十四 心魂を暴食する喰眼
突き付けられる無数の銃口。憂愁が色濃い表情に、引き金に触れる人差し指には憂苦が滲み、酷く震えている。クライスに向けられる銃口はどこまでも冷酷無情で、無機質で、冷艶だ。意思を感じない無機物。それが銃。
けれど、撃鉄を起こす者は違う。彼等は意思を持つ。温度を持つ。銃口を向けるべき相手には殺意と敵意を、温冷どちらかの闘気を持ち合わせているはずだ。
だというのに、クライスに銃を向ける人間達は皆一様に怨色を浮かべない。無言で唇を震わせ、射抜くべき相手に哀憐を向け、謝辞を述べ続けている。夥しい数の謝辞と後悔の念に、クライスは憤激する事も怒色を浮かべる事も無く、破顔してしまった。
この慮外千万の状況がどうでも良い事の様に思えてしまう程には、クライスの心は酷く狼狽しているという事なのか。それとも彼等を巻き込んでしまった負い目があるからなのか。
クライスは自らに銃口を向ける仲間達に対して、何とも形容し難い愛憎を感じていた。
手塩に掛けて育ててきた部下が全員、船長であり上司でもあるクライスに銃口を向ける意味。その答えは考える必要もない程に明々白々だ。その答え自身が眼前でクライスに剣を向けているのだから。
グランコリア帝国女帝シャルロッテ=フィリル=フィリロロム。卓越した政治手腕と力量、魔導機鋼が齎す先進的な可能性に一早く気付いた優秀な魔導博士でもある彼女は、グランコリア帝国初の女帝としても世界に広く知れ渡っている。
白の修道服に身を包み、右手には魔導機鋼製のレイピア。《魔術変換》が刀身に施され、常に雷光が帯びている。切れ味増加、感電効果付与、雷撃。主な効果はこんな所だろう。王冠を頭に乗せていないという事は皇帝としてここに現れた訳ではない、という意思表示なのか。
どちらにせよ、その彼女がクライスの愛船に乗り、クライスに剣を向け続けている理由。
「人の部下を買収したって訳か。糞女」
シャルロッテの腕が掻き消え、細剣がクライスの喉を掠めた。剣閃すら見えない高速の剣技。卓越した技術にはクライスも素直に脱帽せざるを得ない。喉を伝う血液が胸元にまで訥々と流れて行く。
「身の程を弁えなさい。そのような劣悪な言葉を皇帝である私に向けるなど。万死に値する」
「おーこわいこわい。で、糞女帝様よお、俺の質問にさっさと答えろよ。テメエが俺の部下に何を持ちかけたのか、さっさと答えろ」
シャルロッテは佳容を崩す事無く、冷酷にすら感じる様な口調で言葉を淡々と紡ぐ。
「別段、難解な話をしたつもりはありませんよ。あなたを帝国に引き渡せば、あなた達の身の安全を保障する、と皆さんにお伝えしただけです。あなたは愛する家族に裏切られたのですよ。ディック! 来なさい!」
シャルロッテが呼んだ人物の名。帝国に囚われた船員の名前。守ると誓った家族の名前。嫌な予感がする。警鐘が鳴っている。早く心を閉ざさないとお前の精神は死ぬぞ、と死神の囁きが聞こえてくる。
クライスはシャルロッテの後方から、船員を掻い潜って前方に歩み出てくる帝国騎士団の制服を着て現れた青年の姿を見た。腰にはグランコリア帝国の紋章が刻まれた長剣を携え、胸元にはこの国で多大なる功績を挙げ、類稀なる実力を皇帝に示した騎士にのみ与えられる称号『剣聖』を示す銀細工の花が添えられている。
茅色の長い髪を翻し、海賊らしからぬ毅然とした振る舞い、慇懃な対応。温文にすら感じさせるその挙動にクライスの心は初めて揺れ動いた。焦燥が駆け巡り、内心が複雑に攪拌されているのを感じた。
どの感情が胸中を支配しているのかすら、判然としない程の攪拌に、クライスは息を呑む。空気が上手く肺に入っていかない。不可視の弾丸が肺を撃ち破り、空気を常に排出しているのではないか、と思う程に肺が満たされない。
「どうも、お久しぶりです。クライス船長。三日ぶりですね」
「裏切ってやがったのか、ディック……」
「僕はクライス船長がグランコリア帝国を離反し、謀反を企てないか監視する為にシャルロッテ皇帝陛下の命で乗船していた諜報員です。あなたの部下になったつもりはありません。それと僕の名前はディックではなく、アガット・キースライ。アガトとお呼びください」
「呼ばねえよ、タコ。いつだ? いつ俺の部下を買収しやがった」
アガトはシャルロットに一礼すると、一歩前に躍り出た。背筋をしゃんと伸ばし、本物の騎士の様な凛々しい顔付きでクライスに焦点を定める。
「準備は三月前から開始していました。準備と言ってもほとんどの方が二つ返事で、あなたの買収には協力の意思を表明して下さったので。こちら側の準備が整うまでに少し時間が掛かってしまっただけですよ」
「そういや、テメエが俺の船に乗り込んできたのも三か月前だったな」
多くの銃口が揺れ動く。震えている。クライスは銃口だけを一瞥した。表情は見ない。怖いから。部下全員が自分を裏切っていたという事実を知ってしまった今では彼等の畏怖嫌厭とした眼差しを受け止められる気がしない。
クライスは黙々とアガトが口にした言葉の真意を探っていた。船員達が二つ返事でクライスを裏切った事実はこの際どうでもいい。だが、帝国が三か月もの準備期間を設けてまでクライスを回収する理由とは何だ。
クライスに罪を擦り付けたいのであれば、この場で殺害し、死体だけを持ち運べばいい。だというのに剣は振り抜かれず、銃弾はクライスの命を撃ち抜かない。シャルロットはクライスに何かをさせようとしている。そう考えるのが至極当然であり自然。
それは何だ? 冷艶清美に佇む女王様は俺に一体何をさせようとしている。
以前と同様の要人暗殺や諜報員ではないはず。以前に行っていた様な活動をクライスに行わせるのであれば、わざわざ部下を巻き込む必要は無い。皇帝陛下が直々にクライスの前に現れ、『剣聖』をクライスの船に潜り込ませる必要がある程の企み。
その企みが善意的で希望の光輝に満ちている献身的で素晴らしい計画、でないのは間違いない。
そして、ここでクライスが反旗を翻そうものなら、船員達の処遇は一変する。もし、クライスが無抵抗でシャルロッテの命令通りに行動したとしても船員達は殺される可能性はある。ならば、この場でクライスが取れる行動は一つ。銃を引き抜く事じゃない。希望に溢れた夢想を抱いている場合ではない。
「テメエらがろくでもねえ事を考え付いたのは分かったよ。で? 俺に何をさせようってんだ?」
「狭量で愚鈍な思考でもそこまで辿り着けたのですから、答えはもうあなたの目の前に存在しますよ」
シャルロッテは癇に障る様な諦観した物言いの後に、クライスの山吹色の右目を指差した。優美にすら見える喜色を浮かべ、瞳を冷淡で彩っている。
「あなたが海賊だというのならば、この意味がお分かりになって当然だと思いますが」
「ああ、分かったさ。やっぱりテメエらはろくでもねえ」
決して触れてはならないと言い伝えられている海の死宝。触れれば災厄。持ち出せば終焉。一人の海賊の一生を綴った呪われた秘宝の物語。
五百年前、世界に惨憺たる禍罪を世に捲き起こし、絶望と恐怖を全人類に植え付けた海の怪物《海狂骸》。海を割り、街を襲い、人を喰う度に強大になっていく怪物の惨禍は一人の海賊によって阻止される事となる。
《海狂骸》が持つ強大な力を自身の右目に封印し、自らの肉体ごと海底の理想郷『蒼海に沈む理想の青郷』に存在する『青の棺』に納棺する事で《海狂骸》の脅威は振り払われたとされている寓話。
これらの物語は紛れもない実話であり、《海狂骸》も『蒼海に沈む理想の青郷』も実在している。当然、自らを封印した海賊も実在している。
そして、この物語には続きが存在する。
長い年月の中で《海狂骸》の肉体は完全に消滅し、その残骸は海に融けて消失した。精神も同様だ。膨大な時の流れの中で霧消し、内包していた狂暴性も狂気も残滓一つ残す事なく消え去った。
けれど、問題は別にあった。《海狂骸》の肉体も精神も大した問題では無かったのだ。
海賊の右目に封印される事となった《海狂骸》の強大な力。凶暴性も狂気性も消失した力には唯一つ残った気性が存在する。それは暴食性。しかも、この暴食性にはある特徴が見られた。
血肉や水分、大地、草花、樹木などの可視化している物体を暴食する事は無く、自ら街を襲いに行くようなことも無かった。この右目が喰うのは一つだけ。たったの一つだけ。
この右目が喰うのは生物が宿す魂だけだった。つまり、心のみ。
暴食性のみを宿した瞳は男が施した封印を破壊し、海に生息する全生物の魂のみを喰らい続けたという。海面には多種類の死体が山の様に浮かび上がり、波に揺れる死骸は連日港に打ち付けられ、人々に食糧難と飢餓という災厄を齎した。
それが二百年前の惨禍。これもまた実話であり、世界が隠した真実の一つ。
これら全てが実話であり、実在しており、事実であり、真実である。
つまり、この話の終幕を飾った、強力な暴食性を宿した魂を喰う右目。その右目もまた実在するという事になるのだ。
「《心魂喰う無彩の喰眼》。あの喰眼を使って何しようってんだ? ああ?」
「事は非常に明白です。あの喰眼が内包している絶大で膨大な魔力。あの魔力を最大限にまで引き出す事が可能になれば、私達はこの馬鹿げた戦争に終止符を打つ事が出来る。その為にあなたが必要なのですよ、クライス・バールホルム」
「なるほど苗床にしようって魂胆か。だが、あの眼が人の身に収まる訳がねえ。《心魂喰う無彩の喰眼》が内包する魔力量は膨大だ。あんな阿保みてえな量の魔力が肉体に流れりゃ体は一瞬で消し飛ぶ。無理だ。諦めな」
「それが無理じゃないんですよ、クライス船長。あなたならね」
アガトが笑う。どこまでも温文に。温柔に。もうお前に選択権なんてないんだよ、と表情だけで訴えかけてくる。表情の裏側に潜む冷酷さに内心で戦慄し、クライスは感情の機微を誤魔化す為にシニカルな笑みを浮かべた。
「無理だ、無理。俺は一介の海賊だ。そんな大役は果たせないね。お前が引き受けたらどうだ《剣聖》?」
「僕には無理です。ですが、出来るんですよ。《海狂骸》を封印した海賊、ジーリス・バールホルムの血族であるあなたならね。あなたの血液と体内循環魔力。そして《心魂喰う無彩の喰眼》の適合率を検証した結果、全く拒絶反応を示しませんでした。適合率九十八パーセント、なんて異常な数値が出たんですよ」
「へえ、それは良かったな。ぜひ再検証希望だ」
「相変わらず口が減らない人ですね。分かっているとは思いますが、クライス船長に拒否権はありません。あなたがこの場で拒否すれば、船員達は抹殺します。《心魂喰う無彩の喰眼》を受け入れる決断をしたとしても、あなたの家族があなたを裏切った事実は覆らない。
あなたがこの船員達と再び航海に出る未来は一生、訪れません」
「……分かってるっての。じゃあ、連れてけよ。《心魂喰う無彩の喰眼》だろうが何だろうが受け入れてやるよ。その代わり、分かってるんだろうな?」
シャルロッテは無表情に無感情にクライスを眼前に見据え、その冷漠な仮面を一度たりとも破顔する事無く、剣を下ろした。
「承知しています。私達はあなたの家族の『身』の安全を保障します。アガット。クライスを連れて先に研究室に向かいなさい」
「分かりました。先に準備して待っております」
クライスの手に装着される手錠。体内魔力と大気に溢れる魔素との結び付きを完全に遮断し、体内魔力の流動を封殺する魔導拘束具《穿ち隔つ楔》。装着されれば一切の魔術、魔導の使用を封殺され、魔力操作は《穿ち隔つ楔》が装着され続ける限り不可能になる。
「では、行きましょうか。クライスさん」
家族から向けられる冷酷で薄弱な銃口には一切視線を向けることなく、前方で突如として天に放たれた翠色冷光にも感じる青く煌めく魔力光にクライスは目を細めた。
あの光は《心魂喰う無彩の喰眼》が心を求めて叫ぶ喚声。俺を求める骸の叫び。
俺はまだ気付いていなかった。シャルロッテが俺の想像以上に狡猾剽悍で陰湿で醜悪だった事実に。




