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十三 悪臭に包まれる街

 全ての家具を裏庭へと出し終えると、マオは外に出した丸椅子に座りながら、生活感がまるでないアジトへと視線を向けた。窓は開き、扉は全開。新鮮な空気が家屋の中を駆け回り、淀んだ空気を浄化する度に、開かれた年季が入った扉は音を立てて悲鳴を上げる。


 そろそろ建て替えた方が良いのではないか、と思われる年季が入ったアジトは今日も煌々と照らされる陽光に当てられて、気持ち良さそうとは全く言えない輝きを放っている。


 このまま一日中、座って過ごしたい、と思いながら空を眺めていると、急に空が翳った。いや、空が翳ったのではなく、マオの視界を遮っている何かがあるのだ。花の蜜の様な甘い香りと掃除の影響で染み付いた埃の香り。


 それはシャミアの豊満な胸だ。マオの頭上にシャミアの豊満な胸があるのだ。マオはそれを右手で鷲掴みにした。綿を掴んでいるかの様な扇情的な柔らかな感触にマオは感嘆の吐息を漏らす。


 当たり前だが、頭を殴られる。鈍い音が響き渡ると同時に瞳は、再び雲一つ存在しない澄明な青空を映し出す。その後に眉を八の地に曲げたシャミアがマオの視界に映り込んだ。


「サボってないで働きなさい」


「だって、めんどくさいし」


 たった今、椅子に座った事によって面倒臭くなったとは言わなかった。空を見上げ続けるマオを見て溜息を溢すシャミアは目を細めると、美しい曲線を描く腰に手を当てる。


「私だって面倒くさいわよ」


「えー、シャミアがそれ言っちゃうの?」


「言っちゃうわよ。ほら、さっさと立ちなさい」


 マオは渋々、椅子から立ち上がり家屋の扉へと近付いていく。その後をシャミアが続く。マオを逃がさない為だ。このストーカーめ、と思いながらマオが開きっぱなしの家屋の扉を潜ろうとした時だ。


 右側でマオとシャミアが同時に右側へと視線を向けた。扉が開く音と共に、聞こえてくる律動的な足音。酒場の裏庭に用がある人物はウォルフ・サリの人間か、マスターだけだ。時々、依頼を出しに現れる者がいないわけではないが、それはごく少数。


 そうなると、ナチかサリスというのが妥当なところ。だが、その稚拙なマオの推理は見事に外れた。


 裏庭へと現れたのは酒場のマスター。真っ直ぐに近付いて来るマスターからは芳しいパンの匂いが漂い、マオの空腹感を刺激する。先程までは全く空腹感など持ち合わせていなかったというのに、不思議な物だと思いつつ、すぐに彼がどこへ向かったのか思い当たった。


 おそらく、噴水広場の近くにあるパン屋に行ってきたのだろう。露店が立ち並ぶ噴水広場には、パンを販売し生計を立てている夫婦が営んでいる店がある。「香り立つ麦(ブレルティ)」という店だ。

 その店には常連と言っても過言ではない程にシャミアと頻繁に訪れている。当然、その店が放つパンの匂いも鼻が覚えている。


 マスターは怪訝そうな表情を浮かべ、気難しそうに眉を顰めている。その表情の意味が分からず、マオとシャミアは首を傾げた。


「お前らの所の新入りが噴水広場に居たが、何かおつかいでも頼んだのか?」


「何でそんな場所に居るのかしら? 図書館は真逆の方向にあるのに」


 噴水広場があるのは街の北側だ。ナチが向かったはずの図書館は、本人にも説明した通り南側にある。すなわち、ナチが居るとされる噴水広場とは正反対の位置に図書館は存在するという事だ。


「迷子なんじゃない?」


「そうね。誰も街を案内した事なんてなかったし、迷子かも知れないわね」


 そう言えば誰も彼を連れて街を案内した事などなかったな、とシャミアもマオも今更ながら気付くと、苦し紛れに笑った。まあナチだし、大丈夫じゃない? などという意見が飛び出しそうな程には緩慢な空気が漂う中、マオは勢いよく手を挙げた。


「私が街を案内しながら、迎えに行ってくるよ。お兄さんが迷子になった責任は私達にもあるし。ここで迎えに行かなきゃ女が廃るってもんでしょ?」


 マオの提案にシャミアは顔を顰めた。そんな事、許しませんよ? と言わんばかりに目付きは研ぎ澄まされていく。それもそのはず。ナチを迎えに行くという事は、掃除を放棄するという事だ。それに掃除要員が一人減れば、一人当たりの掃除量は増える。つまり、シャミアとリルの負担が増える事になる。


 シャミアはそれを危惧しているのだ。シャミアも掃除するのが面倒なら、毎年恒例の大掃除など止めてしまえばいいのに、と思う。


「マオはナチに対して随分、優しくなったみたいだけど。どういう心境の変化かしら?」


 家屋の中で、物音が鳴った。リルが箒でも落としたのだろうか。


「別に。少しは仲間として認めてやろうと思っただけだし」


「本当に? 本当にそれだけ? 昨日は一夜を共にしたんでしょ?」



 艶めかしいシャミアの視線がマオへと向けられる。長い睫毛が翻り、陽光に反射する事で妖艶な輝きを放つ。隣に居るマスターは無表情かつ無反応を装っているが、右足が半歩マオへと近付いたのを見逃さなかった。


「なっ! 違う! あれはそういうんじゃない!」


 マオが耳まで顔を真っ赤にしながら、シャミアに詰め寄る。唇が震えているせいか、放った言葉も若干震え気味だ。その分かり易くも微笑ましい動揺を悟られたかのようにシャミアとマスターはやや相好を崩す。


 家屋の中で少し大きな物音が鳴った。リルが箒を勢いよく倒したのだろう。


「一夜を共にした事は否定しないのね。でも、急にそんなに仲良くなっちゃうって事は、一線越えちゃったのかしら?」


 あらあら、と口元を両手で隠すシャミアと首を頻りに頷かせているマスターを見て、マオは口籠った。全身を包む熱は全身へと運ばれ、マオから正常な思考を奪い去っていく。口内で反芻する言葉は羞恥と熱で形を失い、音になるのを拒み続けていた。


 また家屋から盛大に何かを落下させた音が聞こえて来る。彼は箒で何をしているのだろうか。


「そう言えば、道のど真ん中で若い男とマオが痴話喧嘩していたって客から聞いたな……」


 顎に生えた無精ひげを擦りながら、マスターは含みを持たせながら言った。


「別にお兄さんとは何もないし、痴話喧嘩じゃないし。……ちょっとおっぱい触られただけだし」


 家屋の中で床が破砕された様な音が響いた。一体、リルはどんな掃除をしているのだろうか。


「誰もマオの事なんて言ってないわよ。ん? おっぱい触られた? どういう事?」


「ちょっと事故で……。って、そんなの別にシャミアに言う必要ないし。もう迎えに行ってくるから!」


「え? ちょっと待ちなさい! そこは詳しく」


 マオは背後で未だに何かを言っているシャミアを置いて、裏庭を出た。体に溜まる熱が全身から抜けていってくれない。冷めない熱に煽られるようにマオは早足で開店前の酒場を進んでいく。


 マオは勢いよく酒場の扉を蹴り破ると、駆け足で噴水広場へと向かった。





 再び、路地裏へと戻ったナチはすぐに元の場所へと戻る事に失敗し、現在進行形で迷子になっていた。入り組んだ路地裏を右往左往。完全に方向感覚は狂い、噴水があった広場にも元の場所にも戻れなくなっていた。


 何故か路地裏に再度入った途端に饐えた臭いが鼻を刺激し始めたが、床に落ちた吐瀉物を見て、臭いの理由は納得した。中途半端に消化された野菜を包む様に広がる胃液が乾いた跡。


 他にも誰かが捨てた生活用品。戦闘があったと思われる抉れた地面。壁にこびり付いた無数の赤い雫が真っ赤な星々の様に壁一面に連なっている。インクか、それとも血液か。それに答えを出す事はせず、ナチは無策に路地裏を進んでいた。


 煉瓦色の穏やかな色調とは裏腹に、路地裏には汚物が地面を埋め尽くさんばかりに落下し、その影響か空気は淀み、目の前の光景は若干歪んでいる様に見える。また澄明な青空との対比がより一層、路地裏の汚染具合を引き立ててしまっている。


 この路地裏の景観だけを切り抜けば、ウォルケンはマオが言う理不尽な暴力に抑圧されている様にも見える。無法者が路地裏で人を暴行し、それによって吐き出された胃液と血液。浴びる様に喉を潤わせ続けるアルコールに身も心もボロボロになり、路地裏でその心情を胃液と共に吐露する。


 そんな光景を想起させるだけの材料が、この路地裏にはある。この路地裏は正しくウォルケンという街の裏側を細部まで表現し、詳らかに表現している様だ。


 その路地裏の惨状から目を逸らす様にナチは路地裏を足早に進んでいくと、眼前に道が現れる。直進か、斜め右に進むか。ナチは迷う事無く斜め右に進んだ。


 斜め右に進んだ理由は特にない。気分。どちらに進んだとしても道は分からないのだから、こういう場合は直感を信じるしかない。


 斜め右に進んでも結局、何かが腐った様な発酵された様な饐えた臭いは相変わらずでナチは上着の袖を鼻に押し当てたが、既に時遅し。嗅覚は麻痺し、上着の臭いを判別するだけの機能を失っている。もしくは上着にもこの汚臭が染み付いているか。


 この臭いを我慢して、今は進むしかなかった。



 路地裏を進み、何度か行き止まりにたどり着き、引き返してはまた行き止まりにたどり着く。饐えた臭いすらも認識できなくなる程に嗅覚が麻痺しだした頃、ナチは通算五回目の行き止まりにたどり着いた。


 左右は赤土色の石壁に阻まれ、地面は鼠色の石畳が広がる最早見飽きた光景にナチは嘆息しつつ、その場にしゃがみ込んだ。


「広すぎるだろ、この路地裏……」


 路地裏に入ってからかなりの時間、距離を歩いている。だというのに、饐えた臭いは相変わらず。鼻も痛ければ、足も痛い。体力は問題は無いが、進み続けても変わらない景色に精神的に苦痛になってくる。


 どうしてこんな入り組んだ路地裏を作ったのだろうか。しかも、こんな悪臭を無対策で放置している。ウォルケンの人達は何も言わないのだろうか。ここまで路地裏中を悪臭が蔓延していれば、街全体に影響が出ていたとしても可笑しくは無いと思うが。


 それこそ食品を主に取り扱っている商人や店が、文句を言っていたとしてもおかしくは無い。特に鮮度が命の生鮮食品を取り扱っている者達などは特に。が、今朝も露店の主人達は通常営業だった。不満を述べることも無く商いをこなしていた。


 ウォルケン自体が、この饐えた臭いに慣れ過ぎてしまい気付いていないのか。いや、それは無い。嗅覚を麻痺させる程の悪臭に慣れ親しむ者などいない。


 それにナチが最初に路地裏へと足を踏み入れた時、ここまでの悪臭はしていなかった。饐えた臭いが鼻につく様になったのは、ひったくり犯を逃し、再び路地裏へと進入してから。


 そう。最初、路地裏には悪臭は存在していなかった。多少の異臭はあったと思うが、嗅覚を麻痺させる程の悪臭は存在しなかった。走っていようが、気持ちが一点に集中していようが、この悪臭はさすがに気付く。


 つまり、ナチが路地裏へと入ったタイミングで悪臭が発生した。自意識過剰だろうか。だが、タイミング的には理に適っている。


 とりあえずナチがすべき事は、路地裏から速やかに抜ける事だ。どこでもいい。一度人通りのある路地へと出るべきだ。どう見ても、この路地は異常に包まれているのだから。


 ナチは立ち上がり、路地へと戻る為に後方へと踵を返した。けれど、ナチは一歩を踏み出す事はしなかった。いや、出来なかったと言ってもいい。


 ナチの目の前に、道を塞ぐ様に男が二人立っている。ナチを見下す様な視線を向け、嘲る様に下で唇を舐めている。蛇の様に獲物を真っ直ぐに捉える瞳がナチを射抜くと、二人は鼻の穴を膨らませ、そこから大量に熱い息を吐いた。


 この二人には見覚えがある。まだ記憶に真新しいのだから、覚えていないとおかしい。


 ナチの目の前に居るのは、ひったくり犯とそれを追っていた男。その二人が仲良く現れた。隣同士にぴったりと肩を付けて。


 また二人共坊主頭で、剃髪かスポーツ刈りかの違いしかなく、派手な柄のシャツを身に着け、手に持っているのは鋼色に煌めく刃渡り二十センチ弱のファイティングナイフ。


 この男達がわざわざ路地裏までナチを追い掛けて、楽しく談笑する気が無い事は火を見るよりも明らかだ。


 

「この酷い臭いは、君達が?」


「ああ。俺達の能力だ。良い臭いだろ?」


「……最高だね、ハゲ」


 何故、ここまで急速に路地裏を悪臭で包み込む事が出来たのか、その理由がようやく分かった。入り組んだ路地裏という事は、それだけ路地裏が広範囲にわたって長く続いているという事だ。


 それだけ長く続く路地裏に短時間で悪臭を蔓延させることは、それが科学を超越する超能力であっても難しいはず。だが、それが二人の能力だというのならば納得がいく。類似した能力を二人で行使すれば、悪臭が流れる速度も二倍。効果範囲も二倍。全てが二倍だ。



「でも、出来ればやめてくれないかな? 営業妨害だ」


「それは無理だな」


「どうして?」


 歪な笑みを浮かべるフレグランス坊主二人に対して、ナチは笑顔を浮かべた。笑顔を灯したナチと反対に二人の表情には鋭さが宿る。その鋭利な視線はナチを敵だと認めた証明。


「お前は俺達と一緒にラミルさんの所に行ってもらう」


 ここでラミルの名前が出て来た事に内心驚きながらも、ナチはポケットに入れた符を取り出した。路地裏に入る前に石から作った符だ。それを右手で握る。


 考えるまでもなく、この二人はラミルの部下。もしそうなら、ナチは路地裏に誘い込まれるべくして誘い込まれたという訳になるのだが、何故ラミルが直接来ない。それにこんな人を介しての再会方法に何の意味がある。


 ラミルが直接ナチに会いに来れば、最速で再会は果たせる。再戦も果たせる。その方が効率的だし、合理的だ。どうしてそうしないのか。


 何を企んでいる……。


 

「何故ラミルが直接来ない?」


「お前に教える義務はない」


 言うと思ったよ、とナチは内心で嘆息しつつ、表情には笑顔をこびり付かせる。この男達はその理由を知らないとは言わなかった。つまり、知っている。その理由を知っているのならば、吐かせればいい。


「生きてさえいれば体はどうなっていても構わないと言われている。お前に恨みは無いが、覚悟を決めろ」


「覚悟ねえ……。後悔するよ?」


 ナチは手に持っている符に属性を付加。


「お前がな」


 一言も喋らなかったスポーツ刈りの男が、小さく何かを呟くとナチに突進。それに合わせてナチは右手に持った属性を具象化させる。「強化」。


 効果範囲は、ナチの右肩から指先まで。この瞬間から強化の属性はナチの右腕に剛力をもたらす。強力な肉体活性。迸る熱が右腕を包み、急速に加速を見せる血潮。ナチの右腕から蒸気が上がり始める。だが、「強化」の属性には一つ、デメリットがある。


 比類なき力にナチの肉体が長時間耐えられない。ナチの体は筋肉隆々でも岩石の様に肉体が硬い訳でもない。ナチの肉体は強靭な力に耐え得るだけの土台が備わっていないのだ。だから、この制約は当然の結果。非合法の薬品や異常なまでの肉体改造を施さない限り、「強化」の属性には使用時間に制限が設けられる。


 ナチが「強化」の属性を右腕に付加できる時間は、約十秒。それ以上は、ナチの右腕が壊れてしまう。二度と使い物にならなくなる程に。


 ナチは高熱を宿したかの様に湯気が立ち込める右腕に力を込めた。


 そして、それを突進してくる男に向かって強引に左から右へと振り抜く。洗練された技でも何でもなく、ただ右手に宿った御しがたい暴力を振り抜いた。常軌を逸した速度で放たれたナチの右腕は、スポーツ刈りの男の顎を直撃。


 顎を砕き、顔を斜めに曲げ頸椎を損傷。数十本の歯を吹き飛ばしながら、スポーツ刈りを右方向へと吹き飛ばした。壁に叩き付けられた男は肉が弾ける甲高い破裂音と、壁が砕ける破砕音と共に、地面へと落下した。


 壁に入ったひび。男が地面に落下した瞬間にペンキの様に塗りたくられる目が覚める様な鮮血が「強化」の尋常ならざる威力を物語っていた。


 残り七秒。


 剃髪の男が僅かばかりの動揺を見せながらも、右手に持ったナイフで威嚇しながらナチに向かってくる。が、男が一撃で屠られた事と、その破壊力の高さに及び腰になっているのが見える。


 ナチが剃髪に向かって理不尽な暴力の化身の様に迫っていくと、剃髪は頭皮に汗の玉を大量に浮かべながら、ナチに突っ込んでくる。


 突き出されるナイフを左手の甲で逸らし、そのまま左手を滑らせると男の右手首を強く握った。そして、剛力を宿した右手で男の肘に渾身の一撃。


 骨が鈍い音を立てながら男の右肘が粉砕骨折し、肉体構造的に有り得ない方向へと曲がると共に、男の手からナイフが零れ落ちていく。落下したナイフを足で蹴り飛ばす。


 腕が折れた事で不規則な律動の呼吸をしている男は苦悶の表情を浮かべると、ナチに追撃を放つ。


 ナチの股間を狙った一撃。振り上げられた右足は既に回避不可能な位置まで上昇している。だが、ナチの右腕には常軌を逸した怪力が付加されている。


 普通なら回避不可能なその攻撃も、ナチが異世界で習得した神秘は物理の法則を悉く覆す。不可能を可能に変え、絶望を希望に変える。


 振り上がった右足に対し、ナチは剛嵐の様な猛々しい勢いで右腕を振り下ろした。右腕が放つ異常な風切り音。筋肉が断ち切れる程の速度と威力で放たれる肉の鉄鎚。


 超高速で撃ち出された右腕は、右足がナチの股間に当たるよりも先に脛に直撃。そのまま、地面に撃墜。ひび割れる敷石。鳴り響く骨折音。九の字に曲がった右足が地面をバウンドし、その衝撃で男は路地裏に絶叫を響き渡らせる。


 ナチは残り一秒を切った所で符を解除し、右手に握っていた符を地面に放り投げ、地面に倒れ込んだ剃髪に、ナチは歩み寄った。


 派手な柄のシャツを掴み、強引に立たせると壁に押し付ける。頭を壁に押し当て、僅かに手前に引いた。


「後悔しちゃったね。ラミルはどこ?」


「教会だ」


「教会? どうしてそんな場所に?」


「さあな。俺達はそこに連れて来いって指示されただけだ。知りたきゃ自分で確かめな」


「そうさせてもらうよ」


 ナチが男から手を離そうとした時だ。不意に男の表情が視界に入った。男の頭頂部から垂れる汗が頬を伝い、それを視線で追っていくと、男の口角がつり上がったのが見えた。邪な感情が込められた下卑た笑い方。


 剃髪の男が目を見開いたまま、口角を歪ませたのが見えた。


「何笑ってるの?」


「早く行った方がいいぞ? お前のお仲間が殺される前にな」


 笑いを噛み締める様な物言いに、ナチは離しかけた手をしっかりと掴み直した。壁に頭を強く叩き付ける様に押し付けると、ナチの瞳は自然と見開いた。自分でも意外なほど動揺している心。心臓がはち切れんばかりに強く鼓動を繰り返し、その律動とは裏腹にナチの呼吸はリズム感を失っていく。


「どういう事?」


「動いているのが、俺達だけだと思うか?」


 ナチはすぐに男が言っている事を理解した。そして、もう一つの事実にも。今、サリスは外出している。ウォルフ・サリを守ってくれる存在はどこにも居ない。誰も三人を守ってくれない。もし、今ラミルが攻めて来たとしたらウォルフ・サリは、瞬く間に破滅の一途を辿る。


 嫌な想像がナチの脳内を埋め尽くしていく。三人を埋め尽くす血の海。どこまでも鮮やかでどこまでも赤い血に塗れた三人の光を失った表情がナチを恨めしそうに見る光景が。


「お前が呑気に俺た」


 ナチは剃髪の男を壁に叩き付けた。何度も、何度も、何度も。頭が赤く染まり、鼻が折れ、砕け散った歯が地面に落下していく。白目を剥き、泡を吹いている男を地面に放り投げると、ナチは走った。


 背後から男が倒れた音が聞こえてくる。そんな事はどうでもいい。気にもならない。押し寄せる自責の念に押し潰されそうになっている今のナチの心には届かない。


 ナチのせいだ。間違いなくラミルの怒りの矛先はナチに向くと思っていた。彼が行ってきた残忍で非道な暴力は全てナチに向くと安直に思い込んでいた。ナチにのみ、向けられると信じ切っていた。


 そうだった。ナチはウォルフ・サリという繋がりを得た。仲間を得た。数日だけとはいえ同じ時を共有した。その繋がりを人質もしくはナチに敗北した腹いせに報復措置を取る可能性は大いにあった。


 どうしてそんな簡単な事に気付かなかった。ウォルフ・サリの人間がラミルの目にどう映るのかくらい、簡単に想像つきそうなものなのに。


 ナチは木槌で叩かれ続けているかの様に強く鼓動を打ち続けている右胸を手で押さえると、背後を振り返る事もせずに、ナチは走った。

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