三十六 戦線離脱
鍵が生み出す黒い渦が魔導船を包み込むのと同時に、強力な酸性を持つ膨大な量の水が船を包み込んだ。鍵の『最強の盾』が酸の水を防ぎ、相殺し、船内部に水一滴すら侵入を許さない。
「一応、魔術障壁を張りはしたが、あまり意味はない。小僧、どうするつもりだ?」
「ああ? どうするって逃げるに決まってんだろ」
ベリルネリアとキリの視線が同時にクライスへと向けられる。クライスはその視線から目を逸らし、鍵から黒い渦をさらに放出。船を濃黒で完全に包み、クライスは瞑目。脳内に転移先を思い描く。
「……戦わないの?」
「バーカ。こんな楽しい戦闘なんだ。すぐに決着付けるのはもったいねえだろ。ここは勝ち逃げ一択だ」
「お前は今、敗北しそうになっていると思うが?」
「うるせえな。俺の方が勝ってた場面が多いんだから、俺の勝ちなんだよ。おら、移動するから口閉じてろ!」
転移先は広大な海などの広大な水場が存在する場所。クライスはこの世界の地理をほとんど知らない。ナチが移動した街や村。ユライトスが行き来した場所しか知らない。だから、転移先は迷う事なく決定する。
飛べ。異世界の竜とナチが戦闘し、破壊の限りを尽くした港町に。多くの船と貨物が行き来していた活気と大海原が広がる、あの街に。
目を閉じているのか、開いているのか分からなくなる程に真黒な視界。差し込む光はなく、音すらも遮断され、五感は機能を失っていく。立っているという実感さえ希薄になり、肉体を独特な浮遊感だけが支配する。
世界樹の前から、この世界に訪れた時にも感じた浮遊感だ。焦燥感に駆られる事も、言い知れぬ恐怖に狼狽する事も無い。一つ不安があるとすれば、目的地にちゃんとたどり着けるかどうか、だろうか。
クライスは自身が思い描いた街に直接出向いたわけではないのだ。世界樹の前で俯瞰的に街の景観や様子を眺め、漫然と記憶しているに過ぎない。すぐに思い出せる建物や人々は不鮮明で不明瞭であり、記憶していると言い切るには圧倒的に情報不足なのが現状。
辿り着いてくれよ……。
転移が完了した瞬間に船ごと街のど真ん中に落下したとなれば、目も当てられない。
クライスが息を呑み、喉を鳴らすと同時に船体を包んでいた黒い渦は一瞬で霧散し、景色が鮮明に瞳に映り出す。眼下に広がる大海原。上空では雨雲が空を覆い尽くし、霧雨を地上へ降り注いでいる。湿気を含んだ煩わしい海風が海を荒立たせ、船を不規則な律動で揺らし続ける。
クライスは壁に手を着きながら、船体に波を打ち続ける広漠に広がる海へ視線を落とした。転移には成功した様だが、ここはどこなのだろうか。レヴァルと呼ばれる港町の周辺なのだろうか。
クライスは視線を彷徨わせ、ある一点で視線を止めた。
視線を止めた先に映るのは陸だ。距離にして約二マイル。四キロほど先の距離に接岸が可能な陸地が続いている。簡易的なテントの様な物が無数に見え、建築でもするのか木材や資材が大量に用意され、それらをいそいそと運ぶ人の姿がクライスの強化された視覚に映った。
半壊した港。更地と化した街。街を囲んでいたはずの森林は天災にでも見舞われたかのように土壌を剥き出しにし、木々が不規則な方向に薙ぎ倒されている。
間違いない。目前に広がる陸はレヴァルと呼ばれている街だ。ナチとユライトスが派手に戦闘をし、文字通り跡形もなく消し飛ばした街。
「どうする? あの街に向かうのか? それともこのまま違う街を目指すのか?」
クライスは横に並び、海に視線を落としているキリとベリルネリアを流し目で見る。キリは眠気眼の様な半開きの目で海を眺め、ベリルネリアはキリの頭の上でクライスに無心の眼差しを送ってくる。
「この世界の法がどうなってるのか知らねえからな。闇雲に街に近付きたくはねえが」
「そうだな。こんな異文化の未知の技術を搭載した船が無闇に近付けば、領海侵犯で攻撃されてもおかしくはない。まあ、そんな法が存在するなら、今いる距離も危険極まりないが。けど、食料や物資の補給は避けられないよ。お前は問題ないが、この子は普通の子なんだ」
この船には食料を一切積んでいないし、まず船を動かす為の人員が不足している。最悪、クライスとベリルネリアが魔術を駆使すれば、航行自体は可能だが、出来れば人員も補充したい。航海や操舵の経験の有無はこの際どうでもいい。
とにかく、人手が欲しい。この世界にしばらく滞在するのであれば。
「それは分かってるっての。だが、あの街は機能を失ってっからな。物資の補給は見込めねえだろうし。どうするか……」
全壊したレヴァルに届いていると思われる救援物資は、復興作業に従事している作業員やレヴァルに元々住んでいた住民を補助する為に届けられた物資のはず。その稀少で大事な物資を得体の知れないクライス達に分け与えてくれるとは思えない。
それに、帆船が主流のこの世界には存在しない、魔導機鋼と呼ばれる材質で造られ、最新鋭の高機動魔導エンジンを搭載した機船で接岸したりなどすれば、法の有無に拘わらず、人から奇異の目を向けられ、怪訝に思われる事は間違いない。
そんな最悪の印象が付けば物資の補給など、夢のまた夢だ。
「まあ、俺かベリルネリアが魔術を使えば飲み水と食料の確保は出来るしな。問題は人手だ。おい、ガキ。テメエ、知り合いとかいねえのかよ」
「……居ない」
「ここでうじうじ悩んでいても何も解決はしない。さっさと船体を不可視化して街へ向かおう。その方が手っ取り早い。だから、さっさと不可視化させろ」
「俺は不可視化の魔術使えねえんだよ。お前がやれ」
ベリルネリアの視線が鋭く変化し、怨嗟すら感じる目付きでクライスをねめつけた。
「どうして使えないんだ。あれだけ習得しておけと言ったのに」
「男は正々堂々と正面からって相場が決まってんだよ。不可視化なんて女々しい術、覚えてたまるか」
「ジーリスの様な屁理屈を……。血は抗えないということか」
「そうだ。不可視化させるなら、さっさとお前がやれ」
ベリルネリアが盛大に溜息を吐き、キリの頭を柔く撫でる。頭を撫でられた事に驚いたのか、キリは僅かに頤を上げ、半開きの瞳を少しだけ見開いた。
「お前もこんな野蛮で粗暴な男に巻き込まれて大変だな。気を付けるんだぞ。こういう男に惚れると後が大変になる」
「……ボクはおじちゃんの部下だから」
クライスは無意識に目を瞠目させ、キリを凝視していた。瞬きが不自然に多くなる。胸の奥底から湧き出してくる温かい何かが心を満たしていく様な感覚。部下がまだ居た頃は毎日の様に感じていた感覚をクライスは久し振りに感じていた。
クライスが無言で凝固しているかの様に直立しているのを不思議に思ったのか、キリが顔を上げ、クライスの顔を覗き込んだ。すると、キリもクライスと同様に瞠目し、目を不自然に瞬かせる。キリが目を見開く時はほとんど共感覚関連ばかり。
きっと、クライスの心色が変化したのをキリは敏感に感じ取ったのだろう。その心色に触れる瞳で。
「……久し振りに見た」
「何をだよ?」
「……『桃』」
「……そうかい」
クライスは右目に眼帯を装着すると、その上から柔らかく、慈しむ様に撫でた。この瞳の中にはクライスが知らない魂が無数に内包されている。
純真で穢れなき魂も、怨嗟が渦巻く醜悪な魂も、シャルロッテとアガトの魂も。
そして、クライスが愛した部下達の魂も、全て。
この右目の中でまだ生きている。目を閉じれば、こんなにも俺を呼ぶ声が聞こえてくる。いつもの馬鹿みたいに大きな声で俺の名を呼ぶ声が、こんなにもたくさん聞こえてくる。
もうこの声から逃げる事はしない。あいつらの想いを俺は知る事が出来たから。




