二十三 追跡
クライスが去っていった山道を追い縋る様にナチとマギリは見つめていた。今はもう誰も居ない山道へと視線を固定させる。二人の表情に浮かぶのは同様に愁色。そこに憂苦が混じり、陰鬱なものへと変貌しようとしている。
痛い所を突かれた。
ナチもマギリも、キリという無性別の子供を助ける方法は持ち合わせていた。氷による一時的な止血、眼窩内の殺菌。符術による肉体活性、自然治癒力の上昇による止血、及び治癒。クライスの様に義眼を即座に作り出す事は不可能だが、キリを救う事は現実問題、可能だった。
では、なぜそうしなかったのか。
助けた所でキリという子供の運命は悲痛で惨憺たる未来を辿ると瞬息に理解してしまったからだ。話の内容からして、キリという子供は見た目通りの年齢ではないという事はすぐに理解できた。
マオと同年代であるにも拘らず、第二次性徴前で停止してしまっている肉体。整った容姿。魔力で生成された義眼を右目に保持し、他者の心を読み取る能力を保有する無性別の子供。
これだけの特異な材料が揃った子供が、この世界を一人で生き抜く事は絶対に出来ない。それだけの奇異に覆われた子供を世界が放っておかない。必ず悪意に弄ばれ、玩具にされ、心身共に著しく摩耗し、切り捨てられる。
世界が滅びようが、救えようがキリは凄惨な末路をきっと辿る。誰もキリを守ってくれない状況が続く限り、『黒』と呼ばれていた少女の様な存在に狙われ続ける。
無限の異世界を旅してきた過程で度々目撃してきた特異な能力を持つ子供が辿った末路。それはどれも阿鼻叫喚な終わりを迎えていた。腹を開腹され、臓器は全て摘出。血液、精子、卵子は冷凍保存され、脳はホルマリン漬けにされ、骨格は標本にされた少年少女を幾度となく目撃してきた。
キリを異世界に移動させても、結果は変わらない。世界は基本的には変わらない。悪意の本質は無限に異世界が存在しようが変質しない。変色しない。
けれども、クライスがキリを救い続ける気が無く、世界の滅亡を望んでいるのならば、キリという子供は死を迎えた方が良いのではないか、と思うのはナチのエゴだ。マギリのエゴだった。
キリという子供の気持ちを経験と憶測によって無視していた。キリが何を望んでいるのか知りもせず、知ろうともせずに、傲慢に決めつけていた。世界が抱える負の側面ばかりに目を向けすぎていた。
一人の子供を見捨てる事を是とした事実を今さら悔やむことは無い。が、あまりにも冷淡に、薄情に即断していた事実にナチとマギリは慙愧の念を覚えてはいた。
「追わなくてよいのか?」
動きを見せない二人に痺れを切らしたのか、イズがマギリのリュックから顔を出し、物憂げに呟いた。
「時間と場所を指定してきたし、追わなくても大丈夫だと思う。それよりも、僕達は『黒』って子を追おう。クライスとの戦闘中に横槍入れられたら面倒だし」
「そうね。あの子は問答無用で私達に攻撃してきたし、平気で人を傷付けた。放置しとくには少し怖いわね」
マギリは頷きながら、『黒』が吹き飛ばされていった方角へと歩を進めた。ナチもその後を緩やかに追い縋る。
「全く。あの海賊の右目。何なのよ、あれ? あの右目が内包してた魔力。あれ、ナチの霊力量に軽く匹敵するわよ」
クライスが眼帯を外した瞬間に右目から放出された膨大な魔力。無彩色に彩られた右目に内包された魔力。あれはマギリが言った通り、ナチが体内に内包する霊力量に軽々と匹敵し、余裕で上回っていた。
あの右目が解放された後のクライスの動きは最早別人。超高速移動を可能にし、人を数十メートルも吹き飛ばすほどの膂力を獲得していた。そして、あの右目が放出していた無彩色の魔力。あの魔力を視認し、存在を感知した瞬間にナチの心は戦々兢々とし、無自覚に委縮していた。
表情から察するに恐らくはマギリも同じだ。彼女も右目から放出される光を捉えた瞬間に半歩ほど後退していた。無意識に畏怖し、明確な恐怖を自覚していた様に思う。
「でも、あんな魔力流してどうして死なないんだろ? あの魔力量に耐えられる器が存在するとは思えないんだけど」
ナチの「強化」が抱えていた問題点。十秒という時間制限。これは強すぎる力がナチという器を破壊してしまう為に起こる事象。過ぎたる力を人が扱い切れない証明と言ってもいい。
それはあの右目にも同様の事が言える。あの魔力を体内に循環させ、肉体強化などさせようものなら、肉体は瞬刻に崩壊を始めるはず。筋肉や神経は強大な魔力が齎す負荷に耐えきれずに破裂し、雲散霧消する。脳も同じ。全身に指令を伝達する過程で回路は焼き切れ、伝えた瞬間に生命の脈動は停止する。
それにクライスはナチと同程度の肉体強化を行う際、魔力による筋力保護を行っていた。つまり、彼もまた肉体強化に完全に耐え得る肉体を持ち合わせていないという事になる。だというのに、彼は耐えてみせた。あの膨大で強大な魔力の奔流に。
「あんただって同じじゃない。その霊力量に耐えられる器なんてそうそういないわよ。あんたみたいな奴がいるんだから、あの魔力量に耐えられる奴がいてもおかしくない。でしょ?」
「まあ確かにそうなんだけどさ」
ナチはポケットから一枚符を取り出しつつ、長息。そもそも魔力を膨大に内包した右目が肉体と接続されている時点で、怪奇な現象を起こしていてもおかしくはない。なのに、肉体に損傷は見られず、精神にも混濁は見られない。
それがないという事はクライス、もしくは右目に何らかの秘密があるのだろう。あの魔力に耐え得るだけの秘密が。
どのみちクライスが鍵を持ち、ユグドラシルの思惑に加担する限り、彼との戦闘は避けられないのだ。うだうだと思い悩むよりも、あの右目に対抗できる術を模索する方が余程効率的だ。
「鍵は使わぬと豪語しておったのだ。それだけでも収穫であろう」
「そうね。あの右目に加えて、鍵まで使われたら正直打つ手ないわよ」
半ばやけくそ気味に言ったマギリの言葉に苦笑しつつ、ナチ達は山道を上っていく。上がっていくこと三十メートル程。そこに山道のど真ん中で仰向けになって気絶している白い少女の姿があった。
鼻血と吐血が顔面を真っ赤に染め上げ、白い髪を赤く濡らし、折れた右腕が痛々しく明後日の方向へと曲がっている。右腕だけではない。右足は関節を無視した方向に曲がり、近くには木片が多量に転がっている。
ナチは『黒』から視線を外し、右側の落葉樹へと視線を移した。太い幹が若干抉れ、心なしか傾いている様にも見える。
傾いているかの真偽はさておき、『黒』が落葉樹に激突したのは間違いないだろう。クライスの常軌を逸した魔力肉体強化による一撃を受けて吹き飛んだ『黒』は山道を幾度もバウンドし、木に激突して動きを止めた。
そして、その代償が右手足の骨折。顔面に強力な殴打を受けたのだ。頸椎や頭蓋骨が損傷していたとしてもおかしくはない。むしろ、命を落としていたとしても何も不思議ではない。
ナチとマギリは気絶している様子の『黒』の顔を覗き込み、呼吸、心拍、脈拍を確認する。呼吸は浅いが、心拍や脈に異常は見られない。生きている。この少女は間違いなく生きている。
「何で生きてるのよ。普通死ぬでしょ、あれ」
「加減したのかもしれぬな。あのクライスという男。口ほどには非情に成り切れぬようであったし」
イズが口にした言葉が安直であり、最も腑に落ちる所ではある。即死していたとしてもおかしくない強力な打撃。比類なき剛力は命を刈り取る非情の刃に成り代わっていても何もおかしくはなかったのだ。
それが現に『黒』はこうして生きている。肉体の損傷、怪我の具合は最悪といって差し支えない程度だが、それでも生存している。
「とりあえず……」
ナチは『黒』の口を無理矢理にこじ開けると、符を口内に入れ、霊力を放出。食道を無理矢理にこじ開け、胃へと符を到達させた瞬間に属性を解放。「大気」。空気の層を作り出し、胃液から符を守ると共に胃内部に浮遊させる。
「何やってんの? あんたまさか……そんな思春期真っ盛りの子に卑猥な事を」
マギリが眉間に皺を寄せ、ナチから数歩距離を取る。表情には嫌悪を浮かべ、軽蔑する様な視線をナチに向けてくる。
「違う。違うから。この状況でそんな事する訳ないでしょ」
「こんな状況では無かったらするという事なのか?」
未だにマオのリュックに入っているイズが純粋な疑問をぶつけてくるが、悪意しか感じない為にナチは舌打ち。
「しないよ。二人とも僕のことなんだと思ってんの? 今やったのは『黒』が反撃してきたら『空気』と『火』の属性で人体発火させる為に」
「それはそれでドン引きよ。何しようとしてんの、あんた。まあでも、その容赦の無さに関してだけは尊敬に値するってマオが言ってるわよ」
「言ってないから!」
一瞬だけ人格がマオに戻ったが、すぐに虹彩は紅に戻る。唐突な二重人格漫才を見せられ、ナチは乾いた笑みを溢しつつ、『黒』の白い頬を強く叩いた。
三回ほど叩いた瞬間に猛烈な速さで見開く『黒』の瞼。キリと同じ煉瓦色の瞳が虚空を射抜き、すぐにナチとマギリを視界に収める。一瞬だけ呆けた様な顔をしていたが、すぐに『黒』は状況を理解。ナチ達から視界を逸らし、澄明な空へと視線を移す。
常軌を逸した膂力で殴打され、吹き飛ばされ、右手足が骨折しているというのに『黒』は狼狽する事も苦痛に呻く事もしない。ただ茫然と青天を眺めていた。
ナチとマギリは惻隠する事も無く、漫然と『黒』を見下ろした。




