十四 奪われる家族
マオが噴水広場へとたどり着いた時だ。風に運ばれて、何かが腐った様な酸味のある臭いが鼻を通過し、食道を通過しようとした所でマオは咳き込んだ。思わず胃液が飛び出しそうになると、マオはそれを強く胃に引き戻していく。
「何この臭い……」
ジャケットの袖で鼻を押さえながら、マオは噴水へと近付いた。絶え間なく吹き続ける噴水には目を向けず、首を動かしマオは辺りを見渡した。何処からか流れてくる悪臭に顔を顰めながら、路地を流れていく通行人の中からナチの姿を探す。ボロボロの衣服を身に纏い、飄々とした浮雲の様な男を見つけようとする。
けれど、すぐに見える範囲に、ナチの姿は見えない。それも十分にあり得ることだ。マオが歩いてこの場所に向かった様に、ナチも行動している。図書館までの経路を聞き、目的地に向かった可能性は大いにある。
「すれ違ったかな」
一人ぼやきながら、噴水を通り抜け、マオは僅かばかりの階段を上がり、パン屋へと近付いていく。店先に今日のおすすめを書き記した看板を置いている男性に話し掛けた。何度も言っている事もあり、顔馴染みだ。男性の妻となる女性とも親交がある。むしろ、この男性よりも仲は良い。
「おじさん、おはよう」
「おう、マオ。おはよう。おつかいか?」
男性の大きすぎる声量にマオは苦笑しながらも、首を横に振った。
「違うよ。お兄さん見てない?」
「お兄さんって言うとウォルフ・サリの新入りか?」
「うん」
男性は少し考える様な仕草を取ったが、結局思い当たらなかった様で首を横に振った。
「すまん、見てないな。何かあったのか?」
「迷子になってるみたいで。探してるんだ」
大声で笑いながら、男性は腕を組んだ。その大きさに思わず、耳を塞ぎたくなったが本人の手前、耳を塞ぐことはしない。けれども、偶然通りかかった通行人が耳を塞ぎ顔を顰めていたので、それに気付くかと少しばかり期待したが、眼前の男性がそれに気付く様子はない。
「そうか、迷子か。ラミルを倒す程の実力があっても、道には迷うんだな」
目尻に涙を溜めながら、男性は言った。
「マオ、少し待ってろ」
男性はそう言うと、店の扉を潜り、店内へと入って行ってしまった。扉が開いた瞬間に運ばれてくる芳しい香りは、嗅ぎ慣れた匂い。幸福を感じる至福の時。
その匂いに頬を緩ませつつ、マオは置かれていた看板に目を通す。今日のオススメはクノーテン、と豪快な字で書かれた看板を見て、マオの腹から豪快に音が鳴った。胃がパンを求めて、咆哮を鳴らしている。が、硬貨を持たずに外出した為、買い物は出来ない。
仕方なく香ばしい匂いを口いっぱいに含ませ、舌鼓を打つことに専念する。すると、大声を上げながら扉を開けたパン屋の主人がマオへと駆け寄ってくる。
「おまたせ」
店内から出て来た男性は、手に小さな紙袋を持ちながら現れた。駆け寄ってきた男性は手に持った紙袋をマオに手渡すと、苦笑しつつ首裏を掻いた。
「これ、失敗作で悪いが食べな。迷子を捜すのは体力がいるからな」
マオは紙袋を受け取り中を見ると、そこにはクノーテンが三つ入っていた。今日のおすすめだ。失敗作という割には形が整っている。マオにはどこが失敗作なのか見当がつかないが、プロから見ると失敗作なのだろう。もしくは気を遣ってくれたのか。
砂糖をまぶしてあるのか、甘い香りが漂ってくる。涎が垂れそうになって慌てて、口を閉じると、それを見たパン屋の主人が穏やかに相好を崩した。
「ありがとう。大事に食べるね」
「おう。マオの所の新入りのおかげで、この街は少しだけ住みやすくなったからな。感謝しているんだ」
「そうなの?」
それは初耳だ。ウォルケンという街がナチに抱いている印象をこの時、初めて聞いた。確かにラミルがナチに敗北を喫してから、街は若干ではあるが活気を取り戻した気はする。ラミルが威張り散らす前の明朗快活な雰囲気を。マオが好きだった頃のウォルケンの形を。
「それに、口には出さないが他にも感謝している奴は多いんだぞ」
マオは紙袋を大事に手で抱えながら、少しだけ誇らしい気持ちで口端を上げた。
「ああ。あの兄ちゃんが来てラミルを倒してくれてから、ラミルはびっくりするくらい大人しくなったんだ。住みやすいったらありゃしないよ」
「……そうなんだ」
嬉しい。何故だか、そう思えた。褒められているのはマオじゃないのに。何故だか、自分の事に様に歓喜で胸が一杯になった。
「だから、感謝しているんだよ。もちろん、マオにもな」
「私は何もしてないよ?」
「マオが、あの兄ちゃんを連れて来たって聞いたけど。違うのか?」
「それは当たってるけど、ラミルを倒したのはお兄さんで、私は何もしてないから」
男性がマオの肩を優しく叩く。力強い笑顔で首を僅かに傾げる。
「マオが連れて来てくれなかったら、あの兄ちゃんがウォルケンに来る事は無かったかもしれないんだ。あまり謙遜するな」
「……うん。ありがと」
マオは満面の笑みを浮かべる。この街は変わりつつある。ナチのおかげで。彼のおかげでこの街には笑顔が増えた。いや、隠さなくてすむ様になった。全ては彼のおかげ。彼の優しさと他者の為に一生懸命になれる強さのおかげ。
「そろそろ探しに行くよ。パンありがとね」
「ああ、頑張れよ」
マオが軽く頭を下げ、踵を返そうとした所で男性の表情が一変した。顔に恐怖がこびり付く。呆然自失に佇む男性を訝しみながらも、マオは踵を返す。背後へと視線を、体を向ける。
だが、すぐに制止を余儀なくされた。体中に電流が走ったかの様な衝撃が背筋を伝い、頭へと昇ってくる。たった一つの情報がマオの脳内をパンクさせようとする。
「ラミル……」
紙袋を持つ手に力が入る。ほとんど無意識に。怖い。目の前の男がこんなにも怖い。
背後を振り返った先に居たのは、ラミル本人。金髪の長い髪を悪臭を孕む風に揺らし、無表情でマオを見つめる姿はいつもと変わらない。そして、いつも身に着けている白いシャツを血で赤く染めている事も普段と変わらない。そこで佇むのは普段のラミルそのもの。のはずなのに、今日はそれが酷く心を騒ぎ立てる。
嫌な予感がする。心臓が早鐘を打ち、あまりにも早い鼓動に過呼吸を起こしそうになる。心を埋め尽くす嫌な想像を断ち切る為に、マオは瞳に力を入れる。
「運が良かったな、お前」
静かに口を開いたラミルは微笑を浮かべた。静かに紡がれた言葉は声の調子とは裏腹に不思議と力強く響き、その言葉の意味の不明瞭さにマオの心は酷く乱される。荒波に絶えず打ち付けられているかの様に、平静が心の端に追いやられていく。
「どういう意味?」
「この血。誰の血だと思う?」
血が付着したシャツを手で掴みながらラミルは言った。マオも男性も自然とその赤い染みへと視線が傾き、そこで気付く。その血はまだ乾いていない。湿り気を保ち、服が肌に張り付いている。付着したばかりの血は、正しく鮮血だ。
だが、問題はその出血者。血の持ち主。ラミルのシャツに刻まれたのは間違いなく暴力の証。暴力を振るい、完膚なきまでに叩きのめした理不尽な暴力の証明。
「……誰の……血なの?」
マオは震えた声でラミルの言葉を待った。震える腕を止める為に、紙袋を強く握る。だが、どれだけ紙袋を強く握っても紙袋が押し潰されるだけで、震えは止まらなかった。その微細な振動を見てか、ただ気持ちが昂ったのかは分からないが、ラミルは穏健な表情で、その表情と全く同じような穏やかな声で回答する。
「シャミアとリルだ」
時間が止まる。視界があまりの衝撃と動揺で歪み、脳が今も何かを話しているラミルの言葉を拾う事が出来ない。余計な情報をマオの心が拾う事が出来ない。どこまでも視界は淀んでいく。頭が色彩すらも拾えなくなっていく。
マオは無意識に紙袋を落としていた。落下した紙袋からクノーテンが転がっていき、ラミルの足にぶつかり止まった。それを目で追っていくと、ラミルの右足が上がった。そして、それは勢いよく振り下ろされる。
ラミルはパン屋の主人が譲ってくれた優しさすらも足で踏み躙った。
マオは唇を引き絞り、両手を強く握った。歪んだままの視界でラミルを射抜く。色彩を失った世界で歪な笑顔を浮かべているラミルを睨み付ける。胸から沸き起こるは強い怒り。憤怒と言っても差し支えない程に昂る心は冷えた殺意と燃える様な熱い怒りに呑まれ、マオから倫理という越えてはならない壁を取っ払う。
「ラミル!」
マオは叫びながら頭上に氷剣を作った。巨大な氷の劔。ラミルの命を刈り取る、死の劔。
殺す殺す殺す。
それを射出しようと氷に指示を出そうとした時、突然呼吸が止まった。せき止められる呼吸は一方通行。吐き出す事は出来ても、吸い込むことは叶わない。
吸っても吸っても空気が体内に入って来ない。両手で首に触れ、マオは膝から崩れ落ちた。膝の痛みなど気にならない。パニックに陥りそうになる頭に何とか冷静を運ぼうと、マオは下唇を強く噛んだ。歯が唇に食い込み、裂けた。口に広がる生臭い血の味。顎を伝う鮮血。
「どうだ? あいつの技だ。お前の大好きなあいつのな」
あいつというのが誰を指しているのかはすぐに分かった。ナチだ。ラミルがナチに敗北した瞬間をマオも見ていた。ラミルが敗北した技をマオも見ていたのだから、この技が誰の物なのかはすぐに分かる。
これは、ナチがラミルを倒した時の状況に似ている。見下ろすラミルと、見上げるマオ。あの時もこういう状況だった。あの時の状況をラミルは再現している。
「やめろ、ラミル!」
背後から男性が叫ぶ。この街でラミルに意見するのは危険行為だ。なのに、彼は声を上げた。上げてくれた。この街は変わりつつある。ナチがもたらしてくれたささやかな変化。それを一人の男が、目の前の屑野郎のせいで終わろうとしている。
「うるさい! 黙ってろ!」
空気の弾丸が撃ち出され、それは男性に直撃。看板に激突しながら、男性は壁に打ち付けられた。気絶してしまったのか、男性は力なく地面に伏せる。動きを見せない男性。異常を察して集まり始める人々。
マオは作り出した氷剣を回らない頭を何とか動かし、ラミルに向けて射出した。酸素が体内から排出される度に、マオの体も意識も鈍重になっていく。高速で撃ち出される氷の大剣を目で追う気力すら失われていく。
だが、二人の距離はほとんど零距離。ラミルを倒せはしなくても、深手を負わす事は出来るはず。
そんな甘い希望は、簡単に打ち砕かれた。ラミルに当たる直前で氷剣は空中で粉々に砕け散った。氷の破片が地面へと落下していく。ラミルが何をしたのかは分からない。それを判別する気力も、酸素もマオの体には残っていない。
こいつが全てを壊すのか。ナチが作ってくれた変化の兆しも、マオの大事な家族も全て。
嫌だ。そんなのは嫌だ。
誰か。誰でもいい。助けてくれ。
私の大事な家族を守ってくれ。
私の大事な物をこれ以上奪わないでくれ。
助けて。助けて、お兄さん。
頬を伝う雫を拭う事も出来ず、マオは意識を失った。
ナチが路地へと出ると、そこは運良く酒場の近くだった。ナチも知っている道。ナチは路地に出てすぐに右へと曲がると、路地を駆け抜ける。後は、直進するだけ。迷う事無くたどり着けるはずだ。
路地に出てからも街を包む悪臭に咽返りながらも、ナチは走り続けた。止まる事は許さない。ナチの精神が止まる事を断固拒否する。こんな不安を抱えて歩く事など出来はしない。
すると、前方に大勢の人々が集まっているのが見えて、ナチは足を止めた。いや、止めざるを得なかった。
人々が集まっている視線の先にはあるのは酒場だ。ナチの目的地。
何が起きているのか分からず、ナチは人々を掻い潜り、強引に掻き分け、奥へと進んだ。集まってくる野次馬と、既に居る群衆が各々声を発している為、耳を覆いたくなる様な喧騒が耳を突く。
五月蠅い。黙れ。
「どけ!」
大声を上げるが、巨大な喧騒の前にナチの声は無残にも掻き消された。誰にも聞こえてはいない。
「邪魔なんだよ」
男性も女性も、全てを払い除け群衆の一番前にたどり着いた時。そこに広がる光景を見て、ナチは絶句した。抱えていた不安が、感じていた嫌な予感通りの光景がそこにはあった。ナチが思い描いた通りの光景がそこにあった。
固い敷石の上に寝かされた二人。血に濡れた真っ赤な全身。折れた腕や足はあり得ない方向へと曲がり、口から零れるのは大量の血液。それが地面を赤く濡らし、今もその領域を拡大し続けている。ナチはおろおろとその二人に近付くと、震えた唇で二人の名前を呼んだ。
「シャミア……リル……」
地面に寝かされていたのは、シャミアとリルの二人。仰向けに寝かされた二人の顔に付着した血は、まだ乾いていない。絶えず流れる血液のせいか、乾く事を許さない。鮮血がそれを許さない。
「間に合わなかった……」
ナチが膝を折り、二人に近付くと微かな呼吸音が聞こえて来た。弱い。だけど、呼吸している。生きている。けれど、二人の顔には苦渋が満ちていて、流れる血液と連動して二人はそれぞれ呻き声を漏らしている。
「医者は? 医者はまだなのか?」
「もうすぐ来るはずだ」
右側から話しかけられ、そちらへと視線を向けると、そこにはマスターが立っていた。白いシャツの上に黒いベストを羽織っているが、白いシャツは自身の血で赤く染まっていた。右腕を押さえ、苦痛を顔に浮かべたマスターもまた負傷している。
「誰がやったの?」
「ラミルだ。ラミルが突然やってきてシャミアとリルを」
ナチは奥歯を噛み締めながら、ある事に気付く。辺りを見回す。群衆の中にその人物を探す。
居ない。どこにも居ない。
見慣れつつある支子色の髪の少女が見えない。家族思いで、生意気な少女の姿がどこにも見えない。ナチはマスターへと詰め寄ると、血走った目で彼を見た。
「マオは? マオは無事なの?」
「会ってないのか? マオはお前を迎えに噴水広場に」
「僕は会わなかった。擦れ違ったのか……」
噴水広場というのは、噴水とパン屋がある場所の事だろう。だが、そこではマオとはすれ違わなかった。そもそも噴水広場からはすぐに離れてしまったのだ。擦れ違う確率は限りなく低い。
ナチは指先から霊力を放出する。
「マオは噴水広場に行ったの?」
「ああ。だが、マオがここを出たのは随分前だ。噴水広場にいるかは分からないぞ」
「でも、他にマオが居るかもしれない場所なんて」
おそらく、ラミルはマオを追っているはず。人質にするだけなら、ここに居るシャミアとリルで十分なのだ。なのに、二人をここに放置している理由は、最初からマオを人質に取るつもりだったから。見ていたのだろう。ナチがウォルフ・サリの誰と最も親交が深かったのか。
この仮説がもし正しければ、ラミルは既にマオへと接触している可能性は高い。彼の能力は風を操る能力。使い方次第では索敵にも、飛行しウォルケンの空を縦横無尽に駆け巡る事も出来る。
となると、今から噴水広場に行ったとしても、マオが居る可能性は低い。だが、そうなるとどこに行けばいいのか分からなくなる。ウォルケンの地理も詳しくは知らず、ラミルの行動範囲も熟知していないナチに彼の居場所を一発で引き当てる事は出来ない。
そこでナチはふと、思い出す。先程、剃髪の男が言っていた言葉を。
あの男はナチを教会へ連れて行くと言っていた。ラミルに指示されて協会に連れて行くと宣っていた。当然、そこにラミルも現れるはず。人質を連れて現れるはずだ。
教会で待っていれば、もしナチがラミルよりも先にたどり着いたとしても、ラミルは教会に現れる。後手に回ったとしても同じだ。ラミルが行き付く先は教会。
ならば、ナチが向かう先は自然と決定される。
「教会だ。教会の場所は?」
「教会なら、街の一番北にある。屋根に十字架が付いているからすぐに分かるはずだ。だが、教会に行ってどうするというのだ? あそこには祭壇があるだけで、何もありはしないぞ」
「多分だけど、ラミルは教会に居る」
「それは本当か?」
ナチは頷いた。確証がない以上は頷くだけだ。
「多分だけどね。僕は今から、教会に行ってくる。二人をお願いしても良い?」
「それは構わんが」
「よろしくね」
ナチは立ち上がると、すぐさまシャミア達に背を向けた。時間は残されていない。異常な嗜虐心を兼ね備えているラミルも男だ。そして、マオはまだ子供とはいえ女性。暴行される可能性は十分にある。慰み者にされる可能性は大いにある。
「……ナチ」
背後から聞こえてくる女性の声。ナチは振り返る事はせず、次の言葉を待った。
「……マオを頼むわね」
弱弱しく言ったその言葉を一文字も聞き逃す事無く、ナチは首だけを動かし、背後を見た。
「必ず助ける」
シャミアが微笑む。優しく、体を襲う痛みなど微塵も感じさせない笑顔でナチを見た。強い女性だ。ナチが持ち合わせていない強さ。芯の強さ。心の強さ。それらをシャミアは持っている。余所者のナチを受け止めてくれた恩も合わせて。
敬意を表す必要がある。
「……行ってらっしゃい」
「行ってきます」
事切れたかの様に気を失ったシャミアから視線を外し、ナチは走り出した。




