二十六 魔法《魂の創造》
体内に埋め込まれた異物。決して肉体に馴染むことがない異質で異端で、化け物染みた力を内包した過去の遺物。それは五百年の歳月を経ても変質する事なく、変色もせず、腐敗もしていなかった。
眼球という形状を失うことなく、虹彩は無彩色に彩られ、恒星の様に灰色の光を放出し続ける喰眼。それは宿主を得た瞬間に、動きだした。
精神と肉体を乗っ取るために体内循環魔力を右目に集中させ、異なる魔力同士を接続していった。異なる血液型の血液を体内に入れると赤血球が破壊され死に至る様に、魔力も異なる魔力を体内に取り込むと、取り込んだ魔力が体内魔力を攻撃し、その攻防に肉体が耐えきれず、死に至る。
だが、喰眼はクライスの魔力を変質させ、同調する事でこの問題を解決。さらには魔力の変質によって生じる肉体、細胞、神経、臓器の壊死を膨大な魔力で保護し、喰眼を保持するに適した肉体へと再形成していった。
その体中が破壊され、作り直されていく時の痛みはクライスの想像を絶した。眼球を麻酔無しで抉り取られた痛みなど可愛いとすら思えてしまう様な激痛。苦痛。惨痛。
意識を一日という間に数百回は失い、激痛によって叩き起こされる。それを三十七日間、繰り返した。肉体の再形成に要した三十七日間で、まともに眠れた日などなく、一度も心休まる時など存在しなかった。
意識が緩めば、喰眼が精神を喰らおうと躍起になり、指を一ミリでも動かそうとすれば全身に激痛が走り、気絶する。地獄の様な日々だった。生きている事が苦痛でしかなかった。呼吸すら苦痛。排泄すら他人に任せる様な惨めな生活。
なのに、クライスは死を選べなかった。怖くて、死を選ぶのが恐ろしくて、たった一人で死んでいくのが怖かったから。クライスは死を選ぶことが出来なかった。
「起きなさい、クライス・バールホルム」
腹立たしい程に冷艶な声が無音の部屋に響き、その残響が静まり返った頃、クライスは目を開く。開けた視界の先では、女帝シャルロッテ=フィリル=フィリロロムが病床に横になっているクライスを冷淡に見下ろし、クライスの右目に視線を合わせると胡乱とも慈愛とも取れる微笑を浮かべた。
「無事、喰眼は肉体に馴染んだようですね。どうですか、調子は?」
埋め込まれた喰眼は左目と同様、光を吸収し、色を映し、陰影を反映させる。クライスはシャルロッテから逃げる様に視線を左右に散らすと、もう見慣れた部屋の景観を見渡した。
染みや汚れ、傷一つ存在しない魔導機鋼を白く着色した壁が囲い、部屋にはクライスが眠っている無骨で安価に見える凡庸な病床が、ぽつんと部屋の中央にあるだけ。
見事なまでに殺風景な部屋。その殺風景さは戦禍に見舞われ、更地になった荒野が気の毒になるほどだ。部屋を見回した後にクライスは瞑目し、脱力する様に大息する。
「テメエが来るまでは絶好調だったよ」
目を開くと、クライスの皮肉を怜悧な微笑みで宥恕しているシャルロッテの姿があった。その微笑みに苛立ちを覚えると同時に、クライスはシーツの上に手を着き、上半身を持ち上げる。両腕の筋肉が軋み、背筋と背骨が悲鳴を上げる。体を起こすのを止めろ、と警鐘を鳴らしてくる。
その警鐘をクライスは無視し、上半身を起こしたクライスは顔を右に向け、シャルロッテをねめつけた。
「三十七日間、叫喚呼号していた男の台詞とは思えませんね」
天井に付けられた魔力を吸収する事で白い光を放つ魔力石と呼ばれる石が、彼女の哀痛が混じった様な苦笑を鮮明にクライスの視界に映し出す。
「《剣聖》様はどうした? テメエ一人かよ」
この部屋に存在するのはクライスとシャルロッテのみ。他には誰も居ない。《剣聖》であるアガトも、クライスを裏切った船員達も誰一人としていやしない。
「喰眼による肉体改造が施された三十七日間。その間の記憶は持ち合わせているとは思いますが、その後の記憶は覚えていますか?」
「知るかよ」
この何もない部屋に連れて来られ、喰眼を移植されてからの三十七日間の記憶は当然ある。眠る事も許されず、想像も絶する激痛が記憶にも肉体にも、まだ残っているのだから覚えていないわけがない。
だが、肉体改造が終了した後の事は覚えていない。全身から痛みが抜けていくと同時に意識を失ってしまったから。意識がないのだから、記憶に残っているはずもない。
眠っていたのだから当然ですね、とシャルロッテは腰に携えた細剣の柄に手を添えると、柄を柔く撫でた。
「あなたは喰眼による肉体改造が終わると、十日間の眠りに着いてしまいました。事切れたかのようにひたすらに惰眠を貪り、生死を彷徨っている訳ではないというのに、一向に目を覚まさなかった」
「海賊は自由な生き物だからな」
シャルロッテは細い頤を上げ、魔力石の光に眩然と目を細める。
「あなたが眠っていた十日間の間に、喰眼は帝国に住んでいた約七万人、家畜や捕虜、自然に生きとし生ける者達の魂を全て喰らい尽くしました。アガットも臣下達も、例外なく捕食され、今や残されているのは私達二人だけです」
「ああ? 今さらっとなんつった?」
あまりに淡々と紡がれていく言葉。平穏に流れて行く春風の様に、安穏と通り過ぎていく白雲の様に、シャルロッテは淡々と青天の霹靂を述べていく。クライスが困惑を隠す事無く表情に浮かべているのを無視して、シャルロッテは恍惚とした様に頬を赤く染め、目を輝かせる。
「私の予想以上でしたよ、喰眼の暴食性は。夜空に燦然と輝く魂の煌めきが瞬く間に暴食されていく情景に、私は初めて歓喜を覚えました。私が今までに見てきた風光明媚な光景が霞んでしまうほどの衝撃が、私の全身を駆け巡っていくのを感じました」
「テメエの感想なんざ、どうでもいいんだよ。あいつらはどこだ? 俺の部下はどこにいる?」
純真無垢な少女の様なあどけない笑みを浮かべているシャルロッテはクライスの質問には答えず、天井を見つめ続けている。普段の冷艶清美な雰囲気を纏う彼女とは掛け離れた姿を見て、クライスは一つの疑問を抱いた。
シャルロッテですら驚異的に思う程の喰眼の暴食性。アガトも彼女の臣下も帝国国民七万人と家畜、捕虜すらも一瞬にして喰らい尽くした暴食の中で、どうしてシャルロッテだけは無事なのか、と。
「……どうしてテメエだけは無事なんだ? 女帝様だけ見逃してもらえるなんて馬鹿げた話があるはずねえよな?」
震えた声で紡がれた問いに、彼女は満面の笑みをクライスに向けた。その姿はクライスの知っているシャルロッテとは掛け離れすぎている。
クライスの知っているシャルロッテという女性は常に凛々しく、怜悧で冷酷無情な仮面を身に着け、人の本質を、世界の本質を正確に見抜く慧眼を持ち合わせている。そんな人物だった。
こんな内面をそのまま曝け出している様な笑顔をクライスに向ける事は普段の彼女ならば絶対にあり得ない。彼女の心は正に鉄壁。何者にも崩せず、弱みを見せず、感情を漏らす事はない。
だが、それはクライスの思い込みの可能性がある。元々、シャルロッテは素直で、天真爛漫な可能性も無い訳ではなく、クライスに喜色満面を向けてくる今のシャルロッテこそが彼女の本質という事は十分にあり得る。
しかし、そんな浅慮で愚かなクライスの憶測は彼女が口にした言葉によって、あっさりと打ち破られる事になる。
「無事ではありませんよ。私の精神はほぼ全て喰い尽されてしまった。このあらゆる厄災から身を守る修道服のおかげで最悪の事態は避ける事は出来ましたが、今の私は残された微小な魂の残滓で動いているにすぎません」
「テメエらの目論見はこれで完全に潰えたわけだ。扱い切れねえ力に手を出そうとした結果がこれじゃあ目も当てられねえな」
クライスが鼻で笑いながら、シニカルにシャルロッテの表情を窺うと、彼女は動揺もせずに自嘲する事も無く、ただ天井を見上げて、勝ち誇った様に口角を上げた。
「いいえ、これでこの無意味で惨たらしいだけの戦争は終わりを迎える事が出来る。数多の命を喰らい尽くした喰眼と、約七万人の魂の抜け殻が存在すれば、この戦争は終結する」
「どういう事だ? この喰眼だけで戦争を勝利に導けるなんて、本気で思ってるわけじゃねえよな? それに魂が抜けた肉体なんざ何の役に」
そこまで言ってクライスは言い淀んだ。魂の抜け殻。これは間違いなく帝国国民の事を指している。そして、彼女は国民の事を抜け殻と称した。死体、とは一言も口にしていない。
また、喰眼は心魂を喰らう異質の暴食性を持つ呪われた瞳。
命を喰らう瞳ではない。クライスの推測が正しければ、帝国に存在するのは文字通り魂が抜けただけの肉体。命を失っていない、操者を失っただけの傀儡。
「まだ……生きてるってのか?」
「ええ。死者、負傷者は零人。肉体に損傷は確認できませんし、生命活動も問題なく行われています。ですが」
「全員、心を喰われちまって動かねえ」
「その通りです。心魂を失った肉体は糸を切られた人形の様に動きを見せず、私の呼び掛けに応答もしません。喰眼に捕食されたグランコリアは、愁然と寂寞に毀れた廃都へと変貌を遂げました」
分からない。クライスの眼前で優美に笑っている女帝の狙いが分からない。喰眼がどれだけ膨大な魔力を有していようと、それだけでは戦争を終わらせることは永遠に不可能だ。
それに彼女は国民、臣下、兵、を全て失った。それはグランコリアが誇っていた類稀なる武力を著しく損失したと言ってもいい。領土内の武力をかき集めたとしても、その損失を補填しきる事は到底かなわない。
魔術や魔導を操るのも、船や飛行船を操舵するのも、馬に騎乗して戦場を駆けるのも、全て人だ。どれだけの発明も、どれだけの武力も操る者が存在しなければ無用の長物でしかない。
なのに、何故シャルロッテは笑っていられる。何故、勝ち誇った様に口角を上げていられる。その余裕はどこから生まれてくる。
クライスは胸の内から溢れ続けている疑念と困惑を隠す為に笑った。彼女と同じ勝ち誇った様に。
「ざまあねえな。全部テメエの責任だ。誰も望んでねえ喰眼なんて力に手を出したテメエの。どうせ民意を無視した強硬策だったんだろうが」
シャルロッテは腰に携えた剣を素早く引き抜き、クライスの首に押し当てる事で強引に口を噤ませた。冷眼をクライスに向け、その冷たさが剣に宿ったかの様に細い刀身に雷が奔りだす。
「海賊風情に高慢に言われたくはないですが、あなたが口にした事が全てですよ。誰も望んでいなかった力に国の命運を委ねた私の責任です。ですが、これこそが私の望んだ未来。私が待ち望み続けた情景なのです」
「頭イカれてんのかテメエ。お前は全てを失ったんだろうが。部下も国民もテメエが偉そうに見下げてた街も失ったんだろ」
シャルロッテの表情は全く動かない。哀痛に表情が歪むことも、悔悟の念に涙する事も無い。無表情にクライスを見つめ、首に触れる刀身は冷酷なまでに無情。
「確かに私はあなたが眠りに着いた十日前に全てを失った。けれど、先程口にしたでしょう? これが私の望んだ結果だと。入って来なさい」
「何言ってる。テメエの過ちでこの街には人は……いねえ……」
殺風景な部屋に存在する唯一の出入り口。クライスの眼前に映る白色のシンプルな扉が音を軋ませながら開き、部屋に進入してくるのは一人の男。ボロボロの白いシャツの上に黒いベストを羽織り、ボンタンを穿いた小汚い服装の男。口周りに生えた無精髭がより一層の小汚さを演出している。
この男はクライスの部下だ。クライスを裏切り、シャルロッテに寝返ったクライスの家族。
彼は一様に意思が感じられない暗い光を瞳に宿し、どこを見ているのか分からない空目をしてシャルロッテの横に並び立った。
「お呼びでしょうか、シャルロット様」
抑揚の無い声音。温冷を失った声色が静寂に包まれていた部屋に静謐に響き、クライスは口を半開きにして開目。無意識に唖然としていた。
「喰眼の調子はどうですか? 問題はありませんか?」
眼球だけが動く。目の神経が暴れ出しそうになり、右の眼窩に埋め込まれた喰眼が眠りから覚めたかのように疼きだした。
「喰眼保持者のバイタルサインに特に異常は見られません。喰眼による精神干渉、汚染、混濁の兆候もなく、肉体の再形成にも問題は見られません。《心魂喰う無彩の喰眼》との適合は完全に果たしたと捉えても問題はないと思われます」
「おい、リーレン……何言ってやがる。テメエはそんな事を言うような奴じゃなかっただろ! 何をされた? この女に何をされたんだ」
リーレンという男は性根が明るく、いつも笑顔で、知識や素養が浅薄ではあったが、明朗快活な若い男だった。少なくとも語彙力に難があり、シャルロッテの問いにすらすらと言葉を述べられる様な男ではなかったはずだ。
「申し訳ありませんが、私の名はリーレンではありません。私の名はナンバー八千七。あなたが知っているリーレンという方はご存じありませんが」
「ナンバー八千七。この男と会話をする必要はありません。下がりなさい」
リーレンはシャルロッテに頭を下げると、クライスに視線を送る事もなく、悠然と部屋を後にする。呆然とするクライスを見て、優しく微笑むシャルロッテは剣を下ろすと、鞘に納めた。
「何しやがった……。俺の部下には何もしないんじゃなかったのか……」
「『身』の安全の保障は無事に果たしましたよ? 問題なく生きています」
「あれのどこが!」
怒鳴った瞬間に気付く。彼女は嘘を吐いていない事に。真実を偽り、捻じ曲げてもいない事に。彼女は正しく真実を述べたのだ。
身体の安全は確かに保障されている。生命には何も問題はない。命の流動は今も続いている。そこに何も虚偽は無い。ただクライスの予想だにしなかった現実が事実として繰り広げられているだけだ。
「心を移植したのか?」
心を具象化し、肉体から切り離す禁忌指定魔術《桎梏の拝》。禁忌魔術で切り離した心を他者の肉体に移植する事は事実、可能だ。
だが、その他者の心をどこから調達してくる。シャルロッテを除くグランコリアの住民の心は喰眼が全て喰らい尽くした。この街には移植できる心は存在しないはずだ。
闇商人から買収していたのか? それとも秘密裏に禁忌魔術に手を出し、魂を貯蓄していたのか? だが、どちらもこの街に存在していたのならば喰眼が喰らっているはず……。
クライスが頭を悩ませていると、シャルロッテはクライスに背を向け、前に歩き出した。クライスから一メートルほど距離を取ると、彼女はクライスへと向き直る。
「移植という解答は中らずと雖も遠からず、ですよ。ですが、あなたも知っている通り、この街に住む生物の心は喰眼が捕食し尽してしまった。《桎梏の拝》を行使しようにも心を持ち合わせていないのでは効力を持ちません。
この街には移植できる様な他者の心は一片たりとも存在しないのです」
「なら、あれはなんだ。俺の部下は確かに言葉を喋って、歩いてた。誰の手も借りずに、自分の意思で。あれをどう説明するってんだ、テメエは」
「移植する心が無いのなら、一から作り出せばいいのですよ」
「…………は? そんな事できる訳がねえ」
何を言っている。心の生成。それは即ち、魂の製造という事だ。人工魂の生成、そんな事が出来るはずがない。他者の魂を他者の肉体に固定させるのとは訳が違う。一から十まで全て、人の手で魂を生成し、人格を与え、生命を吹き込む事など魔術では不可能だ。
魔術は魔法ではない。魔術は所詮、人が魔法や天災を模倣し、夢想し、万人が扱えるように改良を重ねた、言わば劣化自然現象。魂の構築など魔術には到底成し得ない所業だ。
「出来るはずがねえ。魂を作り出す事なんて出来るはずがねえ。そんな事が出来るとしたら、それこそ魔法……」
また口にした後に気付く。おとぎ話の中にしか存在しない魔法。あらゆる願望を叶え、あらゆる不可能を可能にする空想の産物。あり得ない。魔法は虚夢の中にしか存在せず、魔術師、魔導師が目指す果ての無い願望でしかない。
だが、それをもし、この女が開発していたとしたら。開発の成功と共に事を起こしていたとしたら。クライスの否定論は完全に覆る。
「そうです、クライス・バールホルム。これが私の最期の発明。人類史に残る唯一の魔法《魂の創造》」




