二十五 去りゆく一難
ナチとマギリは光芒一閃した意想外の状況に、瞬時に反応する事は敵わず、その場でナイフがコトに突き刺さる様を凝視していた。遅れて胸の内から湧き出てくる動揺と困惑にナチとマギリは正常な判断力を奪われかけるも、すぐに正常を取り戻す。
瞬刻にコトから距離を取ろうとするナチとマギリ。だが、それは出来ない。地面を割く様にして足下から突如として出現した人間の手がナチの右足を、マギリの左足を掴む。太く、毛深く、屈強な腕。土に塗れた両腕に体温は無く、冬の川水の様に冷え切っている。
二人の足が音を立てて軋み出し、両手の握力はさらに強まっていく。マギリは眉を顰め、息筋を立てると両腕に向けて冷気を放出。素早く両腕を凍結させる。
「ナチ!」
ナチはポケットから符を二枚取り出し、属性を付加するのと並行して、すぐさま両足に符を張り付けた。属性を具象化。「強化」。
さらに両足に霊力の衣を纏わせ、筋肉保護。霊力による肉体活性は不可能だが、「強化」による筋肉への負荷、衝撃を緩和させ、体外へ分散させる事で効果時間を大幅に引き延ばす事は先程のクライスとの戦闘で実証済みだ。
ナチは強化された右足を後方へ伸ばし、氷結している右腕を強引に引き千切る。千切れた右腕から零れ落ちる多量の砂。血液は一滴も垂れず、骨の断片すら見られない。すぐさまマギリの左足を掴んでいる左腕も踏み潰すと、ナチはマギリの手を引っ張り、大きく後退する。砕けた左腕からは、やはり大量の砂が溢れ出し、氷と混じって小山を築いている。
「さすがだねー、お二人さん」
ナチとマギリは目の前の光景を見て、苦笑し、鼻を鳴らした。けれど、動揺や驚きはない。何も咄咄怪事ではないし、最初から予想出来ていた事態だ。
コトはナチ達を前にしても、殺害を仄めかされても、冷静だった。あの状況で冷静に沈着していられる肝が据わった少女が、何もしてこないはずがない。
だから、片足を骨折しているコトが立ち上がっていたとしても、あまり不思議には思わない。
折れた右腕と右足を引き千切り、土砂で義足と義手を形成。それらを肘、膝から先に装着して、しっかりと地面に立っている。地面には引き千切られた右腕と右足が無残に転がり、地面に飛び散った出血量から見ても、生命に危険が生じていてもおかしくはないほどの失血だ。
なのに、コトは笑っていた。他人から奪った能力で止血をし、血を補いながら、彼女は従容と笑っていた。けれども、彼女の笑みが強くなればなるほどに、ナチの心は寂寥に包まれていき、哀憐の眼差しを向けてしまう。
「……まさか自分の腹を刺すとはね。よくそれで僕のこと一番壊れてるとか言えたもんだよ」
予想外だったのは符の破壊方法だ。何らかの能力を体内に忍ばせ、胃内部の符を破壊するだろう、とはナチも思っていた。必ず異物を取り除き、反撃に興じてくるだろうとは。
それがまさか、ナイフを胃に突き刺し、最速で、小細工無しの破壊方法を取るとは思わなかった。しかも、右腕右足を引き千切ってまで、立ち上がってくるとは思ってもみなかった。
「生き残る為に不必要なものは即座に切り捨てろって言われて生きてきたからさー。邪魔な物を捨てただけだよ」
コトとナチ達。その中間に位置する地面から出現する両腕を失った死体。相好が崩れ、目、鼻、口から土砂を溢し続けている若い男性の死体。その土砂に塗れた死体は、コトを守護する様にナチ達に立ち塞がり、前傾姿勢で土塗れの顔を向けてくる。
ナチは符を取り出し、マギリは空中に氷剣を作り出す。投げ飛ばされる符は「硬化」と「加速」を同時進行で発現し眼前で佇む死体に飛んでいく。
「気を付けてねーお兄さん。死なないでね」
ナチの符が死体の頭部を吹き飛ばし、マギリの氷剣が死体を粉々に破砕。その瞬間に宙に舞った多量の土が巨大な針の様な形状に形成され、ナチ達を襲う。予想以上に素早い速度で迫る土針。生身の肉体では避ける事が不可能な速度でそれは迫る。
ナチはマギリを両腕に抱え込むと「強化」された両足で後方に高速移動。迫る土の針を悠揚と躱し、地面に激突した土針へと視線を送り続ける。
地面に突き刺さった土針は、刺さった直後に破裂。鈍い爆発音と破裂音が鳴り響き、襲い来る熱波と衝撃波によって、ナチ達は更に後退を余儀なくされる。
後方へ駆けていく度に、遠くなっていくコトの姿。喜色満面の彼女はナチ達に土で作り上げた右手を小さく振ると、霧が晴れていくかの様にその場から姿を消した。ナチは周囲を警戒すると同時に、更に後退する。その場から逃走したのか、それとも姿が視認できない程の高速移動でナチ達に接近しているのか、どちらか分からない以上は警戒を怠る事は出来ない。
「イズ! コトは?」
マギリの怒号の様な迫力を伴う声が山道に響く。
「こちらに迫ってくる足音は存在せぬ。高速で離れて行く足音が一つ存在するだけだ」
ナチは爆発した土の爆風、衝撃波の範囲外へと離脱すると、その場でコトが手を振っていた場所を静かに見た。もうその場所には誰も居ない。斑点の様に地面に飛び散っている赤黒い土砂が山道に広がっているだけ。
一難は去った、と考えてもいいのだろうか。イズの耳を信じるのであれば、一難は去ったと断定してもいい。だが、彼女は他者の能力を奪う土砂使い。
音に逆位相の音をぶつけて消音する事も可能かもしれない。自身の足音の周波数を葉擦れと同調させ、尚且つ自身の音を葉擦れよりも微小にする事で打ち消す事も可能かもしれない。
ナチは彼女が何人の命を屠り、幾何の能力を手に入れているのか知らないのだ。まだ油断は出来ない。
ナチが視線を左右に散りばめ、全方位の気配に気を配らせていると、ナチのコートが力強く引っ張られる。下方向に引っ張られるコートと共に、ナチは前傾姿勢になり、下がった視界の中にやや不機嫌気味のマギリの表情が映った。
「早く下ろして」
淡々と口にしたマギリの要望通りにナチは腕に抱えていたマギリを地面にそっと下ろし、撓んだリュックの形を整えるのと同時に、リュックの中に入っていたイズを取り出した。
イズはリュックから取り出されると、すぐさまマギリの右肩に飛び移り、視線をコトが立っていた場所へと向けた。
「恐ろしい少女だったな。あそこまで自分を傷付ける事に躊躇いがないというのは初めて見た」
「コトの中であの手段が最も生存率が高い方法だったんだろうね。さすがに僕も驚いたよ。あんな手段を迷う事無く選べるなんてさ」
「右腕と右足を引き千切って、胃にナイフを刺して。あの子以外の人間はあんな無謀な選択取れないわよ。輸血も出来なくて、すぐに止血も出来ない状況であんな選択は絶対に取れない。失血死は免れないわ」
「だが、あのコトという少女はお前達でさえ取らない選択を取った。いくら他者の能力を数多に持ち合わせていようと、助かる保証など無いというのに。あの少女は迷いもせずに自分を傷つけた。あれが……心が壊れているという事なのか?」
「……さあ、どうだろ」
おそらく、ナチはイズの問いに答えが出せる。けれど、その解答は所詮ナチ独自の解釈に過ぎず、コトの解とはまた違う。ナチが出した正解と、コトが出した正解。この二つの正解には間違いなく齟齬が生じているはずで、二人の解のズレに関してはもう確認のしようがないが、確信はしていた。
コトが言っていた様に、ナチとコトは本質的には似ているのだとナチも思う。表面上の倫理では無く、深層に潜む倫理の欠如が類似している気はする。だが、全く同じという事は有り得ない。両者の倫理には小さな相違が生じているはずなのだ。二人が歩んできた道が、両者の倫理が歪んだ理由が違う以上は結果も当然、違ってくる。
結局、ナチはイズに答えを告げる事はしなかった。彼女の答えを根拠のない憶測と想像だけで結論付けて代弁する事はしなかった。
知らなくていい。心が壊れた者の心理など一生知らなくていい。到底理解できないのだから。
「……お兄さん、大丈夫?」
ナチの顔を覗き込む、透き通る青の瞳。澄み渡る青空の様な天色がナチを心配そうに見つめていた。その瞳に映る自身の顔は酷く強張っていて、陰鬱にすら感じるほどに暗い顔をしていた。
愁然としている気持ちと表情を払拭させる為に、ナチは静かに深呼吸すると破顔一笑した。
「疲れたし、少し休もうか。明日の正午までやる事ないしさ」
「……ほんとに大丈夫?」
「大丈夫だよ。少し疲れてるけど、問題ない」
「なら、いいけど」
山道を安穏と下っていく二人。他愛もない会話を繰り返し、笑顔を浮かべ、笑声を発しながら。
明日の正午までに、この動揺を何とか鎮めないと……。
胸の奥底に封じ込めた禁忌が歪曲し、ナチの自我を壊す前に。




