四十 魔導世界へ 四
「お前、どうして無事なんだ? 喰眼はお前にも作用するはずだろ。それにお前が調べたって事ってなんだよ?」
「おそらく、この棺のおかげだろうな」
「こんなただ青いだけの箱がか? 特別な力は何も感じねえぞ」
ベリルネリアはキリの手の平から頭の上に飛び乗ると、クライスと視線を並行にした。無表情でベリルネリアを受け入れたキリも視線を僅かに上げ、クライスを見る。
「これは《蒼海に沈む理想の青郷》にあった《青の棺》だ。ジーリスを封印し、長い間、海の底に沈んでいた海の秘宝。お前には一度説明したと思うが……覚えているか?」
「当たり前だ。お前が口うるせえババアみたいに何回も言ってきたせいで覚えたっての。それで? 何で《青の棺》がここにあんだよ」
「喰眼がそこにあるという事は、海の底から棺ごと引き上げたんだろうな。そして、喰眼だけを摘出し、不要になった棺だけが私達の下に返還された。お前が帝国に連れて行かれた翌日の話だ」
「ジーリスは? 入ってたのか?」
「いや、ここに返還された時には何も入ってはいなかった。空っぽだ。研究材料にでもされたかもしれないな。喰眼とお前を問題なく繋ぐための触媒に利用できると踏んでいた可能性はある」
寂寥を感じさせる声色にクライスは失言だった、と反省すると同時に不自然に咳払いした。翳っていく空気を吹き飛ばすには些か弱い咳払いだが、ベリルネリアは温柔に目を細め、話を続ける。
「この《青の棺》には《海狂骸》を封じる力が備わっていたんだ。私達の下に帰ってきた時、その力は失われていたが、私が消えかけていた術式を復元し、その力を復活させた」
「はあ? どうして? お前、シャルロッテの計画知ってたのか?」
「いや、シャルロッテの思惑にはさすがの私も気付けなかった。だが、シャルロッテがお前に喰眼を移植して、何かをしようとしているのには気付いていた。だからだ。移植されたお前を《青の棺》に一時的に封印し、私は喰眼とお前を切り離す方法を模索していた。まあ、その方法は見つからなかった訳だが」
自嘲するベリルネリアは乾いた笑みを漏らしながら、頤を上げた。天井を見上げる彼女は息を胸一杯に吸い込み、ゆっくりと吐き出した。膨れ上がっていた腹部が萎んでいく。
「だから、私はこの《青の棺》に込められた高等術式『封印』を解析する為に棺に入る事を決めた。喰眼を永遠に封印する為には『封印』を昇華させる必要があったから。多分、私が無事だったのは、私の魂が一時的に《青の棺》に封印されていたからだろう」
「馬鹿か、お前。そんな危険極まりないことしやがって」
彼女がした行いは最悪、彼女が棺に永遠に封印される可能性が含まれていた。それは決して低い数字では無く、十分に高い数字として。
「問題はないと思っていたよ。『封印』は内部からの力には強いが、外部からの力には脆弱過ぎるほどに弱い。お前が棺を簡単に開けられた様に人の膂力だけで破壊する事ができる。お前は必ずこの船に戻ってくると信じていたから、あまり問題だとは思っていなかったよ」
「俺がこの部屋に入って来なかったらどうするつもりだったんだよ」
優雅に笑っていたベリルネリアの表情は真顔に変わり、顎を手で押さえ、考え込む様に頭を僅かに下げた。
「それは考えていなかったな。まあだが、お前来たし」
「いや、まあ来たけど」
「まあいいじゃないか。結果オーライってやつだよ」
「それで『封印』の解析は終わったのかよ?」
「終わったよ。終わったが解析が済んだだけだ。これから私が行使できるように落とし込む必要がある」
「そうかい。で? 俺を助ける為に他には何を調べてたんだよ」
呆れたように嘆息するベリルネリアは細目でクライスをねめつけると、キリの頭に手を着いた。背を僅かに後ろに反らし、天井を見上げる。
「……まあ他には、魔導燃料炉で炉心溶融を起こして帝国を爆発させて、混乱に乗じてお前を助けようか、とか、妖精族に伝わる秘術で国民を操ってシャルロッテの首を取ろうか、とか。後は異世界に渡る術を探していた」
魔導燃料炉は研究所の隣だ。炉心溶融などを起こして大爆発でも発生すれば、クライスごと木端微塵になるはずなのだが、クライスはあえて触れずにこめかみを押さえた。
「……基本物騒だな。何で異世界なんだ。それに異世界に渡れたとして、どうするつもりだったんだよ?」
「ナチに聞いていたんだよ。かつて、異世界に避難させた子供の話を。だから、私もお前を異世界に避難させようと思っていたんだが、そんな方法は欠片ほども見つからなかった。だというのに、お前は世界を滅ぼしに異世界に向かい、あの坊やに会っているというではないか。何だ、お前?」
「いやいや、知らねえよ。俺が仕組んだんじゃねえし」
「まあ、そんな事よりもお前、あの坊やの力を見たか? お前程度では歯も立たないだろ?」
「いや、そんな事はねえよ。お前が言ってた『神威』って力を使ってる様子もねえし」
ナチが使用していたのは二種類の符術だけだ。それ以外は使用していないはず。少なくとも、ベリルネリアの言う『神威』と呼ばれる力を行使している様には思えない。手加減しているのだろうか。それとも使用できない理由が存在するのか。
「そもそも『神威』って何だよ。神級の超魔法でも放つのか?」
『神威』という力をクライスが知らない以上はナチが『神威』を使用しているのか、断定できない。彼がユライトスに放った十三曲葬とは違うのだろうか。あれも神殺しの術と呼ばれている。ベリルネリアはその術の事を指して言っているのだろうか。
「私も詳しくは知らない。本人曰く『神の威を間借りし、一時的に神を超える御業』らしいがな。私は神を知らないから何とも言えないが、確かに坊やの力が無ければ《海狂骸》は倒せなかったのは確かだ」
「一目見れば分かる様な力なのかよ?」
「すぐに分かる。坊やが放った『神威』によって地形は変化し、四季が確立していたグランコリアは一年中雪が吹き荒ぶ寒冷積雪地帯に変化した。これは《海狂骸》にもシャルロッテにも出来ない。見るか?」
ベリルネリアはやや恍惚した様な表情でクライスを見つめ、返答を待っていた。『交錯』を行使する準備は整っているぞ、と言わんばかりに前傾姿勢になっているが、クライスは無視。真顔で視線を落とした。
「見ねえよ、タコ。どんだけ好きなんだよ、ナチの事」
「好きか嫌いかの話じゃない。あれは誰が見ても心が揺れ動くほどに美しい情景なんだ。『神威』を見れば、お前のそのひん曲がった捻くれ根性が少しは矯正されるはずなんだ。悪い事は言わない、見ろ」
「余計見たくなくなったっつーの。まあ、これからナチと戦うしな。楽しみは後で取っとくさ」
「……世界を滅ぼすの諦めたんじゃないの?」
今まで沈黙を余儀なくされていたキリが赤く充血した目でクライスを見て、言った。
「保留だ、保留。諦めたんじゃねえ。それにだ。俺は自分で売った決闘からは絶対に逃げねえ。正々堂々とあいつらを倒して、世界を滅ぼすかどうかはその後にゆっくり考える」
言った後にクライスが二人を見ると、キリは微かに口角を上げ、ベリルネリアは深い溜息を吐き出した後に、彷徨える魂に手を差し伸べる聖母の様にどこまでも安閑に、どこまでも温柔に微笑んだ。
「まあ、決闘も逃げればいいのに、とは思うが、小僧がそう決めたのなら文句は言わないさ。なにか確固たる勝算があるのか?」
「奇襲する」
ベリルネリアの瞳が勢いよく開目し、鳥肌が一斉に沸き起こるほどの軽蔑を多分に孕んだ冷眼を、彼女はクライスに向けてくる。心が竦然とし始めたせいか、キリが向けてくる視線も冷たく見えるのは気のせいではないだろう。
「は? お前、さっき正々堂々って」
「バーカ。決闘は正々堂々受けるって意味だ。戦いに正々堂々もねえんだよ。勝った奴の道理だけが正しいんだ。勝ちゃあ、なんだっていいんだよ」
「……それで具体的にどうするつもりなんだ?」
「主砲の魔力充填をこの世界に居る間に終わらせて、湖で待っているはずのあいつらに初っ端でぶっ放す。一撃で終わらせてやるぜ。だから、ベリルネリア。お前も協力しろ」
彼女が向けてくる冷眼に込められた温度は、急激に低下し、絶対零度すらも凍らせてしまいそうな程の低温を宿していく。そして、彼女の下でクライスを見つめているキリの瞳は冷漠に凝り、クライスが言葉を並べる度に目は細くなっていった。
「……正々堂々が泣いて懺悔してくるな、きっと。だが」
ベリルネリアの声に灯る寂寥。その寂寥は部屋を物寂しい寂寞とした空気に塗り替えていき、クライスとキリは自然と視線を下げていた。
「戦いとはそういうものだからな。卑怯で、陰湿で、凄惨だ。長く生きていると、偶さか世界に対して絶望する事がある。時代が流れ、技術が発展する度に私は思うよ。ああ、こんなロクでもない物作りやがって、と。私はジーリスに出会っていなければ、シャルロッテが起こした無血革命に賛同していたかもしれない」
しみじみと口にしたベリルネリアは寂然とした様子で、キリの頭を優しく撫でた。キリが僅かに顎を上げるが、頭上に居る彼女を捉える事は叶わない。
「キリ、と言ったか?」
「……うん」
「お前は無性別らしいが、本当か?」
「……うん。見る?」
キリがボンタンの様なズボンを脱ごうとしたのをクライスとベリルネリアが慌てて止める。
「脱ぐな。別に疑ってるわけじゃねえよ」
「私の言い方も悪かった。無性別の人間というのを初めて見たから少し気になっただけなんだ」
「……見た方が分かり易いと思って」
クライスとベリルネリアは目を合わせて、呆れたように笑った。キリは二人が笑った理由が分からなかったのか、首を傾げ、クライスとベリルネリアを交互に見る。
「お前は意外と大胆だよな」
「良い部下に恵まれたじゃないか、小僧」
「まあ、心を読める能力ってのは貴重だよな。裏切者を見つけやすくなる」
「そういう意味で言った訳じゃないんだが。まあ、キリ。性別が無い事など気にするな。お前には無性別の事など気にならない位に、素晴らしい航海を小僧と私が見せてやる。だから、後ろ向きな気持ちは小僧の右目にでも食わせておけ」
「俺の右目はゴミ箱じゃねえんだよ」
「何だ、小僧。喰眼に愛着でも湧いているのか?」
「湧いてねえよ。頭湧いてんのか?」
「そうかそうか。寂しいなら寂しいと、そう言え。だが、喰眼の意思も聞かなくては。結婚とは互いの同意がなければ成立しないからな」
「しねえし、話聞けよ。……おい、ガキ。何笑ってんだよ」
ベリルネリアを睨み付けていたクライスの視線が徐々に落ちていき、満面の笑みを浮かべているキリと視線が重なった。笑い声は上げず、それでも表情を緩めるキリを見て、クライスは彼女の額を指で突いた。
「……二人は似てるね」
「似てねえよ、こんなババアと一緒にすんな」
「やめろ、キリ。こんな小汚い捻くれ小僧と似てるなど、断じてあってはならない」
「おい、お前は命の恩人に」
「お前は世界を滅ぼそうとしていたんだろ? 命の恩人という肩書はそれで帳消しだ。お前の最終肩書は小汚い元海賊船長クライス・バールホルム。喰眼添え、だよ」
「俺は料理か。しかも、元じゃねえよ。現海賊船長だ。……部下がそこに居んだから」
「……全く成長しないな、お前は」
ベリルネリアが深く溜息を吐く。
「うるせえな。俺は大器晩成型なんだよ」
「小僧、お前今年でいくつになった?」
「……三十五」
ベリルネリアが先程よりも大きな溜息を吐く。
「……もうそろそろ遅咲しても良いんじゃないか?」
「そろそろ結婚したらどうだ、みたいに言うの止めろ」
ベリルネリアは深い溜息を吐くどころか、母性溢れる慈顔を浮かべ、クライスを慈愛に満ちた美しい明眸で見つめた。
「それはお前が三十過ぎたころに諦めたから安心しろ。孫の顔はもう見れないと思っているよ」
「いつから、お前が母親になったんだよ!」
「まあ、親と子と言っても不思議ではない年齢差ではあるな」
「先祖と末裔くらいに開きがあるだろ」
「まあ、歪んだ見方をすれば、そう見えなくもないな」
どこに五百歳以上開きがある親子が居るんだよ、とは口に出さず、クライスは上着から懐中時計を取り出した。蓋を開き、時刻を確認しようとしていたが、秒針は停止中。おそらく、コトとの戦闘時に壊れたのだろう。いや、ナチ達との戦闘時に壊れた可能性も十分にあり得る。
どちらにせよ、懐中時計が故障しているのは疑いようもない。これでは、ナチ達との約束の時間まで残り何時間程度なのか、把握できない。どうするべきか。このままでは奇襲も失敗に終わる可能性がある。
だが……まあ、いいか……。
奇襲をしようとしまいと、クライスにデメリットは無い。そもそも正確な時間を指定していないのだから、言い訳も立つ。それに早く着いたとしても、遅刻したとしても、問題は感じない。
きっと、あの二人は奇襲や罠などの小細工に思いを凝らす様な事はしない。
マギリは分からないが、ナチは正面から来る。クライスが小細工はしないと言った以上、彼は正面から現れる。気がする。それは確証の無い、ただの憶測でしかない。が、彼は戦士として一流であり、クライスも驚くほどに戦闘に対して冷然としており、真摯だ。
彼は正面から堂々と来る。クライスは何故だか、そう確信していた。
クライスは溜息を吐き、眼帯にそっと触れた。
勝算がある訳ではない。喰眼を使用すれば、圧倒できる自信はある。けれど、喰眼の力にクライスの力は完全には耐えられない。肉体が変異し、喰眼を扱うに相応しい肉体を手に入れたクライスだが、やはり人の規格から外れてはいない。
肉体強化の持続時間、肉体の耐久限界はおそらく十五分程度。そして、あまり多用し過ぎると周囲の人間を暴食し始める可能性もある。長時間の戦闘は不可能。短期決戦は必然的だ。
だが、勝たなくてはならない。最強と信じてくれている彼等の為に。最強を証明し続ける為に。今、クライスを慕ってくれている、たった二人の部下の為に。
「さあ、そろそろ魔力充填の準備始めるか」
「ああ、そうだな」
「……私も何か手伝う」
「お前は……今は休んでろ。俺の部下になったんだ。これから覚える事はたくさんある。だから、お前はまず見学」
「分からない事はすぐに聞いてきてほしい。何度でもいい。分からないままにしない事が大事だから」
「……うん」
そうして、クライス達はジーリスの寝室を離れ、船首へと移動した。ナチ達との決戦が行われるまで、クライス達は時間が止まった世界の空を眺め、決戦前とは思えない程に朗らかに談笑を交え、世界を離脱した。
俺はこの世界には二度と帰らない。
世界の存亡は関係なく、俺はここにはもう戻らない。
俺は新たな人生を新たな世界で歩んでいく。
この世界で俺を救ってくれた妖精と、新たな世界で俺を救ってくれた子供と。
俺は新たなスタートを切る。
だから、俺は今から最強を証明してくる。
見ていてほしい。俺があいつに勝つ瞬間を。
さあ、行こう。これから始まる、長い航海へと。




