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三十八 魔導世界へ 二

 ジーリスの最期を看取り、バールホルムの系譜を守り、クライスが海賊になるきっかけになった女性。姿は少女の様だが、年齢は五百を優に超え、《海狂骨》が齎した災厄の全てを知っている唯一の存在でもある。


 どうして生きているのか、などとは思わない。妖精は大気中の魔素や魔力を食料にしており、呼吸をするだけで食事は終わる。それに妖精は長寿。数千年の時を生きると言われており、心魂を失ったとしても彼女が生存し続ける事は十分に可能だ。


 だが、何故ここに居る? 彼女は部下達同様にクライスを帝国に引き渡す事に賛同したのではないのか? アガトは言っていた。どの船員も二つ返事でクライスの身柄の引き渡しを承諾した、と。 


 アガトはベリルネリアの存在を知っている。それはつまり、彼女も帝国の要求に同意したという事に他ならない。また、アガトが知っているという事はシャルロッテもベリルネリアの存在を知っていると考えるのが自然であり、それがもし事実であれば、彼女がここに存在するのは少々不自然だ。


 シャルロッテは《魂の創造》によって生み出した魂を受け入れる器を求めていた。身勝手な理由で世界を滅ぼそうとした女性だ。問答無用でベリルネリアを器にしようとするはず。


 けれど、ここに居るという事は帝国には連れて行かれず、シャルロット製の魂をベリルネリアは受容していないという事になる。もし魂を受容していれば、彼女の肉体は研究所で無残に転がっているはずなのだから。


 シャルロッテから逃れる為にここに隠れたのか。


 何の為に? 


 どうしてそんな事をする必要がある? 


 分からない。どうして……。


「……生きてる?」


 キリはベリルネリアの頬を人差し指で優しく突き、ベリルネリアの顔を覗き込む。大胆不敵な彼女の行動に面喰いながらも、ベリルネリアが眠っている箱をクライスも覗き込む。


 目を覚ますことは無い。心魂を失っているのだから。


 そう思ったのも束の間、ベリルネリアはキリの呼び掛けに応じる様に悠然と瞼を上げた。目を擦り、眠気眼をキリに向け、首を傾げている。瞠目する。痛くなるほどに目が見開く。


 ……どうしてだ? どうして魂を失っていない。


 クライスが鋭い視線を彼女に向けていると、不意に視線が重なった。ベリルネリアの瞼が勢いよく上がる。彼女の瞳は徐々に右側に動いていき、視線がクライスの眼帯で止まった数秒後に彼女の表情は悲痛に歪み、憂色に染まっていった。


 唇は固く引き絞られ、目に溜まっていく雫は瞬く間に決壊し、頬を伝っていく。


 何を言えばいいのか……。


 頭から次々と浮かんでは消える罵声と雑言。口にしてもいいはずなのに。クライスにはそれらを言う権利があるはずなのに、何故だか、口はピクリとも動かない。その理由に心当たりはない。決して涙する女性に絆されている訳ではないのは確かだ。


 裏切られたのに。見放されたのに。いざ、直接会うと悪意ある言葉が出て来ない。


「……おじちゃんと会えて嬉しいんだね」


 クライスは無表情でベリルネリアを見つめているキリへ風を切る様な勢いで振り向いた。


 嬉しい? どうして? 


 キリが虚言を吐いているという事はないだろう。彼女は心を見通す《心色に触れる瞳》を持つ。ベリルネリアの心が嬉しいと感じているからキリはそう口にしたのだ。クライスが理解できないのはその理由だ。


 分からない。再会に歓喜する理由が。嬉しいと涙するのならば、どうしてあの時、クライスを帝国に引き渡したのか。この結果を生み出したのはベリルネリア達ではないか。


 なのに……。


 内心で悪態をつき始めたその時、クライスの思考は錯誤する。


 違う。この結果を生み出したのはベリルネリア達ではない。クライスを帝国に引き渡さなくてはならない原因を作ったのは、クライス本人だ。


「……生きていてくれて、本当によかった、小僧」


 涙声で訥々と口にしたベリルネリアは涙を拭う事もせずに濡れた瞳でクライスを見上げ、小さな肩を震わせている。嗚咽が微かに空間を埋め、その哀痛が含んだ声にクライスは奥歯を噛んだ。


 こんな状況を作ったのはクライスが帝国の要望を引き受けたからだ。帝国との接点を自ら作り出し、帝国の暗部を無謀にも担う事を引き受けたのはクライスだ。海賊という自由な在り方の素晴らしさを豪語しておきながら、国に従属する事を選択したのはクライス本人だ。彼等は国を嫌い、捨て、自由を求めてクライスの下に集まったというのに。


 先に彼等を裏切っていたのはクライス自身だったのだ。


 だから、この状況は必然だ。シャルロッテの思惑も計画も関係ない。クライス自身が自由を記した旗を折り、彼等を裏切り、彼女の思惑に知らず知らずのうちに乗せられ、最終到達点にまで舵を切ってしまったのだから。


 これは弱くて愚かで世界の広さを知らない男が、自ら選んだ未来の結果だ。もう取返しのつかない終幕にすぎない。クライスが現在で選択し続けた正解が未来に繋がったにすぎない。それが不正解だと気付かないまま、選び続けた結果だ。


 だから、クライスには彼等に罵詈雑言を投げ掛ける権利など無い。クライスが口にしなくてはならないのは、もっと別の言葉だ。


「…………悪かった。お前達に辛い選択をさせた。あれは俺の落ち度だ。悪かった」


 ベリルネリアの視線が上がる。頬を伝う涙が落下し、その軌跡にクライスは目を向ける。弾け飛ぶ飛沫。彼女の手の甲に浮かび上がる雫溜り。


「違う! お前を帝国に売ったのには理由があるんだ。皆がお前との再会を望んだ結果なんだ。おまえだけのせいでは……いや、実際に見た方が早いな」


 ベリルネリアが宙を舞い、クライスの眼前に現れる。彼女の小さな両手と額がクライスの額に重なり、温かい何かが流れ込んでくる。これは自身の記憶を他者の脳内に直接流す魔術《交錯》だ。彼女は何かをクライスに見せようとしているという事か。


 クライスは閉目し、脳内に流れ込んでくる光景と会話に耳を傾けた。懐かしい声だ。久しく聞いていない彼等の声。けれど、どこか彼等の声色は寂寥を孕んでいる。


 

 流れてくる記憶の舞台はこの部屋。ジーリスの私室。そこに横たわる御空色の棺。その中心で座り込むベリルネリアと、棺を囲む様にしてベリルネリアを見下ろしているクライスの部下達。全員いる。入りきらない部下は部屋から溢れ、それでも部屋に押入ろうとしている。


 彼等は身を屈め、ベリルネリアとの距離を縮め、一言二言言葉を交わすとベリルネリアから離れて行く。そして次の者が彼女に話しかける。それを繰り返していた。


「……また会える日が来るのを楽しみにしてるっす。ベルさんと船長とまた航海できる日まで少しのさよならっすね」


 そうだ。ベリルネリアは部下達にベルという愛称で呼ばれていた。それすらも忘れていた。長い年月と裏切られた悲しみで忘却してしまっていた。


「いいのか? 私が囮になれば、クライスを取り戻す事は」


「それは駄目っすよ。ベルさんは船長の恩人なんすから。ベルさんまで居なくなったら船長、立ち直れないかもしれないっす。それにこれが俺達の選んだ答えなんすから」


「そうだそうだ。ベルさん。俺達は船長を裏切ったんだ。俺達の事は心配しなくていい」


「だが、それは帝国に脅迫されて」


 ベリルネリアは言葉を言い切る事無く、口を閉じた。目の前に居る男達が喜色満面で、涙を流していたから。零れ落ちる涙が次々と棺の内側へ落下していく。


「裏切ったのは事実なんすよ。俺達が船長を帝国に売ったのは事実なんす。……断れないっすよ。だって……従えば誰も死なずに済むんすから。俺達も、船長も、生かしてもらえる。生きてさえいれば、俺達はまた船長と巡り会えるかもしれないんす」


「俺達は船長に死んでほしくないんだ。俺達に居場所をくれて、俺達を家族だって言ってくれたあの人に。この船に乗ってる奴は皆、帰る場所が無い様な連中ばっかりだ。だから、嬉しかった。帰る居場所が出来た事が、おかえりって言ってくれる奴等が居る事が。俺達は救われたんだ。船長に」


「だから、今度は俺達が船長を救うっす。俺達の事、もう家族って言ってくれないかもしんないすけど、それでも俺達は船長ともう一度海に出たいから。今はさよならするっす。ここに俺達が居続けたら、船長が利用され続けちまうっすからね」


「あの人、口は悪いけどお人好しだからな。すぐに身寄りのねえ子供とか拾ってくるし」


 頷く船員達。誰もが笑顔を浮かべ、懐かしむ様に笑声を上げている。


「そうそう。海で遭難してた水夫達に何だかんだ、食料とか分けてあげちゃうし。悪ぶってるけど、困ってる人を見過ごせないのよね」


「それに新入りの三人を街の外に逃がしてあるっすから。あの三人なら船長も受け入れてくれると思うっす。裏切りが発覚する前に逃がしたっすからね」


「良い演技してたよな、あいつら」


「しばらくはあの三人とどっかに隠居でもしてもらおう、って皆で話し合ったんですよ」


「そう……なのか。お前達は私に黙ってそんな計画を……私にも言ってくれれば」


「だってベルさん、意外と隠し事できないですもん。私達もアガトに隠れて計画を進めなくちゃならなかったし、大変だったんですよ?」


「そう……か? そんな事はないと思うけど」


「そうっすよ。ベルさんは嘘吐く時、唇を触る癖があるっすからね。バレバレっす」


「そうなのか……。気を付けるよ」


「はい。気を付けてくださいっす。じゃあ、後が支えてるんで、俺はこれで。またどこかで」


「ああ。私はここで小僧の帰りを待つよ。だから、次に会う時は小僧も一緒だ。それまで体を壊さない様に、元気で」


「あ、最後にこれだけ船長に。俺達の船長が船長で良かったって。誰よりも強くて、優しくて、最強の船長だったって伝えてもらってほしいっす。また会いたいって……」


 一度は収まった涙の堤防が再び決壊した船員に、ベリルネリアは優しく温雅に微笑む。


「分かった。伝えておくよ」


 そして、全ての船員と話し終えたベリルネリアは棺の中で仰向けに横たわり、閉眼する様に瞼を下ろした。蓋が閉められる。光が閉ざされていく。暗い闇が蔓延る棺の中で、べリルネリアは彼の早い帰還を願って永い眠りに着いた。

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