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十一 心変わり

 それから、五時間ほどだろうか。マオが給仕の仕事を終え、酒場も店じまいという時に、二人の男は未だに酒を飲んでいた。


 どちらも身内。ウォルフ・サリのリーダーと新入り。サリスとナチ。この二人は顔を真っ赤にしてカウンターで談笑混じりにグラスを傾けている。


 マオは二人に駆け寄ると、二人の肩を叩いた。



「ほら、もう今日は店じまいだから。お酒は終了」


「何だ、マオ? 俺達の邪魔をするな」


 呂律が回っているのが救いのサリスはまだいい。問題は、新入りの方だ。談笑混じりに、と言ったがこの男はただサリスが言っている事に対して爆笑しているだけだ。


 言葉を発している訳ではない。



「お兄さんも今日は終わりだから。グラス置いて」


 マオがナチの顔を覗き込むと、ナチは白目を剥きながら笑っていた。グラスを傾けているのかと思っていたが、口に付けているだけで飲んではいない。


 控えめに言って気持ち悪い光景だった。


「もう! サリスと同じペースで飲むと潰されるって言ったのに」


「まだまだだな。新入り」


「そんな事言ってないで、お兄さん運ぶの手伝ってよ」


 マオはナチが手に持っているグラスを無理矢理に剥ぎ取り、カウンターへ置くと、ナチの左腕を肩に回した。マオの右腕をナチの腰へ回すと、厨房へと入っていく。


「新入りの介抱は先輩の仕事だ。神の仕事ではない」


 自称神は役に立たない。マオは厨房で片づけをしているはずのシャミアを頼る事にし、厨房へと足を伸ばす。厨房に入ると、石造りのシンクの前で皿を拭いている赤髪の女性を発見。すぐに駆け寄った。



「シャミア! 手伝って」


「どうしたの? うわ、結構飲んだみたいね」


 シャミアはマオに担がれたナチを見て目を見開かさせながらも、すぐに肩を貸してくれた。裏庭へと運び、灯りが点いている家屋へと運んでいく。


 中に居るはずのリルにシャミアが声を掛ける。



「リル。扉開けて」


 すぐに足音が聞こえてくる。そして、ゆっくりと開けられた扉の向こうで何事か、とリルが心配そうな面持ちでシャミアをまず見た。


 そして、マオを見て視線を逸らし、最後にシャミアとマオの間で飲み潰れているリルの師匠を見た。心配を浮かべた瞳がシャミアとマオを交互に射抜く。


「ナチさん? どうしたの?」


「ただの飲み過ぎ。サリスに潰されたのよ」


「あ……」


 心当たりがある様でリルはすぐに納得してくれた。そう、サリスの晩酌に付き合わされ潰された人間は意外と多い。一々数えてはいない為に詳細な数字は分からないが、少なくとも百は超える。ウォルケンに住む人間は約千人ほどだ。


 つまりウォルケンに住む十分の一の人間がサリスに潰されているという事になるのだ。


 マオ達は家の中へと入ると、床の上にナチをそっと寝かした。


「私は水を取って来るから、二人はナチを見ててあげて」


「うん」


「分かった」


 静かな寝息を立てながら、大の字で寝始めたナチを見て、マオは呆れた。酔っぱらいを見下ろしながら溜息を吐く。酔っ払いの思考というのは最終的にどれも同じになる様に作られているのだろうか、と思いつつ、悪態をつく。


「困った新入りだよ、全く」


「そうだね」


 マオはアジトの奥へと進むと、机の上に置かれた動物の皮を加工して作られた毛布を手に取った。日中は暖かいが、夜はまだ冷える。毛布も掛けずに一日中床で寝れば、体調を悪くする。


 それに、ナチはおそらく朝まで起きない。サリスが酔い潰れた時もそうだ。下手したら昼まで爆睡して、二日酔いで一日ダウンする。もう見慣れた光景だ。


 マオは寝ているナチへと近付くと、毛布を広げた。宙に翻る毛布を一度払い、皺を伸ばす。十分に皺を伸ばしたところで、マオはナチに毛布を掛けた。


 毛布に包まっている姿は子供の様にも見えた。まだ親の庇護が必要な小さな小さな子供の様に。



 それが普段のナチとは掛け離れて見えて、マオは少しおかしくなって微笑んだ。真面目で優しくて、常に冷静なナチはどこにも居ない。あの強いナチはどこにも居ない。


 普通の人の様に酔い潰れている普通の男性しか、ここには居ない。


「ナキ……」


 小さく紡がれた言葉にマオとリルは顔を見合わせた。お互いに首を横に振る。私じゃない、僕じゃない、と小さな声で示し合わせると、二人はナチに視線を合わせた。


 ナキ。誰だろうか、それは。女性にも男性にも付けられる名前だが寝言で言ってしまう程という事は、ナチの大切な人だったりするのだろうか。


 恋人、もしくは家族。友人。名前が似ている事を考えれば兄弟の可能性もある。


「ナキって、人の名前かな?」


「どうだろ。ナチさんの大切な人の名前かも」



 リルもマオと同じ考えの様だ。今度聞いてみようか、などと思っていると、唐突にナチの閉ざされた瞼から涙が一粒落ちた。ゆっくりと流れる透明な雫が木板に落下し、瞬く間に吸い込まれていく。


 マオとリルはまた顔を見合わせる。落ちたのはその一滴だけだったが、ナチと最も縁遠いと思っていた液体が流れた事に、マオは動揺を隠せなかった。


 ナチに対して抱いていた印象に僅かな齟齬が生まれる。ナチの高い実力と飄々とした態度が生んでいた印象が塗り替えられていく。


 彼は本当に普通の人なのだ。マオが理解できない力を使い、恐ろしい程に強いが、マオ達と何も変わらない普通の男の人なのだ。その事実からマオは目を背けていた。


 彼ほどの実力者ならば、きっと涙など流さないのだろう、と。きっと弱さなど抱えた事など無いのだろうと、弱者の気持ちには本当の意味で寄り添えないのだろう、と勝手に決めつけていた。


「私、お兄さんの事、少し勘違いしてたよ」


「え?」


「お兄さんってどんな状況でも冷静で私達よりもずっと強いから、涙なんて流した事ない人なんだろうな、って思ってた。でも、そんな人いないよね」


「うん」


「強い人ほど、人前で涙を流さないだけなんだ。強い人ほど、涙を隠してるんだね」


 強者程、涙を心に溜め込んでいるのだろう。だから、気を緩めると溜め込んだ涙が心の壁を破壊し、洪水の様に瞼を通して流れて来る。抑え込んだ感情と共に、吐き出すかのように流れて来る。


「ナチさんがここまで強くなるまでに、どれだけの涙をのみ込んで来たんだろうね」


 分からない。マオには想像もできない。ナチはまだ二十一歳だ。


 マオは、ナチの事をおじさんと揶揄したが十分に若い年齢だ。この若さで慄然とする程の実力を身に着けるには類稀なる才能か、マオには想像もできない様な並々ならぬ努力をしてきたかのどちらかだろう。


「強い人ほど、寂しがり屋なのよ」


 音も無く背後から現れたのは、トレーの上に水が入ったグラスと、同じく水が入っているはずの水差しを持ったシャミアだった。


「寂しがり屋?」


「強い力は力が無い人から見れば羨ましいと思うけど、そうじゃない人から見たら、恐ろしい物に見えるものよ。力を弱い人は特に。自分より強い力、理解できない力を見た時、人は恐怖を感じるの」


「この前、お兄さんとウサギモドキを倒しに行った時そう思った。お兄さんの事怖いって」


 トレーを机の上に置くと、シャミアはマオとリルに向き直った。


「でも、怖いのは力だけで、人じゃなかったりするのよね。強すぎる力だけが印象に焼きついちゃって、その人自身を見なくなってしまう。今まで一緒に積み重ねて来た時間も優しさも無かった事にして、ただ怖い人として見てしまう。悲しいけど、これが普通なのよ」



 シャミアはトレーの上に乗ったグラスを手に取ると、一気に傾けた。


 それは、ナチの為に持ってきた物では無かったか、と思ったが水差しから新たに水を注いだ為、マオは特に何も言わなかった。



「二人はサリスやナチの事を怖いって思う?」


「前は怖かった時もあったけど、今は怖くないよ」


「僕も今は怖くない」


「そう。なら良かったわ。目に見えている情報だけで判断をしているうちはまだ子供よ」


 シャミアは、マオとリルの肩を叩いた。


「二人とも成長しているみたいで嬉しいわ。じゃあ、私はもう帰るわね。お疲れさま」


 シャミアは扉に向けて歩いて行き、そのまま外へと出て行ってしまった。


「僕達も帰る?」


「……うん」


 マオとリルは、静かな寝息を立てながら体を小さく丸めているナチに踵を返すと、扉に向かって歩き出した。






 朝日が窓から差し込み、夜に冷えた空気を徐々に暖めていくのを感じながら、ナチは目を覚ました。


「頭痛い……」


 目を覚ました途端に激しい頭痛と倦怠感に襲われ、体を起こす事が出来なかった。視界がぼやける。瞼は鉛を縫い付けられたかのように重く、すぐにでも閉じてしまいそうになる。


 昨日、サリスと共に酒場に行き、マオの両親が亡くなっている事を聞いた所までは覚えているのだが、それ以降の記憶が見事に欠落している。欠けた記憶を掘り起こそうとすると、激しい頭痛が伴いすぐに記憶のサルベージを中断する。


 激しい頭痛と倦怠感という事は、酔い潰れたのは確実なのだが、どうしてナチはウォルフ・サリのアジトで眠っているのだろうか。


 しかも、ナチの体には茶色の毛布が掛けられている。


 酔い潰れたナチを誰かが介抱し、この家屋まで運び、毛布を掛けてくれたという事になるのだが誰だろうか。酒場に居た人物で、ナチを介抱してくれそうな人物はサリスかマオ。もしくは厨房に居たシャミアかマスターくらいだ。


 それは後でシャミアにでも聞けば分かるだろう。


 ナチが頭痛を我慢しながら、上半身を起こそうとすると、そこで違和感。上半身を起こそうとした瞬間にナチは右手を床に着けたのだが、何やら感触が柔らかい。官能的な感触を伴う柔らかい質感に、ナチは思わず撫で繰り回していると、荒い吐息が毛布の下から漏れ聞こえてくる。


 ナチは慌てて手を離し、自身に掛けられた毛布を手で剥いだ。毛布を投げ飛ばしながら起き上がり、ナチは右へと視線を向ける。柔らかい感触の正体をその目で捉えるとナチは目を疑った。


 目の前に広がる光景を理解するまでに十秒は掛かった。小鳥が囀り、可愛らしい嘴で窓を突いている事は見なくても分かる。


 ナチは現実から逃げる様に、机に置かれたグラスと水差しを視界に入れた。



「お兄さんの……変態!」



 ナチが右手で触れたのは、マオの乳房だった。


 顔を真っ赤に紅潮させ、寝転がったまま体をプルプルと震わせている。ナチが触れてしまった意外と大きな胸を必死に両手で守っているが、ナチは無実を証明する様に両手を上げた。


「違うんだ、マオ。僕はマオのおっぱいを触るつもりは無かったんだ」


 裁判長、僕は無実を主張します、と心の中で無実を訴える。だが、異議あり、と言わんばかりの視線がマオから向けられる。ナチの主張が逆転されそうになりながらも、ナチは無実を訴える為に菩薩の様に穏やかな表情を浮かべる。切り離される煩悩。


「若い女の子のおっぱいを触るなんてどうかしてるよ! しかも、触っておいてその反応って傷付くわ!」


「大声で叫ばないで。頭に響く」


 ナチは痛みを緩和させるために、頭を押さえる。


「知らないよ、そんな事!」


「だから、大きな声出さないで」


「お兄さんが私のおっぱい触ったからでしょ!」


「悪かったから。僕が悪かったから、だから一回落ち着こう? ね?」


 これ以上叫ばれたら、頭が割れてしまう。パッカーンってなってしまう。


「お兄さんがそんな人だなんて思わなかったよ」


「しょうがないじゃん。マオが横で寝てるなんて知らなかったんだ。ん? ていうか、何で一緒に寝てるの?」


「それは……お兄さんが風邪引くと思ったから」


「人間って温かいもんね。え? そんな理由なの?」


「そんな理由だよ!」


「頭が……」


 ナチは頭を万力の様な力で抑えつけた。


 マオが起き上がり立ち上がると、トレーに乗っているグラスを手に取った。それをナチに素っ気なく手渡す。


「……ありがとう」


 それを受け取ると、ナチは一気に飲み干した。体内の水分濃度が上がり、頭痛や倦怠感が少し緩和された気がする。


「お兄さん、はい」


 マオが空になったグラスに水を注いだ。それにお礼を言って、ナチはグラスに口を着けた。半分程、飲み干すとマオがグラスに水を足してくれる。


「ありがとう。もう大丈夫だよ」


「うん、分かった」


 この少女は一体、どうしたのだろうか。昨日までの生意気な物言いは相変わらずだが、ここまで献身的な少女だっただろうか。優しく穏やかな性格をしていたのは間違いないのだが、ここまで尽してくれる様な少女だった記憶は無い。



「何?」


「いや、マオが優しいから夢でも見てるのかな、って思って」


「失礼な。私はいつでも優しいよ」


 いつも通りのマオなのだが、どこかいつも通りじゃない。


 口調や態度から角が取れたというべきか、彼女から感じていた警戒心が緩和されたとでもいうのか、分かり易く言えば、ナチに対するマオの視線が優しい。


 怖い。


「リルの特訓は私とシャミアがするから、今日は安心して宿で寝てなよ」


「あ、うん……ありがとう」


 マオが優しいと、どうも調子が狂う。


「じゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」


「リルには私から言っておくね」


「え? あ、うん」


 ナチはグラスの水を一気に飲み干すと、床に手を着き立ち上がった。床で寝ていたせいか体中が痛いが、マオの心変わりに比べればどうという事は無い。


「じゃあ、僕は宿に戻ってるね。何かあったら呼んでくれていいから」


「うん、ゆっくり休みなよ」


「…………うん」



 ナチは逃げる様に家屋を出た。早足になっている事にすら気付かない程に、ナチは動揺していた。


 ナチは頭痛も倦怠感も忘れて、無心で宿まで歩いて帰った。


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