたのはルーロシャルリの貧民区の片隅にある『リリア教団』の詰所。そこの客間にナチは運ばれ、治療を受けていた。全身に浮かび上がった青痣は数え切れず、背中に生々しく開いた裂傷からは出血が絶えない。教団の者達が用意してくれた真白の包帯は瞬く間に赤く塗り替わっていった。
彼の服が剥がされていくたびに露わになる生傷に、マオはただ絶句する事しか出来ず、教団院の人々が懸命に救護してくれている状況を茫然と見守る事しか出来なかった。この場でマオに出来ることは何もありはしない。医学に乏しいマオではどうする事も出来ない。分かり切っているのに、その事実がもどかしい。
『適材適所ってやつがあんのよ。見た所、医療に精通してる奴がいるみたいだし、問題ないわ。心配だとは思うけど、私達にはどうする事も出来ない。それよりも、気になることがあるんでしょ?』
『……うん』
マオは視線を右側へと傾け、心配そうにナチを見つめている少女へと焦点を定めた。黄緑色の髪を肩程まで伸ばし、やや気の強そうな瞳と落ち着いた印象の整った顔立ち。形が良く弾ける様に実った豊満な胸はトリアスで出会った頃よりも幾何か大きくなっている気がするが、全体的に見れば、以前よりも程よく引き締まっている様な気はしていた。
同じ女性として羨望の眼差しを向けるべき素晴らしいスタイルの少女マナ、へと、マオは視線を定めた。
「……マナ……だよね?」
僅かに上がる彼女の肩。強張る相好。忽ち息筋が張り、喉が上から下にゆっくりと動いていく。揺れる瞳はマオを視界に入れるのを拒み、何度も視線を彷徨わせては明後日の方向へと向けてしまっている。マオはハッキリと彼女が緊張したのを鮮明に視界に捉えた。
「ちょっと外で話さない? ここで私達に出来ること、なさそうだし」
「え、ええ。行きましょう」
ようやくマオと視線を交わらせたマナは小さく頷くとナチの治療に専念してくれている男性に声を掛けた。外出する旨を伝えると足早に外へと向かって歩き出す。緊張しているせいか、歩き方はかなりぎこちなく、握られている両の拳は皮膚が裂けんばかりに強く握られているのが一目で分かった。
二人は詰所を出ると、『テラリアの天塔』に向かって歩き出し、その途中で擦れ違った可憐な少女が詰所に入っていくのを横目に見ながら、貧民区に存在する小さな家の前で足を止めた。周囲には池の水で洗濯籠と洗濯板を持って、洗濯に励む主婦の姿が見え、マオは高鳴る心臓を諫める意味も込めて、彼女達を凝視した。
しかし、マナもマオと同じ行動を選択していたせいで、同じ女性を美少女二人が凝視するという奇妙な光景が生まれてしまい、整った顔立ちの少女二人に睥睨された主婦は気まずそうに洗濯を素早く終え、その場を離れて行った。
二人はその光景を確認した後に顔を見合わせ、瞬きを無言で数回。その後に噴き出したかのように穏やかに笑声を上げた。
「久し振り、だね、マナ」
「え、ええ。久し振り。まさか、こんなにも早くあなた達と再会する事になるなんて、思っても見なかったわ」
「うん。私も。正直、もう二度と会う事はないかもって思ってたし」
彼女はイサナとメリナが命を落としたその日から行方が分からなくなっていた。きっと彼女は自らの意思でマオ達の前に姿を見せることは無いだろう、と勝手に思い込んでいたし、彼女もそのつもりだったはずだ。何故ならば、彼女もフルムヴェルグに人生を狂わされた被害者だったから。彼女がフルムヴェルグの命令を聞かざるを得なかった理由はナチからも聞いていた。フルムヴェルグの能力によって絶対服従の関係性が強制されていた事も、抗えば命を落とす危険性を孕んでいた事も。
「そうね。私もまだ、あなた達と会う資格はないと思っていたから」
「どうして? 悪いのはフルムでしょ?」
けれど、彼女は危険を承知でフルムヴェルグに抗い、イサナとメリナを救おうとしていた。ナチに委ねる様な方法になってしまったけれども、救う術を彼女なりに模索し、彼女が二人を助けようとした意思は本物だった様に思う。たとえ彼女が悪事の片棒を担いでいたのが事実だとしても、マナがマナなりに二人を助けようとした事実は覆らない。
マナは視線を落とし、池の水面に陰気臭い表情を映し出すと、眉間に皺を寄せた。
「あの時、私は透明化していた二人を殺害して、イサナとメリナの二人を間接的に助ける事は出来たの」
「……うん」
それはマオも薄々気付いてはいた。彼女が待ち伏せしている盗賊達を始末できたであろうことは。何故ならば彼女はフルムヴェルグが立てた殺害方法を知っていたのだから。
「私の能力は『加速』。だから、フルムヴェルグの能力が発動して、私の意思が封じられる前に盗賊達を殺す事は事実、可能だった。盗賊を殺害する事でフルムの能力が私を苦しめる事がない事実は実証済みだったし、私の能力を最大限に活用すれば二人を逃がせられる確信も正直あった。でも、私は実行に移さなかった」
「……死ぬのが怖かったからでしょ?」
マオは水面を見つめたまま、今にも崩れ落ちてしまいそうな程に翳りを落とした表情で自嘲気味に笑った。
「怖かった。死ぬのが。イサナとメリナを、私は助ける事が出来る。けれど、私の事を救ってくれる人は誰も居ない。私の命は誰も守ってくれない。そう思ったら私は二人を見殺しにすることを自然と選んでいた。それでいいと自分に言い聞かせて、私は二人が死んだ場面にのこのこと現れて。ナチにフルムを仕留めさせるように仕向けて……」
握り込まれたマナの拳から、鮮やかな紅の液体が滴り落ちた。土に滲み込んでいく紅は、赤黒く変色し、周囲に微かな血の臭いを拡散させていく。マオは強く握られたマナの拳を包み込む様に握り締め、優しく解いていった。彼女の綺麗な桜色の爪が鮮やかな紅で濡れている。
「私ね。レヴァルで死にかけたんだ。毒を打たれて、たくさん血を吐いて。息を吸って吐くたびに血の臭いがして、めっちゃ痛くてね。体も自分の体じゃないみたいに重くなって、寒くなって、自分が死に近づいていってるのをハッキリ感じた。私ね、その時に思ったんだよ」
優しくマナの手を握りながら、マオは穏やかに笑みを浮かべた。不安と動揺を隠す事無く表情に込める、マオよりもずっと大人びた顔立ちの少女を安心させる為に。
「やっぱり私が一番大事なのは自分なんだなって。自分が死ぬかもしれない状況になった時、自分を一番大事にするのが一番正しいって、私は思うよ。だって、綺麗事は私を助けてくれないし。結局、最後に縋るのは自分の意思なんだよ。誰かの存在じゃない。私は死にかけた時、自分の命よりも大事な命なんてないって思った。だから、私はマナの行動は間違ってないと思う。それを許せるかどうかは別として」
最後に冗談めかして本音を溢すと、マナは困った様に苦笑を浮かべた。視線を落とした瞬間に、長い睫毛が小さな影を創り、彼女の瞳に暗い陰を落とす。けれど、マオは彼女を陰から引きずり出そうとは思わなかった。手を差し伸べようとは思わなかった。
これは他人の答えに縋ってもいい問題ではない。自分の納得できる答えに自らたどり着かなくてはならない問題だから。
「……ありがとう。そう……ね。私も私自身の事がまだ許せないでいる。だから、私はまだあの二人に許してもらえなくていいと、思っているわ。あの二人が誓った永遠の愛が本物だった様に、私も一生を懸けて何かを守ろうと思う。死によって齎される永遠の愛はもう懲り懲りだから」
彼女が言いたい事は何となく分かった。彼女は死によって永遠が齎され、美しく彩られた物語を美談と呼びたくないのだ。死は恐ろしくて、忌避すべきものだとそう言いたいのだ。だけど、イサナは死の恐怖とメリナを秤にかけてメリナを取った。迷うことなく死を、愛を取った。それを彼女は否定したいのだ。羨ましいのだと思う。生きていながら、迷う事無く永遠の愛を誓えた二人が。
だから、彼女は守ろうとしているのだろう。永遠は死によって齎されるものではなく、生きとし生ける者が作り上げる事が出来る、と証明する為に。見たくないのだろう。目の前の永遠が失われていく瞬間をもう二度と。
誰かを守りたいと強く想える人間は、過去に大切な何かを失っている奴だ、と言ったのは誰だったろうか……。
まあいいか、と内心で呟くとマオは彼女の手を握って、真っ直ぐに彼女の瞳を見つめた。逸らす事無く真っ直ぐに。
「まあ色々あったけどさ。私達がいがみ合うのはなんか無意味な気がしない?」
「そうね。そんな気がするわ」
二人は愛する者が戦地から帰還した恋人の様な安穏とした笑顔を浮かべると、手をお互いに強く握り締めた。
「だから、私達はここから始めようよ。友達としてさ」
「ええ。よろしく、マオ」
「よろしく、マナ」
笑顔を浮かべていたマナは徐々に表情から笑みを消していき、やや怪訝そうにマオを見つめた。マオも彼女と同様に訝しむ様な視線を送る。
「……何?」
「……意外とあっさりしているのね、と思って。ナチに女性の影がチラつくとすぐに嫉妬していた様な、何というか少し幼い性格をしていると思っていたけれど。成長?」
『成長とは違うのよねえ、残念ながら』
『マギリは黙っててよ!』
心の中でマギリを制しつつ、マオは顎に手を添え、僅かに首を傾げた。少しばかり返答する言葉を模索しつつ、言葉が見つかると同時にマオは腕を組んだ。
「私、強くならなきゃだからさ。お兄さんにかまけてられないんだよ」
『むしろ、逆でしょうよ』
「逆じゃなくて? マオがナチにかまってほしいから強くなりたいんじゃないの?」
「ズバリ正解だな」
リュックの中から顔を出したイズが笑いを堪えた様な物言いをすると、マギリもマナも同時にクスクス笑い始める。それを見て、マオは組んでいた腕に力を入れつつ、唇を尖らせた。顔が急速に火照り始め、耳に熱が移動していくのが自分でも分かる。
「ちちち違うし。お兄さんは」
「お兄さんは?」
『お兄さんがどうしたのよ?』
「ナチがどうしたというのだ?」
明らかにマオを揶揄していると分かる軽く上擦った口調。マオはリュックのイズを奥に押し込み、マナを鋭くねめつけるも、彼女達は何処か楽しそうに笑声を上げる。それが子供扱いされている様で腹立たしい。
実際、子供なのだが……。
「お兄さんて時々、ナキって寝てる時に言うんだよね。時々だけど。誰……なんだろ」
『あー』
マナとイズが視線を交わし、首を傾げ合っている中、ナキという言葉に即座に反応を示したのはマギリだった。しかも、うわめんどくせ、と言わんばかりの億劫そうな面倒くさいという感情が多分に織り込まれた言い方だった。
『マギリなにか知ってるの?』
『……先に言っとくけど、あんたが心配する様な関係ではないわよ。ナチとナキは』
『兄弟的な? 名前似てるし』
『あーあいつには確かに妹がいるんだけど』
『え? いるの? ていうか何で知ってるの? って聞くのもうめんどいんだけど』
『おっとー! 今のは忘れなさい。いい? 忘れなさい。ガチの失言だったわ』
明らかな動揺と焦燥を声に乗せるマギリは乾いた笑みで何とか誤魔化そうとしていた。脳内に響き渡る彼女の笑い声が木霊し、若干苛立ちを覚える。
『それはいいから、お兄さんとナキって人の関係を教えてよ』
マギリは大袈裟に咳払いすると、マオと精神の同調を始めた。温かい。彼女の優しさが心に流れ込んでくるのが分かる。マギリに直接抱き締められているかの様な抱擁感の後にマオが一度瞑目すると、口が勝手に動き始め、声帯が勝手に震えだす。
「ナチとナキは言わば師弟の様でもあり、姉弟のようでもあるって感じよ。恋愛感情なんてないない。でも、ナチがナキを特別慕ってるのは本当ね。まあ符術の師匠に向ける行為と同じと思えば分かり易いかしら」
イズはなるほど、と感慨深く頷いていたが、突然の口調と虹彩の変化にマナが見るからに唖然としていた。大人びた表情は幼稚に歪み、開いたままの口は間抜けにも映った。
「あー自己紹介がまだだったわね。私はマギリ。マオの心に住む妖精ってとこからしらね」
「それ私の声で言わないで。めっちゃ恥ずかしい」
「何よ、恥ずかしい事ないでしょうよ。第一印象が大事なのよ、何事も」
「そう思うならその自己紹介やめた方がいいと思う。普通にやばいと思う」
「ヤバくないわよ。めちゃくちゃイケてる自己紹介でしょうが」
「若者ぶりたいお母さん、みたいな感じする」
「ちょっとあんたねえ」
「一つの体で会話しておるお前達こそが、最たる異常だと我は思うぞ」
うんうん、と頷くマナは状況を飲み込む為か、顎に手を添えて、俯いていた。リュックから這い出る様に脱出したイズはマオの右肩に乗ると、考え込んでいる様子のマナに同情の視線を送りつつ、マオの右頬に優しく触れた。
「とにかく、ナチがナキとやらに抱いておるのは恋慕では無く、尊敬の類という事であろう?」
「そうそう、そういうことよ。さすが、イズは話が分かるわねえ。どっかのお子様と違って」
「若さゆえのやつかもしれないね。ほら、何て言っても私若いから。どっかの年齢不詳の妖精と違って」
「あんた言っていい事と悪い事があるわよ!」
「そっちだって!」
イズが唖然とし続けているマナの肩に飛び乗り、嘆息を吐くと、二人は視線を交わした。苦笑を浮かべ、またも嘆息。
「本当にどうしようもない。そう思わぬか?」
「本当ね。でも、楽しそう。いや、少し緊張が解れたって感じかしら。良い意味で」
「そうだな。あの子も旅の中で成長しているという事なのだろうなあ」
世界を救う役割をまだ十六歳の少女が背負う羽目になり、敵の一人に家族が居ると分かっている。それにマギリという仲間にしてライバルの出現にマオは追い詰められていたはずだ。けれど、彼女は折れることなく、人格が捻じ曲がる事もなく、真っ直ぐな心で今もこうして旅を続けている。
マオを見て、イズは強いと思った。何よりも心が誰よりも強いと思った。
普通はそんな重圧に耐えられない。恋慕や家族の為だけに世界を救う役割など背負えない。家族を殺めなくてはならないと分かっている旅に同行など出来ない。家族に命を狙われる事になる精神的苦痛に普通は耐えられない。発狂してしまう。けれども、無限の異世界が敵に回り出したこの状況で彼女は前に進むことを選んだ。
マギリと共に立ち向かう事を、彼女は確かに選び取った。それをイズは異常だと思う。だが、やはり強いとも思う。
我には真似できない。
一人の男の為に命を懸けて愛を貫く覚悟を。家族の為に家族を殺める覚悟を、我はきっと決められない。我はきっと逃げ出してしまう。
「何だか、イズは二人のお母さんみたいね」
「我の娘にしては少々お転婆な気もするがな」
イズ達は一つの肉体を通して口げんかしているマオとマギリを笑顔で見つめた。
この旅には終わりが存在する。成功しても、失敗しても、この旅は一度終わる。
どうせならば、マオの想いが成就してほしい。彼の隣で、笑顔で肩を並べる。そんな情景を最後に物語の幕が下りて欲しいとイズはこの時、思った。




