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四十二 世界樹に響く怒声

 異世界から現れた一つの鍵。返還された最強の盾。異世界より来たりし強者は背中に得た翼で鳥籠を天高く飛び立ち、憎しみの連鎖を自ら断ち切った。この油断とも言える結果に世界樹の主は一抹の興味も示さない。ただ眼前に現れた鍵を掴み、無心に見つめ、次に二つの異世界を眺望した。


 皮膜の様な白い光を帯びる二つの世界。その玲瓏たる輝きにユグドラシルは目を細め、鍵を握る手に力を込めた。


 これが彼女の完全な人選ミスという事は火を見るよりも明らかだ。


 海賊クライス・バールホルムは魂限定とはいえ喰眼と呼ばれる、比類なき暴食性を持つ瞳を保持し、その瞳に内包された膨大な魔力に耐え得る肉体も有していた。また、魔術、魔導を巧みに操る類稀なる戦闘技術を確立しており、何よりも世界を滅ぼしたい、と彼は世界に対して、強い憎悪を抱いていた。


 強い戦闘能力や精神は確かに重要だ。鍵を操るには当然それ相応の技術が必要不可欠になるし、強大過ぎる力に耐え得る肉体と精神が必要になる。誰でも扱えるわけではないのだ。半端な力で鍵を使用すれば、自壊するのは必至。言わば、諸刃の剣だ。


 この場に居る人間やナチは、最初から使えてしまった為に勘違いをしている節があるが、鍵を扱うには鍵を扱えるだけの高い技量と頑強な精神が必須条件になる。万人に扱えるほど鍵は甘くはない。


 だから、ユグドラシルはミスを犯してしまった。


 鍵を扱える技量と精神、世界を憎む強い想いを抱いているというだけで、彼女は彼の過去に感慨する事も無く、熟知しようともしないまま、彼を鍵の保持者に選定した。彼の過去を顧みていれば、彼の離反は十分に考えられたというのに。


 彼は世界に対して確かに憎悪を抱いていた。けれど、根は心優しく、善人だ。それ故に愚者に利用され、『人間』という種に対して激しく憎悪を抱く純粋で冷艶な女性に利用されてしまったのだ。それさえなければ、彼は優しい船長のままで居られたのだから。


 もし、彼が他者と関われば、彼の意識に変革が起きる可能性は十分に考えられた。その為、彼が世界を渡り、ベリルネリアと再会した事実はナキにとって嬉しい誤算だった。彼女はバールホルムの守護者であり、クライスの良き理解者。彼女の存在はクライスに必ず変革を齎してくれると確信する事が出来た。


 これはユグドラシルのミスだ。彼が離反する事を見抜けなかった彼女の過ち。


「久し振りじゃな、ナキ」


 世界樹の洞に進入し、ナキの前に悠然と座り込んだのは白銀の髪を揺らし、絹で拵えた白銀の着物を着崩して着用している美女。臙脂色のショールを羽衣の様に着物の上に羽織っている姿は儚げで、紅葉の下で朱い和傘を開いている情景がすぐ浮かぶ程には和の雰囲気に満ちていた。


 同性だというのにナキは彼女の姿にしばし見惚れ、あまりの美しさに言葉を失った。


「惚けておらぬで、さっさと正気に戻れ」


 優しく頬を叩かれ、ナキは咳払いすると同時に頭を軽く下げた。


「お久しぶりです。纏衣妃神(まといひのかみ)


「そんな堅苦しい名で呼ばなくとも、マトイヒでよい」


 ナキの前で男らしく胡坐を掻いているマトイヒは豪快に口角を上げると、人腿に肘を突き、拳の上に顔を乗せた。儚い雰囲気と美しい容姿を躊躇なく台無しにする彼女の所作にナキはかつて彼女と出会った頃のことを想起しながら、苦笑した。


「相変わらずマトイとは呼ばせてくれないのですね。妬いてしまいます」


「思ってもおらぬことを。お主には呼ばせぬさ。真名は好いた男にしか教えぬもの。お主が偶然知ってしまっただけの話じゃからな。お主には呼ばせぬ」


 婉容に浮かぶ穏やかな微笑みに心奪われ、ナキは再び言葉を失いそうになる。彼女はナキが見てきた女性の中でも段違いに美しい。ナチとの旅路でもそれ以前でも、美しい女性には幾度となく出会って来た。その度重なる対面を果たしてなお、彼女の美しさは群を抜いている。


 世界中の女性を集めたとしても、彼女以外の女性に目移りしない自信がナキにはある、と豪語できる程に。


「……そ、それで私に何か用でしょうか?」


 マトイヒは僅かに目を細め、長い睫毛で凛々しさと艶やかさを兼ね備える瞳を隠すと、想い人の帰りを待ち続ける良妻の様な憂愁を表情に浮かべ、ナキを一瞥した。


「教えてくれぬか。お主とナチの旅を。あやつに何があったのか」


「気付いておられましたか……」


「あやつと過ごした時間は二年という短い時間ではあったが、あやつの事を忘れた事は一度たりとてありはせぬ。それに久方ぶりに見たからこそ気付けるというのもあろう。あやつはどうして『神威』を使わない?」


「いきなり本題ですね。そう難しい話ではないんです。使わないのではなく、使えなくなった、ただそれだけの話なのですよ」


「精神に生じている問題故か?」


 ナキは暫し茫然とした後に苦笑した。この女性はナチの事を本当によく見ている、と。マトイヒと出会った頃のナチと今のナチ。時間が経過し、成長したナチの精神は当然変化している。反転、と言ってもいい程に。


「いえ、心身共に彼には何も問題はありません。使えない理由はもっと別にあるんです」


 ナキはマトイヒに説明する。直截簡明に、要所だけを抜粋してナキはナチとの旅を彼女に語っていく。彼女との修行を終え、世界を渡る旅路に戻ったナチがどういう経験をし、どのように成長してきたのかを。彼が心に培ってきた喜怒哀楽も絶望も希望もナキは彼女に伝えた。


 全てを聞き終えたマトイヒは木に背を預けると、二つの異世界を虚ろな瞳で眺めた。悲しみを表情に乗せ、青息吐息に哀痛を乗せている。彼女の横顔がナキには斯様に見えた。


「幻滅しましたか? ナチに」


 幻滅しましたか? 私に。


「いや、幻滅してはおらん。だが、驚いてはおる」


 震えた声に乗せられた憂いにナキは唇を噛み締め、視線を落とした。彼の人格形成の時期に、思春期に、彼の成長の最も近くに居たのは紛れもない、ナキだ。


 私は見てきた。壊れていく彼を。力を求めるあまりに倫理が欠如していく彼を。無限の異世界が彼の精神を壊していく過程を、私は止めもせずに見てきた。だって、必要だったから。全てを受け入れる為には器を広げなければならない。だから、壊す必要があった。壊して許容量を広げて、何度も壊して海の様に広漠にする必要があった。


 そうしないと無限の異世界を旅なんてできない。無限に存在する負の側面を受け止めるには彼の心を一度殺す必要があったのだ。


 だから、マトイヒが驚愕するほどのナチの過去を作り出したのはナキ本人に他ならない。


「確かにナチがわっちの下に来た時、あやつは子供とは思えぬ強い瞳をしておった。それに下手をすればわっちよりも強い力を内包しておる不安定な子供じゃったのは間違いない。力の扱いに不慣れで、内包する力を持て余している幼子。わっちの下に連れてきた本当の目的は力の制御、じゃろう?」


 マトイヒは気付いている。ナキがどうしてナチを彼女の下に連れて行ったのか。その真意に、意図に明確に気付いている。


「鋭いですね。さすがです」


「ここまで情報が出揃っておるのに気付けぬのは、さすがに冗談では済まされぬからのう。霊力を身に宿す異世界の幼子に、わっちの符術を凌駕するやもせぬ訳の分からん力。しかも、その力が制御出来ておらぬときた。今考えれば、気付けておらんかったわっちがどれだけ滑稽だったか、思い出したくもありんせん」


「申し訳ありません。騙すつもりはなかったんですが」


「いや、それは別に構いはせん。あやつを弟子に取ると最終的に決めたのはわっちじゃ。お主の真意に当時は気付いておらんかったが、ナチに符術を教える機会を得られた事に感謝こそすれど、後悔する事はありんせん」


 悲しみが続いていたマトイヒの表情に笑顔が浮かぶ。慈愛に満ちた母性溢れる微笑みにナキは首を傾げ、疑問をぶつけた。当時は聞かなかった問い。聞く必要は感じなかった問いを。


「どうして師を引き受ける気になられたのですか? 弟子は取らない主義だと仰っていたのに」


 横目でナキを見たマトイヒはショールを悠揚と羽織り直し、感慨深い表情を浮かべた後に頤を上げた。息を引き取るかの様に安らかに瞑目し、呼吸音が鮮明に聞こえてくるほどに深く長息を繰り返す彼女は、僅かに瞳を開目した後に漫然と世界樹の洞を眺望した。


「何気ない言葉が心に響く事がある。陳腐でありきたりな言葉に救われる事がある。簡単な話じゃ。力になりたいと思ったから力を貸した。それだけじゃよ」


「……その気持ち分かります。私も彼に救われた口ですから」


「まさか、叶わぬ片恋を五百年も引き摺らされることになるとは、わっちも思わなんだがな」


「あの子は一途ですからね」


 二人はお互いに微笑み、静寂に包まれた両者の間に微かな笑声を落とした。世界に差し迫った危機が霞んでしまうほどの穏やかな空気に二人は細目で視線を交錯させる。


「お主達がわっちと別れて五百年余。お主がその間に何をこそこそと企んでおったのか。聞かせてくれんか?」


「その前に私も聞かせてもらってもよろしいですか?」


 首を傾げ、口角を上げる彼女は胡乱な微笑みを浮かべながらナキを見つめた。彼女を信用するにはまだ早い。まだ信用できない。まだ信用に値するだけの誠意を彼女から提示されていない。


「あなたは私達の敵ですか? それとも味方に成り得る可能性を持ち合わせていますか? 心優しい彼の様に」


「愚問じゃな」


 マトイヒは更に口角を歪め、胡散臭さを倍増させる。その言葉の真意は一体どちらか。彼女はどちらに回るか。敵か、味方か。


「わっち達はユグドラシルの思想に共鳴したからこそ、ここに居る。わっちはお主の味方にはならない」


「では、お話は」


 ナキがハッキリと拒絶の意思を示そうとした瞬間、マトイヒは口火を切る。


「それはあの海賊の小僧も同様じゃった。あの小僧も最初は世界を滅ぼそうと躍起になっておった。だが、見てみろ。あの小僧は無性別の子供とかつての仲間に絆されて、意思を曲げおった。つまり、わっちらは変革の因子を常に持ち合わせておる。ここまで言ってやったんじゃ。もう分かるであろう?」


 ナキもそこまで馬鹿ではない。むしろ、聡明な方だという自負は自分にもある。ナキは小さく頷いた後に力強い意思を乗せた瞳をマトイヒに向けた。


「きっかけさえあれば、あなた達は心変わりする可能性を持っている。あなた達を味方に付けられるかどうかは私達次第、という事ですね」


「そうじゃ。人の心を縛り付ける事は誰にも出来はせん。自由の翼を持つ心は、今は羽休めに興じておっても、やがて飛び立つ。その飛び立つ瞬間を誰が捉えるかによって、わっちらの立ち位置は大きく変動するじゃろう」


「いいのですか? そんな話をここでして」


 ここでの会話は当然ユグドラシルも聞いているはず。今しがたマトイヒが口にした言葉はユグドラシルからの離反を仄めかす類のもの。最悪、郷里に戻され、時間が止まった世界で世界の行く末を見守る事を強制されかねない。


 けれど、マトイヒはナキの懸念を意にも介さないとでも言うかの様に鼻で笑った。美しい一輪の花の様な儚い雰囲気が、荒々しい烈火の様に豪胆で刺々しいものへと塗り替わっていく。


「問題はないじゃろう。人の心は不羈自由。広漠たる蒼穹に飛び立つも自由、鳥籠に収まるも自由じゃ。お主達とユグドラシル。そのどちらに魅力を感じるか、感じさせるか。お前達の商戦といった所じゃな」


「相変わらず達観していますね。惚れ惚れするぐらいに」


「惚れるのも自由じゃ。止めはせぬぞえ?」


「もう間に合っていますので、申し訳ありません」


「振られてしまうたのう。悲しゅう悲しゅう」


 マトイヒの小芝居によって場の空気が急速に沈黙したが、二人は同時に噴き出した。お互いに白い歯を覗かせ、穏やかな空気に舌鼓を打つ。


「では、お話しします。全てをお話しする事は出来ませんのでご了承ください」


 ナキは語り出す。計画の一部を。序章を。ユグドラシルに聞かれても問題はない部分を。ここで全容を話す事は出来ない。ユグドラシルに察知されれば、気付かれれば、この計画は瞬く間に終焉を迎える。知られる事は許されない。


 けれど、マトイヒには知らさなければならない。


 彼女を味方につけることが出来れば、心強いことこの上ない。彼女を味方につける為にナキは少しだけ計画の一部を開示する。それを知って彼女がどう判断するのか。一笑に付すのか、翼を広げるのか一体どちらか。


「お主はまた途方もない計画を立てておるのう。これでまだ序章だというのだから驚きじゃ。だが、わっちを味方につけるにはちと弱いな」


「そうですか……」


「じゃから、わっちは今しばらく敵のままであろうかのう。わっちの出番は当分先のようじゃし」


 異世界に向かって行く一つの黒い光。鍵の保持者が世界に渡っていった証明。今回も向かうのは一人だけだ。慢心したままなのか、それとも今度の保持者に相当入れ込んでいるのか。どちらにせよ、ナチ達に死の脅威を齎す死者が世界に向かったのは間違いない。


 良いのだろうか。目の前で物憂げに微笑んでいる彼女は、これで。


「良いのですか? 倒されてしまうかもしれませんよ?」


「それもまた運命じゃな。運命を自ら切り開く事が出来なかった、と言うだけの話じゃ。それに今のままなら、わっちと戦った時に命を落とす運命は変わらん」


 突き放す様に言った彼女は視線を異世界に固定したまま、落ちていた葉を符に変換した。


「どうしてですか?」


「よく、弟子は師匠を超えるものだ、という謳い文句があるじゃろう? ここで問題じゃ。どうして弟子は師を超えられたと思う? 答えてみい」


 彼女の問いの真意が判然としないまま、ナキは思い付いた言葉を訥々と並べていく。


「たゆまぬ努力を重ねて、研鑽を積み、経験を重ねる事で師を超えるほどの実力を得られた、のでしょうか」


「まあ、それも間違いではない。人は老いる。弟子が研鑽を積んでいる間に師は衰え、実力は衰えずとも体力や筋力は着実に落ちていく。じゃから、師はやがて弟子に敗北する」


「それが理由ですか?」


「いや、違う。若き弟子が師を超えるという異例の状況を生み出すには、師と同じ技術を極めるのではなく、師とは別の流派を組み込むしかない。わっちとナチが純粋に符術のみで戦えば、あやつはわっちに手も足も出ぬまま、敗北するのは明白じゃ。じゃから、ナチがわっちに勝利しようと思うのなら、符術に何かを足さねばならん」


「その何かがナチには無いと?」


 マトイヒは頷き、流し目でナキを見つめる。


「そうじゃ。『神威』を使用できないのであれば、あやつはわっちを倒すことはできん」


 ナチが開発した異世界の技術を組み込んだナチ式符術は見事なものだと、ナキも思う。だがそれも、マトイヒが操るオリジナルの符術には到底敵わない。彼が操る異世界の神秘は所詮、天変地異の真似事だ。本物には敵わない。


 そうなると、オリジナルの符術、マトイ式符術を行使するしかナチに選択肢は残されていない事になる。だが、彼女が今しがた言った様にマトイ式符術同士が激突すれば、勝者は深く考えずとも目に見えている。マトイヒだ。


 ナキが口を引き絞り、眉間に皺を寄せていると、前方から乾いた笑みが聞こえてくる。すぐに視線を彼女へと向け、状況を確認。マトイヒは笑っていた。瞑目し、手に持った符を指でくるくると回しながら。


「じゃがまあ、ナチじゃからのう。あの子は聡い。零から一を生み出した実績がある。じゃから、あやつがこれから何を生み出すのか、楽しみではあるかのう」


「マトイヒ様は一体何が目的で……」


「聞きたいかえ? わっちがどうしてここに居るのか」


 ナキが無言で首を縦に振ると、彼女は「まあ、簡単な話じゃよ」と前置きをした後に淡々と話し始めた。末恐ろしい程に簡単な理由。理解するのに賢しい知識は必要なく、納得するまでに一分も掛からなかった。けれど、単純明快な内容に反して、彼女の目的は悲痛極まりないもの。


 思わず悲嘆に打ちひしがれてしまうほどに、彼女の願いは悲しく彩られていた。


「じゃから、わっちは今のナチを幻滅したりせぬよ、お主にも」


 繋がっていく。彼女の言葉が。彼女の言葉の真意が。


「では、そろそろわっちは戻るとしよう。こわーい主様がこちらを睨んでおるからの」


 マトイヒはナキの後ろを恐ろしい形相で睥睨し、「またの」と軽快に言った後に樹洞から飛び降りた。玉座へと戻っていく途中でユグドラシルに何やら小言を言われていたが、マトイヒはのらりくらりと躱し、玉座に悠然と腰を下ろした。


 そして、マトイヒが聞く耳を持たないと判断したのか、ユグドラシルは嘆息しつつ、浮遊。ナキの眼前へと姿を現した。


「何だ?」


「……どうして、マギリをあの子の中に移したの?」


「必要だからだ」


 ナキは内心でほくそ笑むと、眼前を浮遊する彼女と視線を合わせる。やや苦渋混じりの彼女の瞳を鋭く射抜き、彼女の動向を探った。ナキは言わば捕虜だ。彼女の意思一つでナキの首は飛ぶ。命は消える。今この瞬間もナキの命の手綱は握られているのだ。


 恐怖は当然ある。無い訳がない。命は常に消滅の危機にさらされ、その決断はユグドラシルに一任されているのだから。怖くてたまらないに決まっている。


「……どこまでも私の邪魔をするのね?」


「お前が考えを改めれば邪魔はしない。お前の願いは払う代償の大きさに反して、無謀すぎるんだ。……見つからなかったんだろう? 無限の異世界を回っても」


「……あなたが隠してる『ガヴェリエル・コード』を私に差し出せば、私の願いは成就される」


「何度も言わせるな。お前の願いは成就されない。仮に『ガヴェリエル・コード』を私が差し出したとしてもだ」


「……そんな事はない。『ガヴェリエル・コード』が揃えば、私の願いは叶う」


 ナキは奥歯を噛み砕く勢いで噛み締めた。先程まで胸に抱いていた恐怖が、別の感情に塗り替わっていく。地獄の釜が開いたかの様に心は赫怒に染まり、完全に恐怖が消し飛ばされた事を確認する前に、ナキは口を開いていた。


「お前の《無限の異世界》は確かに無限の可能性を秘めている。あらゆる不可能を可能にする可能性を秘めているよ。だが、一つだけ可能にならない事がある。お前が望んでいる奇跡だけは起こせないんだよ!」


 澄んだ怒声が空間内に響き、明らかに怒りを表情に滲ませるユグドラシルはおろか、玉座に座っていた全員がナキ達へと一斉に振り向いた。ナキは背後へ振り返った後に、声を荒げながら、情緒的に彼女に訴えかける。


「お前だって本当は分かっているんだろ? 例えコードが揃ったとしても、お前の願いは叶わない事に」


「……叶うわ。絶対に叶う」


 自分に言い聞かせる様に口に出したユグドラシルは、顔面蒼白になりながら、ナキに背を向けた。その後ろ姿は庇護を求める不遇な子供の様で、ナキは思わず優しい言葉を投げ掛けそうになってしまう。寸での所で言葉をせき止め、ナキは口に仕掛けた言葉を飲み込んだ。


 だが、これは言わなくてはならない。彼女の無謀な願望を諦めさせるためにも、言わなくてはならない。例えナキが凄惨な死を遂げる事になったとしても。


「摂理は変えられない。例え、お前であろうと。誰にも変える事は出来ないんだ」


 桜の葉の様に泡沫に散り逝くユグドラシルの姿。ナキの眼前には既に人影はなく、生命力を強く感じさせる新緑の葉が一枚、ひらひらと舞い散っているだけだ。

 

 眼前から消えた彼女がどこへ向かったのかは分からない。遥か上空か、ナキからは見えない死角に居るのか。ナキは背後を覗いた後に、視線を落とした。目を閉じる。


 瞼の裏に浮かぶのは、脳裏に染み付いて離れない彼女の後姿。震えた肩。握り締められた両手。彼女の心を表すかのように揺れた黒髪。


「ごめん……ユナ……」


 ナキの独白は世界樹が起こした葉擦れに掻き消され、誰の耳に届く事も無く、消えていった。

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