三十七 魔導世界へ 一
クライスとキリはナチ達との戦闘前に鍵を使用して世界を離れ、とある世界へ渡っていた。
魔導世界エーレ・コレクト。クライスが生まれ育った世界にして、シャルロッテが起こした無血革命によって、あらゆる生命から心魂は切り離され、生命が朽ち果てた世界。そして、世界樹から切り離された影響で世界の時間は停止し、何もかもが灰色に塗り替わっている。
シャルロッテが事を起こさなくとも世界は無血に終焉し、永遠の眠りに着いたのは皮肉としか言いようがないな、とクライスはシニカルに笑いつつ、グランコリア帝国の港へと再び転移する。
クライスがこの世界に渡ってまで必要だった物。それは船。ベリルネリアから譲り受けた魔導機船『青の棺』。時代の変化と共に材質を変え、動力を変え、姿を変えてきたジーリス・バールホルムの形見でもある。
また、《蒼海に沈む理想の青郷》に存在する《青の棺》とは全くの別物であるらしく、同じなのは名前だけというのがベリルネリアの弁。真相は分からないし、そもそも知る機会は永遠に失われてしまったのだから、興味も湧かない。
クライスは『青の棺』の船首の前に立つとキリを右腕で抱えた。肉体強化を施した両足のバネを限界まで溜め、爆発的な勢いで解き放つ。跳躍力だけで甲板に飛び乗るとクライスはキリを甲板に下ろした。
「……これが船っていうの?」
「お前、船見たことねえのか?」
キリはこくん、と首を縦に振ると初めて見る船を興味深く見つめ、小さな子供の様に首を頻りに動かしていた。普段は常に半開きの瞳が全開まで見開かれ、動きも数段は機敏になっている。
「まあ、明日の正午までは時間があるしな。案内してやるよ」
「……ありがと」
クライスはキリを抱えると『青の棺』の船内を順に回っていく。散らかった船長室にハンモックが多くぶら下がる寝室。綺麗に整頓された武器庫に、隅々まで掃除が行き渡ったギャレー。樽が積まれた船庫に、魔力で動く洗濯機や魔導エンジンが発する熱エネルギーを利用して焚く浴槽。
艦橋に回って操舵輪を飽きるまで触り、最後に高機動魔導エンジンが設置された動力室を抜け、二人はジーリス・バールホルムの寝室の前で足を止めた。クライスは一度たりとも部屋に入ったことは無く、進入するのはこれが初めてだ。
「ここが最後だな」
ドアノブに伸ばす手が震えている。小刻みに微細に、自分でも注視しないと分からない程に。心が勝手に竦然としていく。恐れている。この部屋に立ち入る事を。その理由に心当たりがない訳じゃない。いや、むしろ明確化している。
クライスがこの部屋に立ち入らなかった理由は純粋に気を遣っていたからだ。ジーリス本人に、ではない。血縁だからと言って五百年前の伝説の男に愛情も親愛も抱くことは無い。抱けない。直接何かを施された訳ではないのに。
クライスが気を遣っていたのはベリルネリアに対してだ。彼女がジーリスを愛し、心の底から慕い、五百年経った今でも彼女が抱いている懸想が色褪せていない事をクライスは知っている。それに彼女がこの部屋へ頻繁に訪れている事も知っていた。
だから、容易くこの部屋へ入る事はクライスには是認しかねる事態だった。彼女が大切に想い続けている男の部屋に、クライスが軽率に入る事など出来ない。今もそうだ。今も彼女に対して罪悪感が募っていくのを止められない。
彼女の恋慕に土足で踏み入る様な罪悪感がクライスの手を震わせ、二の足を踏ませているのだ。それに海賊として、男として、一人前になれたと自負できたのは彼女のおかげだ。世界を憎み、人を憎み、腐りきっていたクライスを人として立派に育ててくれたのは彼女なのだ。
彼女の尊厳を、矜持を折る様な行いは避けたい。
「……おじちゃん。怖い?」
キリが非力な両手でクライスの上着を掴む。相変わらず感情が読めない表情だが、声色からクライスを心配しているのは判然としている。
「怖いわけじゃねえよ。少し緊張してるだけだ」
「…………どういうこと?」
「あーまあ入るか。どうせ誰も居ねえしな」
この世界にはもう誰も居ない。心魂が奪われた生命は食事を摂取する事もなく、睡眠を取る事も無い。排泄すら自発的にしない。生命維持に必要な行動は何も行わない。だから、クライスが喰眼の制御に成功するまでの一年間にあらゆる生命は絶滅した。
この世界は一年という長くも短い期間に真の意味で死の世界に成り果てたのだ。シャルロッテが望んだ世界は確かな形を得て、ここに誕生している。彼女が世界にとって最も不要だと思った存在「人間」は完全に排除され、静かすぎるほどに閑寂で声を失った世界は喰眼によって齎された。
だから、この部屋には誰も居ない。この部屋に彼等が居た、という名残があるだけで誰も居ないのだ。
開けよう。この機会を逃せば、この部屋に訪れる事はもう二度とないのだから。ナチとマギリを殺し、残りの《世界を救う四つの可能性》も殺し、世界は消滅させる。
自分を愛してくれる者を失った世界に未練はない。こんな寂しい世界でクライスは一人で生きていけない。こんなにも弱い自分は一人で生きてはいけない。
知ってしまったから。愛し、愛される事の喜びを。こんなにも楽しい人生があると知ってしまったから。
だから、クライスは彼女と約束した。ただの口約束。世界を滅ぼす為に彼等を殺す事を。世界に出向く事が出来ない彼女の代わりに。一つの駒として、犬として働く事を。それはとても幼稚な考えだと自分でも思う。身勝手な考えだとも。
だけど、クライスにとっては自身を慕ってくれていた部下こそが全てだったのだ。彼等が居たから国の依頼を引き受ける事を了承した。彼等が居たからこそクライスは海賊としての誇りを失わず、死の恐怖に抗えていたのだ。
なのに、彼等はもう居ない。もう死んだ。喰眼が、クライスが、彼等の魂を喰らい、摂理に従って彼等は死んだ。彼等を失った世界にどんな希望を見出せばいいのだろうか。どんな価値を見出せばいいのだろうか。
それがクライスには分からない。分からないままでいい。世界が消滅すれば、この想いも、思考も、あらゆる生命が存在した痕跡すら消え失せる。この悩みに意味はなくなるのだから。
それに、この世界もそう遠くない未来に消滅する。ここに存在した天地万象は形を失い、無に帰る。世界が培い、蓄積してきた喜怒哀楽、善と悪、正と負の軌跡は瞬く間に消滅する。
だから、最後にクライスは自身の原点へ立ち返ろう。自身に役割を与えてくれた彼女の軌跡をクライスは覗かせて貰おう。
クライスはドアノブを回し、扉を開けた。
景色が変わる。今まで踏み入る事を自戒してきた部屋の景観が滑らかに映り込む。クライスは緩やかに部屋へ足を踏み入れた。部屋に入り、扉を閉める。ゆっくりと、長い時間をかけてクライスは部屋を一周見回した。そこにある物全て。目に焼き付けていく。
角が丸くなった木製の机。紐が変色したハンモック。インクが色褪せ、もう読むことは叶わない海図、手紙の束。時代が変わり、技術が進歩すると共に過去の遺物と化した蝋燭と燭台。机に置かれた小さな毛布。
ここには彼等が共に暮らし、意思を共有させた証が存在した。彼を失った五百年間、彼女がこの想い出を保ち続けてきた証が、色褪せさせない努力をしてきた経過がここには鮮明に残されている。確かにここに居たのだ。ジーリスとベリルネリアは。
「……ここ。なんだか優しい感じがする」
部屋の中を見渡すキリはジーリスの寝室を優しいと称した。キリの言葉をクライスは全面に肯定する。が、その想いは絶対におくびには出さず、心の奥底に閉じ込め、決して漏れ出ない様に重厚な蓋を乗せる。
クライスが鍵の能力『最強の盾』を部屋全体に施すと、無彩色に彩られていた部屋の景観に色が宿っていく。灰色だったハンモックは薄汚れた白色に塗り替わり、机は焦げ茶色を灯し、机の上に置かれていた小さな毛布は深碧に染まった。
飽き飽きとしていた無彩色が次々と失われていき、最後に大人一人分ほどの大きさを持つ長方形の箱が鮮やかな青色を取り戻した所でクライスはキリを床に下ろした。
「これが伝説の海賊殿の部屋か……。意外と普通だな」
クライスは木椅子に座ると、海図の一枚を手に取った。案の定、文字や絵を正確に読み取る事は出来ず、機能を失っているのは一目瞭然だ。だが、それでもクライスは安穏とした気持ちで彼が残した海図に目を凝らしていた。
この海図の場所がどこを示しているのかは分からない。存在するのかも分からない。長い年月が経ち、この海図が示していた場所は失われたかもしれない。それでも、この図を頼りにジーリス達が航海したのは間違いない。
この海図に夢膨らませ、時には嵐に見舞われ、現在地を見失い遭難し、不安と葛藤し、その度に仲間達と恐怖を分かち合い、互いを励まし合う。そんな光景が容易に想起できる。クライスも同じ経験をしてきたから、息をする様に簡単に思い浮かべる事が出来る。
「……おじちゃん。これ何?」
海図を机の上に放り投げる様に置き、クライスは首を動かし、キリの姿を目で追った。狭い部屋だ。すぐにキリは見つかり、クライスは立ち上がると同時に彼女の横に並んだ。
キリが立っている場所は地面に横たわっている御空色の箱の前。キリは箱を指で突きながら、隣に並んだクライスを見上げ、無表情で首を傾げた。クライスも首を傾げ、箱を凝視する。
「さあ、知らねえな。棺っぽいが……。どうだ? 開けてみるか?」
クライスが膝を折り、キリと視線を合わせつつ言うと、キリはゆるりと首を縦に振った。
「よし。じゃあ、開けるか」
中に死体が入ってるかも知れんが、と思いつつも、クライスは棺の蓋に手を伸ばし、側面に触れた。切断された石や鉄の様な滑らかな表面。棺の材質は石なのか金属なのか、それとも別の物質で形成されているのかクライスには判然としないが、気にせずにクライスは棺の蓋を持ち上げる。
予想以上に重い。クライスはすぐさま魔力で肉体を強化し、基本膂力を底上げ。すると、楽々蓋は持ち上がり、床に立て掛けられる。両手をぶらぶらと振りながら、クライスは箱の中を覗いた。
その瞬間にクライスの目は驚きのあまり瞠若し、心臓が破裂したかのような鼓動を打った。視界が驚愕で白む。眼前の状況に理解が追い付いていない証拠だ。冷静で怜悧な思考が消失していく。どう行動すればいいのか分からない。自然と狼狽し、不自然にその場から後ずさりする。
箱の中に入っていたのは橙色の淡い光に包まれ、上背を超える長髪を有し、美しい容姿を持った妖精と呼ばれる存在。無骨な箱の中で体を仰向けにし、目を閉じている女性は小さな呼吸を穏やかに繰り返していた。
生きている。間違いない。
「……ベリルネリア」




