十二 観光へ
宿に帰ったナチはその後、丸一日寝てしまい、再び目を覚ました時には朝になっていた。窓から差し込む朝日を見て、ナチはマオが少しおかしくなったのを思い出す。
心変わりなんてものじゃない。あれは、別人だ。誰だ、あれは。
ナチは地面に落ちている上着を掴むとそれを手に取り、羽織る。すぐに扉へ向かうとナチは扉を開け、部屋の外へと出た。
この前はマオが宿まで迎えに来ていたが、さすがに今日は居ない。何故か、安堵している自分が居る事に驚きながらも、ナチは階段を下りた。
そのまま宿から出ると、ナチは寄り道する事も無く真っ直ぐに酒場まで向かった。
謎の変貌を遂げたマオはともかく、リルの特訓をサボる訳には行かない。リルが望んでナチに師事を乞うてくれたのだ。リルの期待を自ら裏切る様な真似はしたくは無い。
少し駆け足で酒場を目指す。
ナチがウォルフ・サリのアジトへとたどり着くと、そこにはサリス以外の全員が揃っていた。シャミアが丸椅子に座り、何やら紙の束を見ながら、顔を顰めている。仕事の資料だろうか、と思って少し覗き込むと、そこには数字と文字が羅列したナチには読めない何かがびっしりとインクで記されていた。
マオは窓際で椅子に気怠そうに椅子に座り、その反対側で何をする訳でもなく立ち尽くしているリルがマオを見たり、シャミアを見たりとこちらも気怠そうにしている。
やはり、サリスの姿はどこにも見当たらない。また、どこかへと出かけているのだろうか。
「おはよう、ナチ。サリスなら出掛けてるわよ」
ナチが視線を彷徨わせている事に気付いたのだろう。
「おはよう、シャミア。仕事?」
「さあ? 何も言わずに出ていく事なんてしょっちゅうだから」
「シャミアも大変だね」
「そんなことは無いわよ。慣れよ、慣れ」
机に置かれた紙の束から目を離し、休憩と言わんばかりに腕を伸ばしたシャミアは一度溜息を吐くと、再び紙の束に目を通し始めた。
シャミアとの会話を終えると、目を輝かせながらリルとマオが近寄ってくる。まるで話し終えるのを待っていたかのようなタイミング。事実、待っていたのだろう。
「ナチさん、おはようございます」
「おはよう、お兄さん」
「おはよう、二人共」
元気一杯の二人に少し気後れしながら、ナチは笑顔を浮かべた。
「今日の特訓はいつから始めようか」
「すみません、ナチさん」
少し申し訳無さそうに目を伏せながら言うリル。
「どうしたの?」
「今日は大掃除の日で」
「大掃除?」
掃除するほど汚れていない気がするけど、と思いつつ、ナチはリルの言葉を一部オウム返しすると、首を傾げた。
「一年に一回、この家を掃除する日なんだよ」
マオが胸を張りながら言った。瞑目し、誇らしげな表情で。
「今日は何かあるの?」
「別にないよ。毎年、この日に大掃除しているだけ」
「恒例行事ってやつだ。じゃあ、今日はお休みかな」
恒例行事という事ならば、しょうがない。恒例行事は大事にすべきだ。ナチの様に旅に出ている者は街伝統の祭日や恒例行事にはほとんど参加できない。そのうえ参加できるかどうかは運に左右される。だから、毎年決まった行事や祭日がある事にナチは一抹の憧憬を密かに覚えていたりもする。
すみません、と頭を下げるリルに、ナチは何でもない様な顔をして頭を上げさせた。別にリルが悪い訳ではないのだ。謝られる謂れも無い。
マオとリルが、明らかに気怠そうにしているのは、もしかしたら大掃除があるせいかもしれない。掃除という行為がナチは嫌いではないが、面倒臭いとは思う。始まってしまえばそうでもないのに、エンジンが掛かり出すまでは果てしなく面倒臭い。それが掃除。
「ナチはどうする? 無理して参加しなくてもいいわよ。一年間しっかりと汚した人間が、しっかりと綺麗に戻す。だから、基本的に私達が掃除をするし」
「んー」
どうしようか、とナチは腕を組んだ。大掃除に参加してもいいが、そろそろ世界樹に関する情報を調べたいところだ。ナチがこの世界に来て行った事といえば、ウサギモドキの住処を破壊したり、二日酔いで若い娘の乳房を触ったりと、あまり世界を救う旅に進展が無い。
そろそろ本腰を入れたい所だ。
「ちょっと調べたい事があるから、今回は参加しない方向で」
「了解」
シャミアが紙の束を見るのを止め、おもむろに立ち上がると、マオとリルを順に見た。
「さあ、始めるわよ」
面倒くさいけど、と小声で付け足しながら、シャミアは換気目的の為に扉と窓を全開にした。それから、ナチを除く全員が口元に布を当て、家具を一つずつ外へと運び出していく。
「調べ物するなら図書館が街の南側にあるわよ」
男性でも一人で運ぶのは厳しい一枚板の机を軽々しく持ちながら、シャミアは口を開いた。
「うん、ありがと」
酒場を出たナチは、街の南にあるとされる図書館へ向かう為に、酒場の前の道を歩いていた。実際、街の南側にあると言われても良く分かってはいない。街の地理をまだ完全に覚えたとは言い難く、明確に覚えている道は酒場から宿に帰る道くらいだ。
今からでも道案内してもらおうか、などと思いもしたがすぐに止める。掃除というのは一度中断してしまえば、やる気の火が再び着火されるまでに時間が掛かる。下手したら点かない場合もある。
それに最悪、通行人に聞けば図書館にはたどり着けるはずだ。
既に始業している時間という事もあり、ウォルケンの街は賑わいを増していた。露店や商店に買い物へ来ている業者や主婦。外から来たと思われる商人が、荷馬車に積んだ荷を下ろしている姿も見えた。
マオに連れられて最初に来た時は、どんな物騒な街かと内心ヒヤヒヤしていたが、実態は半々と言った所だろうか。
マオが言う実力至上主義の側面もあれば、穏やかで平和な一面もある。住民は基本的には穏健で無害な人達ばかり。またマオが言っていた理不尽な暴力というのは、おそらくラミル一人を指していた。実際に彼以外に目立って暴力行為に及んでいる人間はほとんど見掛けない。
ナチがラミルを倒してから姿を見なくなったのは少し気掛かりだが、表立って接触してくることは無いだろう。プライドが高いと思われるラミルだ。完敗を喫した相手に気安く話しかけてくることは無い。
もし、次にラミルと関わる事があれば、リベンジマッチといった所ではないか、とナチは思っていた。あそこまで完膚なきまで叩きのめされたのだ。ナチを同じように敗北させないと気が済まないはず。そう近い内に彼はナチに何かを仕掛けてくるだろう。
突き当りを左に曲がり、道端に露店が並ぶ路地へと出ると、ナチは露店一つ一つに目を向けた。
この街に来てから戦闘や特訓など肉体労働ばかりで、ろくに観光もしていない。折角、異世界へと降り立ったのだ。たまには、ゆっくり観光というのもいいだろう。
露店や商店の主人達が呼び込みに精を出す路地は、一見するとウォルケンの催しの様でもあった。
主人に呼ばれるままに、ナチはふらふらと露店へ立ち寄り、売られている青果や肉類、アクセサリーなどの商品を物色した。
中でもナチの気を最も引いたのは、衣服や布を主に取り扱っている露店だった。ナチが羽織っている様なコートや、ジャケット。コートの下に着るインナーや、ズボンやスカートなども売っている。
ナチは黒色のコートを手に取ると、肌触りや生地の厚さなどを確認した。触った感じは何かの動物の皮を加工した物の様だが。
「それはバイルウルフの皮を加工した物だ。着てみるか?」
店主に言われ、ナチはコートを実際に手に持ってみると、予想以上に重たかった。これは戦闘に支障を来たす恐れがある。
ナチは店主にコートを返しながら、ナチのサイズに合うコートをいくつか店主に見繕ってもらった。だが、結果は全て惨敗。ナチが理想とするコートには廻り合えず、ナチは苦い顔をしつつコートを主人に返した。
「すみません。折角、探してもらったのに」
「気にするな。買い物っていうのはそういうもんだ」
「ありがとうございます。あ、あと一つ聞きたいんですが、図書館はどちらにありますか?」
「図書館なら、あんたが来た道を戻って、真っ直ぐに進めばあるぞ」
「そうですか。ありがとうございます」
どうやらナチは図書館とは反対方向へ来てしまった様だ。建物の外見的特徴も場所も教示してもらった所で、ナチは主人に別れを告げ、来た道へと戻る為に、体を進行方向に向けた。
そして、数歩進んだ時だ。
「泥棒だ!」
背後から聞こえてくる大声。ウォルケンの路地に立ち込めるどよめき。ナチはすぐさま背後を振り返り、状況を確認する。眼球を頻りに動かし、声の発生源を追う。
追う男性と、追われる男性。どちらも男性。どちらも坊主頭の男性だったが、追われている男性が胸に抱えている物は、女性用の鞄だった。可愛らしい小物でも詰まっていそうなレースをあしらったデザイン。
露店や商店の主人がこぞって二人の男性を目で追った。ナチもその一人だ。
二人の男性が、ナチへと近付いて来る。ナチは落ちていた小石を手に取り、指先から霊力を放出。黒一色だった石が、白く変色。さらに属性を付加しようと、ナチが再び霊力を流そうとした時だった。
男性は急速に方向転換し、路地裏へと消えていった。咄嗟の事にナチは茫然と瞬きを三回ほど繰り返すとすぐに我に返った。すぐにナチは属性を込めるのを止め、路地裏へと入っていった男性を追う。ナチの後ろをもう一人の男性も追い掛け、合計三人の男性が路地裏へと進入する。
目の前を走る男性はかなり素早く、全力疾走で走ってはいるが、一向に距離が縮まらない。
しかも、路地裏はかなり複雑に入り組んでおり、突然右に左に方向転換され、ナチはその度に減速しながら路地裏を進んだ。当然、ひったくり犯との距離は広がっていき、ナチが再び路地へと出る頃には、ひったくり犯の姿は完全に見失ってしまっていた。
「見失ったか……」
ナチは乱れた呼吸を整えつつ、念の為に辺りを見回した。ひったくり犯と思わしき男性は、見当たらない。汗を大量に掻き、呼吸を乱しているナチの事を訝しんでいる通行人の中には坊主頭の男性は存在しなかった。
息を大きく吸うと香ばしいパンの香りが鼻を刺激するが、体に溜まる熱と整わない呼吸のせいで、あまり香ばしいと思う事は出来なかった。出来れば今は食物の香りを遠ざけたいのが本音だ。
「ここ……どこだ」
全く知らない場所へと出てしまった様だ。ナチが見える範囲にあるのは、水が絶え間なく噴射している噴水と、焼き立てのパンを売っているパン屋だけ。
眼前に広がる路地を通り、元の場所へと戻ろうとすれば間違いなくナチは迷子になってしまう。となれば、路地裏を経由して元の場所に戻った方が確実だ。来たばかりの道ならば、そう迷う事もないだろう。
ナチは体を路地裏へと向けると、迷う事無く歩き出した。
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