二十一 無性別の子供
「お前、ガキに何しやがった……」
わざわざ聞かなくとも、青年がキリにした所業は分かっている。地に濡れたナイフ。キリの右目から零れる血の涙。地面に落ちた肉片。これだけの情報が揃っているのだ。察知できない方がおかしい。
それにクライスはキリが受けた傷と同じ経験を既に経ている。あの時の耐え難い苦痛は今も覚えている。右目に宿る熱は今も眼帯の奥で燻っている。クライスは奥歯を噛み締めると、《夢想銃》を青年に向ける。
「お揃いにしてあげたんだよ。おじさんと。ほら、これ」
青年が掲げた右手に収められた小さな球体。白色が大部分を占め、輝きを失った煉瓦色が円形に彩られた小さな球体は最早疑いようもない。
青年が手にしているのは人の眼球。キリの右目だ。
視神経を手に持ち、振り子の様に振る青年は揺れる眼球を見て、喜悦しているかの様に表情を緩ませる。懸想しているかの様な熱を帯びた表情で眼球とクライス達を交互に見ては恍惚とさせる青年にクライスもナチ達も、明確な赫怒を眼勢に付加する。
「斬新な振り子遊びしてるところ悪いが、さっさとそいつから離れろ」
「なに? おじさんロリコンなの? いや、こいつは男でも女でもないからロリコンではないか。知ってる? こいつには性別が存在しないんだ。無性別で生まれてきた異端。面白いよねえ」
キリの視線がクライスから離れる。あらゆる感情が遮断されたキリの左目は真っ直ぐに血溜りを射抜き、微塵も動かないキリの表情が紅い水面に鮮明に映り込む。キリの右目から零れる血涙が血溜りに落ち、彼女の表情を揺らす。機微の一片すらも漏らさないキリの表情が波紋に揺れ動いて、大きく歪んでいく。
「さっさと離れろ。次は無い」
クライスは引き金に力を込める。青年が口にした言葉が気にならないと言えば嘘になる。が、その探求心を満たす必要は無い。世界が滅べば、その情報は無意味なものに変わる。知らなくてもいい情報は、知らない方がいい。
青年はナイフの切っ先でキリの顎を無理矢理に上げさせると、屈託のない無邪気な笑顔でキリを見た後に、クライス達へと視線を移した。
「いやーでも助かったよー。おじさんがこいつを連れて来てくれてさー。土砂崩れを起こせばこいつを殺せると思ったのに、皆助かっちゃうんだもん。しかも、行方も分からなくなっちゃったし。まさか、おじさんと仲良くなってるとは思わなかったけどー」
「土砂崩れを起こしたのも、村人達の体内に砂を詰め込んだのも君なの?」
「そうだよ、不思議な力を使うお兄さん。すぐに気付いたよね、死体に土が詰まってるって。どうして?」
笑顔の青年にナチは冷漠な眼差しを向けたまま、握っている符を握り潰した。両手が微細に振動している。けれども、彼が反撃に興じることは無い。マギリもクライスも反撃には移れない。
キリと青年の距離が近すぎる。ナイフの距離が近すぎる。顎とナイフが密着しているこの状況では符を投げ飛ばすどころか、引き金を引く事すら敵わない。
身体強化を施しているクライスとナチの肉体でも、間に合わない。接近している間にキリの喉元をナイフが掻き切る。絶対に助けられない。この空間で圧倒的なまでの優位性を確立しているのは青年だ。この優位性は半ば不可逆的。
この優位性を逆転する為には、青年をキリから引き剥がすしかない。せめて、ナイフの距離がもう少し離れていなければ、反撃の糸口すら見出す事は出来ない。
「音だよ。死体と言えど、あんな低高度の場所から落下しただけじゃあんな鈍い音は鳴らない。何の為に死体に砂を詰めてたのか知らないけど、全部無駄に終わったね。全部氷漬けだ。百年ぐらい漬けたら返してあげるよ」
「いらないよ、そんな漬物。ここの人達の能力しょぼかったし。けど、お兄さん達の能力は気になるなあ。お兄さん達の能力って何なの? 竜巻に氷。紫の炎に白い光。どうしてそんなにたくさん能力持ってるの?」
「テメエには部不相応な能力だ。テメエみたいなチンチクリンには扱えもしねえし、使いこなす事すら出来ねえよ。大人しくママと土遊びでもしてろ」
「それがそうでもないんだよねえ。僕の能力ならおじさん達の能力も使えるんだよ。僕の《血融解土》ならね」
「テメエの能力は土遊びだろうが」
「能力特性よ。土砂操作の能力をベーシックにあの子だけが持つ唯一無二の能力特性。私の《絶対零度》と同じ。どんな特性なのかは私にも分かんないけど」
マギリが顎に手を添えながら、平然と言った。
「僕の能力は他人の血液を僕の土に吸わせて能力を奪う能力。血を吸った量が多いほど奪った能力は本物に近くなって強くなる。つまり、全ての血液を吸えば、奪った能力は完全になるって事だよ」
「悪趣味な説明をご親切にどうも」
その言葉を聞いて、ナチとクライス、マギリの三人は青年の能力のトリックに気付く。立てた推論に多少の相違はあるだろうが、恐らく違いはほぼない。
青年の能力は血中、脳から遺伝子情報、記憶を読み取り、能力情報を解析すると同時に自身の土砂に吸収。その吸収量が多ければ多いほど能力の再現性は高くなり、本物と遜色ない度合いで発現する事が可能になる。
それこそ体内を循環する血液、臓器や骨、脳全てを分解し、土に吸収させる事で完全に能力を奪取する事は可能かもしれない。またはサーマルサイクラーの様に特定の遺伝子情報を増やす機能を土自体が持っている可能性もある。
「要は人の能力を奪う泥棒野郎って事だろ。テメエの能力は」
「まあ言い方最悪だけど的は射てるよ。だからねえ」
青年はにんまりと微笑むと、ナイフをキリから僅かに遠ざけた。その距離およそ三センチ。そして、ナイフを滑らせるとキリの左目に切っ先を向けた。開いている距離は約一センチ。
「僕はお前の能力が欲しいんだ。お前の、他者の感情を読み取る能力《心色に触れる瞳》が、さ。キリ」
「……『黒』。どうしてボクの名前」
「なるほどねー。僕の目の色は黒色に見えてるわけか。ちなみに黒ってどういう意味なの?」
キリはナイフが眼前にほぼ密着しても、胡乱な微笑みを向けられても、身の毛もよだつ様な悍ましい殺気を向けられても、表情一つ変えない。死の恐怖が目前に差し迫っているのに、状況は極めて一髪千鈞だというのに、表情も声も挙動も、何もかもが平静。救いを求める事も、逃げ出そうともしない。
ただその場所で『黒』の行動を観察している。
「……壊れた心が灯す色。それが『黒』」
「ふーん。壊れてるかー。酷いなあ。初めて会った妹に対して壊れてるなんて」
「…………妹? ボクの?」
少しだけ見開くキリの瞼を見て、青年は満足そうに口角を上げる。クライスとナチは青年の挙動に意識を集中し、すぐさま引き金を引ける様に、符を投げ飛ばせるように神経を研ぎ澄ます。
「僕はキリが生まれた四年後に生まれたから、知らなくても無理はないよ。キリは生まれて二年でおばあちゃんに押し付けられて、十五年間ほとんど村に軟禁されてたんだから。でも、どうしてそんなに小さい体のままなの?」
「……ボクは『無性別』だから。雌雄がハッキリと別れる歳で成長が止まってるんだ」
キリが言っている雌雄がハッキリと別れる歳、というのは恐らく第二次性徴の事を言っているのだろう。平均的に言えば男子は十一歳六か月、女子は九歳九か月。確かにキリの肉体はタナー段階と示し合わせれば、女子の第二次性徴が始まる前の子供の肉体に近い。
だからと言って、推定十七歳であるキリの肉体構造、思春期を迎えると分泌されるはずのホルモンの欠落に関してはクライスには到底理解が及ばない。一度、専門医に開腹させ、肉体を解剖しない事にはキリの肉体は永遠に謎のままだ。
「ま、どうでもいいや。貰うよ? キリの能力」
キリの表情は変わらない。最初から最後まで一切の変化を見せない。呼吸も表情も全身にも、微塵も恐怖を表さない。冷淡な眼差しをナイフに向け、一度だけクライスを見ると、キリは妹と自称する青年に視線を合わせる。
「……いいよ。『黒』に全部あげる」
クライスは《夢想銃》を腰に装着しているホルスターに収めた。背後から刺さる二つの視線を感じながら、クライスは右目の眼帯へと手を伸ばす。ゆっくりと眼帯を掴み、引き剥がす。
露わになる無彩の虹彩。瞳から放出される白、黒、灰の光が混ざり合い、焔の様にクライスの右目を包んでいく。
そして、無彩の虹彩はただ一人を射抜く。眼前の敵『黒』を。




