十六 預けた居場所
ナチが眠り、そのすぐ後にイズも眠り、マオは一人、朝を迎えた。無言に包囲された静寂の中で微かに響く二人の寝息。それらは朝特有の冷ややかな空気に融けて消失していく。損なわれていく寝息と彼等の白い息に微笑を浮かべつつ、マオは焚火に新たな燃料を投入した。
暁を歓迎する空は曙色と薄花色に彩られ、その淡い色彩には愁いすら感じさせる。流れゆく白雲は悠々自適に旅路に着き、暁の光を浴びて愁色に染め上げられては世界の果てに進路を定めていく。その姿は正に行雲流水。風に身を委ね、消滅するまでの僅かな時間を摂理に沿って行動する御空の旅人。
マオは静黙し、息を吐く。自由に憧れる無垢な少女の様に、自身を縛り付ける重圧からの解放を渇望する薄弱な少女の様に。
『……マオ、おはよう』
悲愁を感じさせる師匠の声が心に響く。マオの幼稚な心構えのせいで、彼女に無情な言葉を口にさせてしまったマオの師匠マギリ。マギリは申し訳なさそうな、緊張した様な声色で紡いだ後、不自然な程に大きく喉を鳴らした。
『おはよ、マギリ。よく寝てたね』
『ま、まあ昼に叩き起こされて寝不足だったし。……あんたは? 今まで起きてたの?』
『うん、起きてる。一回起きちゃったからあんまり眠くないんだよねー。それにマギリと話がしたかったから。起きてた』
『そ、そう……。それで、話って?』
訥々と話すマギリは狼狽しているかの様に声を震わせる。
『ごめんね、マギリ。全部マギリの言う通りだった』
マギリが息を呑んだのが分かる。その音がマオの心に響き渡る。
『私ね。お兄さんの隣で戦えるのが嬉しくて、お兄さんの隣に立つには力が足りないって分かってても、一緒に戦えるのが嬉しかった。お兄さんの相棒は私で、隣に立つのは私だけで、お兄さんの一番近くにいられるのは私だけなんだって、ずっと思ってた』
マギリは無言でマオの言葉を待った。彼女の静かな息遣いだけが聞こえてくる。
『でも、マギリとお兄さんが戦ってるのを見て、それは間違いなんだって分かったの。お兄さんが私と一緒に居てくれるのは《世界を救う四つの可能性》だから、私から世界を救う可能性が無くなったら私はお兄さんの隣に居られなくなる。
だから、私は強くならなきゃって。お兄さんの隣に居続けたいから私は強くならなきゃって。そう思ったら、自分でも訳分かんないくらいに焦って、マギリが居るから私はもう必要ないって言われたらどうしようって凄く怖くなって』
早口で言葉を紡いだマオは震える手で羽織っているナチのコートを掴んだ。喉に力を込める。無言でマオの言葉を待ってくれているマギリの為にマオは喉に力を入れる。
『怖かったんだ、私。今の私はお兄さんの横に立つには弱すぎるから。だから、強いマギリに嫉妬したんだと思う。マギリの実力をお兄さんに見られるのが嫌だったのかも。でも、私がすぐにマギリの実力を追い抜けば、この不安も無くなるって思ったら焦って、余計に集中できなくなって』
マオは緩やかに瞑目し、俯いた。風に乗って運ばれる焚火の熱が髪を揺らし、温められた空気を吸い込む度に気管が乾いていく。しかし、頭は驚異的な速度で整理され、自身が抱えていた鬱屈とした感情が解れていく。
きっと、この醜くて陰鬱な嫉妬は消えることは無い。けれど、言葉にして対面し、整理する事でようやく私は理解できる。自身が抱えていた原因不明で、自分を苦しめる不明瞭な気持ちの正体に。
『何が言いたいかっていうとね……私はまだお兄さんの役には立てない。こんな弱い力じゃお兄さんを助けられない。だから、マギリに預けるよ、お兄さんの隣』
『マオ』
優しい声色がマオを呼ぶ。優しくマオの胸で響くと同時に景色が変わる。暁の空は消え去り、暗澹とした濃黒の空が姿を現す。鬱蒼とした緑と大地は白銀に塗り替わり、マオは瞬刻の内に白雪が吹き荒れる氷雪の大地《雪の流刑地》に立っていた。
『……そうね。確かにあんたはまだ弱い。あの海賊にもユライトスにも、今のあんたじゃ一生勝てない。今のあんたじゃナチを守れない。けど、私はあいつの隣に立つなんてごめんよ』
『え? なんで』
『馬鹿ね。あいつの隣はもう埋まってるからよ。席は空席じゃないと座れないでしょ? だから、あいつの背中は私が守ってあげる。だから、さっさと強くなんなさい。あんたがあいつの隣に胸張って立てる日が来るまで、私があんたもナチも守ってやるから、あんたはナチを守る「最強の盾」になれるように頑張んなさい』
『……うん』
『あんたは大丈夫。大事な奴の為に居場所を譲れる強い意思がある。誰かを守る為に自分が傷付いてもいいって覚悟がある。その悔しさに今は傷付くかもしれないけど、あんたの強い覚悟があれば、必ずあいつの隣に胸張って立てる日が来るから』
『……うん』
目から零れ落ちる涙は雪に紛れて形を失っていく。口から漏れ出る嗚咽は雪風が風音で隠してくれる。下唇を噛み、喉に力を入れ、マオは声を殺す事に専念した。
『《雪の流刑地》は私とあんたしか存在しないし、あんたしか私は立ち入りを許可してない。そこには私とあんた以外には誰も居ないわよ』
その言葉の意味はすぐに理解できた。マギリがマオと何故入れ替わったのかも。彼女の言葉が世界に響いた少し後にマオは崩れ落ちたかの様に降り積もる雪の上に膝を乗せた。零れ出す大粒の雫は次々と白雪の大地に降り注ぎ、惨憺たる絶叫は凄愴に雪の大地に響き渡る。
出来ることなら彼と共に戦い続けるのは自分だけで在り続けたかった。彼が一番に頼るのは自分であってほしかった。それが夢幻的で非現実的な憧憬だったとしても。彼の隣に在り続けたかった。誰にもその居場所を譲りたくなど無かった。
強くなりたい。誰にも負けないくらい。こんな思いをしなくて済む様に。彼に振り向いてもらう為に。
マオが泣き止むまでマギリは無言で、何も語り掛けることなく待ち続けてくれていた。思い切り泣ける様に、想いを吐き出せる場所を提供してくれた彼女に感謝しつつ、マオは鼻を啜った。睫毛に付着した雫を指で拭き取り、頬を仄かに濡らす涙痕を腕で拭った。
『ごめん。もう大丈夫。もう元気』
『……あんたはこの広い世界を見渡した時、誰を一番に守りたいと思う?』
『私は……』
答えは既に出ている。誰を守りたいのか。誰の為に戦いたいのか。何の為に強くなりたいのかは既に解答が出ている。すぐに脳裏に思い描く事が出来る。思い描けば描くほどに意思は鞏固に結びついていく。
私が守って見せる。この幸せな光景を。笑顔が溢れる断片を絶対に守って見せる。
『あんたが一番に守りたいって思った奴の為にあんたは強くなんなさい。失って、あんたが悲しい思いをしない為に誰よりも強く』
『うん。……実はお兄さんの師匠の話聞いてた?』
マギリが口にした問いはナチの師匠が彼に送った言葉に似ている。いや、ほぼ同じだ。
『まあ……あんな風に蟠りが出来た後にすぐ寝られるほど、私も根性腐ってないわよ。でも、さすがはナチの師匠って感じよね。達観しているというか超然としているというか。強くなりたいなら先の事を考えてはならない、か。確かにって思ったわよ。あんたも私も、未来に起こり得る不幸ばっかり気にして今に目を向けてなかった。
正直言うとね、私も焦ってたのよ」
『マギリが? そんな風には見えなかったけど。いつも落ち着いてたし』
『私はあんたの何十倍も生きてるからね。感情を押し殺すくらい訳ないわよ。でも、あんたを強くしなきゃって思ったら感情が制御できなくなってた。苛立って、怒って、指導者あるあるよね。私にも最初は上手く能力を扱えてなかった時期があったてのに。忘れちゃうのよ』
『何で? 歳だから?』
『次言ったら雪の下に沈めるわよ?』
『だって私よりも十倍生きてるって。十分におばあちゃ』
『あんたをそこに閉じ込めておくのは簡単なことなのよ?』
『……ごめんなさい、お姉ちゃん』
『よろしい。まあ私、人に戦い方教えた事ないし、出来の悪い弟子を持つと苛々しちゃうのも、当然と言えば当然なのよね』
マオの表情が大地を染め上げている白雪の様に冷血に変貌し、温情が消え失せた表情は黒炭の様に真っ黒な空へと向けられる。冷淡な眼差しは黒い空に浮かぶマギリを射抜き、現実世界のマギリは逃げる様に焚火に枯枝を投下した。
『は? 当然じゃないし。レヴァルで自信満々に、強くしてあげるわよ、とか言ってたじゃん。あれ何だったの?』
『そりゃあんな目キラキラさせて言われたら、さすがの私も期待させるような事言っちゃうわよ』
『させてないし』
『させてたわよ。いい? 実力と指導力っていうのは比例しないの。強いから教え方も上手いなんて勘違いしてんじゃないわよ!』
『知らないし! 私の師匠になったんだから上手くなってよ!』
『どうやったら上手くなんのよ!』
『知るか! 私に聞かないでよ! お兄さんかイズさんに聞いてよ!』
『イズはともかく、ナチは私と同じタイプじゃない……の……。マオの阿保話は終わりにするわよ』
突如として鋭くなるマギリの声音。マギリは素早く焚火の炎を消し、ナチの頬を力強く叩いた後に、イズの体を優しく揺する。瞬時に目を覚ましたナチとゆっくり起床したイズは寝惚け眼のまま体を起こしていた。
マオは黒い空にマギリを映すと彼女を俯瞰で見つめ、周囲の状況を確認する。起動までに少々時間を要するナチとイズから視線を逸らし、マオは視線をマギリが立っている場所の遥か後方に向ける。
『土が……動いてる?』




